二重の一者


 私の祖父の家にはゴンという雄のトラ猫がいた。彼はいつも膝下の高さのブロック塀に前足を懸けたまま、そのすぐ前を横切る道路の先をただじっと眺めていた。車の往来を指折り数えても、両手を使い切る前に日が暮れてしまうほど寂しい田舎の裏路である。あの場所で物思いにふけりながら、きっと彼なりの哲学をしていたのだろうと、今になって私は想う。彼はその道路で車に轢かれ脚に金属を入れてから、二十歳の長寿を全うするまでの十五年余を、一度もあの塀を越えることなく生きた。


******


 原初の精神にとって、世界は執拗に二つに分かたれる。それらは、そのままではただ一つの姿に完成することはない。原初から一歩進んだやや高次な精神が、次にこれら分かたれた二つの混一を夢見る。例えばそれは、昼と夜の混一であり、男と女の混一である。二重の一者をより完成されたものとして崇拝する態度は、人間の原初的な信仰の姿と言えよう。昼があり、夜があったからこそ、人間は善悪という二元論的な観念対立を神話によって具体的に物語ることができたのだと断言しても、恐らく言い過ぎではない。

 このことは、人間の原初的な意識活動が、無意識裡に生じた二項対立の秩序によって規定されていることを示唆している。昼夜の表裏性を疑問視することはほとんど無謀に思われようが、例えば夜のない星があったとして、そこに住む異星人の道徳観念を想像することは興味深い。そうでなくとも、例えば我々人間が、暁や宵ではなく、昼と夜を取り分けて二分したことに対して、「それがより明確であるから」と是認する態度を客観視してみれば、我々がより妥当だと考えるその癖、論理と呼ばれるものそれ自体が持つ性質が浮かび上がってくる。

 論理が初めにあったのではない。論理とはあくまで一つの意識態度であり、そのような態度を惹起させる現象が初めにあったはずだ。昼と夜が、男と女が、日照りと雨季が、それらすべてを含む現象一般が混然とした状態で初めにあったはずだ。そして、何が偶然か、我々の意識態度の性向が、それを今の形に二分することを執拗に求めたのである。


 ゴン公は、世界に明確な一線を引き、一方の領域を安全地帯、もう一方の領域を危険地帯に二分していた。彼の執拗さは信仰心にも似ていた。四足の獣の脳みそが、かつて自分の見舞われた事故の明確な因果関係を把握できずに、もはやあの道路それ自体が彼の中で危険の原因となっていたのだから、これは科学的な正当性を持たない信仰心である。そしておそらく人間も、彼とは別の次元で、彼と同じことをしているらしい。

 自ら引いた境界を、再び消し去ろうと祈る虚しさは、人間だけが背負う業なのかもしれないが……。


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思い出の中の神殿 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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