弟を看取る

沈丁花

第1話

 私には弟がいる。幻想生物・フェッチ。名前はホーイチ。毛色はセーブル。現在7歳11ヶ月だ。

 私の目の前で静かに寝息を立てているこの子はもうすぐ、虹の橋を渡る。





 フェッチはカーバンクルから派生した種で、人間が完全家畜化に成功した幻想生物だ。と言っても、飛ぶことが出来るとか飛び抜けて頭が良いとか、そういうことはない。幻想生物、というだけだ。

 大きさはファームによってピンキリで、大きい子は1mを超えるが、それでも他の愛玩幻想生物と比べれば小さい方。超大型種代表のドラゴンなんてとんでもない。フェッチよりもっと小さい種類もいるけど、それは小型鳥類種や妖精種になってくるからやはり話は別だ。

 うちのホーイチは体長30cm程だから、小型の犬や猫よりずっと小さい。



 人間が一部の幻想生物の家畜化に成功し、愛玩動物とするようになって100年程度。フェッチは愛玩動物としては無名で、主に毛皮とカーバンクル時代の名残である額の宝石目当ての養殖ばかりだった。

 フェッチが本当に愛玩動物として注目され始めたのはここ20年くらい。幻想生物だが価格がお手頃・サイズが大きすぎない・鳴かない・トイレも躾で覚える・ある程度人間の生活に合わせた飼育が可能・毛色が豊富で額の宝石も美しい、ということで集合住宅で幻想生物のペットを探している人から人気が出た。

 見た目はウサギのような耳を持つカーバンクルよりイタチに近い。小さい耳、丸い目、短い前足と後ろ足、長めの胴体。嬉しい時は「クックックッ」と愛らしく鳴く。


 人間に保護され野生の本能を忘れたフェッチは、先祖のカーバンクルのように自然界には生息していない。フェッチにはそれぞれ必ず故郷のファームがあって、世話をしている人間がいる。人から離れればすぐに死ぬ生き物だ。幻想生物なのに。

 寿命だってすごく短い。平均寿命が6〜7歳、4歳から高齢期と言われる。10年も生きたフェッチは、フェッチ飼いの中でも「すごい!」と賞賛される。幻想生物なのに。




 私がホーイチを迎え入れたのは、大学で精神を病んだ時だ。ある朝突然に、身体を起こす気も、外に出る気も、食事をする気にもならず、それが一週間続いたために病院を受診したら「うつ病」だと言われた。理由は不明だ。ただただ唐突だった。

 教科書の文字すら認識できなくなったが、学びたくて入った学部だったから「大学を休学したい」と親に申し入れた。親からの返答は「大学を辞めて帰って来なさい」だった。

 子どもの頃からそう。私に重要な話や選択をする隙を与えないくせに、お前は大切な話ほど我々にしない、金がかかっているのに何も考えていないと責めてくる。そういえばそんな親だった。私は今までの私ではありえない行動をとった。親との連絡を一方的に絶ち、勝手に休学届を出した。

 ドクターには「いい選択だ」と言われたが、親に完全に失望し、縋っていた小さな希望を放棄したのだ。ゼミの担任からの「相談してください」という2通のメールも無視した。


 孤独を選んだ療養中、満足に眠ることもできない私が考えたのは「社会のルールに反することをしたい」だった。

 今まで必死に親や社会のルールを守って、先生たちには褒められるように行動し、行きたい高校も自分の希望より親の勧める所に進学して、第一志望の大学に落ちて外で大声で私をからかう親も笑顔でスルーして、第一志望でなくとも進学でひとり暮らしを始めてやっと親から離れられたのに病気になって、その親からの理解はこんな時にもなくて。だから社会に反したくなった。


 フェッチの存在を知ったのはまさにその時だった。インターネットで「幻想生物だが価格がお手頃・サイズが大きすぎない・鳴かない・トイレも躾で覚える・ある程度人間の生活に合わせた飼育が可能・毛色も豊富で額の宝石が美しい」という記事を見つけ、フェッチを飼おうと考えた。元々、動物が好きだった。

 私の中で社会に反した部分は、住んでいるアパートがペット禁止であること。それでも、私は飼育に必要なものをすべて揃えて、小さめのフェッチを飼育するファームからオスのフェッチを迎えた。名前はホーイチ、好きだった小説の登場人物から取った。


 主にペットの世話をする人はそのペットの親と呼ばれる風潮がある。でも私は当然ホーイチの実の親ではないし、ホーイチが私のことをどう見ているかなど分かるわけがない。私は、ホーイチの「ねえちゃん」を名乗ることにした。

 まだ若かったせいか、それとも実の母親への負の感情から自分をその立場に置きたくなかったのか、自分をお母さんと呼ぶのも他者に呼ばれるのにも違和感があったのだ。



 ホーイチはクルクルとした黒い目で部屋中のあちこちを動き回った。額の宝石もその度にキラキラ光る。トイレはすぐに覚えてくれた。

 ホーイチを眺めているのもおもちゃで遊ぶのも楽しかったが、フェッチについてポジティブな情報しか仕入れていなかった私は、実はフェッチが幻想生物飼育初心者向けの生物ではないことを後から思い知る。


 岩にすら穴を開けて巣にするカーバンクルから派生した彼らは本能でとにかく床を掘る。それでカーペットが何枚も使い物にならなくなった。

 巣材に使うため、くわえられる物はなんでもくわえてお気に入りの場所に隠す。それが人間のものであろうと関係ないし、下手をすると強い好奇心でそのまま誤飲するので目が離せない。

 鋭い犬歯があるが、コミュニケーションとして真っ先に噛むため生傷が絶えない。首根っこを掴んで「こら」と睨みながら額の宝石をコツコツ叩くのが噛みグセの躾と紹介されていたが、ホーイチは小さい耳で右から左どころか、まったく聞かなかった。

 そして事前に情報を入れていたとしてもホーイチに会うまで想像もつかなかっただろう、強い獣臭。元々お尻の辺りに臭腺があるのだが、これはファームから飼い主の元へ来る前に去勢と併せて除去手術が行われる。稀に取り切れず炎症を起こすフェッチもいるがホーイチは正しく処置をされていた。にも関わらず、風呂に入れても翌日には独特の獣臭がする。私の身体にも服にも染み付くレベルだ。


 それらの事実のせいで、実は遺棄がとても多いことも知った。思っていたものと違う、という人間のワガママ。目の前が余計に暗くなる気がした。



 癒しを求めてホーイチと暮らし始めてもすぐに私の病気が良くなる訳ではなかったので、気持ちの浮き沈みや希死念慮から言うことを聞かないホーイチに当たってしまうことが何度もある。それでも、ホーイチは額の宝石と目をキラキラさせながらマイペースに部屋の中を走り回っていた。

 そんなホーイチを見ていると、落ち着いてから自責の念が湧いて仕方なかった。しかし今、どんな私にも平等に接してくれるのはホーイチだけだし、明るい感情を「クックックッ」と向けてくれる存在もホーイチしかいなかった。

 病名は「うつ病」から「双極性障害」に変わった。飲む薬も変わった。睡眠薬は強くなった。だがホーイチと過ごすうちに希死念慮は徐々に顔を出す頻度が減り、手首を切ることも辞めることができた。


「なぁ、ねえちゃん、ホーイチが生きてる間は死ぬのやめるわ。だから長生きしてよ」

 声を掛けるが、ホーイチはこちらのことなど一切見ず、好物のジャーキーを美味しそうにかじっている。

 可愛い。本当に身勝手な理由と許されない環境で迎え入れたが、もうホーイチがいない生活は考えられない。強い獣臭も、自分からホーイチに顔を押し付けて「ケモいケモい」嗅ぐようになった。そんなときは大抵、ホーイチからは短い前足でおでこを押し返され拒否の意を示されるのだが。


 大学は、1年の休学と1年の復学を経て、退学した。大学に固執したのも親への反抗だったのかもしれない。思えば、思春期に友達が話していたような、反抗期というものを私は経験したことがなかった。怒りを買えば父に殴られ、母に家の外に放り出される環境で、幼い頃からずっと両親の顔色を伺って過ごしていた。


 私は病状が落ち着いてから、大学で学んでいた分野とはまったく関係のない専門学校に奨学金を借りて入学し、その方面の国家資格を取ることを目標に据えた。大学でも資格を取るつもりだったが、別の方向に進んで、自分をリセットしたかった。大学には、社会人になってから放送大学に通おうと決心した。

 そしてホーイチのために今度こそ、きちんとペット可のアパートへと引っ越した。元から勝手気ままに部屋を冒険してひとり遊びをするタイプのホーイチは新しい部屋にもすぐ順応し、以前より広くなった部屋を走り回ってフローリングで滑っては「クックックッ」と鳴いている。私は「床に滑り止めをかけないとなぁ」とケージのハンモックを冬仕様から春仕様に変えながら眺めていた。



 ホーイチは活発な青年期を過ぎ、高齢期に入った。好奇心が強いのは相変わらずだが、遊ぶにも本気噛みでなく甘噛みになり、冒険後も寝ている時間が長くなった。しかし額の宝石は変わらずキラキラしている。

 だからケージから出して遊ばせたあとも、ケージに戻さずホーイチのお気に入りである私のベッド下に付けた収納ボックスで寝かせておくことが日課になった。3つ並んだうちの真ん中。元は上着を入れていたが、今やそこはホーイチが選んだホーイチの場所だ。使わないブランケットや私のティーシャツをホーイチ用に入れておく。私が部屋にいる時は、好きに遊んで、好きな場所で寝て欲しかった。


 私はこの頃には精神薬を飲まずとも過ごせるようになり、残った頑固な不眠症と、たまに来る拒食と向き合いながら専門学校に通った。体重は落ちたが、一時期食事はポテトチップスしか受け付けなかったのだから、私にとっては本当に大きな一歩である。たまに体調の関係で月の出席日数がギリギリになる時もあったが。

クラスメイトは、高校から進学してきた年下の子から、第2の人生のために入学を選んだ人生の大先輩まで年代が多様だ。先生たちも体調に配慮してくれる。みな優しく、おかげで学校での苦痛は少なかった。

 スマホのカメラロールはホーイチの写真や動画ばかりになり、ほんのりケモい部屋に「ただイチ」と独自の挨拶で帰宅する。そうすると、ホーイチは寝ていたハンモックから身体を起こしてケージをガシャガシャ鳴らす。おかえりではなく「出せ」という意味で、本来は無視して要望が通らない躾を行うところ、無知な私はうるさいからとホーイチが小さい頃から言うことを聞いてしまっていた。大失敗だが、悪いのはねえちゃんである私だ。

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