回転素麺

吟野慶隆

回転素麺

 水中を流されながらも、なんとかプールの底を蹴りつけて跳び、顔を水面から出すことに成功した。息継ぎをした後、すぐに頭頂部まで水没し、また流され始める。シャツやズボンが水を吸って重たく、手足が動かしづらかったが、そこは大学の水泳部員、かろうじて溺れずに済んでいた。

(最悪だ、誤ってプールに転落してしまうなんて。それも、水流を生成する装置の暴走がしているせいで流れがとても速くなっている時に)

 粉中こななか麦雄むぎおは再び呼吸をするため、顔を水面から出した。プールは幅五メートル弱のオーバルコースで、全体の大きさはバスケットコートと同じくらいだ。内周には巨大な楕円柱状の装置が設置され、それが時計回りの水流を生成していた。外周は高さ約三メートルの壁で、よじ登って乗り越えたとしても三メートル下の地面に落下してしまう。

(となると、櫓に上がるしかないな)

 東西にやや長いオーバルコースの直線部分の中間地点──真北と真南には、外周の外側に櫓が組まれ、上には機械が設置されていた。油圧ショベルのような見た目で、アームは二本あり、それぞれの先端には長さ三メートルの箸が取りつけられている。そのマシンを操縦してプールの中を流される素麺をすくう、という趣向のイベントだった。

(外周の内側、櫓の前には梯子が備えつけられている。そこを上ろう)

 麦雄は前方に視線を遣った。ちょうど南の梯子が近づいてきていた。

 右手を伸ばし、左の縦棒を掴んだ。しかし水流が強いせいで手が滑り、離してしまった。

(ちょっ……!?)

 麦雄は慌てて右手を振った。どうにか右の縦棒を掴みなおすことに成功した。今度は離してしまわないよう、渾身の力を込める。左手を伸ばし、同じ棒を掴んだ。

 体を引き寄せ、両手両足で梯子にしがみついた。そのまま上ろうとする。

 どんっ、と左の脇腹に衝撃を受け、鈍痛を感じた。

(──!?)

 驚いた拍子に手の力が緩んだ。あっと思った時にはもう遅く、両手が梯子から滑り、流され始めた。せめて足を引っかけようとしたが、水をかくだけに終わった。

(いったい何だよ……!)

 麦雄は前方を睨みつけた。水中をバールが流されていた。さきほどぶつかってきた物に違いなかった。

(おれが北の櫓からプールに転落した時、工具の入った鞄も一緒に落ちた。そこから出てきたやつだな。こうなったら仕方がない、北の梯子に掴まろう)

 北のストレートに進入し、梯子が近づいてきた。半ば衝突するようにしてしがみつく。

(今度は何がぶつかってこようが手を離さないぞ……!)梯子を上り、水面から顔を出して呼吸をした。

 上流から、ごっごっごっごっ、という低い音が聞こえていることに気づいた。そちらに視線を遣る。

 音の正体はチェーンソーだった。バッテリー式で水中でも使えるタイプの物だ。独りでに動作し続けているそれが、高速回転する刃を外周の内側に擦りつけながら流されてきていた。

(く……!)

 麦雄は慌てて手を縦棒から離し、足をかけていた横棒を踏みつけ、梯子から距離をとった。一秒後、チェーンソーが梯子に衝突した。鈍い音が鳴り響き、梯子はばらばらに破壊された。

(危なかった……。これはもう南の梯子を上るしかないな)

 麦雄はそんなことを考えながら流されていった。


 今から一時間ほど前、午後一時半頃。

 屋台の店主は「はいよ兄ちゃん、ブルーハワイ!」と言い、かき氷のカップを差し出してきた。麦雄は「どうも」と会釈をして受け取った。ひんやりした容器が蒸し暑さのせいで火照った手を冷やしてくれて、心地よかった。

「姉ちゃんははいこれ、イチゴね!」

 店主は麦雄の隣にいる曹田そうだ祀織しおりにもカップを渡した。祀織も容器の冷たさが気持ちよかったようで、ほう、と一息吐いた。

 二人は屋台から離れた。麦雄は「どこで食べようか」と言い、周囲を見回した。

 辺りにはかき氷だけでなく、たこ焼きやチョコバナナ、ビーム射的や金魚すくいなどさまざまな屋台が並んでいた。水ヨーヨーをぶら下げている男児や仲睦まじそうな老夫婦、食材の入った籠を運ぶ中年女性など、いろいろな人で賑わっている。普段は総合公園の広場として利用されている場所だ。

 祀織が「あっちが座れるよ」と言い、ある方向を指した。視線を遣ると、二人掛けの席が空いているのが見えた。テーブルも比較的綺麗だ。

「よし、あそこにするか」

 二人は目当ての席に行き、向かい合わせに腰かけた。麦雄はショルダーバッグを腿の上に、カップを目の前に置いた。

 かき氷をスプーンストローですくい、口に運ぶ。冷たい物を食したことにより頭痛が発生したが、その辛さをじゅうぶん上回るほどに爽快な涼しさを感じられた。

「ああ……かき氷は夏の風物詩だよな」

 思わずそんなことを呟いた。祀織が、くす、と笑った。

「さっきはアイスクリームの自販機も見かけたけれど、せっかくのお祭りなんだからこういうのじゃないとね」

 麦雄は県立大学の農学部、祀織は建築学部に所属している。二人とも三回生で、同じ水泳部の部員だった。

「そのとおりだな。そうだ、アイスクリームといえば、一昨日のデートで訪れたパーラーのチョコレートアイス、美味かったよなあ。また行こうぜ。値段が高いのが難点だけどな……カップル対象の割引イベントは二か月に一度だけだし」

「あれはかなりお得だったよね。限定のストロベリーケーキなんかも出してもらったし。食べさせ合いっこするのが前提のデザインの」

 その時のことを思い出し、少し照れ臭くなった。話題を転換しようとして「それにしても大変だったな、祭りの準備を手伝うのは」と言った。「花火の仕掛けやら山車のセッティングやら」

「あの山車、とてもゴージャスだったよね。細かい所まで作り込まれていて。内側に組み込まれている電灯も特別仕様の物なんだって。でも、聞いたところによると消費電力がかなり大きいらしいんだけど……大丈夫かな、ちゃんと点灯するのかな?」

「そういえば特大のバッテリーを積むって話を聞いたな」

 雑談を交わしているうちにかき氷は底を尽いた。麦雄は広場の時計に目を遣り、「もうこんな時間か」と呟いた。「そろそろジャンボ流し素麺イベントの予約時刻だな」

 祀織も時計に視線を向けた。「本当だね。受付に行こうか」

 二人は席を立った。空のカップをごみ箱に捨て、祭りの会場の北東あたりに向かった。

 初めに見えてきたのは青一色の壁のような物だった。高さは約三メートル、左端から右端までの長さは約三十メートル。壁の中間地点にはスチール製の櫓が組まれていて、上には祭りのスタッフや客などがいた。

 麦雄は「あれが巨大素麺を流すプールか」と呟いた。「あの櫓に上がって箸機械を操縦してすくうわけだな」

 二人は受付のテントに向かい、スマートホンの画面に表示した予約番号を提示した。スタッフによると、予定よりじゃっかん遅れていて自分たちの前に二組が待っている、とのことだった。

 待合スペースに行き、パイプ椅子に座った。箸機械の操縦方法の冊子を読み終えると本格的に暇になった。祀織と雑談でも交わそうかと思ったが、祀織はまだ冊子に目を通していたため、スマートホンを弄ることにした。

 ニュースアプリを起動し、適当に記事を漁った。熱中症の対処方法に関する記事や太陽活動の活発化に関する記事などを閲覧した。

 数分後に番号を呼ばれた。二人は待合スペースを出て受付に行った。

 テントから現れたスタッフは「お待たせしました。こちらへどうぞ」と言って歩きだした。マッチョな若い男性で、名札によると楳清水うめしみずという名だそうだ。

 三人は北の櫓に向かった。プールよりも北のほうにはテニスコートがいくつか設けられていて、いずれも無人だった。

 階段を上がりきり、正方形の床に立った。そこでプールの全容が見えた。幅五メートル弱のオーバルコースで、全体の大きさはバスケットコートと同じくらいだ。内周には巨大な楕円柱状の装置が設置され、それが時計回りの水流を生成していた。

 楳清水は「それではお乗りください」と言い、床の、プールに近いほうの縁の手前に据えられている箸機械を指した。油圧ショベルのような外観をしているが、電動だ。双腕で、左右のアームの先には長さ三メートルの箸が付いていた。

 祀織が「じゃあ、わたしからやるね」と言ってキャビンに上がり、席に座った。「大学のフィールドワークで培った操縦テクをお披露目しよう」

 楳清水は操作していたスマートホンをズボンのポケットにしまった。「全員の準備が完了しました。これより素麺を投入します」

 南の櫓にいるスタッフが専用の機械を作動させ、巨大素麺をプールに落とした。それは南のストレートを流された後、西のカーブを曲がり、北のストレートに進入した。

 祀織はまずレバーを倒し、キャビンを少し右に回転させた。次に左右のスティックを操り、二本のアームを前に伸ばして箸を水中に挿し込んだ。

 引き続いて箸を細かく操作した。右方からやってきた素麺は、取り零され通り過ぎていった物もあったが、ほとんどが箸によって止められた。

 祀織は会心の台詞を漏らした。「やった……!」

 スティックを操作し、箸の先端を水から出した。素麺がすくわれる。麦雄だけでなく他の客やスタッフも感嘆の声を上げた。

 レバーを倒し、キャビンを左に回転させた。しばらく動かしたところで停める。その時、箸の真下には大きな器が位置していた。

 祀織は箸を広げた。落ちた素麺は器の中に着地した。

 そのことをセンサーか何かで感知したらしく、器の隣に据えられている台の上にあるタンクが中身を注ぎ始めた。激辛風味の麺つゆだ。

 楳清水が「お見事、大成功です!」と言って拍手をした。麦雄や他の客、スタッフも倣った。

 祀織は小さくガッツポーズをしながら嬉しそうにマシンから降りた。楳清水は素麺の入った器を運び、昇降機に載せて下ろした。しばらくして新しい器が上がってきたので、所定の場所に設置した。

「お次の方、お乗りください」

 麦雄は「よし、やらせてもらおう」と返事をし、キャビンに乗り込もうとした。

 突然、ばちばちっ、というスパーク音が箸機械から鳴り、同時に電源が切れた。同じような音は水流装置やプールの外からもたくさん聞こえてきた。

(何だ……!?)

 反射的に箸機械から距離をとった。楳清水が「何だ今の?」と言ってマシンに近づき、触れても感電などしないことを確かめてから操縦盤を弄り始めた。

 唐突に手持ち無沙汰になり、なんとはなしに地上を眺めた。eスポーツイベントの会場ではモニターが真っ暗になっていて、ビーム射的の屋台では的を映し出す装置が動作を停止していた。

(あちこちの電子機器に異常が発生しているのか? そうだ、スマホは!?)

 麦雄はズボンのポケットからスマートホンを取り出し、ホームボタンを押した。いつもどおり画面が点灯し、安堵する。ロックを解除し、しばらく操作してみたが、特に問題は見つからなかった。

 消灯しようとしたところで、誤ってニュースアプリのアイコンをタップしてしまった。起動したアプリのトップページには「速報 大規模な太陽フレアが発生」と表示されていた。

(なるほど、太陽フレアが原因か)

 スマートホンをズボンのポケットにしまい、地上を見渡した。客やスタッフはざわついていたが、とりあえずは急病人や怪我人の類いはいなさそうだ。ビーム射的の屋台では早いことにもう復旧が完了し、営業を再開している。これなら祭りが中止になるようなことはないだろう。

 楳清水の話し声が聞こえてきた。「駄目ですね、電源が点きません。太陽フレアの影響でしょう。南の櫓のほうは? ……そっちは大丈夫なんですね」

 声のするほうを見た。楳清水はマシンの横に立ち、スマートホンで通話をしていた。

「ひとまず、修理できそうかどうか調べてもらったほうがいいと思います。エンジニアのワタユミさんを呼んでください」スマートホンをズボンのポケットにしまい、麦雄のほうを向いた。「申し訳ございません、今から箸機械のメンテナンスを行います。しばらくお待ちください」

 再び手持ち無沙汰になり、また地上を眺めた。祭りの会場の北西には子供向けの巨大ビニールプールが設置されていた。ウォータースライダーまである。

 数分後、若い女性スタッフが急ぎ気味に櫓を上がってきた。名札によると綿油見わたゆみという名らしいので、さきほど楳清水が指名した人物だろう。リュックサックを背負い、クリアバッグを提げていた。

 麦雄はクリアバッグに視線を遣った。(あの鞄に入っているやつ、祭りの準備を手伝った時に見たことがあるぞ。烈咲れっしょう玉じゃないか。三個もある)

 烈咲玉とは投げ込み式の水中花火だ。大きさは野球ボールほどで、導火線の先端には小さなカプセルが取りつけられ、そこに刺さっているピンを抜くと火が点く。炸裂するとど派手な火花が撒き散らされるそうだ。

 楳清水は頭を下げた。「すみません、作業に割り込んでしまって。水中花火の機械のメンテナンス中だったんですよね。太陽フレアの影響でおかしくなったとか」

「いえ、大丈夫よ。もうほとんど終わっていたから。後は部下たちに任せておけば」

 麦雄は(なるほど)と心の中で呟き、頷いた。(たぶん、急いで作業を中断して来たせいでうっかり烈咲玉を持ってきてしまったんだな)

 綿油見はリュックサックを背中から下ろし、手に提げた。「ちなみに、水中花火の機械の故障は微細なものだったわ。太陽フレアの影響を受けたのは、むしろ工具のほうね。電動チェーンソーがなぜか止まらないようになってしまって」

「そうですか。では、さっそくですがマシンを見てもらえますか」

「わかったわ」

 綿油見は箸機械の前に行き、リュックサックとクリアバッグを床に置いた。リュックサックのファスナーを開け、ドライバーを取り出す。鞄には他にもさまざまな工具が入っていた。

 麦雄は(バールにヤスリに……あれは鋲打機とチェーンソーか)と心の中で呟いた。(どちらも大学のフィールドワークで見たことがある製品だ。バッテリー式で水中でも使えるタイプのやつ。綿油見はよほど急いで来たんだな、チェーンソーのカバーがつけられていなくて刃が剥き出しに──ん、何だこの音は?)

 麦雄は辺りを見回した。音源は水流装置だった。以前よりも動作音が大きく、甲高くなっている。本能的な不快感を覚えるほどだ。

 よく見ると、異常はプールにも発生していた。水流がとても速くなっているのだ。

(水流装置が太陽フレアの影響を受けておかしくなって、暴走しているのか? これじゃイベントの再開にはまだ時間がかかるかもな。この後のスケジュールに差し障りがなければいいんだが。晩はレストランを予約していて、祀織にネックレスをプレゼントするつもりだし。……ちょっと予定を確認しておくか)

 麦雄はショルダーバッグのファスナーを開けた。祭りのパンフレットを引っ張り出す。

 その時、ネックレスのケースも一緒に飛び出してしまった。低い円柱状のそれは、足下に落ちると、床の縁、プールに向かって転がっていき始めた。

(おいおい……!)

 麦雄は急いでケースに駆け寄った。その拍子に足がもつれた。プールめがけて飛び出しそうになる。

(このままじゃ櫓から落ちる……!)

 素早くターンした。しかし間に合わず、足が床の縁から滑り落ちた。

(縁に掴まってぶら下がれないか……!?)

 両腕を前に突き出した。手は縁の近くに置いてあったリュックサックを上から叩いた。

(邪魔だ、この鞄……!)

 どうにか床の縁に掴まろうとしたが、叶わなかった。まず足首が水に濡れたことを感じ、次に腰が水に浸かったことを感じ、最後に頭が水に沈んだ。プールを流されだす。ショルダーバッグも肩から外れた。

 直後、リュックサックも飛び込んできたのが見えた。びりびりに破れていて、入っていた工具は外に出て流され始めた。チェーンソーに至っては刃が回転している最中で、停止する気配はなかった。麦雄が転落する直前、リュックサックを叩いた時にスイッチが押されてしまったのだろう。キックバックの要領で鞄の中を跳ね回り、それによりずり動いて櫓から落ちたわけだ。

(そういえば綿油見が、チェーンソーが太陽フレアの影響を受けて止まらなくなったとか言──いやそんなことはどうでもいい、早くプールから出ないと……!)

 そして現在に至るというわけだ。


 北の梯子が破壊されてからしばらく経ち、東のカーブを曲がり終えたところで南の梯子が見えてきた。

(よかった、壊れていない。チェーンソーはプール外周の内側から遠ざかったようだな)

 麦雄は外周に近づいた。スムーズにしがみつけるよう、内側から少し離れたあたりを浮遊する。

 再び梯子に視線を遣った。その時、さきほどまで前方を流されていた工具が引っかかっていることに気づいた。

 それはノコギリだった。両刃で、柄に付いているベルトが梯子の左の縦棒に絡まっている。刃は水流により右斜め下に向かって伸び、先端は右の縦棒に達していた。

(あれじゃ掴まれない、怪我をしてしまう。南の梯子を上るのは諦めるしかない……)

 ノコギリに接触しないよう、外周から距離を取った。梯子の前を通り過ぎる。

(しかし、じゃあどうやって脱出すればいいやら……)息継ぎのため水面から顔を出した。

「粉中さん!」

 楳清水の声が聞こえてきたので、沈む直前に視線を遣った。楳清水は今も北の櫓にいて、床の縁の手前で四つん這いになっていた。左手は床につき、右手はプールに向かって斜め下に差し出していた。

(助かった、あれに引っ張り上げてもらおう……!)

 麦雄は外周に近づいた。西のカーブを曲がり終えた後、タイミングを見計らって水面から頭を出し、右腕を伸ばす。楳清水の右手を掴むことに成功した。

 すかさず左腕も動かし、両手で握り締めた。楳清水は「離さないでくださいよ……!」と言いながら右手を引っ張り上げ始めた。筋骨隆々とした腕は、とても頼もしく感じられた。

 次の瞬間、上流の水面からチェーンソーが飛び出してきた。

(うわっ!?)

 あまりに突然で疲れてもいたため、回避したり防御したりといった行動はとれず、ただ唖然として見つめるしかなかった。高速回転する刃は楳清水の右の前腕に当たり、切断した。

「ぎゃああああ──」

 落ちた麦雄が水に沈んでもなお、楳清水の絶叫は聞こえ続けた。背後に視線を遣ると、降ってきた大量の血が水中をもうもうと揺らめいていた。血は麦雄が未だに握り締めている楳清水の右手の末、前腕の切断面からも噴き出し、塗料のごとく周囲に赤色を撒き散らしていた。

(なんてことだ……!)

 麦雄は楳清水の右手を離した。腕は浮かび上がり、流されていった。

 息継ぎのため水面から顔を出した。その時、「麦雄くん!」という祀織の声が聞こえてきた。

 そちらに視線を遣る。祀織は南の櫓に移動していて、何かをプールに投げ込んできた。

 それはロープだった。始端は箸機械のアームの根元に縛りつけられ、終端には子供用の浮き輪が結びつけられていた。そのおかげでロープは沈まず、水面に浮かんでいた。浮き輪はビニールプールのエリアで入手したのだろう。

(ありがたい、あれにしがみついておけば流されずに済む……!)

 東のカーブを曲がり終えた麦雄はロープに向かって泳いだ。終端付近に掴まることに成功する。それからはロープを手繰り寄せるようにして体を引っ張り、始端を目指した。

(このまま櫓に上がろう……!)顔を前に向け、進んでいく先を確認した。

 ちょうど流されてきた柄の白いヤスリがロープに接触した。白ヤスリは研磨面を、ざりざりざり、と擦りつけてから離れ、再び流されていった。

 目をみはったが、すぐに元に戻した。(よかった、ちぎれずに済んだ。しかし早く進まないと。それこそチェーンソーがやってきて切断するかもしれない)

 上流に視線を遣った。柄の赤いヤスリが流されてきていた。少し後ろには柄の青いヤスリも続いていた。

(このままじゃあの二本のヤスリも接触する……!)

 麦雄は左手をロープから離し、上流に向かって突き出した。赤ヤスリの柄を掴む。

(上手くいった……!)

 赤ヤスリを下流にリリースした。すぐに再び左手を上流に伸ばし、青ヤスリの柄をキャッチしようとした。

 青ヤスリの先端が薬指に衝突した。ぐぎ、という鈍い痛みに襲われる。思わず、がばばっ、と小さな呻き声を漏らした。

 青ヤスリが手から離れた。もう一度掴もうとしたが、薬指が痛むせいで思うように手を動かせず、できなかった。

(ぐうっ、突き指を──)

 心の中での台詞は途中で打ち切られた。青ヤスリが左の頬に当たり、ざりざりざり、と研磨したためだ。

「ごぼぼぼぼ……!」

 麦雄は大きな呻き声を上げた。口や喉に大量の水が入り込んだが、さいわいむせずに済んだ。

 水面から顔を出し、息継ぎをする。ついでに左の頬に触れた。ぬめりとした感触があり、離した手は血に塗れていた。

(頬を削られた……! いやでも、ロープへの接触は防げたぞ)麦雄は水に沈み、左手でロープを掴んだ。薬指が鈍く痛み、動かしづらかった。(あのヤスリがプールを一周してまた来る前に、早く櫓に──)

 ロープがちぎれた。

(な──!?)

 ちぎれた箇所は白ヤスリが当たったところだった。その時は問題ないように見えたが、麦雄がしがみついていることによる負荷のせいでじょじょに弱くなっていたのだろう。

 あまりに突然だったせいで上手く泳ぎを再開することができず、体が縦回転し始めた。急いで体勢を整えようとする。西のカーブを曲がり終え、北の梯子の前を通過したあたりで仰向けになった。頭は上流に、足は下流に向けていた。

 体が急停止した。何かに首を固定されたのだ。

(ぐあっ!?)

 まず首に触れた。さきほどまでしがみついていたロープが巻きついていた。

 次に上流に目を遣った。ロープの始端付近が梯子の残骸に引っかかっていた。あの絡まり方ではもう自然に外れることはないだろう。

(このままじゃ溺れるか絞まるかして死んでしまう……!)

 麦雄はロープを外そうとした。しかし首に深く食い込んでいて、掴もうとしても周辺の肌をかきむしるだけに終わった。

(何か手はないか……!?)

 周囲に視線を遣った。上流から白ヤスリが流されてきていた。

(あれだ……!)

 右手を伸ばし、白ヤスリをキャッチした。研磨面を首に当て、ざりざりざり、と前後に動かす。もはやロープのみに狙いを定めている余裕もなく、皮膚が削れることを承知のうえでがむしゃらに擦り続けた。猛烈な痛みに襲われたが、首が絞まっていることによる苦しさのほうが勝っていた。

 十数秒後、ロープがちぎれた。急いで白ヤスリを捨てて体勢を整え、水面から顔を出して息継ぎをした。辺りには首から流れ出た血が揺らめいていた。

「麦雄くん!」

 祀織の声が聞こえてきた。南の櫓に視線を遣ると、祀織が何かをプールに投げ込んできたところだった。

 それはフロートだった。角の円い長方形で、厚みは約十センチ、広さは畳一枚分くらいだ。側面には引っ張って運ぶためのロープが張られていた。ビニールプールのエリアで入手したのだろう。

 フロートは水面にぷかぷかと浮き、流され始めた。

(そうか、あれにしがみついておけば溺れないし体力も消耗せずに済む……!)

 麦雄はフロートを目指して泳いだ。側面のロープをキャッチするなり手繰り寄せ、抱き締めるようにしてすがりついた。

 その後は水面に浮かんだまま流されていった。ふうううう、と長い安堵の溜め息が漏れた。数秒間だけ放心し、慌てて首を振って我を取り戻した。

(これからどうしよう……このままこうして助けられるのを待ったほうがいいだろうか)

 その時、上流からチェーンソーの動作音が聞こえてきていることに気づいた。視線を遣ると、チェーンソーが刃を進行方向に向けた状態で流されてきていた。

 麦雄は急いで足をばたつかせ、プール内周に近寄った。チェーンソーはフロートの側面をかすめ、ロープを切断し、ロープを通している部分をいくつか破壊した。さいわい本体は無傷で済み、浮き続けることができた。

(ふう、ぎりぎりかわせたな。しかし今のでわかったぞ、悠長にしてはいられない。工具に当たって怪我をする可能性が高い。やっぱり一刻も早く脱出しないと)

 フロートの側面に張られているロープは今や七割ほどが本体から外れていた。外れた部分はチェーンソーの回転刃に跳ね上げられたことにより、フロートの上に乗っかっていた。

(そうだ、フロートの上に乗って、そこから櫓の床の上に移ろう……!)

 麦雄はさっそく行動を開始した。フロートの表面を掴み、体を引っ張り上げる。なんとか乗っかることに成功した。

 フロートが大きく揺れた。振り落とされそうになる。

(く……!)

 四つん這いになって姿勢を低くした。フロートはぐらりぐらりと傾いたりぐるんぐるんと回ったりしたが、かろうじて転落せずに済んだ。

 胸を撫で下ろしつつ下流に視線を遣った。(もうすぐ南の櫓の前を通り過ぎる、その時に移ろう)

 麦雄は左脚を動かし、膝を立てた。右脚も動かす。

 足首が急停止した。何かに固定されているのだ。

(──!?)

 突然かつ想定外だったせいで体勢が崩れた。成す術なく横に倒れ、その勢いでフロートもひっくり返り、水に沈んだ。

(何だ……!?)

 水中で逆さまになった麦雄は右足を見た。足の裏は水面に浮かんでいるフロートの裏面、真ん中あたりに接触していた。

 足首にロープが巻きついていた。フロートの側面に張られている物だ。

(さっき振り落とされそうになった時に巻きついてしまったんだな。いきなりだったせいで呼吸に余裕がない、早く息継ぎしないと)

 麦雄は体を縦回転させようとした。しかしできなかった。足首に巻きついているロープのせいで、右足をフロートの裏面から離せないのだ。フロートは浮力が大きいため、一緒に回転することもできなかった。

 膝を曲げてロープを掴み、外そうとした。だが固結びのようになっているせいで諦めざるを得なかった。

(このままじゃ溺れてしまう、何か手はないか……!?)

 麦雄は辺りに視線を巡らせた。上流から鋲打機が流されてきているのが見えた。

(あれだ……! フロートに鋲を打って穴を開け、空気を抜いてしぼませよう……!)

 右手を伸ばし、鋲打機をキャッチした。その拍子にトリガーを引いてしまった。コの字形をした鋲は、さいわい明後日の方向に飛んでいった。

(これは射出口が対象物に接触していない状態でも打てるタイプのモデルのようだな。ありがたい、もう脚がくたくたで膝を曲げるのもしんどいから……)麦雄はグリップを握ると射出口をフロートに向け、トリガーを引いた。

 フロートが揺れ、腕が斜め下に振れた。

(──!)

 指をトリガーから離そうとしたが遅かった。射出された鋲は股間に命中した。

「がばばばばあっ!?」

 すでにかなり呼吸が苦しくなっているにもかかわらず絶叫した。股間を見る。鋲が陰茎に突き刺さり、陰嚢にも食い込んでいた。

(あああああ痛い痛い息苦しい息苦しい──とっ、とにかく早くフロートをしぼませないと……!)

 麦雄は今度こそフロートに鋲を打った。大きな穴の開いたフロートからはみるみる空気が抜けていき、十数秒後にはくしゃくしゃになった。

 鋲打機を離し、急いで体を縦に半回転させた。水面から顔を出し、息継ぎをする。

 それから数分間は呼吸の回復に専念した。ある程度落ち着いた後、流されてきた赤ヤスリを取った。ロープを擦ってちぎり、右足からフロートを剥がす。

(ひ、酷い目に遭った……ああ股間がずきずきする目が回りそういや回る回っている)

 麦雄は潜水しているにもかかわらず脂汗が分泌されていることを自覚した。赤ヤスリを捨て、水面から顔を出し息継ぎをする。今は東のカーブに差しかかったあたりにいた。

 その時、南の櫓の前、水面から少し離れたあたりの空中を何かが動いていることに気づいた。

 それは箸機械の左のアームに備わっている箸だった。キャビンには祀織が乗り込んでいる。箸はコースの真ん中あたりで止まると垂直に下降し、水に深く挿し込まれた。

(よし、あの箸に掴まって引き上げてもらおう……!)

 麦雄は左右に泳いで移動し、自分の位置を調節した。東のカーブを曲がり終えてからしばらくしたところで、水面から顔を出した。

(このまままっすぐ流されていけば箸にしがみつけ──)

 ごん、と後頭部に何かが激突した。脳味噌じゅうに鈍い痛みが響き渡り、思考が一時停止した。我に返った時には体が前に半回転し、逆さまになっていた。

 下流に視線を遣る。バールが流されていくところだった。あれがぶつかってきたのだろう。

(せっかくの脱出のチャンスを逃すわけには……!)

 麦雄は体をさらに前に半回転させた。元の体勢に戻る。

 股間が箸に激突した。ごりゅんごりゅん、と左右の睾丸が弾け砕ける感覚があり、歯を噛み砕かんばかりに食い縛るほどの苦痛が開始した。

「ごぼぼぼぼおっ!?」

 しかし悶えている余裕もなかった。手足を突き出し、抱き締めるようにして箸にすがりつく。箸の先端より麦雄の爪先のほうがやや低かった。

(やった、なんとか掴まれた……)

 箸が上昇しだした。顔が水面から出るなり呼吸を再開した。

 麦雄の爪先が櫓の床よりだいぶ高くなったところで、祀織はキャビンを左に回転させ始めた。麦雄は落ちまいとして必死にしがみついていたが、体じゅうが疲れきっていて股間は気が狂いそうなほどの苦痛に襲われている、上手く四肢に力を込め続けることができず、ずる、ずるりと下がりだした。

(離してたまるか……!)

 そう心の中で呟いたが、肉体のほうはむしろずるりずるりと下がる度合いを増していった。挽回のしようもなく数秒後、手から箸の先端がすっぽ抜けた。

 その時にはもう櫓の上だった。麦雄はすくった素麺を入れる器の中にごろんと横たわった。

(はあ、はあ……ふう……助かった…………)強烈な安堵に包まれ、全身の筋肉が緩んだ。

 天から液体がどぼどぼと降り注いでき始めた。

(──!?)

 それもただの液体ではなかった。凄まじい刺激臭と焼けるような辛味を伴っていた。あっという間に麦雄の全身を浸し、皮膚や粘膜、傷口を侵しだした。

(ぐああああ──激辛風味の麺つゆか──!)

 とても器の中にはいられなかった。半ば四つん這いで外に飛び出し、床をごろんごろんと転がった。

 何かにぶつかったと思ったのも束の間、自由落下し始めた。床の縁から飛び出したに違いなかった。

 転落死の恐怖に襲われたが、まもなく解消された。どぼん、と水の中に突っ込んだからだ。

(プールに逆戻りかよ……!)

 麦雄は手足をじたばたさせたり泣き喚いたりしたくなった。その時、視界の隅で何かが光っていることに気づいた。

 そちらに視線を遣る。麦雄の近くをクリアバッグが流されていた。さきほど櫓の床を転がった時にぶつかり、落としてしまったのだろう。

(えっ……!?)

 仰天した。クリアバッグに入っている三つの烈咲玉は、いずれも導火線の先に付いているカプセルからピンが抜けていた。導火線にはすでに火が点いていて、どんどん本体の玉へと接近していた。

(ぶつかった拍子に外れてしまったのか……! このまま炸裂したらプールの外周が大破してしまう、こんな大量の水が会場に流れ出たら大惨事だ。なんとかしないと……!)

 麦雄はクリアバッグめがけて泳いだ。取っ手を掴んで引き寄せる。その頃には西のカーブに差しかかったあたりにいた。

(そうだ、プールの北側は無人のテニスコート、あそこに投げ込もう……!)

 クリアバッグに手を突っ込んだ。導火線の残りの長さはそれぞれ異なっていた。

 導火線の残りが最も短い烈咲玉を取り出した。水面から顔を出して手を振り上げ、プールの北側めがけて投げた。

 しかしなにしろ水に勢いよく流されながらの遠投など初体験である、そう上手くはいかなかった。烈咲玉は大きく逸れて飛んでいき、南の櫓の上に落ちた。

(しまった……!)

 櫓にいる客やスタッフが悲鳴を上げたり逃げ出そうとしたりした。祀織も泡を食って箸機械から降りようとしたが、足がもつれてキャビンを転がり落ち、床に横たわった。

 烈咲玉が炸裂した。鮮烈な火花が盛大に飛散し、肉片や血液も撒き散らされ、櫓は轟音とともに崩壊した。プール外周も損傷を受けたが、こちらは軽微なダメージで済んだようだった。

(し、祀織……! 祀織はどうなっ──いや心配している時間はない、早く他も投げ捨てないと……!)

 麦雄は導火線の残りが二番目に短い烈咲玉を取り出した。その頃には東のカーブに差しかかったあたりにいた。水面から顔を出して手を振り上げ、プールの北側めがけて投げようとした。

 掌に何かが衝突し、そのせいで腕が意図しない方向に振れた。肉体も精神もひどく疲れているために遠投のモーションを中断することができず、烈咲玉とともにその何かをプールの南側に向かって投げる羽目になった。

 それは鋲打機用の鋲ケースだった。透明で、内部にコの字形の鋲がたくさん詰まっているのが見えた。

(まずい……!)

 烈咲玉が炸裂した。ケースは粉々になり、入っていたたくさんの鋲は高速で周囲に射出された。鋲は地上に降り注ぎ、中年の男性スタッフの鼻に突き刺さったり若い女性客の下腹部に風穴を開けたりした。

(破片手榴弾のようになってしまった……! そんなつもりは──いやだから後悔している時間なんてないんだ、ともかく残り一個……!)導火線の残りが三番目に短い烈咲玉を取り出した。

 手が滑った。落ちた烈咲玉はプールの底を転がり、遠く離れていった。

(ちょっ……!?)

 烈咲玉は南の梯子の根元に引っかかった。麦雄は慌てて回収しようとし、流れに逆らって泳ごうと試みたが、疲労と怪我に塗れた体では叶わなかった。

 烈咲玉が炸裂した。プールの外周は大破し、水が、どどどどど、と流れ出し始めた。

(──)

 流されないようにしようとしたが、周囲には掴まれるような物もなくどうしようもなかった。麦雄はもうほとんど溺れつつ外周の壊れた箇所から飛び出した。プールの近くに設営されていたテントや集まっていた人々が水に飲み込まれ、流されていった。

 数秒後、麦雄はたこ焼きの屋台の残骸に衝突した。同時に右目に激痛が走り、「ぐぼおっ!?」という呻き声を上げた。顔に手を遣ると、何かが眼球に突き刺さっていることがわかった。

 水位はどんどん下がっていき、あまり時間が経たないうちに水浸しの地面に投げ出された。麦雄は地面をごろんごろんと転がっていった後、腹這いの状態で止まった。

「…………うう……」

 重たい頭を持ち上げた。近くには眼球が転がっていて、それにはたこ焼きをひっくり返すための千枚通しが突き刺さっていた。麦雄の右目に違いなかった。

(……そうだ、祀織は!? 祀織はどうなった!?)

 麦雄は辺りを見回した。すぐに祀織が近くに倒れているのが見つかった。

「し、祀織……!」

 必死の思いで立ち上がり、祀織の下に向かった。全身が強い痛みに苛まれ、四肢は疲労のせいで重たく、視界は平面的になっている。移動しづらいことこの上なかったが、しかし可能な限り急いだ。

 数分後には到着した。祀織の手足はめちゃくちゃな方向に捻じ曲がっていて、左腕に至っては付け根からもげていた。顔と体は擦り傷や切り傷、火傷だらけで、たくさんの鋲が突き刺さっていた。

 それでも呼吸をしていた。「うう……」と呻き声を漏らし、瞳を向けてきた。「麦……くん……」意識もあるようだ。

「助けてやる、絶対に助けてやるからな……! すぐに救急車を──」

 突然、ばちばちっ、というスパーク音が聞こえてきた。

(……?)

 反射的に音のしたほうを見た。音源はバッテリーだった。水に流されて崩壊した山車の残骸の近くに横倒しになっている。容量のかなり大きいタイプで、プールから流されてきたチェーンソーにぶつかられたせいで一部が破損していた。そこから再び、ばちばちっ、と火花が散った。

(このままじゃ感電してしまう、一刻も早く水浸しのエリアから出ないと……!)辺りを見回した。(よし、あの軽トラの荷台の上に避難しよう……!)

 麦雄は祀織をおぶり、軽トラに向かった。しかし全身の怪我や疲労、そして祀織を背負っているせいで、ひどくのろかった。

 一分後、ばちっばちいっ、というひときわ大きなスパーク音が鳴り響いた。思わずバッテリーのほうを振り返ろうとしたが、その前に体じゅうが激痛に襲われた。

(──)

 思考すらできないほどのショックだった。五体が硬直し、立っていることもできず前に倒れた。その後は地面に腹這いになり、がくんがくんと痙攣し続けた。

 数分後、電流がやんだ。バッテリーの電力が尽きたのだろう。

(…………うう……)

 苦痛は治まったものの、全身が痺れきっていた。ものを考えることもできず、ただただ放心し続けた。

 しばらくして、祀織をおぶっていないことに気づいた。

(し、祀織……?)

 麦雄は周囲に視線を遣った。祀織はすぐに見つかった。麦雄の斜め後ろに倒れていたからだ。

 ぱっくり割れた後頭部からは血がどくどくと流れ出していて、首はありえない方向に曲がっていた。頭から地面に激突したに違いなかった。

(……)

 もはや涙どころか悲しみすら生じなかった。希死念慮が心を満たした。抗おうとすら思わなかった。

 再び辺りを見回した。少し離れた所にプールから流されてきた鋲打機が転がっていた。

(あれで頭を打とう……)

 麦雄は鋲打機に向かった。未だに全身が痺れていて、這いずることでしか移動できなかった。

 数分後、ようやく手が届いた。グリップを掴み、地面に擦りつけるようにして腕を引き始めた。

「そこの方、大丈夫ですか!」

 そんな声が横から聞こえてきた。そちらに視線を遣る。救急隊員たちが向かってきて、すぐに到着した。

「大丈夫ですか? 意識はあるようですね」

 麦雄は、うるさい放っておいてくれ、と言おうとした。しかし口が痺れているせいで、「うう、あう」などとしか喋れなかった。

「もう助かりますよ、大丈夫、もう助かりますからね」

 そんなことを言われながら担架に乗せられ、運ばれていった。


   〈了〉

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