第2話
私は、無事に国家試験に合格し専門学校も卒業して同世代より遅い就職をした。しかし上司が「体調が悪くなるには絶対に理由や前兆があるはず。自分を観察して予防しよう」という考えから理詰めをしてくる人で私とは合わず、落ち着いていた病状が一気に悪化。不眠がより酷くなり、仕事から帰宅しても気付くと玄関で1時間は座ったままでいる日々が続く。上司は悪い人ではなかったけれど、それは心が健康な人にとってなのかもしれない。私は1年も経たずに休職を選んだ。
ホーイチは7歳10ヶ月という高齢ながら、これまで怪我も大病も一度もしたことがない。動物病院にお世話になるのは、年に1回の混合ワクチン摂取と簡単な健康診断だけ。私と違ってホーイチは超健康優良児だ。
私が休職に入った翌日。
「ねえちゃん今日から休みだよ。しばらく一日中一緒にいられるねぇ」とホーイチをケージから出した途端、ホーイチの足元が軽くふらついた。違和感。
ケージから出る時にテンションが高いせいで落ちたりすることはあった。しかし、今のホーイチは歩き出そうとしない。ふらつく足を踏ん張って、私を見つめている。
「どうした、ホーイチ」
ホーイチは何も言わない。嬉しい時のクックックッも頻度が落ちているのは知っている。が、これはなんだ。
私はその日のうちにかかりつけの動物病院へ駆け込んだ。
「血糖値がずいぶん低いね。意識を保っているのが不思議だよ」
ホーイチのことを健康診断で「こんなに動く7歳のフェッチは見たことがない」と評した獣医師は言った。
「どういうことですか」
私の問いに、獣医師は続ける。
「ホーイチちゃんは、生まれつき血糖値が低かったんだと思う。だからホーイチちゃんにとってはこれが普通で、今まで健康でいられた。例えば人間にも元々血圧が低いけど生活に支障がない人もいるでしょ、そういうこと」
獣医師は診察台の上にいるふらつきつつも私の方へ歩くホーイチから、でもこれは、と私へ視線を向ける。
「インスリノーマだと思う」
と言った。
インスリノーマ。膵臓にできる腫瘍のせいで、インスリンが過剰分泌される病気。フェッチの罹患率は高い。治療は薬の投与や外科手術、食事による血糖値コントロール。
「ホーイチが」
「これから治療していくけど、年齢的にもかなり難しいと思う。外科手術には耐えられないだろうから、まずはごはんで血糖値が下がらないようにすること」
昨日まであんなに元気だったのに。どうしてこんな病気になるんだろう、幻想生物なのに。どうしてホーイチが。
「ホーイチちゃん、甘いもの欲しがるでしょ。フェッチは人間のジュースとか好きだから、スポーツドリンクを薄めてあげて」
確かにホーイチは私が飲んでいるジュースを欲しがることが昔から多々あった。ペットボトルのキャップに水で3倍ほど薄めたものをあげたこともある。その要領で大丈夫かと確認すると、獣医師は「大丈夫だよ」と言う。
「血糖値コントロールがうまくいけば、インスリノーマは付き合っていける病気だから。分からないことはいつでも電話して。また来週診察に来てください」
ステロイドの飲み薬を処方され、ホーイチを連れて帰る。病院でブドウ糖を投与してもらったホーイチは、朝よりも元気だった。
血糖値コントロール。うまくやれば、まだまだホーイチと一緒にいられる。私はホーイチを「頑張ったね」とケージに戻すと、スポーツドリンクを買いに走った。
処方されたステロイドを飲ませても、ホーイチの病状が進むのはとても早かった。薄めたスポーツドリンクではすぐにふらつき、原液であげてと獣医師に言われたので原液を舐めさせるも、とうとういつも食べていたドライフードが食べられなくなった。
ドライフードをお湯でふやかし、香りを強めてホーイチに4時間おきに食べさせる。血糖値コントロールのために舐めさせるのはガムシロップを水で半分に希釈したものになった。
そして、私はとても恐ろしいものを見る。
ホーイチはふやかしフードを食べたあと寝ていた。自分で動くのはごはんの時とトイレの時だけになった。余ったフードを片付けるため立ち上がろうとした時。ホーイチの身体が小刻みに震えだした。
短い足をビンと伸ばし、口は半開きで舌はだらんとたれ、よだれを垂らしている。そして目には光がない。
「ホーイチ!」
呼ぶが反応がない。身体がずっとガクガクと震えている。私は訳が分からず、震えが治まるまでホーイチの名前を呼び続けた。
インスリノーマによる、低血糖発作だった。発作中、本人に意識はないと獣医師は言った。
「見てるこっちは苦しそうですごく心配だけど、それがせめてもの救いだね」
飲み薬だけでは追いつかないため、ステロイド注射による治療も始まった。
恐い。とにかく恐かった。自分が死にたいと思っていた時より、親に怒られた時より、ホーイチの発作の方がよほど恐ろしかった。休職期間で、不眠症で良かったと心底思った。給餌時間は3時間おきになり、私はとにかくホーイチが心配で24時間起きている日も増えた。
診察日、獣医師は被毛を掻き分けると「ホーイチちゃん、黄疸が出てるね」と言い、血液検査の結果、リンパ腫も併発していると告げた。血液の癌だ。これもフェッチに多い病気だと。どうして。
ホーイチはどんどん痩せて、自分でトイレに行くことも出来なくなった。それでも何とか這って行こうとするため、私は物音にすごく敏感になり、寝ていても少しの音で起きるようになった。トイレに向かうホーイチを抱き上げ、足が立たないホーイチを支える。終えたらウエットティッシュで清拭して、新しく拵えた寝床に寝かせる。自力で登れないためケージもハンモックも使わなくなったが、片付ける気にはならないのでそのままにしていた。
すぐにホーイチは強制給餌になる。頭すら上げられないホーイチを支えて、シリンジでふやかしたフードとブドウ糖を与える。最後に、口の中が気持ち悪くならないように水を少し。どうにか低血糖発作を起こさせたくなくて、必死に給餌し、ブドウ糖液糖を歯茎に擦り込んだ。
それでも、低血糖発作は起きた。毎回「早く終わってくれ」と祈りながら、身体が引き攣るためキィキィと鳴くホーイチが舌を噛まないように布を噛ませながら、震える小さな身体を名前を呼びながらさする。
「ホーイチちゃんは毎日注射が要るけど、病院来るの大変だから」と、獣医師にやり方を教えてもらい家でホーイチにステロイドの皮下注射をした。
「痛いな。ごめんな、ねえちゃん下手で。ごめんな」
始めは針を刺すと痛みからビクリと跳ねていた身体も、日を追う毎に反応しなくなっている。
「ホーイチは今つらいですかね」と訊いた。獣医師は「だるくて眠くて仕方ないって感じだと思うよ」と言う。私はそれを信じて、痛いとかつらいよりはマシか、と思う他ない。
構わない。ホーイチが私の声に反応しなくても。
構わない。ホーイチが発作を起こさないで済むなら。
構わない。ホーイチがまだ傍に居てくれるなら。
ホーイチは、無責任に何も考えず無理矢理ねえちゃんを名乗った私を救ってくれたのだから。
ホーイチがいたから親と縁を切れた、立ち直れた、専門学校だって国家試験だって頑張れた。
恩返しをさせて欲しい。傲慢にもホーイチがいるのが当たり前だと思っていた私に、もっと迷惑を掛けて欲しい。
言葉通り、一日中一緒にいた。ホーイチはもう寝たきりだから、数時間おきに体位変換をして、固形物を口に出来なくなったためふやかしフードの上澄みをシリンジで少しずつ口に含ませて、ブドウ糖液糖を歯茎に擦り込んで、ステロイド注射をして、トイレも圧迫排尿して。
ホーイチは目を開けないが、一緒に日向ぼっこもした。好きだったおもちゃの音を聞かせて、なんでもいいから話し掛けて、私のティーシャツとブランケットと好きだったダンボール箱で作った特製の寝床の隣に、私も寝た。
私が頬が痩けたホーイチに掛ける言葉は、自然と「頑張れ」から「無理するな」になった。私が苦しそうなホーイチを見たくなかっただけかもしれない。でも発作なんかで苦しまず、出来るだけ穏やかに、最期を迎えて欲しかったのは本音だ。
そんな時間を過ごしていた夜、ふとホーイチの臭いが気になった。獣臭はかなり薄くなっていたため、何の匂いだろうと思ったら、ホーイチのおしりが汚れていた。
「あぁ、気持ち悪かったな。ごめん、すぐ綺麗にしよう」
私は久しぶりにホーイチをおしりとしっぽをお湯で軽く洗った。ホーイチは珍しく目を開けていた。ホーイチはお風呂の時、身体を洗ったあとは桶に汲んだ湯船に浸かるのが好きだったから、気持ちよかったのかもしれない。だったら嬉しい。
身体を拭き、寝床に寝かせる。掛け布団代わりにしていたティーシャツを戻すと、ホーイチは「フゥー」と大きくため息を吐いた。
「……ホーイチ?」
名前を呼ぶ。ホーイチは数度、ヒゲをヒクヒクと揺らしたあと、動かなくなった。
「ホーイチ。ホーイチ。ホーイチ」
何度呼んでも動かない。腹を見て呼吸、胸に手を当てて心臓を確認する。
息をしていない。心臓も動いていない。
ホーイチは。
理解した途端、ボロボロと涙が溢れてきた。私はこんなに泣くことが出来たのかと、冷静に驚いている自分がいる。泣くのなんて、本当に何年ぶりだろう。記憶にある限り、実家でも学校でも病院でも泣いていない。
ホーイチを撫でる。頭とお腹、しっぽと前足。背中を撫でれば、痩せたせいでゴツゴツとした背骨が指に触れる。
「頑張った、ありがとう。よく頑張った」
言葉にはなっていなかった。夜のアパートでなかったら、もっと大声をあげていたと思う。
ひとしきり泣いた後、グズグズと鼻をすすりながら冷凍庫から保冷剤を持ってくる。ダンボールの寝床にいるホーイチのお腹に大きいものを、小さいものを身体の周りに、タオルは当てずに直接置く。ホーイチの身体が硬くなってしまう前に、いつもベッド下で寝ていた格好にする。ホーイチの身体を改めて軽く拭いて、ブラシをかけてやる。そしてティーシャツを上から掛けた。
ホーイチの身体をこんな形で冷やすのは嫌だったが、この日が来た時のために「火葬を待つ間にすること」を事前に調べておいて良かった。役に立てたくはなかったけど。
ペット火葬の業者に連絡して、翌日に火葬の日程を組んだ。ホーイチに冷たい思いを長くさせたくなかった。
その夜はいつも通り、ホーイチの隣に横になる。3時間おきに起きて、ホーイチを撫でた。
翌日来た業者の男性は、用紙に記入したホーイチの年齢を見てとても驚いた。
「7歳11ヶ月ですか。長生きですね」
私は記入しながら「他のフェッチは短い子が多いですか? 平均寿命が6〜7年と見ましたけど」と返す。
「いや、4歳とか多いですよ。フェッチは短い印象です」と言った。
「おもちゃとかごはんとか、どうしますか」と問われたが、ホーイチに余計なものを混ぜたくなかったので断った。
震える声で「ホーイチ、ちょっとの間ひとりになるけど怖くないから。行ってらっしゃい」と、ホーイチの口元を水を含ませた筆で撫でた。なんの説得力もない。
大きな音を立てて、頑丈な鉄の扉が目の前で閉まる。
しばらくして火葬から戻ってきたホーイチは、とても小さな骨壷に収まっていた。抱くと、まだ暖かい。
幻想生物火葬証明書と領収書をもらい、礼を言ってホーイチを連れて帰った。
残ったステロイド注射と使った注射器を動物病院へ返しに行き、ホーイチが逝ったことと礼を伝える。受付の女性はなんと言っていいか分からないという顔をした後、獣医師を呼んだ。獣医師は「ホーイチちゃん、頑張ったよ。お姉ちゃんも」と言ってくれた。
幻想生物は、ペットとして流行っている割に診察してくれる動物病院が少ない。私がここを見つけ、信頼できる獣医師と出会えたのは運が良かった。
ベッドで眠る生活に戻った今も3時間おきに「ホーイチにごはんあげなきゃ」と目が覚める。ちょっとした物音で飛び起きる。その度に、部屋が見渡せる本棚の上に作った小さな仏壇を見て、ホーイチはもういないという事実を突きつけられる。
残ったフードや未開封のおやつをどうしよう。捨てるのは嫌だ。ホーイチに供えるにしても、賞味期限が切れたものはホーイチも嫌だろう。ケージは。ハンモックは。おもちゃは。ブランケットは。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
ホーイチの骨壷を抱いて寝たこともある。本人は、さぞ迷惑だろう。
結局、ホーイチはねえちゃんにそこまで迷惑を掛けてくれなかった。闘病生活はたったのひと月。確かに「無理するな」とは言ったけど。
四十九日を過ぎる頃、一度だけホーイチが夢に出てきた。いつも通り、部屋を冒険していた。目と額の宝石がキラキラ光っていた。
私は目が覚めて、また泣いた。
通院している精神科で、もっと何かしてあげられることがあったのではと言う私に、主治医はこう言った。
「たくさん色んなことをしてあげても、後悔は残ると思う。けど動物は人間と違って生きることしか考えてないから、あんまり泣いてると、それこそ安心できないんじゃないかな」
難しいけどね、と主治医は付け加えた。
ケージやダンボールはまだ片付けられないけど、私は残ったフードなどを貰ってくれるフェッチ飼いをSNSで探すことにした。見つからなかったら、保護活動をしている所に寄付しよう。余ったガムシロップを紅茶に入れながら、スマホで文章とフードの写真を投稿する。
私の体験なども、同じく闘病している家族に届くと嬉しい。それこそ、ホーイチが次の命を繋いでくれるような気がする。
ホーイチは優しいから、私が休職するまでつらいのを我慢してくれたのかもしれない。ねえちゃんの言う通り、穏やかな最期を選んでくれたのかもしれない。相変わらず、ねえちゃんの勝手な想像だけど。
私のベッドはまだケモいし、抜けたヒゲが部屋で見つかる。その度に嬉しい。まだねえちゃんを喜ばせてくれる。
ありがとう、ホーイチ。可愛い私の弟。
弟を看取る 沈丁花 @ku-ro-ne-ko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます