放課後のアリス

江乃

放課後のアリス(全文)

───私はよくアリスの夢に落ちる。

 夢で見るその世界はふしぎなものであふれていて、ワクワクが止まらない。お菓子がずらりとならんだステキなお茶会に、空高く伸びる色とりどりの草花。コバルトブルーの青空には星が一面にひろがっている。

 それはまるで万華鏡の中にいるような世界。

「キミがありさだね?」

 声がした方をふりむくとそこにはウサギの耳が生えた白髪の男の子に、ピンクとすみれ色のしま模様のトレーナーを着た猫耳の男の子、そして頬にハートマークがペイントがされた赤髪の男の子が立っていた。

「ようこそ、×××人目のアリス」

 白髪の少年がゆっくりとこちらに向かって手を伸ばす。まばゆい光で三人の顔はぼんやりとしか見えない。けれど、どこかで聞いたことがあるやさしい声……

「だ……れ?」

 応えるように指をそっと伸ばす。しかし、私の意識はそこでゆっくりと遠のいていった。

 体が海の底にしずむ、そんな感覚とともに。


 

 からっとした九月の空に、チュンチュンと元気に鳴くすずめの声が吸いこまれた。朝を知らせるその鳴き声を、ありさは半分目覚めた意識で聞いていた。カーテンのすきまからわずかに入りこむ朝の光に目の奥がしみる。

「んぅ……」

「ありさー! 起きてるのー!? ごはん冷めちゃうわよー!」

「んん。いま、何時……」

 母の声で目覚めたありさは、自分が勉強机でうたた寝したまま朝をむかえていたことを知る。手さぐりで机の端に置いてあったメガネを手に取り、次第にクリアになる視界で時計を確認すると、時刻は七時半を指していた。寝ぼけていた頭が一気に目覚める。

「うわあっ! もうこんな時間! あいったたたた……」

 ありさはぺしゃんこになったおしりを押さえながらよろよろとイスから立ち上がる。机の上には一冊のノートがひらいたままになっていた。

「はぁ~、また書きながら寝ちゃったよ……」

 ありさは何度も書きなおした跡のあるページを指でなぞり、ノートをそっと閉じた。表紙には『小説・わたしの国のアリス』と書いてある。

「ありさー! まだ寝てるのー!?」

「はいはい! 起きてます起きてます!」

 いらだちはじめる母の声に、ありさはあわてて机の上に散らかっていた教科書類をランドセルにつめこんだ。それから適当に服を取り出し、両手いっぱいに抱えながら階段をバタバタとかけ下りる。

「みんなおはよう!」

「おはようありさ。尚登なおとより後に起きるなんてめずらしいな」

 起き抜けのありさを見て父が笑う。リビングではすでに身なりをととのえた家族がならんで朝食を食べていた。ありさはソファの上にランドセルと服を投げるように置くと、手ぐしで髪の毛をととのえながらダイニングチェアに腰かける。

「昨日ちょっと夜ふかししちゃってさ」

「もう、また? 授業中寝ないでよ~ さ、早く朝ごはん食べちゃいなさい」

 母はそう言うとありさの目の前にいちごジャムがたっぷり乗ったトーストとトマトとアボガドのサラダ、甘いゆげが立つホットミルクを置いた。ありさは両手でマグカップを持ち、熱々のミルクにふうっと息を吹きかける。

「それにしても姉ちゃんがこんなギリギリまで寝てるなんてはじめてじゃね? いつもならもう家出る時間じゃん」

「ありさにもそんな日はあるさ。たのしい夢でも見てたんじゃないか?」

「たのしい夢ねぇ」

 弟の尚登がありさの寝ぐせを見上げながら鼻でフッとわらった。父はコーヒーを一口すすると、「な?」とありさの方に目をやる。

 昨晩の夢を断片的におもいだしたありさはトーストを食べる手をぴたっと止め、らんらんと目をかがやかせながら口をひらいた。

「うん! あのね、昨日もふしぎの国に行く夢を見たの。お城にあるようなでっかい鏡にふれたら、ヌル~って手が吸い込まれてそのまま……」

 ここまで話したところで、夢の終わりに現れたれた三人の男の子が頭をよぎった。顔だけもやがかかったような、なんだかスッキリしない登場だった。

 ありさは考えこみながらじっとマグカップの中でゆらめくホットミルクを見つめる。すると、父が心配そうにありさの顔をのぞきこんだ。

「どうした? ぼーっとして」

「いっ、いや! なんでもない」

 ありさは大きな口でトーストをかじると、飲みやすい温度になったホットミルクを一口飲んだ。お父さんの前で、男の子が三人も夢の中にあらわれただなんて話をしたら一体どんな顔をするだろう。

 ありさの気など知らない父はいつものようにそうかそうかとのん気に相づちを打つ。その横で、尚登はあきれたような顔を浮かべていた。

「小六になっても相変わらずだな、姉ちゃんは」

 尚登は小さな口でトーストをシャクシャクとかじった。普段から少食な尚登は朝ごはんを食べるのにいつも時間がかかる。登校もいつも時間ギリギリだ。

「どうせ頭の中お花畑っておもってんでしょ」

「あたり」

「ほんと生意気なやつ! ごちそうさま!」

 尚登より先に朝食を済ませたありさは、ブルーの薄手のトップスに手を通した。ワンポイントの白いリボンがお気に入りの一着だ。それからラベンダー色のランドセルを背負うと、あわただしく玄関に向かう。時刻は七時五十分。早足で向かえば、八時には学校に着くだろう。こういうとき、家から学校まで近くて良かったとしみじみおもう。

「ありさ、気をつけてね」

 スリッパをパタパタと鳴らしながらいつものように玄関まで見送りに来てくれる母に、ありさはにこりとわらいかけた。

「うん! ありがとう! いってきまーす!」

 今日も何気ない一日がはじまる。

 この時まではそうおもっていた。



 城東じょうとう小学校六年生、加賀美かがみありさ。

 成績は中の上、運動神経は下の下の下。趣味は空想・妄想。そして、ファンタジー小説を書くこと。ありさはトレードマークである丸メガネをくいっと指で押し上げると、いつものように昇降口で靴をうわばきにはきかえて教室へと向かう。

 教室につづく廊下はたくさんの生徒であふれかえっていた。サッカーボールを片手に校庭へ向かう男子、行き先をふさぐように雑談する女子……どれも見なれた朝の風景だ。

 だけどこの学校にはひときわ目立つ三人の男の子がいる。

(あ……)

 ありさの足がぴたりと止まる。廊下で手をたたきながらゲラゲラとわらっていた女子たちはその三人の姿を見るやいなや、背すじをピンとうつくしく正した。二クラス先までひびきわたるほど声高々にさわぐ女子たちを、彼らは一瞬でつつましい女の子に早変わりさせたのだ。

 数メートル先から歩いてきたその姿に、ありさは目をうばわれた。

 目の前にいたのは城東小学校きってのイケメン三人衆……宇佐うさ真白ましろ猫田ねこた伸也しんや愛上あいがみこころの三人だった。

 ただの廊下でも彼らが歩けばたちまちそこはレッドカーペットに変わる。全校生徒から一目置かれるほど有名な三人は、同じクラスなのにどこか遠く感じる人たちだった。

(いつ見ても絵になる三人だなあ)

 そんなことを思いながらありさは三人の横をだまって通り過ぎ、笑い声がもれる六年二組の教室のとびらを開いた。

「おはよう」

「あ、ありさ! おはよー!」

「もう~! ありさおそいよお~!」

 声がする方に視線をやると妃芽ひめ沙里花さりか莉歩りほの三人がありさの席を囲うようにすわっていた。今日も完ぺきな身なりの友人たちを見て、ありさははねる毛先を片手で押さえながら「おそくなっちゃった」と笑った。

 だれもがうらやむようなかわいらしい容姿で男子から人気のある妃芽、ポニーテールがトレードマークのムードメーカー沙里花、すっきりしたショートカットが大人っぽいクラスのリーダー的存在の莉歩。いつものメンバーの三人はキラキラしていておしゃれで、地味な自分がなぜこの中に入れてもらえるのかふしぎなくらいだった。

「ありさがギリギリ登校なんてめずらしいね」

「へへ。ちょっと色々あって」

「もしかしてぇ、またふしぎな夢でも見てたの?」

 妃芽はほおづえをつきながらありさを上目づかいで見つめた。ふしぎ、というワードにありさの顔はぱっと明るくなる。

「そっ、そうなの! 実は昨日もふしぎの国に落ちる夢を見て……」

 ありさは意気揚々と夢のつづきを語ろうとするが、口を両手でおおった三人はこらえきれなくなったように、ぷぷっと小さく息を吹きだした。

「ふふ…… あはははは! でたー! ありさ節!」

「もう~ ありさは相変わらずふしぎちゃんなんだから~」

「うちらじゃなかったらシラけてたよ?」

 おなかを抱えてわらう三人にありさはハッと我にかえった。すっかり忘れていた。これはお決まりの流れだということに。

「あ、あはは。だよね……」

 ありさは真っ赤になった顔をかくすようにうつむき、下がったメガネを指で上げた。

 ありさの空想話はこのグループを盛り上げる「ネタ」でしかないのだ。そう、自分はネタ要員。そういえば一度も最後まで話を聞いてもらったことがないな、そう思いながらありさはずしっと重たいランドセルを机の横にかける。

 すると、沙里花のうしろからひょこっとだれかが顔をのぞかせた。ふわふわの茶色い毛が窓から吹いた風でさらりとなびく。

「なになにい? なんの話してんの~?」

「わっ! ネコちゃん! びっくりしたぁ~」

 沙里花はほのかに顔を赤らめながら後れ毛を耳にかけた。顔を出したのはイケメン三人衆の一人、猫田伸也だった。すこしつり上がった目にネコのようにやわらかい茶色の髪の毛が特徴の彼は「猫田」という名字からネコちゃんというニックネームで呼ばれている。気まぐれで少しイジワルなところはあるが、ムードメーカーでクラスの愛されキャラだ。

 沙里花はポニーテールをゆらしながら伸也をグループに強引に引きずりこむと、楽しそうに声をはずませた。

「ねぇねぇネコちゃん! 聞いて聞いて! またありさがね~……」

 面白がって話をしようとする沙里花を、ありさはあわてて制止する。

「や、やめてやめて! 恥ずかしいから!」

「えー、いいじゃん減るもんじゃないんだし」

 沙里花は頬をふくらませながらくちびるをとがらせる。すると、沙里花の後ろにすらっとした長い影があらわれた。

「僕はおもしろくて好きだけどな、ありさワールド」

 大人びた声が頭上から聞こえ、おもわず全員が顔を上げた。そこに立っていたのはイケメン三人衆を率いるリーダー的存在、宇佐真白だった。

 文武両道で眉目秀麗。高身長でスタイルもよく、その甘いマスクから同級生だけでなく上級生や下級生にもファンが多い真白は、まさしく女子のあこがれの的だった。

「真白くん!」

 妃芽がいつもより高い声で真白の名前を呼ぶ。その目にはハートマークが浮かんでいるようにも見えた。ありさと目が合った真白は、感じの良い笑顔でやさしくほほえんだ。そのやわらかい仕草に、ありさの胸はむずがゆくなる。

「ありさワールドが好きならぁ~ 妃芽もふしぎちゃんになろうかなっ」

 真白に明らかな好意をよせている妃芽は積極的に腕をからめた。そのとたん、クラスの男子が落ち着かない様子でこちらをちらちらと横目で見る。クラスでも目立つ存在の妃芽にこんなことをされたら、普通の男子ならイチコロにちがいない。

 妃芽はきれいにカールされたじまんの長いまつげをアピールするように何度も上目づかいでまばたきをしてみせるが、真白は顔色ひとつ変えずにほほえむだけだった。

 沙里花と莉歩は「妃芽ってば大胆~」とキャーキャーはしゃいでいたが、ありさの耳にはなにも入ってこなかった。

(なんか居心地、わるいな)

 輪の中にいるのに自分だけが取りのこされているような感覚。ちくちくと痛む胸を押さえながら、ただただこの時間が過ぎるのを待った。

「くだらねー。席もどろうぜ」

 あくびをしながら気だるげに歩いてきたその姿を見て、ありさの右隣にすわっていた莉歩が急にしおらしく肩をちぢこまらせた。普段は男勝りでサバサバしている性格の莉歩だが、その赤面した顔を見てありさは莉歩の気持ちをなんとなく察する。

 するどい目つきでありさたちを見下ろすのはクールでミステリアスな美少年、愛上心だった。背が高い他の二人と比べると小柄ではあるが、その中性的な美しい顔立ちは本校だけでなく他校からもうわさされるほどだった。しかしクールな心は女子たちの黄色い声にも全く興味を示さない。同じクラスになるのは二年連続だが、ありさは心が笑った顔をまだ一度も見たことがない。

「ほいほい。じゃあオレたち席もどるわ!」

 伸也はにかっと無邪気な笑顔を浮かべると、真白と心の肩を組みながら自分たちの席にもどっていった。妃芽、沙里花、莉歩の三人は、恋する乙女のようにうっとりしながらその後ろ姿を見つめる。

「はぁ~、やっぱりカッコいいね。あの三人」

「うん。空気感がマジでやばい」

「ねぇねぇみんな誰派?」

 三人はおしくらまんじゅうをするようにありさの席にぎゅうぎゅうに集まると、ヒソヒソと小声で話しはじめた。この話題何度目だろう。ありさはそう思いながら、顔に笑顔を貼りつける。

「妃芽はやっぱり真白くん! 背が高くて~、超やさしくて~、まさに白馬の王子さまって感じっ! 沙里花は?」

「うーん、あたしはネコちゃんかなあ。イジワルだけど面白いし気も合うし。莉歩は?」

「三人の中なら……私は心くんかな。クールでちょっと不愛想だけど、あの二人の前だけで見せる顔がかわいいっていうか」

 それぞれの想いを告白したところで、三人の目が一斉にありさに向く。

「で、ありさは?」

「へえっ!? 私!? わ、私は……」

 口ごもっていると、タイミングよく始業のチャイムが鳴った。妃芽が「じゃあまた放課後ゆっくり話そ」と言うと、三人は各々の席にもどっていく。ありさはホッと胸をなでおろした。

 たしかにあの三人はキラキラしていてカッコいい。でも、自分のような地味な女が三人の目にとまるなんて夢のまた夢だ。三人に対しての理想を語るのもおこがましい。

 美少女の妃芽なら真白と付き合っても絵になるだろうし、沙里花も伸也とお似合いだ。莉歩と心は意外な組み合わせだが、それはそれで味があっていいカップルになりそう。

 ありさは筆箱の中から小さな手鏡を取り出すと、自分の顔をじっと見つめた。度が強いレンズのせいでちいさく見える目、低い鼻、うすい唇……こんな顔で妃芽たちと同じ土俵に立てるわけがない。

 ありさはため息をついて鏡を指でなぞった。考えるのは、昨晩見た夢の内容。

(鏡の向こうがふしぎの国につながってたらいいのに)

 そんなことを考えながら爪でカツカツと鏡面を叩いてみる。反応はない。

 なんてね、と小さく笑うと鏡を筆箱の中にしまった。

 

 一時間目の授業がはじまり、学校で一番人気のおじいちゃん先生が教卓に立った。先生は自分の手元にある数冊の教科書をじっと見つめると、さっそくあちゃあと頭をかかえた。

「先生、今日使う資料集を取りに行くのわすれちゃいました」

 マイペースな先生の発言に、クラスはどっと笑いにつつまれた。ありさもみんなにつられてクスクスと笑う。

「じゃあ~、先生の目に入った加賀美さんと宇佐くん。三階の準備室まで取りに行ってきてもらってもいいかな? 先生三階まで上がるのつかれちゃうから」

 とつぜんの名指しに、ありさは声が裏返りそうになる。

「へっ。はっ、はい!」

「分かりました」

 真白と同時に席を立つと、隣の席の妃芽がキレイに手入れされたロングヘアを指でくるくるといじりながら、うらやましそうに口をとがらせた。

「えぇ~、いいないいなっ。真白くんとふたりなら妃芽がよかったあ」

「さ、行こうかありさちゃん」

 真白はにこりとほほえむと、ありさより先に教室から出た。ありさは妃芽に「ただ資料集取りに行くだけだよ」と笑い、真白の後を追うように教室を出る。



 いつもは大勢の生徒の声でにぎわっている廊下に、今はありさと真白の足音がだけがひびいている。隣には学校一のイケメンとうたわれる宇佐真白。ありさの心臓は先ほどからそわそわと落ち着かない。

「授業中に教室から抜け出すのって、なんか悪いことしてる気分にならない?」

 横にならぶ真白がとつぜん口をひらいた。いつもなら大人びて見える横顔だが、今日はめずらしく無邪気な笑顔をのぞかせていた。

「ふふふ、そうだね」

 真白の意外な一面に、ほころぶ口元をおさえる。

「あ、今子どもっぽいっておもったでしょ」

「へあ! そ、そんなこと! ないようなあるような……」

「はは。ウソが下手。でもさ」

「ん?」

「かけおちみたいじゃない?」

 その一言にありさの足がぴたりと止まる。

(かっ、かけおち? かけおちって……愛し合ってる男女がいっしょに逃げることだよね?)

「ありさちゃん?」

「い、いや! なんでもない!」

 どうやら真白の発言に意識していたのは自分だけのようだった。恥ずかしさでかーっと熱を帯びる顔を両手でおさえながら、ありさは下を向いた。

(これが無自覚なら、天然にもほどがあるでしょ)

 きゅうっとしめつけられる胸のときめきをさとられないように、なんとか平然をよそおいながら歩を進める。

 

 三階の資料室に着くと、さっそく先生にたのまれた資料をふた手に分かれてさがしはじめた。

 資料室には昔の資料がたくさんならんでいる。教科ごとにならんでいるとは言え、なかなかの数だ。独特なほこりっぽいにおいが苦手なありさは鼻の奥のむずむずをこらえながら資料を端の棚からさがしていく。

「えっと、たしか前年度の歴史の資料集だったよね。奥の棚だったかな」

「そうだね。手前の方には無さそう。あ、奥の棚は結構資料が高く積み上げられてるから気をつけてね」

「うん。あっ、もしかしてこれかな……っぶくしゅっ!」

 資料を手にとった途端、ほこりが舞いあがり、おもわずくしゃみをしてしまう。やだ鼻水出てないかな、などと考えていると大きく目を見ひらいた真白がありさの方に駆けよった。

「ありさちゃんあぶない!」

「きゃっ!」

 おおいかぶさるように抱きしめられ、なにがなんだか分からないでいると真白の頭上からバサバサバサと派手な音を立てて資料が落下した。

「真白くん!」

「……ったた、ありさちゃんケガない?」

「うん、私は大丈……」

 顔を上げると、真白のキレイな顔がすぐそこにあった。事故とはいえ心臓が口から飛び出そうになる。おもわず視線を落とすと、真白の白くてほそい指から赤い血がたらりとながれているのに気付いた。血はぽたぽたと床に赤いシミをつくっている。

「真白くん! 指が!」

「ああ、さっきあわてて走った時に棚で切っちゃったのかな。キズは浅いし、これくらい大丈夫だよ」

 真白はひらひらと手を振ってみせる。

「ダメ。ちょっと待って」

 そう言ってありさはポケットの中からタオルハンカチとばんそうこうを取り出すと真白の指にハンカチを当て、止血してからばんそうこうを指に巻いた。

「さすが女の子、手際がいいね」

「そういえば昔、弟によくケガの手当てしてたかも。やんちゃですぐケガする子だったから」

「ふうん。ありさちゃんはやさしいんだね」

 真白は「手当てありがとう」とほほ笑むと、指に巻かれたばんそうこうをふしぎそうに見つめた。

「かわいいばんそうこうだね。このイラストは……ふしぎの国のアリス?」

「うん。こないだ駅前の美術館であったふしぎの国のアリス展で買ったんだ。ごめんね、ちょっと男の子にはかわいすぎるかもしれないけど」

「そんなことないよ。大事なばんそうこうなのに、僕なんかに使ってくれてありがとう」

 真白のやさしい物言いに、頭の中がふわふわする。だれにでも分けへだてなく接するこのやわらかさが人気の理由なのだろう。

 ありさはハッとわれにかえり、そでで鼻をごしごしとぬぐうと、手元に落ちている資料集を手に取り立ち上がった。

「資料集も見つかったことだしそろそろ教室にもどろっか! 散らかった資料は授業が終わったあと私が片付けに来るよ」

「ありさちゃんはいいよ。ほこりっぽいにおい苦手でしょ? 僕がやっとくから」

 真白の驚異的な観察力にありさは目をぱちくりさせた。これは妃芽がとりこになるのも分かるなあ、と感心する。

「それより早く教室にもどろっか。あんまりおそいと資料室でなにかしてると思われちゃうしね」

「なぁっ……!?」

「ははは、冗談冗談。ありさちゃんの反応がおもしろくてつい」

「もう! 早く教室にもどろ!」

 顔を真っ赤にして先に資料室を出るありさに、真白は余裕たっぷりの笑顔を浮かべる。そしてばんそうこうが巻かれた人差し指をじっと見つめると、そこにくちびるを落とした。


「見つけた。ボクたちのアリス……」


 

あっという間に放課後になり、今日もからっぽになった教室で居残り勉強という名目の恋バナ大会をいつものメンバーでくりひろげていた。

「でねっ! 今日掃除時間に真白くんがさ~」

 妃芽の真白くん話は耳にタコができるくらい聞いたが、みんなはいつものように相づちを打ちながら興味があるフリをしてみせた。ありさもうんうんとうなずきながら、片手間で算数の宿題を必死に進める。放課後に宿題を終わらせておけば、家での時間は小説の執筆に時間をついやせるからだ。

(今日は寝落ちしないようにしないと)

 妃芽ののろけ話を聞きながら、ありさは昨晩見た夢の内容をくりかえし頭の中で再生した。きっと良い小説のネタになることだろう。

 妃芽の真白くん話がひと段落ついたところで莉歩が机の中をガサガサとあさり、あちゃ~と頭をかかえた。

「ルーズリーフ忘れちゃった。だれか持ってたりしない?」

 いつもランドセルの中に入れていることを思い出したありさは莉歩に声をかけた。

「私のランドセルの中にあると思うから勝手に取っていいよ」

「ありがとありさ! じゃあお言葉に甘えて……って、なにこれ?」

 全員が莉歩の方を向く。

 莉歩はありさのランドセルの中から、見おぼえのあるノートを手にしていた。その瞬間、ありさの顔から血の気がさあっと引く。

「あっ、それは……!」

 それはありさが毎晩ノートにしたためている『わたしの国のアリス』という小説だった。今朝、あわててランドセルに教科書を入れたときにまちがえて一緒に持ってきてしまったらしい。

「わたしの国のアリス……? もしかして、これありさが書いたの?」

「か、返して!」

「えーっと、なになに~…… 『私はよくアリスの夢に落ちる』だってさ~!」

「なにそれー! 妃芽も見たーい!」

 莉歩がありさの小説の一節を読み上げると、見せて見せてとノートが目の前を行き交った。ありさはどうすればいいのか分からず、その場に立ちつくす。頭の中は真っ白だった。

(恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい)

 穴があれば入りたいくらいだった。きっと今、自分の顔はひどくゆがんでいることだろう。ありさはうすい唇をぎゅっとむすび、強くにぎったこぶしをふるわせた。耳をふさぎたくなるような笑い声はまた一段と大きくなっていく。

「ちょっと私にも見せてー!」

「あはははは」

(どうして、どうしてここまでバカにされないといけないの……?)

 ふつふつとわきあがる悲しみと怒りをおさえるように、ありさはぐっと奥歯をかみしめた。黒いなにかでおおわれた言葉は、今にものどから飛び出してしまいそうだった。

「……めて……」

「ん? なんか言った?」

「やめてって言ってんじゃん!」

 ありさは莉歩の手からノートを強引にうばい取ると、そのまま教室を飛び出した。

「ちょっと! ありさ!?」

 うしろから自分を呼ぶ声が聞こえる。それでもありさはふりかえらずに走った。


 階段をかけ下り、うわばきのまま渡り廊下を走る。ありさたちの教室がある西棟から東棟に行く際にはうわばきから靴にはきかえなくてはならないが、ありさはそんなことなどおかまいなしに夢中で走った。

 ノートをにぎりしめる手がだんだんと汗ばんでいく。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 東棟につながる重たいガラス戸をひらくと、ゆらりと冷たい空気がありさの体をすり抜けた。技術室と家庭科室がある東棟には、片手で数えるほどしか来たことがない。

 音もなくしずかな空間がありさをつつむ。ありさは息を切らしながら、ガクガクとふるえるひざを押さえた。心臓が痛いのは走ったからなのか、小説をバカにされたからなのか分からない。でもただただ穴の空いた心が苦しくて、ありさの目からはぽたぽたと涙があふれた。

「ひっ……ぐ……」

 その場にすわりこむ。ひんやりとした無機質な温度が全身に伝わる。ありさは足元に落ちたノートを手に取ると、それを両手でおもいきり引っぱった。

「こんなもの!」

 目いっぱい力をこめるが、それをやぶる勇気などありさにはなかった。毎日こつこつと書きとめたノートをやぶくことは、自分で自分を否定しまうことになるからだ。

 ありさはノートをふり上げ、いきおいよく床にたたきつける。くやしい気持ちとともに涙をぼろぼろと落としながら何度も何度もノートをたたきつけた。

「うっ……ぐ……ううう」

 メガネを外し、止まらない涙をそででぬぐう。どんな顔をして教室にもどろう、そう思った時だった。

「……ん?」

 ぼやけた視界で見上げた先に、見たことがない金枠の鏡があった。広いおどり場に取りつけられたその鏡はまるでありさを引き寄せるように存在を大きく示している。

「あんな鏡あったっけ?」

 ありさはメガネをかけなおすと、一段一段ゆっくりと階段を上がって行った。近づけば近づくほどその鏡は神々しく光を放っているように見える。ドキドキする胸を押さえながら、自分よりもはるかに大きいその鏡の下に立った。

「う、わぁ……!」

 美術品のような迫力にありさは思わず声をあげる。それはまるでおとぎ話に出てくる魔法の鏡ようだった。

「ん?」

 ありさは鏡をじっと見つめる。そのとたん、脳裏にある光景が浮かんだ。

 そう、それは何度も夢の中で見たあの景色……

「うそ、だよね」

 ありさは信じられないといったように口をひらきながら、大きく目をしばたたかせた。

「もしかしてこの鏡…… ふしぎの国につながる魔法の鏡なんじゃ」

 ごくりとつばを飲みこみ、右手をおそるおそる鏡に伸ばす。なにも起きるわけがないと頭では分かっているものの、心臓がドキンドキンとうるさく音を立てた。

 透きとおるほどキレイな鏡面にゆっくりと触れる。冷たくて気持ちがいい、ひんやりとした感触が手のひらに伝わる。ありさは鏡の中にうつった自分のまぬけ顔を見てちいさく笑った。前髪は汗で額にはりつき、こすった目は赤く充血していた。

「……ばかみたい」

 自分のような女がおとぎ話の主人公になんてなれやしないのに。我に返ったありさはうつむき、鏡に背を向けた。

 その時だった。


『アリス』


「え?」

 背後から聞こえた声。そしてその声に引き寄せられるように腕を強くつかまれ、ありさは体ごと振りかえった。

「なっ……!」

 目の前の信じられない光景に、ありさは目を大きく見ひらいた。ぐにゃぐにゃにゆがんだ鏡面がありさの腕を強く引っぱっていたのだ。 

「やだっ! なに!?」

 鏡面はありさをおびやかすようにさらにゆがみ、腕だけでなく体全体を引きずりこもうとしている。ありさはあわてて腕を引きぬこうと、必死に上体を反らした。

「うっ! この!」

 しかしつかまれた腕はびくともしない。ありさの額からはまたもや大つぶの汗が吹き出した。

「たっ、助けて! だれか! だれかー!」

 けん命に声をあげるが、東棟には生徒はおろか、先生もいない。ありさの叫び声は校舎の中でむなしくひびくだけだった。

「だめ……いや、いや……」

 伸ばした手には空気だけが通り抜けていく。必死に力をこめた体は、またたく間に鏡の中に吸いこまれていった。

「いやあああああああああ!」

 真っ逆さまに落ちていく体。

 一瞬の出来事に、ありさはかたく目をつぶることしかできなかった。

 この先がどこにつながっているのかも分からない。体はこわばり、こわくて目も開けられない。

「きゃあああああああああ!」

ボスン

 ありさはにぎったこぶしに力をこめた。どこかに落ちたはずなのに、ふしぎと体に痛みは感じない。おそるおそる目をひらくと、ありさは誰かに抱きかかえられていることに気づく。

「やあやあ危なかったね。大丈夫?」

 どこかで聞いたことのあるやさしい声が頭上から聞こえた。ありさは教室での出来事をふと思い出す。そういえば今朝もこんなことがあったような……

 顔を上げると、そこにはやわらかくほほえむ宇佐真白の姿があった。ありさはぼんやりする頭で考える。これは夢? はたまたタイムリープ? それともドッキリ?

「真白……くん?」

「マシロ? それはだれのことかな? ボクの名前は白ウサギだよ」

 真白に似た男の子はそう名乗った。

 よく見るとその男の子の瞳は赤く、髪は透きとおるほどに白い。顔立ちは真白そのものだが、日本人離れした容姿をしていた。なにより頭の上に生えているウサギの耳が作りものには見えないほどリアルで、ありさはおもわずまじまじとそれを見つめた。

「そんなに見られると恥ずかしいなあ」

 白ウサギはそう言いながらふわふわの芝生の上にありさをゆっくりと下ろし、胸に手を当て深々と頭を下げた。

「ふしぎの国へようこそ、アリス」

 アリスと呼ばれ、ありさはまわりをぐるっと見わたす。ふしぎの国……とは思えないほど草がおいしげった森の中には、ありさと目の前の白ウサギの二人しかいなかった。ありさは自分の方を指さしながら首をかしげる。

「アリス?」

「そう」

「私はありさ。城東小学校六年、加賀見ありさです」

 白ウサギは返事の代わりににっこりと笑うと、頭から爪先までなぞるようにありさを指差した。ありさは自分の格好を見て、わっと小さく声をもらす。さっきまで着ていた服はいつのまにかクラシカルな水色のワンピースに白エプロンとまさに「アリス」の服装に早変わりしていたのだ。

「へぇ!? な、なにこれ。 夢? 夢なの?」

 ありさは信じられないといったように自分の頬をぺたぺたとさわったり、つねったりしてみる。

「いたい!……ってことは夢じゃない?」

「うん、夢じゃないよ。この世界がキミを呼んだんだ」

 白ウサギはそう言って笑うと、ひりひりと赤くなったありさの頬をゆっくりとなでる。伝わる手のぬくもりが夢ではないことを示していた。

「メガネ姿のアリスもかわいくて新鮮だね」

「かっ……かわ……!」

 言われ慣れないほめ言葉にありさは金魚のように口をパクパクさせ、顔を赤らめた。女の子が喜びそうなセリフを平気で言えるところも真白にそっくりだった。

「キミは記念すべき百人目のアリスだよ、おめでとう」

「百人目のアリス?」

 わけもわからず立ちつくすありさの手を引き、白ウサギはある方向へとどんどん進んでいく。

「ど、どこに行くの?」

「おいで、祝宴だ」

「祝宴って……え、えぇっ?」

 白ウサギに手を引かれながら門をくぐると、シンプルだった世界がどんどんカラフルに色づいていく。

 それはまるで魔法のようだった。

 リズムに合わせてゆれるパステルカラーの花にダイヤモンドのようにきらめく湖。ぷかぷかと浮かぶベビーピンクの雲の上には、小人が気持ちよさそうに昼寝をしている。目まぐるしく変わる風景に、ありさはまばたきさえもわすれていた。

「なにこれ! す、すごい!」

「さあ、ついたよアリス」

 白ウサギはまだありさの手をにぎっていた。手をはなすタイミングをうしなってしまったありさは、白ウサギにしっかりとにぎられた自分の手を見て、また頬をピンク色にそめた。

~♪♪♪

「……楽しそうな音楽」

 白ウサギの背中からひょこっと顔をのぞかせると、そこでは盛大なお茶会が開かれていた。たくさんの小人が音楽に合わせておどり、野ウサギや小鳥がいろんな楽器をかなでている。

 白と赤を基調としたトランプ調の長テーブルには優雅な香りをただよわせる紅茶に、色とりどりのマカロン、それから宝石のようなケーキがところせましにならんでいた。

 ありさは目の前の夢みたいな光景に目をかがやかせる。

「すごい! すごいすごい!」

「ふふ。お気に召したようでなにより。さあ、どうぞ」

 白ウサギはありさの手をまたぎゅっとにぎりなおすと、きらびやかなお茶会へと案内した。お姫さまのような扱いに、ありさの胸はきゅうっと甘くしめつけられた。

 白ウサギのエスコートでイスに腰をかけると、目の前に置かれたティーカップからフルーティーな香りがふわりと舞った。ありさは高そうなティーカップを慎重に両手で持ちあげ、香り立つ紅茶をひと口だけ飲んだ。

「おいしい……」

 さわやかな味が口の中に広がり、あたたかい吐息が口からもれる。

「アールグレイの紅茶だよ。このベルガモットの香りには精神を安定させるはたらきがあるんだ」

 ありさは白ウサギの澄んだ声を聞きながら、もう一口紅茶を飲む。耳をすませてみても、自分をバカにする笑い声は聞こえてこない。ありさはうっとりしながら、ゆらめく紅茶にうつる自分の姿を見つめた。

「すてきな世界」

「そうだろう。ここはキミが望む世界だからね」

「私ふしぎの国のアリスが大好きで、こんな世界をずっと夢見てたんだ。本だってカバーちがいの本を何冊も持ってるくらい。いつか私もそんな風にわくわくする世界をみんなに伝えるのが夢で……」

 ここまで言ったところで、ありさはハッと口をつぐんだ。自分の空想を一人語りする悪いくせがまた出てしまった。おそるおそる白ウサギの方を見ると、意外にも白ウサギは前のめりでありさの話に耳をかたむけていた。

「へぇ。その話もっとくわしく聞きたいな」

「い、いや。でも、その」

 目を泳がせるありさに、白ウサギは首をかしげてかわいらしく笑った。

「もしかして、キミの夢は小説家なの?」

 見事に言い当てられたありさは、消え入りそうなほどの小さな声で「うん」とつぶやく。すると、白ウサギは目をパッとかがやかせた。

「すごい夢じゃないか! キミの思い描く世界の話、ぜひボクに聞かせてくれないかな?」

 その言葉、そして瞳の奥にウソやいつわりの色は含んでいなかった。白ウサギの真剣なまなざしにありさの心が小さくゆれる。

 思えば自分はいつもだれかにバカにされていた。みんなとちがうことを考えれば「変わっている子」と指をさされて笑われる。

 こんな風に、ただ耳をかたむけて欲しかっただけなのに。

「どうしたの? アリス」

 白ウサギは眉を下げ、ちいさく笑う。ありさの心の痛みに気づいているような、そんな笑顔だった。

「聞いて、くれるの?」

「もちろん。ボクが頼んだんだから」

 ありさは照れくさそうにほほえむと、自分が思い描く空想の世界を白ウサギに話しはじめた。

 自分はよく夢でふしぎの国に落ち、そこでたくさんの冒険をすること。目が覚めたらそれをノートにつづり、作品として作り上げていること。どんなに突拍子もないことを言っても、白ウサギはすべて楽しそうに聞いてくれた。

(まさか夢が正夢になるなんて……)

 楽しいお茶会に、夢を語れる人……今、ありさの胸は幸福で満たされていた。



「……わ、ついつい話しすぎちゃった! ごめんなさい!」

「そんなことないよ。さすが未来の作家さんだ。まだまだ聞いていたい」

 未来の作家、という言葉に顔を赤らめるありさ。ひと通り話して満足したところで、ありさは気になっていたことを白ウサギに聞いてみることにした。

「そういえば、白ウサギさんはこの世界でどんなことをしているの?」

 すると白ウサギはその質問を待っていたかのように、にいっと口角を上げた。その瞬間木々がざわざわと揺れ、イヤな音を立てはじめる。

「ボクはここでのアリスを見つけてるんだ」

「永遠のアリス?」

「そう。この国で生き、そしてこの国で命果てるまでさまよいつづけるアリスのことさ」

 マカロンに手を伸ばすありさの動きがぴたりと止まった。周りを見わたすとさわがしかった音楽はいつのまにか止み、その場にはありさと白ウサギ以外だれもいなくなっていた。

 突風のような強い風がごうっとありさの髪を不気味に揺らす。

「……え? 今、なんて……」

 白ウサギは目をゆっくりほそめながら、ありさの髪をさらりとなでた。先ほどまでのやわらかな雰囲気がうそのようだ。

「キミの話を聞いて確信したよ。ふしぎの国を夢見るキミにはアリスの素質が十分にありそうだ」

 そう言うと、白ウサギはずいとありさの方に体を寄せた。至近距離で見つめられ、ありさは思わず顔をふせる。心臓は緊張でドキドキと派手な音を立てていた。

「なに……ど、 どういうこと……?」

「この国にはいるはずのアリスが存在しない。だからボクたちはずっと本物のアリスを待っているんだ。何十年、いや、何百年もね。だからキミがアリスになってこの欠けた世界を救ってくれればふしぎの国はようやく完成する」

「意味が、分からないんだけど」

 白ウサギは言葉を失うありさをじっと見つめると、きれいな白い指でありさの頬にふれた。ありさの肩がビクッと大きくはねる。

「ここではだれもキミを否定しない。キミが生きづらいと思う世界なんて捨てて、この世界でずっとボクたちと生きていけばいい。……そう、死ぬまでね」

 その瞬間、ありさの背中に悪寒が走る。耳元で低くささやく白ウサギをありさは力いっぱい押しのけた。

「いやっ!!!」 

「どうして? ここはキミが夢見たふしぎの国だろう?」

「わ、私には大切な家族や友達がいる。それに……」

「それに?」

「まだ夢だってかなえられてないの。だからこの国でずっとさまようなんて、そんなの……」

 ありさはエプロンをぎゅっとにぎり、自信なさげにうつむいた。

 毎晩ねむたい目をこすりながらノートに向き合う自分を思い出す。これだと筆を走らせ、こうじゃないと書き直す、あの努力の日々をムダになんてしたくなかった。

「そっか。そうだよね」

 白ウサギは残念そうな顔を浮かべると、ジャケットからアンティーク調のカギを取り出し、それをありさの顔の目の前でひらひらと振ってみせた。

「これなんだと思う?」

「なにって、カギ?」

「そう。現実へのカギ」

 「現実」と聞いた瞬間、ありさは反射的に白ウサギの手の中からカギをうばい取ろうとする。しかし白ウサギはありさの行動を見抜いていたように、かるい身のこなしでそれをひょいとかわしてみせた。

「なっ、なんで!」

 すると白ウサギはカギをくちびるに当てながらあやしくほほえんだ。

「アリス、ボクとゲームをしようよ」

「ゲーム?」

「今からこのカギをふしぎの国のどこかに隠す。この国の中央部にそびえ立つ時計台の針が一周するまでにこのカギを見つけ出せたら、キミを現実の世界に帰してあげる」

「ふざけないで! なんでそんなこと……!」

「アリスの任務を放棄するんだ。当然だろ?」

 白ウサギはありさを見下ろしながら冷たく言いはなつ。先ほどまでのやさしい白ウサギはどこにもいなかった。

「そんな……」

「もし見つけられなかったら……」

「見つけ、られなかったら?」

 ありさはごくりとつばを飲みこむ。白ウサギはニヒルな笑顔を浮かべながら、テーブルに置かれたハートのトランプを一枚めくり、それを自身の首に当てた。

「首をはねようか」

「ひっ」

 突き刺すような赤黒い目にありさは恐怖で支配され、体は氷のように固まって動けない。

「本を読んだことがあるキミなら分かるだろう?」

 白ウサギはありさのあごをくいっと持ち上げた。ありさのくちびるは青ざめ、ふるふると小きざみにふるえている。

 ふしぎの国のアリスではハートの女王さまがアリスの首をはねようとする、という描写はたしかにある。

(もし、もし本当に首をはねられてしまったら……)

 最悪の結末を想像し、ありさの体はふるえが止まらなかった。

「ああ、もうこんな時間。そろそろ行かなきゃ」

 白ウサギは懐から金色の懐中時計を取り出すと、いきなり時間を気にする素ぶりをしはじめた。懐中時計の時刻は十二時ぴったりを指している。

「ま、待って!」

「ん? ああ、そうだ。カギが隠されてある場所のヒントをあげなきゃね。ヒントは『キミの弱さ』だよ」

「私の弱さ……?」

「じゃあねアリス」

 白ウサギはそれだけを告げると草むらの中に姿を消してしまった。ひとり取りのこされたありさは、その場に呆然と立ちつくすしかなかった。

「ど、どうしよう」



 ありさはあてもなくとぼとぼと歩いていた。メロディーをかなでる草木も、鳥のように羽ばたくふしぎな本も、今のありさの目にはすべて灰色にしかうつらない。

「現実へのカギ…… そんな簡単に見つかるわけないよね……」

 ため息をつきながら目の前にそびえ立つ大きな木を通り過ぎようとしたその時だった。

「んばあっ!」

「きゃっ!!!」

 とつぜん目の前に顔があらわれ、ありさは悲鳴をあげて飛び上がった。

「引っかかった引っかかったー! やーいやーい!」

 おどろくありさの姿を見ておかしそうにケタケタと笑うのは、ピンクとすみれ色のしま模様のトレーナーを着た男の子だった。頭には猫の耳が生えている。どうやらこの耳も作りものではなさそうだ。

 木の枝に足を引っかけながらぶら下がる姿を見て、ありさはハッと息をのむ。ふわふわの茶色い毛につり上がった目……その顔はまぎれもなくクラスの人気者、猫田伸也だったからだ。

「猫田くん!? なんでここに!?」

「ネコタァ? だれにゃ? ボクはチェシャ猫だにゃあ」

 チェシャ猫はぷくっと頬をふくらませると「覚えてほしいにゃあ」と付け足した。

 これは昨晩の夢の延長線ではないかと、ありさは再度体中をつねる。しかし無情にもにぶい痛みが走るだけたった。

「むむ、その服は…… ああっ! もしかしてキミがうわさのアリスかにゃ?」

 チェシャ猫はピンとまっすぐに生えたひげを親指と人差し指でひっぱりながら言った。

「……」

 チェシャ猫の問いに、ありさは言葉を発することなく顔をふいとそむけた。先ほどから混乱することばかりで、だれを信じればいいのか分からない。

 今ごろ妃芽たちは私をさがしてくれているだろうか……帰りがおそいと家族は心配していないだろうか……そんなことだけが頭の中をぐるぐるとまわっていた。

 そろそろ頭に血がのぼったのか、チェシャ猫は足の力だけで体をぐんと持ち上げると、木の枝にちょこんと座りなおした。その姿はまさしく猫そのものだった。

「アリスゥ? どーしたのかにゃ?」

 ありさの顔をのぞきこもうと、チェシャ猫は首を左右にふった。ありさはエプロンをにぎりしめながら、おずおずとチェシャ猫と視線を合わせる。ビー玉のようなきれいな瞳が、ありさを心配そうに見つめていた。

「……私、百人目のアリスって言われたの……」

「へぇー! それはめでたいにゃあ!」

「なにもめでたくなんてないよ」

 チェシャ猫の言葉にかぶせるように言いはなつ。自分でも分かるくらいトゲのふくんだ声色だった。

 チェシャ猫は木の枝から軽々と飛び降りると、深刻そうな顔をしているありさの顔を下からのぞきこんだ。八の字に下がった眉は、ありさをたしかに心配している。

「もしかして困ってる? 話くらいだったら聞くにゃあ」

 ありさは泣きそうな顔でチェシャ猫の顔を見上げると、まくしたてるようにチェシャ猫につめよった。

「ねえ! 私以外にもアリスがこの国に迷いこんだんでしょ!? 他のアリスは!? どうなっちゃったの!? もしかして、みんな首をはねられちゃったんじゃ……」

 ありさのいきおいに圧倒されたチェシャ猫は、肩をつかんで落ち着くようにさとす。

「どうどうどう! 落ち着くにゃあ!」

「あっ、ご、ごめんなさい」

「わかればヨシ!」

 パッと体をはなすありさの頭をよしよしとなで、チェシャ猫はあらためてごほんとひとつせきばらいをした。長いしっぽがゆらりゆらりと左右にゆれる。

「他のアリスは……」

「他の、アリスは……?」

 ありさは真剣なまなざしでチェシャ猫を見つめる。

「しーらにゃーい!」

 チェシャ猫は長い舌をありさにべえっと突き出すと、また木の枝にぴょこんと登った。

「ちょっ! ちょっと!?」

「その様子だと現実へのカギをさがしているようだにぇ。そんなアリスちゃんにヒント! 近道はこの国の住人に聞くのが一番!だにゃ!」

 チェシャ猫はそう言うと、木の枝を忍者のように伝って颯爽と去っていった。ありさはまたその場にひとりぽつんと取りのこされる。

「嵐のように現れて嵐のように去っていった……」

 ありさはため息をつく。すると、遠くの方でガチンとなにかが落ちる音が聞こえた。

「なんの音だろ」

 あたりをきょろきょろと見わたすが、気になるようなものはなにもない。ありさはふしぎに思いながらも、また詮索を開始した。



 この国のど真ん中にそびえ立つ大きな時計台。

 白ウサギは長針の上に腰かけながら、せわしなく走りまわるありさを楽しそうに見下ろしていた。

「時間は刻一刻とせまってるよ、アリス。ね、時計台さん?」

 白ウサギが振りかえってそう言うと、時計台はまるで返事でもするようにガチンと音を鳴らして針を動かした。

「あはは、ボクを振り落とさないでよ」

 白ウサギのかわいた笑い声が風に乗って空にぱちんと消えた。



ぴぃぴぃ ぴぃぴぃ ぴぃぴぃ

 ありさは甲高く鳴く鳥の声を聞きながら、ヒントになりそうなものをひたすら歩きまわってさがしていた。しかし先ほどからこの国の住人らしき人はいっこうに見つからない。

「住人に聞けって言われてもなあ……」

 ありさはふと、この国の中心部にそびえ立つ時計台に目をやった。うす目で見ると時計の針が四時を指していることが確認できた。

「四時かあ。って……えっ! もう四時!?」

 ガチン、と重たい音が響き、ありさは再度時計台を見やる。時刻は四時十分。なにかがおかしい。ありさはイヤな予感でざわめく胸をふるえる手でぎゅっとおさえた。

 先ほど白ウサギの懐中時計をのぞいた時は十二時丁度だった。あれからまだ一時間も経っていないはずなのに……

「もしかしてこの国は、時間の進みが早いの……?」

 全身にぶわっと立つ鳥肌を両手でおさえながら、ありさはその場にしゃがみこんだ。もたもたしていたら約束の時間なんてすぐにきてしまう。焦りから背中に汗がにじんでいくのが分かる。

「ダメだダメだ!」

 ありさは顔を左右にふり、頬を両手でぴしゃんとたたいた。この国で頼れるのはもはや自分自身だけ。泣きたい気持ちをおさえるように、ありさはさらに強く両ひざをたたき、すくっと立ち上がった。

「とにかくカギのヒントになるものをさがさなきゃ!」

 ずり下がったメガネを指でぐいっと上げ、あごに手を置いて考える。

ぴぃぴぃ

「……うーん」

ぴぃぴぃ!

「……うーん」

ぴぃぴぃ!!

「……」

 一歩、また一歩と歩くたびに鳥の声はさらに大きく、そして次第にうるさいくらいのボリュームでありさのこまくを刺激した。思考をストップさせるほどの大音量に、ありさは次第にいらだちをつのらせる。

「んんん……」

ぴー!ぴー!ぴー!

「んもー! さっきからなんなのー!」

 きょろきょろとあたりを見わたすと、ちいさな木の上で三羽の青い小鳥が親鳥にあやされながら鳴いているのが見えた。ありさの視線に気づいた親鳥は、申し訳なさそうに体をちぢめる。その様子を見て、ありさはしまったと口を手でふさいだ。

「坊やたちがうるさくてごめんなさいね。迷惑だったかしら?」

「あっ! いえ! そんなことありません!」

 人間の言葉を話す鳥におどろくより先に、相手に気をつかわせてしまったことに対しての申し訳なさで、ありさは風船のように体をしゅんとしぼませた。

 親鳥はありさをじっと見つめる。

「その装い…… あなた、アリスなのね」

「えっ、あっ、はい、一応…… でも今は現実にもどるためのカギをさがしてるんです」

 視線を下に向けたまま早口でそう言うと、親鳥は「そうなの」と一言だけつぶやいた。なんとなく気まずい空気が流れるなか、小鳥はまたぴぃぴいと鳴きはじめた。

 巣の中で身を寄せ合う小鳥たちをちらっと横目で見ると、ありさに気づいた小鳥たちは甘えるようにかわいらしく声をあげた。

「ねぇねぇアリスのおねえちゃん!」

「ねぇねぇおもしろい話を聞かせてよ!」

「ねぇねぇ聞かせて! 聞かせて!」

 三羽は羽を広げて一生けん命に飛ぶと、ありさの肩にちょこんと止まった。目をキラキラとかがやせるその姿に、ありさはたじろいだ。

「おもしろい話? え、ええ~…… 困ったなあ」

 うるうるとした目で小鳥たちから見つめられ、ありさは眉を下げた。カギをさがしている途中なのに……などとは言い出せず、ありさはあきらめたようにやれやれとその場に腰を下ろした。

(いろいろあってつかれたし、少しくらい休憩してもいいよね)

 ありさは肩に止まっている小鳥たちを一羽ずつ手ですくい、ひざの上に乗せる。小鳥の羽はありさの青いワンピースと同じ色をしていた。

「ふふ、かわいい」

 かわいいと言われた小鳥たちはうれしそうに目をほそめ、ありさのひざの上で体を丸めた。

「そうだ」

 ありさは昔よく母に読んでもらった「あおいとり」という絵本を思い出した。まずしい兄妹が「幸せの青い鳥」を追いもとめ、さまざまな国をおとずれる童話だ。この小鳥たちにぴったりの話かも、とありさは物語を語りはじめた。

「それじゃあ話すね」


 まずしい木こりの兄妹は「幸せの青い鳥」を見つけるため、鳥かごを持ってさまざまな場所をおとずれます。おもいでの国、未来の国……ふたりは色んなところへ足を運びますが、どうやっても青い鳥を手に入れることはできません。そんなとき、ふたりは母の声で目を覚まします。「ふたりとも、朝ですよ」。目を覚まし、目の前の鳥かごを見るとなんとその中には青い鳥がいました。本当の幸せは手の届く身近なところにあるとふたりは気づくのです。


「ふたりは色んな国をおとずれますが、そこに幸せはありませんでした。ですが、ふたりが今生きている世界にこそ幸せはあったのです」

 物語を語りながら、ありさはいつのまにか物語の主人公と今の自分をかさねていたことに気づく。この国はずっと自分が夢見ていたあこがれの世界。だけどここに自分が思いえがく幸せは、きっと無い。

(だから私はぜったいに現実にもどって、自分の幸せをこの手でつかみとるんだ)

 しかめっ面でくちびるをかみしめるありさを、小鳥たちはきょとんとした目で見上げていた。我にかえったありさはあわててへらへらと作り笑いを浮かべる。

「……って、小鳥ちゃんたちにはちょっとむずかしかったよね! ごめんね!」

 ありさは視線を落としながらため息をつくが、三羽の小鳥ははずんだ声でぴぃぴぃと鳴いた。

「わたしたち! 幸せの鳥?」

「わたしたち! 幸せの鳥!」

「やったー! ありがとう! アリスのおねえちゃん!」

 小鳥は羽を広げながらありさの周りをぐるぐると飛びまわる。どうやらありさの話は小鳥たちのお気に召したようだった。

「小鳥ちゃん……」

 うれしそうな小鳥たちの姿を見て、ありさの目にじわりと涙がにじむ。冷えきった心に優しいともしびがともったような、そんな温かさがありさを包んだ。

「わあ! アリスのおねえちゃん! 泣いてる!」

「泣いてる!」

「いたいいたいした?」

 ありさは目をごしごしとぬぐい、首をふる。ここに来て、ありさは初めて心からの笑顔を浮かべた。

「ううん大丈夫だよ、ありがとう。あなたたちは今私に幸せな気持ちをくれた。まさに幸せの青い鳥だよ!」

 ありさは小鳥たちを手のひらに乗せると、三羽をぎゅうっと抱きしめてくるくると回った。ありさの動きに合わせ、ワンピースがふわっとやわらかくおどる。

 楽しそうに鳴く小鳥たちの笑顔を見た親鳥は、にっこりと目尻を下げて笑った。

「坊やたちの相手をしてくれてありがとう。この子たち退屈だったみたいで、私の手には負えなかったの」

「い、いえ! たいしたことしてないですから」

「すばらしい感性をお持ちなのね」

「これは昔からある童話で……」

「感性の話よ。あなた、きっといい芸術家になるわ」

 親鳥につづいて、小鳥もうんうんとうなずく。ありさの胸はまたほんのりと温かくなった。

(なんだ、悪い人ばかりじゃないみたい)

 ありさははにかんだような笑顔を浮かべたまま「ありがとう」とつぶやいた。

 時計台の針がガチリと大きな音を立てて時間を刻む。時刻は六時。タイムリミットは刻一刻と迫っていた。


 

「にゃんにゃにゃんにゃ~ ほっ!」

 チェシャ猫はアスレチックのように高い木や大きな石を軽い身のこなしで乗りこえ、最後にバック転を決めて着地すると、ふふんと得意げに鼻を鳴らした。

「チェシャ猫」

「んにゃ?」

 何者かにとつぜんフードをぐいっと強く引っぱられ、チェシャ猫はバランスをくずす。ふらつく足に力をこめながら振りかえると、そこには白ウサギが立っていた。感情が読み取れない表情に、チェシャ猫は眉をひそめた。

「にゃ~んだ。白ウサギか。何の用かにゃ?」

 チェシャ猫はくわあっと大きなあくびをする。白ウサギは貼り付けたような笑顔をくずすことなく口を開いた。

「どう? あのアリスは」

「んん~ 行動力はにゃいけどやさしいアリスだにゃ」

「そう。……ねえ、チェシャ猫が思うやさしさってなに?」

 チェシャ猫は頭の上にはてなマークを浮かべながら首をかしげる。白ウサギの質問がよく分かっていないようだった。

「自分の気持ちも口に出さずまわりに合わせてなんとなく生きていく……それってやさしさなのかな?」

「む、むずかしい質問だにゃあ」

「それだけじゃきっと生きていけない。この世界でも、あっちの世界でもね」

 白ウサギは木にもたれると退屈そうに遠くをながめた。そしてしばらくなにかを考えるように顔をしかめた後、思いついたようにニヤリと笑う。

「そうだチェシャ猫」

「にゃ?」

「キミに頼みたいことがあるんだ」

「にゃにゃ?」

 白ウサギは顔を上げ、チェシャ猫ににっこりと笑ってみせる。だがその目は笑っていなかった。

「にゃ……」

 冷たい笑顔にチェシャ猫は思わず身ぶるいをした。



 ありさはぼーっと時計台をながめる。白ウサギとの出会いからすでにもう七時間が経っていた。

「結局小鳥ちゃんたちにカギのこと聞きそびれちゃったし……はぁ、私のバカ」

 ありさは大きなため息をつきながら、足元にころがる石ころを爪先でかつんとけりとばした。

 その時、近くの木がざわざわと音を立てて揺れる。イヤな予感がしたありさは、とっさに身がまえた。

「アリスちゅあーん! 速報にゃあー!」

「んきゃあ!」

 木の中からあらわれたチェシャ猫は、押したおすいきおいでありさに飛びついた。ありさは両足で強くふんばりながら、なんとかもちこたえる。

「なにっ! なんなの!」

「ぜー……はー……」

 チェシャ猫はありさに抱きつきながら、荒く呼吸をくり返した。ただごとではない様子に、ありさはとまどう。

「だ、大丈夫?」

 息を切らしながら走ってきたであろうチェシャ猫の背中をさする。チェシャ猫は深呼吸をして息をととのえると、いきなりありさの肩をつかんで体をはげしく揺さぶった。

「きゃあ! 次はなに!?」

「カギの……カギのありかが分かったにゃあ!」

 ありさは一瞬フリーズしたものの、すぐにその意味を理解した。

「ええっ! それ、ほんと?」

 チェシャ猫はうんうんと何度もうなずく。

「どうやらトランプ城の前にあるようにゃ」

「トランプ城?」

「ここから時計台が見えるだろ。その隣にあるおーおきな城にゃ!」

 白ウサギの話をぬすみ聞きしたにゃあ、とチェシャ猫は人差し指を口に当てながら小声で言う。ありさは飛びはねたい気持ちを押さえながら、チェシャ猫の手を両手でしっかりとにぎった。

「チェシャ猫さんありがとう。私あなたのこと誤解してた!」

 チェシャ猫はにぎられた手を見て、ぽっと顔を赤くそめた。長いしっぽが照れくさそうにもじもじと揺れる。

「へへ。ほらほらぁ、早く行くにゃあ」

「うん! さっそく行ってみる! ほんとうにほんとうにありがとう!」

 それじゃあ、と走り出そうとするありさの手首をチェシャ猫はきゅっとつかみ、耳元でこそりとつぶやく。

「トランプ兵に見つからにゃいように気をつけるにゃあ」

 ありさは一瞬ふしぎそうな顔をしたが、首をたてに振り、それからにこりと笑いかけた。

「うん、分かった! 気をつけるね!」

「ほんとにほんとに気をつけるにゃ」

「ふふ。分かってるって。じゃあまたね!」

 走り去っていくありさの背中を見つめながらチェシャ猫はしっぽをだらんと下げた。にぎられた手は、まだほのかに温かかった。

「ごめん、アリス……」

 


 ありさは豪華けんらんなお城を見上げ、ごくりとつばを飲みこんだ。門の前に立つトランプ兵は、大きなあくびをしながらウトウトと頭を前後させている。一刻を争う大変な状況ではあるが、イラストでしか見たことのない風景に心はわくわくしていた。

 お城の前には真っ赤なバラが咲きほこるバラ園。あの中に、キラリと光るものが見える。

「きっとあれがカギだ」

 トランプ兵が鼻ちょうちんをふくらませた瞬間を見はからい、ありさはバラ園にすばやく回りこんだ。そしてすぐさま身を小さくし、息をひそめる。どうやらトランプ兵はまだありさの存在に気づいていないようだった。

 ありさはあたりに誰もいないことを確認すると、トゲに触れないよう慎重に手を伸ばした。現実へのカギは、もう目の前だった。

(よし、あとちょっと……)

 指先がかすかにカギに触れたその時だった。

「貴様! そこでなにをしている!」

 大きな声に体がびくりとはねる。後ろを振りかえると、そこにはこわい顔をしたトランプ兵が仁王立ちしていた。トランプ兵はありさの手元に触れていたものを見て、目を真っ赤にして怒った。

「城のバラを盗むつもりか!」

「きゃっ! い、いえ! 私はただこのカギを……って、あれ?」

 ありさはカギが光っていたところを指差すが、そこにはなにもなく、真っ赤なバラが一輪落ちているだけだった。

「カギが……ない? なんで! たしかにさっきここにカギが!」

「おい、皆のもの! 盗人だ! この娘をとらえろ!」

 トランプ兵がそうさけぶと、大勢のトランプ兵が門からぞろぞろと現れ、あっという間にありさを取りかこんだ。ありさはなわで両手をしばられ、身動きがとれなくなる。

「や、やめて!」

「うるさい! 連れて行け!」

 トランプ兵たちがありさを強引に立たせると、引きずるように城の中へ連れて行く。ありさは体をよじりながらけん命に声を上げた。

「待って! おねがい! 話を聞いて!」

 しかし城の門は無情にもゆっくりと閉まっていく。

「私には時間がないの!」

 ありさの助けをかき消すように門はギギギ、とイヤな音を立てる。閉まる門に向かってありさは必死に声を上げた。

「だれか助けて!」

 その時、わずかなすきまからだれかがぬらりと姿を現した。ふわふわの茶色い毛にゆらりゆらりと左右に揺れる長いしっぽ……つい先ほどまでありさに向けられていたそのやさしい目は、星が消えた夜空のように真っ暗だった。

「チェシャ猫……さ、ん」

 ちいさな声で名をつぶやくと、チェシャ猫は複雑そうな表情を浮かべながらありさをじっと見つめた。ありさは気力をふりしぼって手を伸ばすが、チェシャ猫はその手を取ってはくれなかった。

バタン

 門が閉まる音とともに、ありさは絶望でうなだれる。

───私、だまされたの……?


 

 ずるずると引きずられる体。どこに連れて行かれるのだろう、と妙に冷静な頭で考える。

「ついたぞ」

 トランプ兵に乱暴に投げられたありさの体は、いきおいよく床にころがった。あんなに光りかがやいていた黒いエナメルシューズは、いつのまにかひどく汚れていた。

 ありさは両手をしばられたまま、城の中を見わたす。ピカピカにみがきあげられた金色の床にはなやかなシャンデリア、何十万……いや、何百万もしそうな絵画やおごそかな銅像の数々がありさを見下ろしている。城の中はどこを見ても高価な金品でうめつくされていた。

 そうっと顔を上げると、赤と黒のトランプ兵がまるで軍隊のように、たて一列に整列していた。前にも後ろにも、そしてありさの両わきにもトランプ兵が背筋を伸ばして立っている。

 トランプ兵が手に持っている護身用のやりがぎらりとにぶく光ると、ありさは今自分が置かれている状況をあらためて理解した。からからになったのどをうるおすように、ゴクンとつばを飲みこむ。もはや逃げ場などどこにもない。

 プロジェクトマッピングのようにでかでかと天井にうつしだされた時計を見上げると、時刻は九時を指していた。タイムリミットまであと三時間、ありさにはもう時間がなかった。

「皆のもの! 女王さまがおいでになるぞ!」

 黒いトランプ兵の一声とともに、他のトランプ兵が一斉にひざまずいた。かつんかつんと上品なヒールの音が城の中に響きわたる。一瞬にしてぴりぴりとした空気が張りつめ、ありさはできるかぎり肩をすぼめて身をちいさくする。

「女王さま!」

「女王さま!」

「ああ、美しい女王さま!」

 トランプ兵はありさの存在など忘れてしまったかのように、現れたその姿を崇拝しはじめた。

 黒いドレスに黒いマントを羽おった美しい女性……その人こそがハートの女王だった。母と同じくらいの年齢だろうか、だけどどこか常人離れしたそのきれいな顔立ちに、ありさはおもわず息をのんだ。

 女王は宝石でかざられた大きなイスにどかっと腰をおろすと、精一杯体をちぢこまらせるありさを見てバカにするように鼻で笑った。

「あなたが例のどろぼうさん?」

 見た目とは違い、声は若さに満ちて澄んでいた。ありさもその美しい容姿におもわずぽうっと見とれるが、突き刺すような女王の目つきにハッと我にかえる。

「ち、ちがいます! これには理由があって……!」

「いるのよねぇ。無許可で城のバラに触れる低俗なやつが」

「私がさがしているのは現実へのカギであって、バラになんか興味も……」

 女王はありさの顔をじろじろと見たあと、不気味な笑みを浮かべた。

「それはどうかしら」

 女王は胸元から一輪の赤いバラを取り出すと、舌先でそのバラをぺろっと舐めた。不可解な行動に悪寒が走る。

「なっ、なにして……」

 女王は動揺するありさの姿を見てまたにやにやと笑うと、手に持っていたバラを突然ぐしゃりとにぎりつぶし、そしてそれを口の中につめこんだ。

「ひいっ!」

 女王は無我夢中で食らいつき、両手でバラをのどの奥まで押しこむ。

 ありさは息をするのも忘れて、その光景をただじっと見つめることしかできなかった。女王はとげまで飲みこんでしまうと、幸せそうな顔でゆっくりと目を閉じる。くちびるは血のように真っ赤にそまっていた。

「このバラは不老不死のバラ。食べれば一生若さと美しさをつらぬける。本当のことを言いなさい、あなたもこのバラが目当てなんでしょう?」

 女王はそう言うと、自分の肌を指でゆっくりとなぞった。するとみるみるうちにその部分のしわが消え、赤ちゃんのようなわかわかしい肌へと再生していく。あっという間に女王の肌は白く、つややかに生まれ変わった。

「うそ……」

 お母さんくらいだと思っていた女王は、いつのまにか二十歳くらいのきれいなお姉さんのような見た目になっていた。ありさは目の前の光景を信じられないという表情で見つめる。

(ただのバラだと思ってたけど、こんなすごいバラだったなんて!)

 女王にとって必要不可欠な不老不死のバラ。このバラを盗もうとした罪はかなり重たいはずだ。ありさはバラ園に足を踏み入れてしまった自分の軽はずみな行動を心の底から後悔した。

「女王さま、そろそろ刑を」

 女王の近くに立っていたトランプ兵が女王に耳打ちをする。ありさの心臓はドクンと大きな音を立て、それからバクバクとはげしく波打った。

「うふふ、そうねえ」

 女王は罪の査定をするように、ありさを上から下までじっくりと見つめる。

(お願い…… お願い…… お願い……)

 ありさは何度も心の中で神さまに祈った。もう夜ふかしはしません…… 遅刻だってしません…… きらいなしいたけもピーマンも食べます…… だから、だから……

 女王は口のはしをにいっとつりあげた。


「首をはねなさい」 


 ありさの祈りもむなしく、ひどく冷たい声が耳に突き刺さった。真っ白になっていく視界の中で、女王が体を反らしながら声高らかに笑っている。

 ありさはこみ上げる吐き気を必死におさえるように、小きざみに浅く息を吐き出した。恐怖で声が出ない。しかし体は助けをもとめるように大きくふるえていた。

(うそ…… どうしよう。 私、首をはねられちゃうの? ……ここで、ころされちゃうの!?)

 両わきのトランプ兵は「悪くおもうなよ」と言い笑うと、持っていたやりをありさの首元に当てた。ひやりとした刃の感触が、夢ではないことをたしかに証明していた。

「はっ…… はっ……」

 もう、ダメだ。そう思った時だった。

「母上!」

 凛とした声が城の中に響いた。

「……な、に?」

 ありさはうつろな目で女王を見上げた。女王は声の主を確認すると、慈愛に満ちた目でその姿をむかえいれた。

「あらあ、マイプリンス」

「母上、ここはどうぞ私にお任せください」

 女王は愛おしそうにほほえむと、ゆっくりとイスから立ち上がった。

「もちろんよ。あなたにすべてをゆだねるわ、マイプリンス」

 背の高い女王は体を折り曲げ、声の主にちゅっとくちびるを落とした。そして女王は黒いマントをひるがえすと、ありさの方を向きわざとらしく眉を下げる。

「もうすこしであなたの首が吹き飛ぶところが見れたのに、残念だわ」

 そして胸元からバラをもう一輪取り出すと、枝を折り、、真っ二つになったバラを床に放り投げた。それはまるで首をはねられたありさの姿を間接的に示しているかのようだった。

 女王はにこりとありさに笑いかけると、自分の存在をアピールするようにヒールの音をコツコツと城内にひびかせながら立ち去った。

(助かった……の?)

 女王の気配が遠くなるのを感じ、ありさはどっと息を吐き出した。

「貴様が盗人か」

 頭上から聞こえてきた声にありさの動きがぴたりと止まる。聞きおぼえのある声に、汗がまたひとつぶ頬を伝った。おそるおそる顔を上げると、そこには高貴な衣装をまとった美しい少年が立っていた。頬にはハートのペイントがされており、腰まで伸びた赤い髪を後ろでひとつに結っている。

 ありさはその姿を見るなり、大きく目を見ひらいた。その少年はやはり見たことがある顔をしていたからだ。いつまでもつづく悪夢に、ありさの頭はもうパンク寸前だった。

「心くん……」

「なにを言う。あの方はこの城の次期当主であるハートの王子だぞ。口をつつしめ、無礼ものめ!」

 トランプ兵はやりで床をドン、と強く鳴らすとありさをするどい目つきでにらんだ。

「すみま、せん……」

 おごそかな空気とハートの王子が放つ迫力に、指先がまたカタカタとふるえはじめる。女王とは違う、内に秘めた静かな威圧感に今にも押しつぶされてしまいそうだった。

 王子はイスに腰かけ、ゆっくり足を組むとありさに向けて口をひらいた。

「貴様か、城のバラを盗もうとした女というのは」

「ち、ちがうんです! 私がさがしていたのは……」

 ハートの王子はありさを上から下までまじまじと見つめる。

「ほう。その格好、おまえアリスだな」

 すると王子はイスから立ち上がり、ありさの方へと向かった。近づいてくる王子はやはり心に似ていて息をのむほど美しい。ありさの前でぴたりと止まると、王子はありさのめがねを乱暴に外した。

「きゃっ」

「顔は地味だがわるくはないな」

 小さくそうつぶやくと、王子はありさのあごを持ちあげた。

「いきなりなんですか……!」

 ありさはけん命に目をそらそうと顔をそむけるが、王子はおかまいなしにありさを至近距離で見つめた。王子の吐いた息が耳元をくすぐる。

「おまえがこの国のアリスになるなら、今ここで解放してやってもいい」

「……えっ」

 耳元でささやかれたその一言に、思わずありさは顔を上げた。まつ毛が触れそうな距離にあるキレイな顔に、呼吸と心臓が止まりそうになる。

「そっ、それは」

 王子の赤い瞳の中にありさの姿が映っていた。白ウサギと同じ赤い瞳なのに、王子の瞳は燃える炎のように赤々としていた。

「無理、です…… できません……」

 消え入りそうな声でなんとかしぼりだすと、王子は「そうか」と一言だけつぶやいた。

「その様子だとカギをさがしているようだな。現実にもどるということはあっちの世界でまだやりのこしたことがある……そういうことだろう?」

 王子が放った意外な言葉に、ありさは目を見開いた。事情を知っていそうな物言いと表情に、ありさは口をぱくぱくさせながらこぶしをぎゅっとにぎった。あせっちゃダメだ、そう思いながら今は言葉を飲みこむ。

「は……はい」

「そうか」

 すると王子はあごに手をそえて、窓の外をながめた。なにか考えている様子だった。ありさは冷静にチャンスをうかがう。

(もしかするとこの人になら話が通じるかもしれない)

 ありさはもうわずかな希望に賭けるしかなかった。

 鼻から息を吸いこみ、ゆっくり口から吐くと、絵画のような横顔におそるおそる声をかけた。

「あっ、あの」

 王子はゆっくりと振りかえり、ありさを見下ろす。

「なんだ?」

「わ、私にはもう時間がないんです。現実にもどって、かなえたい夢が、あるんです……」

 しりつぼみになった言葉をなんとか最後までしぼり出す。ありさの一言で城の中にはさらにはりつめた空気がただよう。この空間で、自分の心臓の音だけが響いているように感じた。

 しばらくの沈黙のあと王子はなにかをたくらんだように、にやりと小さく笑った。

「ではおまえの夢とやらをここで聞かせてもらおうか」

 ずらりとならぶトランプ兵が一斉にありさの方を向いた。好奇の目が突きささり、ありさは一瞬にしてひるんだ。

「えっ、それは…… その……」

 早くしろと言わんばかりの冷たい目。期待するような目。まったくもって興味のない目。ありさに向けられた多くの視線は、針のように全身をチクチクと刺した。

 ありさはとまどった。

 こんな大勢の前で自分の夢を語れるほどの勇気など、持ち合わせていなかったからだ。

「えっと…… わ、私は……」

 うつむきながら必死に言葉を選んでいると、城の中がざわざわといやな盛り上がりを見せはじめた。ありさはふるえる手でワンピースを強くにぎりしめる。

 いつまでも黙っていると、頭上からしびれをきらしたようなため息がふってきた。

「口に出せないほどばかばかしい夢なのか。そんな夢、現実世界にもどってもかなえられるわけないだろう」

 王子がバカにするように言いはなつと、トランプ兵はクスクスとありさをあざけるように笑った。

「わははははは」

「わははははは」

「わははははは」

 笑い声は次第に大きくなっていき、それはくさりのようにありさの体に巻きついていく。

『あはははは! なにこれ!』

『おっかし~!』

 目の前で行き交うノート、教室に響きわたる笑い声……悲しいことを思い出したありさは、記憶をふりはらうように大げさに頭を振った。

 そして顔を上げ、王子をキッとにらむ。

「私は小説を書いています!」

 とつぜんのありさの大声に、その場がシンと静まりかえった。

「……ほう」

「タイトルは『わたしの国のアリス』! ふしぎな世界に落ちた主人公が冒険をしながら自分自身と向き合っていく、そんなお話です!」

 まくしたてるように早口で言うと、また城の中にどよめきが広がった。トランプ兵はありさを指差しながらこそこそとなにかを言い合ったり、吹き出してクスクスと笑ったりしている。ありさはくちびるをかみしめながら、王子を強いまなざしでじっと見つめた。

 王子は横目でトランプ兵たちをじとりと睨む。すると王子の視線に気づいたトランプ兵たちはすぐさま口をつぐみ、背すじをぴんと伸ばした。

「この目に耐えられるか?」

「え?」

「自分を表現するということは、この好奇の視線にも耐えなければならない。おまえにその覚悟はあるのか?」

 王子は表情を一切くずすことなくつぶやいた。

「そんなの、分かってる……」

 これから先、たくさんバカにされるかもしれない。笑われて、心ない言葉も投げかけられるかもしれない。だけど……

『あなたはいい芸術家になるわ』

 親鳥の言葉を思い出し、ありさは顔を上げた。

(私の物語がだれかの心のよりどころになれば……!)

 ありさはすうっと深く息を吸いこむ。

「覚悟はあります! たったひとりでもいい! 私の書いた作品をだれかに読んでもらいたい! でも、ここにいたらそれを実現できないんです! だからおねがいします! 私を……私をここから解放してください!」

 いつのまにか城内はウソみたいに静まりかえっていた。バカにするように笑っていたトランプ兵たちは、皆ありさの迫力に圧倒されている。

 王子は口角をすこしだけ持ち上げると、ありさの両手をしばっていたなわをはらりとほどいた。

「気に入った」

「え? ってことは私を……」

「いや、解放はしない」

「へ……?」

「おまえを俺の妃にしてやろう」

 その瞬間、城の中がトランプ兵のおどろきの声につつまれた。

「き、妃って……!」

 あなた私の話聞いてた?と問いたくなるような王子の支離滅裂な発言に、ありさの頭もパニックになる。

「俺の妃になればおまえのそのちっぽけななやみなどバカバカしくなるぞ。それほどの優雅な日々を保証しよう。専用の書斎も用意してやるし、キレイなドレスだっていくらでも買いあたえてやる。どうだ? わるい話じゃないだろう」

 王子は自信満々にそう言うと、床にしゃがみこむありさを起き上がらせるように腰をぐいと持ち上げた。

「ひゃあっ!?」

「ただ線がほそすぎるな。もっと食べろ」

 王子が一体なにを考えているのかがまったく分からず、ただただ困惑するしかなかった。一見小柄に見えた容姿もこうして間近で見るとありさよりも頭ひとつ分大きい。意識してしまう「異性」の部分に、頭がごちゃごちゃになる。

 腰に回された王子の手が、すすっと背中を這った。

「いやー!!!」

 気づいたときにはありさは王子を突き飛ばしていた。王子は突き飛ばされたはずみでふらつくと、低い声で「残念だな」と冷たく言いはなった。

「俺を侮辱した罪はちゃんとその体でつぐなってもらうからな」

 上手く誘導してみせるつもりが逆に翻弄され、しまいには王子を怒らせてしまった。まさに最悪のシナリオだ。

「トランプ兵に命じる」

 王子が一言つぶやいたとたん、トランプ兵はあわててロボットのように姿勢を正した。

「この女を離れの牢屋に入れろ」

「え……」

 祈る時間もあたえてくれない突然の判決に、ありさは困惑するしかなかった。今まで自分が読んだ本にこんな展開はなかった。物語の主人公はかならずピンチを切り抜けられる、そう信じていたのに。

 両わきにいたトランプ兵は、なぜか不服そうにごにょごにょ言いながらありさの両腕をつかんで持ち上げた。そしてそのまままたどこかへと体をずるずる引きずっていく。

「やだ! やめてよ!」

「ええい、暴れるな小娘」

「おい。ぐずぐずするな。早くこの盗人をつれていけ」

「……なによ、それ。振りまわすだけ振りまわしといて! ほんとは最初からこうするつもりだったんでしょ! この人でなし!」 

 ありさは王子をにらみつける。しかし王子は心の内が読み取れない表情でありさの顔を見つめるだけだった。

(はいはい、行けばいいんでしょ)

 もはや抵抗する気力すらうしなってしまったありさは、力が入らない足でふらふらと歩いた。


ガチャン

 重々しい音とともに、牢屋のとびらが閉められた。ありさはトランプ兵が牢屋から出て行ったのを確認すると、へなへなとその場にしゃがみこむ。

 薄暗いぶきみな空間にただようほこりっぽいにおい。ありさはふと、今日の出来事を思い出した。

 それは資料室で真白と二人きりになった時のこと……

『ありさちゃんあぶない!』

 落ちてくる資料からありさを守ってくれた真白の姿は、まるでおとぎばなしの王子さまのようだった。

「真白くん……」

 真白の名前を呼ぶが、牢屋の中はしんとしている。

 当然だ。この世界に自分を助けてくれる白馬の王子さまなんてものは存在しない。いるのはやさしい顔をして平気で人を裏切るチェシャ猫に、権利を振りかざす冷こく王子、そして真白の皮をかぶった悪魔のような白ウサギだった。

「もう……あきらめるしかないのかな」

 現実へのカギも、家族や友達に会うことも、小説家になる夢も、全部。

 ありさは目尻に浮かぶ涙を手のひらでこする。しかし涙は止まるどころか、とめどなくあふれて止まらない。ありさは黒くよごれた床にうずくまり、さらに声をあげてむせび泣いた。

「うっ……ひっぐ……やだぁ……かえり、たいよぉ」

 おえつ混じりにつぶやくと、背後からコンコンと窓をたたく音が鳴った。

「……ちゃん。アリスのおねえちゃん」

「え?」

 振りかえると、そこには四羽の青い鳥がいた。先ほどの親鳥と三羽の小鳥だ。おどろいたありさは、目をぱちくりとさせながら小窓を見つめる。

「どうしてここに……」

「アリスがお城に閉じこめられちゃったから助けてあげてって……チェシャ猫くんが」

「チェシャ猫さんが?」

 ありさは眉をしかめる。

 トランプ兵につかまったあの時、門の向こうでありさをじっと見つめていたチェシャ猫の顔を思い出す。自分をおとしいれたいのか、はたまた助けたいのか、チェシャ猫の意図が全くもって分からなかった。

 親鳥は周囲にだれもいないことを確認すると、早口でありさに言う。

「アリス、早くここから出ましょう」

「そんな……無理だよ。窓のカギも閉まってて開かない」

「ハートの王子は最初からあなたを助けるために離れの牢屋に入れたのよ。ここはめったに見張りがこないからいつでも逃げられる」

 ありさの脳裏に、ハートの王子の顔が浮かぶ。あの冷たい目からはありさを助けようという気持ちなど一切伝わってこなかった。

「私を助ける? ハートの王子が?」

「ハートの女王さまは大変きびしい人だからね。だから王子はいつもバツを与える『フリ』をして、女王さまのために城の威厳を保っているのよ」

「そんなまさか……」

「ほら。腰のリボンのところ、見てみて」

 ありさは親鳥の言うとおりに首をかたむけ、腰に付いている白いリボンを確認する。するとリボンの隙間で小さな何かがキラリと光っていることに気付いた。

「これ……」

 手に取ったそれは小さなカギだった。見たところ白ウサギがちらつかせた現実へのカギではないようだが、意味のあるカギであることはなんとなく分かる。

 親鳥はくちばしで窓をかつかつとたたいた。ありさはもしかして、と窓のそばにあるカギ穴にそのちいさなカギを差し込んだ。

「開いた!」

「よいしょっと」

 親鳥はくちばしで窓をずり上げると、わずかなすきまから牢屋の中に侵入した。

 ありさは先ほどの出来事を思い出す。

 王子の突拍子な行動……あの時とつぜん「妃にする」などと言いながらありさの腰に手を回したのも、周囲に勘付かれないようにカギをこっそりと忍ばせるためのカモフラージュだと思えば納得もいく。半分本気にしてしまった自分が少し恥ずかしくもあるが……

「ね? 言ったでしょう?」

 親鳥がそう言うと、三羽の小鳥はぱたぱたと羽を広げてせまい牢屋の中を飛びまわった。

「ハートの王子! すき!」

「ハートの王子! やさしい!」

「ハートの王子! かっこいい!」

 むじゃきな小鳥たちを見て、ありさは目をまるくした。小鳥たちがうそをついているようには見えなかったからだ。まさかあの王子に、そんなウラの一面があったとは。

「さあ、トランプ兵に見つかる前にここから出ましょう」

「無理だよ」

「大丈夫。ひとり逃げ出したところで女王さまは気づきやしないわ」

「そういうわけじゃなくて……」

 そう言うとありさは小窓を指さした。小窓のすきまは親鳥がかろうじて通りぬけられるほどのせまさ。ありさの体ではせいぜいにぎりこぶしが限界だった。

「こんなの通れっこないよ」

「じゃあ小さくなればいいじゃない」

 当たりまえのように言ってみせる親鳥にありさはカッとなり、大きな声で反論した。

「そんなことできるわけないじゃん!」

 言ってしまったあとにありさはハッと口をつぐむ。焦りとあきらめから、また親鳥に自分勝手な感情をぶつけてしまった。ありさはこんな自分がイヤになり、またうつむいた。

「アリスのおねえちゃん」

 すると、一羽の小鳥がありさの右肩に止まった。つづいてもう一羽の小鳥が左肩に、そしてもう一羽が頭の上にちょこんと乗った。

「ここはふしぎの国だよ」

「だいじょうぶ」

「だいじょうぶ」

 いつものような甲高い声ではなく、落ち着いた声。痛んだ心をなでてくれるようなぬくもりに、ありさはまたぽろぽろと涙をこぼした。

 親鳥はやわらかい羽でありさの涙をぬぐう。

「大丈夫よ。あなたならできる」

 ありさは鼻水をすすると、決心したようにうなずいた。

(私にはもう時間がない。だから、今できることならなんでもする! おねがい! 小さくなって!)

 祈るように手を合わせ、ぎゅっと目をつぶった。

「……っ」


 三十秒ほどたち、ありさはゆっくりと片目のまぶたを持ち上げる。しかしそこには先ほどとなんら変わらない牢屋の景色が広がっているだけだった。

「やっぱり、ダメじゃん……」

 ありさは肩を落としながら小鳥たちに目を向けた。するとそこには、何倍にも大きく成長した小鳥……もはや大鳥が大きな目をしばたたかせながらありさを見下ろしていた。

「わあっ! こっ、小鳥ちゃん!? ええっ!? お、大きくなってる!」

 あわてふためてくありさを見て、親鳥と小鳥は笑った。

「逆よ。あなたが小さくなったのよ、アリス」

 見上げると、あんなに小さかった小窓がはるかに大きくなっていた。ありさはこぶしを開いたり閉じたりしながら、サイズダウンした自分をぺたぺたとさわってたしかめた。

「すごい。私本当に小さくなったんだ」

「時間がないんでしょう。さあ、早く私の背中に乗って!」

 親鳥が羽をばさっと広げる。尻もちをついてしまいそうな風の力に、ありさは思わず足でぐっと地面をふみこんだ。

 羽からはお風呂上がりのような石けんの匂いがした。

(お母さんの匂いみたい……)

 ありさはそう思いながらわた毛のような羽に体をゆだねた。その時だった。

「そこの盗人、なにをしている」

 振りかえるとそこにはやりを持ったトランプ兵がひとり立っていた。眉間のしわはぴくぴくとふるえ、今にも怒りに身を任せて大あばれしそうだ。

 このタイミングで見張りがくるとは思っていなかったのか、親鳥も動揺を隠せないようだった。

「どうして見張りが……」

 想定外の出来事、というのは容易に理解できた。親鳥は小鳥三羽と小さくなったありさを守るようにばさっと羽を広げる。

「鳥、そこをどけ」

「……どきません」

 トランプ兵と親鳥がにらみ合う。

 自分の体が大きければこの場を切り抜けられたかもしれない。ありさはそんなことを考えながら、親鳥の羽の中で小鳥たちと身を寄せ合いながら肩をふるわせた。

「どけと言っておるだろう!」

 そう言うと、トランプ兵は親鳥を払うようにやりの柄で攻撃した。

「ああっ!」

 親鳥は吹き飛び、かべにたたきつけられる。

「親鳥さん!!」

「大丈夫よ。かるく打っただけ」 

 よろよろと立ち上がる親鳥に、小鳥たちは泣きそうな声でぴぃぴぃと力無く鳴いた。

「全く、盗みの次は脱獄か。我々をバカにするのもたいがいにしろ」

 やりを床に何度もごつごつと打ちつけながら、トランプ兵はありさたちの前に立ちはだかった。小さくなった姿で見上げるトランプ兵はさらにぶきみで、ありさは不安でどうにかなってしまいそうだった。

「そんな顔をしないでアリス。大丈夫よ。あなたたちは私がぜったい守ってみせるから」

「ふん。そんな小さな体でどうするって言うんだ。お前たち、皆まとめて処刑してやってもいいんだぞ? そうだ。火あぶりにしておいしくいただこうか!」

 トランプ兵はひげを指で伸ばしながら、がははと大きな口で盛大に笑った。

 親鳥は挑発的な目でにらみかえすと、嫌味をたっぷりにふくんだ声色でトランプ兵と対峙した。

「王子の前ではずっとぺこぺこしてるようだけど、いないところではずいぶんと横柄に振る舞うのね」

「……なんだと」

 ふたりの目からは見えない火花が散っている。ありさはつばをごくりと飲みこむと、小鳥をぎゅうと強く抱きしめながら頭をフル回転させた。

──どうすれば、この場を切り抜けられる?

 トランプ兵の顔は徐々に怒りで赤くなっていく。鼻息はどんどん荒くなり、やりを持つ手がぶるぶるとふるえている。

「貴様ぁ……!」

 このままじゃまた親鳥さんが……

「……そんなの、だめ」

「なにか言ったかそこの小娘」

「そんなの……そんなのだめだって言ってんの!!!」

 とつぜんのありさの大声にギョッと目を見ひらくトランプ兵。その隙をつくようにありさは目一杯突進すると、棒のようなほそい足にそのままかみついた。

「い、いでででで! なんだいきなり! こら! はなせ!」

 とがった八重歯がめりめりと足に食いこむ。振りまわされる足にけん命にしがみつきながら、ありさはさらに歯に力をこめた。まるでシリコンをかんでいるようだ。

「いだだだだ! おい! やめろお!」

「ぴぃ!」

「ぴぃ!!」

「ぴぃぴぃ!!」

 すると背後から援護をするように、三羽の小鳥がトランプ兵の頭をくちばしで突いた。

「あだだだだ! やめてくれ! いたい! いたい!」

 足と頭を振りまわしながらぎゃあぎゃあとわめくトランプ兵はバランスをくずし、床で足をすべらせてしまった。

「うわあっ!?」

 そしてそのまま派手に頭を打ちつけると、トランプ兵はそのまま床にたおれこんだ。頭を打った衝撃で目はちかちかと回り、にぎられていたやりも手からするりとすべり落ちる。

「ぴっ!」

 すかさず小鳥がくちばしでやりを遠くにはじいた。

「ぴぴっ!」

「ぴっぴっ!」

 勝ちほこった顔を浮かべる小鳥たち。ありさはしっかりと歯形がきざまれたトランプ兵の足を見つめながら「ごめんなさい……!」と心の中でつぶやいた。

「ありがとう、アリス。それに、坊やたちも」

「それよりケガは……!」

「こんなのどうってことないわよ。それよりトランプ兵が気をうしなってるうちに早くここから出ましょう」

 親鳥は体をゆっくりと起こし、くちばしで背中に乗るようにうながす。

「ほら早く!!」

「じゃ、じゃあ、お願いします……」

「オーケー、しっかりつかまってて」

 ありすはそうっと親鳥の背中に乗った。やりでなぐられたところが、赤くなっている。

「ごめんね。ありがとう」

「ん? なにか言った? アリス」

「いえ、なんでもないです」

「じゃあ行くわよ」

 親鳥はそう言うと、ものすごいスピードで小窓に向かっていく。

「わっ、きゃああ!」

 ありさはあわてて両手で羽をにぎりしめ、ぎゅっと目をつぶった。まるでジェットコースターに乗っているかのような迫力だ。

 強い風がありさを包み、あっというまに外の明るい景色が広がった。



「……思ったより早かったな」

 ハート王子は窓の外をながめながら小さくつぶやいた。四羽の青い鳥が牢屋から完全に出て行ったことを確認すると、王子はブーツを鳴らしながらテーブルの方へ歩いていく。

 トランプ兵は鼻歌まじりにお茶菓子をテーブルいっぱいにならべると、なれた手つきで紅茶をティーカップにそそいだ。先ほどとらえた娘がもう脱獄しただなんて、みじんもおもっていない様子だ。

「王子、離れの牢屋の見張りはどうしましょう。先ほど見回りに行ったトランプ兵がまだもどってきていないようですが……」

「ああ、問題ない。下がっていいぞ」

「……はぁ」

 トランプ兵は首をかしげながら王子に一礼すると部屋を後にした。

 すると部屋の隅からコツ、とかすかに靴の音が鳴った。王子の耳がぴくりと動く。

「誰だ。そこにいるのは」

「さすが王子。よく気がつきましたね」

 カーテンが風でゆらりと揺れ、白ウサギが手を叩きながら姿を現した。

 王子は白ウサギの顔を見るや否や、嫌悪の表情で顔をくもらせる。

「ずっとそこにいたのか。不法侵入め」

「不法侵入だなんて、いやだなあ。ボクと王子の仲じゃないですか」

 白ウサギは軽い足取りで王子に近寄ると、わざとらしくコソッと耳打ちをした。

「甘い判決でしたね。もしかして、今回は王子好みのアリスでしたか?」

「馬鹿を言え。……気が向いただけだ」

 王子はあしらうようにため息をつくと、ティーカップに口をつけ、そして横目で時計台を見やった。

 時刻は十一時、約束の時間まであと一時間を切っていた。



 空の上からの景色にようやく慣れた頃、ありさは親鳥の背中から現実へのカギをけん命にさがしていた。

「どこ……カギはどこにあるの……」

 次第につのる焦り。背中にひとすじの汗がつうっと流れた。時計の秒針の音が、ありさの耳の奥で今でもうるさく鳴りひびいている。

『カギが隠されてある場所のヒントをあげるね。ヒントはキミの弱さだよ』

 ふと、白ウサギに言われたことが頭をよぎる。

「カギは、私の弱さの中に……」

 ぽつりとつぶやくと親鳥は首を少しだけかたむけてありさの方を見た。

「アリス。あなたは下を向くのがくせよね」

「え?」

「もったいないわ。空はこんなにもキレイなのに」

 親鳥はそう言うとくちばしを空に向けた。ありさは落ちないように羽をしっかりとつかみながら空を見上げる。するとそこにはスパンコールを散りばめたような星空が一面に広がっていた。

「すごい! 空は明るいのに星が出てる!」

「あら、今さら気がついたの? それにこの国はね、雨の日はドロップが降るのよ」

「ドロップってあめ玉の?」

「そう」

「へぇ~! おもしろい!」

 ありさと親鳥は顔を見合わせてクスクスと笑う。ありさは目の前のことに必死で、一番近くにあった景色に気がついていなかったのだ。

「見てもらえなくて残念……なんて言葉は今のあなたにとって足かせになるわよね」

 ありさがなにも言えないでいると、親鳥は「ごめんなさいね」とあやまった。

「でもねアリス。見上げた先にきっとさがしものはあるとおもうわ」

「見上げた……先に……?」

 ありさは考える。気づけばいつも、自分は下を向いていた。自分の気持ちを隠すようにうつむき、イヤなことからずっと逃げていた。

「トランプ城にかけつけたとき窓の外からあなたを見てた。王子に立ち向かう姿、とてもかっこよかったわよ」

 親鳥の言葉に鼻の奥がツンと熱を帯びる。

「それにさっきも。身をていして私たちを守ってくれてありがとう」

 つづけてお礼を言うように小鳥たちが「ぴぴぴっ」と声高に鳴いた。

「あなたはやさしいだけじゃない。心の奥底にあつい信念とそして勇気がある。だから安心して現実にもどりなさい」

「親鳥さん……」

「本音を言うとあなたみたいな人にこの国のアリスになって欲しかったけどね。でもいつの日かきっと、あなたは元の世界で立派な小説家になる。そんな気がするわ」

 親鳥の一言で、ありさの体にしばりついていた不安のくさりがどんどん外されていく。

 あんなに強かった風もしだいにやわらかくなり、地上がすぐそこまで近づいていることに気づいた。

 ありさは惜しむように親鳥の背中に抱きついた。そして浮かぶ涙を隠すように羽の中に顔をうずめる。

「ありがとう。ほんとうにありがとう」

「ふふ。だからほら下を向かずにしっかり前を向いて。さあ、もう地上に着くわよ」

「アリスのおねえちゃん!」

「フレー! フレー!」

「がんばれ! がんばれ!」

「……うん!」

 ありさは顔を上げると、親鳥の背中から地面に向かっていきおいよく飛び降りた。すると空気が入っていくように、体が元の大きさへともどっていく。

 ありさは振りかえると、小鳥たちに向かって力強くガッツポーズをしてみせた。

「ありがとう! 私もうちょっとだけがんばってみるね!」

 親鳥と小鳥を順番に抱きしめると、背中を向けてまた走りだす。

「大丈夫……! あきらめなかったらきっと見つかるもん!」

 自分にそう言い聞かせながらありさは現実へのカギをもとめ、ふしぎの国をかけまわった。


 うたいながら揺れるピンクの花、たいくつそうに木かげで昼寝する羽の生えた本たち。今のありさの目には、全てが鮮明にうつっていた。 

「はぁっ……はぁっ……ここにもない」

 あごからしたたり落ちる汗をぬぐい、目の前にそびえ立つ大きな木を見上げた。ここは初めてチェシャ猫と出会ったところだ。木々の間からまぶしい日の光が差しこみ、おもわずありさは目をほそめた。

「ん?」

 木々の中できらりと光るものが見えた。目をこらして見ると、木の枝になにかが引っかかっている。ありさは木のくぼみに足をかけ、必死に手を伸ばした。

「……もうちょい」

 ふるえる指先に力を入れると、かたいものが爪にカツンと当たった。もう少し手を伸ばせば届きそうな距離だった。

「いける!」

 つかみとったと同時に、ありさの体はいきおいよく落下する。

「あったたたた」

 地面にたおれたままゆっくりと右手を開くと、そこにあったのは白ウサギが持っていた現実へのカギだった。

「これって!!!」

 ありさは角度を変えて何度も何度もカギをたしかめる。間違いなくそれは白ウサギがちらつかせたカギだった。

「あっ、たぁ……!」

 顔を上げないとつかみとれなかった現実へのカギ。

 ありさはもう一度カギをにぎりしめると、声を出さずに足をバタバタと動かした。そしてスパンコールが散りばめられた青空にカギかざし、へらりと口をゆるませた。

「なーんだ、こんな近くにあったんだぁ……」

「あーあ、見つけちゃったのかあ」

 聞きおぼえのある声に、ありさはおどろいて飛び起きる。タイミングよく目の前に現れたのは白ウサギだった。

「し、白ウサギさん!」

「やあ、久しぶりだねアリス。元気にしてた?」

 手をひらひらとさせ、にこりと微笑む白ウサギ。

 ありさは手に入れたカギを両手でしっかりと胸の中でにぎりしめると、白ウサギを威嚇するようににらみつけた。白ウサギは「なにもしないよ」と言うと、残念そうに笑った。

「キミにはアリスの素質があるとおもっていたけど、現実世界の方がキミを必要としてるみたいだね」

 白ウサギをまだ信用できないありさは、その言葉の裏側をさぐるように顔をしかめた。

「そんなこわい顔をしないで。このゲームはキミの勝ちだ。おめでとう」

「勝、ち……」

 「勝ち」という言葉にありさはひとまず安心する。どうやらこのカギをうばいとるつもりはないらしい。ホッと胸をなでおろしていると、白ウサギはにやりと笑った。そして、ありさの腰を自分の方にグイッと強引に引きよせる。

「ひゃっ!?」

「ねえアリス」

 白ウサギは自分の顔をぐっとありさに近づける。つくりもののような美しい顔に見つめられ、ドキドキと胸がうるさく鳴る。

「このままふしぎの国にいてくれないかな?」

「なっ、なに言って……!?」

 ふりほどこうと体を反らすが、白ウサギの力は強く、びくともしない。白ウサギはありさの手首をつかむと、自分の方へ無理やり顔を向かせた。くちびるが触れてしまいそうな距離に、ありさの心臓がドクドクと波打った。

「これはボクのわがまま。だめ?」

 かよわい小ウサギのように目をうるませる姿に、ありさはたじろいだ。

「キミを元の世界に帰したくないんだ……」

 ずるい瞳はありさを甘くとらえる。白ウサギはありさの右手を取ると、手のひらにそっとキスを落とした。そしてそのままふたりは見つめ合う形になる。

「ねえ、ボクのかわいいアリス」

 心地よく揺れる白ウサギの赤い瞳は、ゆっくりとありさの思考を飲みこんでいく。


──この世界には自分を否定する者なんていない。きれいな景色も、おいしいお菓子も、楽しいお茶会も、全部全部キミが夢見た世界そのものなのだから。


 ありさはこの夢のような世界をぼんやりと見わたした。たしかにここは自分が望み描いた世界そのもの。カラフルな景色に、奇想天外でふしぎな住人たち。なにもかもがワクワクするものであふれている。それに……

 ありさは目の前の白ウサギを見た。

 しっかりとにぎられた手は、ありさをやさしい温もりで包んでいた。

(そうだ。この手をにぎりかえせば私はずっとここにいられる。そもそも私自身が望んだ世界だもん、抵抗なんてはじめからしないでここで生きていけば……)

 こわばっていた体から、力が抜けていく。ありさはふらつきそうになる体を白ウサギに預けた。白ウサギは満足そうな顔を浮かべながらありさの指に自分の指をからませ、ぎゅっとにぎる。

「なにも心配しなくていいんだよ、アリス。キミはここでずっとボクと幸せに暮せばいいんだから」

「あ……」

 ありさの黒い瞳がどんどん赤い瞳にのまれていく。倒れそうになるありさの体を白ウサギが支えるように抱きしめた。

(そう……私はずっと、この世界に……)

 ぼうっとするありさを見て、白ウサギはいやらしく口角を上げた。その時だった。

「きゃっ!」

 後ろから誰かがありさのうでを強く引っ張った。よろけたありさはそのまま誰かの胸元に飛びこむように体をしずめた。バラの良い香りが、ふわっと鼻をかすめる。

「しっかりしろ。余計なことを考えるな」

 ありさはその声にハッとする。見上げると、そこにはハートの王子の顔があった。王子はありさを守るように肩を抱きよせると、するどい目つきで白ウサギをにらんだ。ありさはわけが分からず、ただただ困惑するばかりだった。

「王子……? なんであなたがここに……」

「おやおや、職務は良いのですか? ハートの王子」

 ひょうひょうとする白ウサギを見て、王子はちっと舌を鳴らした。

「貴様……!」

 王子は白ウサギの胸ぐらをつかむと、そのまま木の幹に体を強く押しつけた。ありさに聞こえないよう、王子は低い声で静かに白ウサギに問う。

「少々悪役演技の度が過ぎてるんじゃないのか?」

「……はて? なんのことでしょうか」

「とぼけるな。現実にもどると決めたアリスの手助けをするのが我々の役割りのはずだ。勝手に動かれては困る」

 王子は真剣なまなざしで白ウサギに詰めよった。しかし白ウサギはにこりと笑うだけ。その目の奥が笑っていないことに気付いた王子は、眉をぴくりと動かした。

「と、言われましてもアリスはすでにこちらの世界を所望しているみたいですよ?」

 「ねえアリス?」とありさの体を引き寄せる白ウサギ。頭の中にまだ霧のようなものが広がっているありさは、白ウサギの言葉にうなずくことしかできなかった。

「ほらね?」

「ふん。お得意の洗脳か」

 王子はため息を落とすと、ありさの手首をつかみ白ウサギからありさを無理やり引きはがした。

「おい娘、こっちを向け」

「……へ」

 そして顔をつかむと、王子はそのキレイな顔をかたむけた。とつぜん近づく王子との距離に心臓が大きくはねあがる。

(キッ、キスされる……!?)

 ありさはおもわず目をかたく閉じる。

 しかし触れた感覚があったのはくちびるではなく頬だった。なぜか頬同士がくっついている。ほのかに温かく、なんだか気持ちがいい。

 ゆっくり目を開くとイジワルな顔で王子がありさを見つめていた。

「勘違いするなよ。白ウサギの呪いを浄化してやっただけだ」

 王子は舌をべっと出しながらハートマークがペイントされた頬を人差し指でとんとんと叩いた。ほのかに光っているそれは本当になんらかの能力があるようで、ぐにゃぐにゃにゆがんだ視界が段々とクリアになっていく。先ほどより息もなんだかしやすい。

 この世界の住人にはふしぎな力があるんだな、などとぼんやり考えながらありさは白ウサギとハートの王子を交互に見つめた。

「はは、呪いだなんて」

 王子はへらへらする白ウサギをまた冷たい目でにらみつけると、ありさの両頬をぐいと少し乱暴に持ち上げた。

「うぐ」

「意識はもどったか」

「ひゃ、ひゃい……なんとか」

 王子は何度も確認をするようにありさの頬をぐにぐにとつねる。おそらく今、自分はおもしろいくらいひどい顔をしているだろう。

「白ウサギ、おまえももう分かっているはずだ。こいつは永遠のアリスじゃない。なのにこの世界に閉じこめようとするのはただのエゴだ」

「……そうだね」

 白ウサギは観念したように両手をあげた。ピンと立っていた耳がシュンとしぼむ。

「うん。少し焦り過ぎていたみたいだ。こわがらせてごめんね、アリス」

 そう言うと白ウサギは困ったように笑った。王子はやれやれとため息をつくと、不安そうな顔で白ウサギと王子のやりとりを見つめるありさに声をかけた。

「おどろかせてすまなかった」

「いっ、いえ……」

 ここまでいそいで走ってきたのだろうか、よく見ると王子の首すじには汗が伝っていた。

(あのまま王子が呼びもどしてくれなかったら、私は今ごろどうなってたんだろう)

 ありさはぶるっと体をふるわせる。すると、王子は床にひざまずいてありさの顔を下からのぞきこんだ。

「こわかっただろう。本当にわるかった」

「へ……へぇっ……?」

 下がった眉に上目づかい……城での姿からは想像できないようなやさしいまなざしに、胸を打ち抜かれたような甘い衝撃がはしる。ありさはふらっとよろけながら、ドキドキする心臓をおさえた。

「こ、これが莉歩の言ってたギャップ萌えってやつ……!」

「は?」

「いっ、いえ! なんでもないです!」

 ありさは真っ赤な顔を隠すように両手で頬をおおった。そういえば三羽の小鳥もハートの王子はやさしいと言っていた。こういうことだったのか、とありさはようやく納得した。

「あっ」

 ここでありさは思い出した。王子はありさが牢屋から逃げられるようワンピースにカギを仕込んでくれていたのだ。

「なんだ」

「あの、カギ……ありがとうございました。王子さまのおかげで私助かりました」

 なんとなく白ウサギに聞こえないように小声で伝える。すると、王子は「なんのことだ?」と背中を向けた。

 先ほどとはまた打って変わり、つっけんどんな態度だったが耳はほのかに色づいていた。淡いピンク色に染まった耳を見てありさは口を押さえてふふふと小さく笑う。

「なに二人だけの世界に入ってんのさ」

「わっ!」

 背後から聞こえた白ウサギの声にありさの体がびくっとはねた。白ウサギはくちびるをとがらせながら、ありさの肩にちょこんとあごを置いた。

 美少年にこんなことをされてときめかないわけがない。白ウサギの吐息が首にふれるたびに、体温が上昇していく。よく見てもよく見なくても白ウサギもハートの王子も超がつくほどのイケメンだ。今さらながら、ありさはこの状況に頭がついていかない。

「……」

「……」

「……」

 三人の間に気まずい沈黙がながれる。そんな中最初に口を開いたのは……

「にゃにゃにゃにゃ~ん!!!」

「わっ! チェシャ猫さん!」

「チェシャ猫、おまえいつからそこにいた?」

「最初から、にゃあ」

 チェシャ猫は王子に向かって長い舌を突き出すと、白ウサギを押し退け、正面からありさを抱きしめた。そのすさまじいいきおいにありさは「ぐえ」とマヌケな声をもらす。

「現実にもどるアリスちゃんのお見送りに来たんだにゃあ!」

「く、くるしい! くるしいってばー!」

「あとこれ、忘れものにゃ」

 そう言ってチェシャ猫はパーカーの中から取り出した丸メガネをありさにそっと掛けた。そういえば……と、トランプ城の中で王子にメガネを外されたことを思い出した。いつもならぼやけているはずの世界があまりにも鮮明に映っていたおかげで今の今まで気が付かなかった。ふしぎの国というのは、視力まで良くしてくれるのか。

 ひとりで感心しているとチェシャ猫は「はは」と乾いたような笑い声をあげ、そしてやさしくありさを抱きしめた。

「アリスちゃん、さっきはだましてごめん」

 ありさの耳元でそうつぶやいたチェシャ猫の声色はいつものふざけた感じではなかった。初めて見るチェシャ猫の弱々しい一面に、とまどいとときめきの感情が複雑に入り混じった。

 わずかな手のふるえさえも何故だか今は愛おしく感じる。きっとチェシャ猫にもさまざまな事情があったのだろう。ありさはにこりと笑うと、チェシャ猫に向きなおった。

「ううん、小鳥ちゃんたちに聞きました。とらわれた私を助けようとしてくれたこと」

 ありさはありがとうと頭を下げるとチェシャ猫は感激したように目をうるませ、そのままありさに頬ずりをした。

「わ~ん! アリスちゃんがもどっちゃうのさびしいにゃあ~! やだやだ~!」

 いつもの調子にもどったチェシャ猫に、ありさは「もう」と笑ってみせる。

 白ウサギはやれやれと頭をかきながら、チェシャ猫が着ているパーカーのフードをぐんっと強く引っぱった。

「ぐえ」

「チェシャ猫は本っ当いいとこ取りだよねぇ」

 白ウサギは笑顔でありさからチェシャ猫を引きはなすが、その声は明らかにいらだっていた。そんな白ウサギを見て、からかうように舌を出すチェシャ猫、そして腕を組みながらあきれたように二人を見るハートの王子……なんだかクラスの三人を見ているようで、ありさはつい吹き出してしまった。

「なに? アリス」

「ごめんなさい。なんだかクラスの友達を見てるみたいでおもしろくって」

 ありさが目尻に浮かぶ涙をぬぐいながらつぶやくと、チェシャ猫が「にゃはは」とおかしそうに笑った。

 白ウサギは恥ずかしそうにこめかみをかくと、ジャケットから懐中時計を取り出し、こほんとせきばらいをした。

 時刻は十一時五十五分。約束の時刻まで、あと五分。

「さあアリス。そろそろ現実にもどる時間だよ」

 白ウサギが空気をなでるようにそっと手をかざすと、手品のようにとびらがぬらりとあらわれた。

「わっ!」

「このとびらの向こうに、現実につながる鏡がある。キミが見つけたそのカギが本物ならこのとびらが開くはずだ」

 白ウサギはかぎ穴を指さした。ありさは緊張した面持ちで、持っていたカギをそうっとかぎ穴に入れる。右にくるっと一回転させると、がちゃんと重たい音を立ててとびらがゆっくりと開いた。

「開いた……!」

 開いたとびらの中にはおどり場にあった鏡と同じものがあった。水面の中でゆらゆらとあやしく揺れる鏡。この中に飛びこめば、元の世界にもどれるのだ。

「これが、現実につながる鏡……」

 ありさは鏡にそっと手を伸ばす。

「アリス」

 振りかえると、白ウサギはさびしそうな顔でありさを見つめていた。

「本当に、行ってしまうんだね」

「……うん。私には帰る場所があるから」

 ありさは決心したようにつぶやくと、揺れる鏡の前に立ち直した。

「いろいろあったけどこの世界にこれてよかった。みんなありがとう」

 ありさは前を向いたままつぶやいた。にぎった手に力をこめると、しっかりと目の前の鏡を見つめ。深呼吸をくりかえす。

「うんうん。アリスならきっと大丈夫にゃあ」

「ああ、おまえは確かに成長した」

 チェシャ猫と王子の声を背中で受けとめながら、ありさはそっと目を閉じる。

「愛しのアリス、ボクたちはキミの背中を押そう」

 白ウサギの声とともに、三人の手がありさの背中をトンとやさしく押した。ありさの体はそのままゆっくりと鏡の中に吸いこまれ、真っ逆さまに落ちていく。

「……っ」

 遠くなる意識の中で最後に聞こえたのは三人の声だった。


「さよなら、ありさ」


 

キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン

 下校を知らせるチャイムの音が聞こえる。ありさは夢の中でうずくまりながら、その音に耳をかたむけていた。

(ここはどこ? 私まだ夢の中なの?)

 真っ暗な世界に閉じこめられたありさは、水の中にいるような息苦しさを感じた。それから体がまた夢の底にしずんでいくような、イヤな感覚をおぼえる。 

 ありさはどんどん遠くなる夢の出口に手を伸ばした。

(誰、か……)

「さ……ちゃん! ありさちゃん!」

 とつぜん頭の中でだれかの声が響き、ありさはいきおいよく目を開いた。するとそこには宇佐真白、猫田伸也、愛上心の姿があった。三人はありさの顔を心配そうに見つめている。

「……ぴゃっ!?」

 ありさはおどろいて上半身を起こす。そしてそのまま三人から距離を取るように後ずさった。

「白ウサギ? チェシャ猫? ハートの王子? わ、私まだふしぎの国にいるの? もしかして、時間オーバー!?」

 頭をかかえながらひとり混乱するありさと、頭上にはてなマークを浮かべる三人。きょろきょろとあたりを見わたすが、そこにはいつもと変わらない校内の風景が広がっているだけだった。

 ふしぎの国につながっていた金枠の鏡も、いつのまにかどこにでもあるシンプルな全身鏡に姿をもどしている。

「……夢?」

 シーンとした空気がながれ、ありさはハッと我にかえる。三人からの視線がやけに痛い。

「えっとー……大丈夫? もしかしてどこかで頭打っちゃったかな?」

 真白はありさと目線を合わせるように腰をかがめた。さらさらの黒い髪から、シャンプーのような清潔な香りがふわりと舞う。

「どうする? 保健室に連れて行こうか?」

 ありさを心配そうに見つめる真白の黒い瞳はうそもいつわりもなく澄んでいた。

「だっ、大丈夫。ごめんなさい……」

 ありさは顔を赤らめながら、真白から目をそらした。頭の中はまだ現実と夢の間でふわふわしている。

 妙にリアルな夢だった。

 ありさは目の前にいる真白、伸也、心をちらちらと横目で見る。しかしそこには夢で見たあの三人の面影はどこにもなかった。きっとあれは自分のあこがれがつくりだした幻だったのだろう。ありさはそう思うことにした。

 そしてありさはなにかを思い出したようにまわりを見わたす。ここにはあのふしぎの国のような時計台は無い。

「それより今何時!?」

 伸也は首をかしげながらパーカーのそでをまくり、デジタル腕時計の液晶をありさに見せた。

「四時二十分だけど?」

「え? 四時二十分? うそ……」

 ありさは目をうたがう。まだ十五分しかたっていないのだ。

「ありちゃん? どしたの? おーい?」

 伸也は固まるありさの目の前で手をぶんぶんと振り、意識を確認する。

「お姫さまだっこで保健室連れてくよー?」

「はっ! 大丈夫です! 元気元気!」

 気丈に振る舞うありさを見て真白は眉を下げながら笑うと、思い出したように「そうだそうだ」と一冊のノートを差し出した。

「ありさちゃん、これ」

 ノートの表紙には『わたしの国のアリス』と書かれていた。

「ごめんね。階段の下に落ちてたから、中ちょっと見ちゃった」

「あっ……!」

 ありさは手わたされたノートをすばやくうばいとると、胸の中で強く抱きしめた。

(ど、どうしよう。三人に見られちゃった)

(きっと笑われる。やだ。笑われるのがこわい)

(ダメだ…… 私やっぱりなにも成長してない……)

 鼻の奥がつんと熱くなる。泣きそうな顔を見られないようにうつむいていると、思いもよらない言葉がふってきた。

「ありちゃん! マジで才能あるよ!」

「……へ?」

 予想外の言葉にありさは思わず顔を上げた。伸也はくしゃっとした笑顔で、ありさのずれたメガネを直す。その仕草に夢で見たチェシャ猫の姿が重なった。

「ダメだって思いながらもページ開いたら三人して止まらなくなっちゃってさ~、気づいたら半分くらい読んじゃったよ。で、持ち主探そうと思って階段上がったら踊り場の鏡の前でありちゃんがたおれてるんだもん。もー俺たちびっくり」

 ありさは口をポカンと開きながら伸也の顔を見つめる。伸也はそんなありさの顔を見てぷっと吹き出すと、ありさの頭をそっと撫でた。

「俺たちね、ウソは言わないよ」

 少しほそめの目がやわらかく弧をえがいた。いつもおちゃらけている伸也のやさしい笑顔に、胸がドキドキする。

 すると二人のやり取りをずっと見ていた心がありさの隣に腰を下ろした。心は、クラスで見るときよりもずっとやさしい眼差しをしていた。

「心くん……」

「なあ加賀見。校舎の掲示板に貼ってた小説コンテスト、応募してみたら?」

 やわらかい声で心はそう言った。

「でも……」

「僕は好きだけどね、ありさワールド」

 真白はやさしくほほえむと、ありさにそっと手を差し伸べた。心の中がじんわりと温かくなっていくのを感じる。

 ありさは顔をあげ、三人の顔をじっと見る。真白も、伸也も、心も、誰もありさを笑ってはいなかった。

「うん」

 ありさは真白の手にゆっくりと手を伸ばす。

 二人の手が重なると真白はそのままありさの体を起こすようにぐいっと強く引っ張った。男の子のいきおいある力に、ありさは前方によろめいた。

「おっと」

「あぶねっ」

 すると真白と伸也と心の三人があわててありさの体を支える。息の合った三人の姿に、ありさは口元をほころばせた。

「ありがとう。勝手に敬遠してたけど、みんな本当にやさしいんだね」

 真白は笑顔を浮かべ、伸也は照れくさそうに鼻をかく。心は眉間にしわを寄せたあと、ふいっとそっぽを向いた。なにか気にさわることを言ってしまっただろうか、と不安をいだくまえに伸也が心の背中を見てニヤニヤと笑う。

「あれ~? 心ちゃんお耳が赤いですね~? もしかして照れてるんですか~?」

「う、うるさい! あとその呼び名で呼ぶな! バカネコ!」

「バッ、バカネコぉ……!?」

 二人がぎゃーぎゃーと言い争うのを見て、真白がやれやれとため息をつく。

 ああ、確か夢の終わりにもこんなことがあったな。

 頭のなかでぼんやりとそんなことを思っていると、東棟にチャイムが鳴りひびいた。


キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン

 四回続く鐘の音。それは完全下校の知らせだった。

 教室にはまだ妃芽たちがいるかもしれない。おそってきた現実に、また息苦しさをおぼえる。

「私、教室にもどらなきゃ…… 妃芽たちが待ってる……」

 ノートを胸に抱き歩きはじめると、ずっと気を失っていたせいもあり体が左右にふらつく。

「うおっと!」

 伸也はふらつくありさの体を右腕でしっかりと受け止めた。運動神経が良い伸也の体は筋肉質で、自分との体のちがいにドキドキする。

「顔色がよくないね。今日は僕たちが家まで送るよ。伸也と心、教室にいる妃芽ちゃんたちに伝えてきて。あ、僕たちが家まで送ることは伝えずにね」

「了解」

 目の前でくり広げられるテキパキとした指示と連携に、ありさはおもわず感心する。そして伸也と心が教室に向かい、踊り場にはありさと真白の二人がとりのこされた。真白と二人きりになるのはこれで二度目だったが、そう簡単に慣れるものではない。

(き、気まずい)

 ちらりと横目で真白を見ると、真白は目尻をほそめた。王子さまのようなさわやかな笑顔に、またもや胸が高鳴る。

「どうしたの? ありさちゃん」

「いっ、いや、その……」

 真白たちはなぜこんな自分にやさしくしてくれるのだろう。妃芽のようにかわいくもないし、沙里花のように明るくもないし、莉歩のようにしっかりもしていない自分に……

「あ、もしかして今自分を責めるようなこと考えてる?」

 顔に出ていたのか、見事に言い当てられ体がビクッとはねる。

「なっ、なんで」

「ん?」

「なんで真白くんたちはこんな私にもやさしくしてくれるの……?」

「それは」

 言葉につまる真白。

「それはキミが……」

 この人たちはやさしい。今こうして自分を助けてくれたのだって、ボランティアの一環にしか過ぎないかもしれない。だけど目の前の相手にそれらを一切感じさせないやさしさと魅力が彼らにはある。

「ごめん変なこと聞いちゃっ……」

 すると真白がとつぜんありさの手首をつかんだ。黒い瞳の奥で、かすかに赤い光がゆらめいた気がした。どこかで見たことがある赤い瞳。

「真白くん?」

「それはキミがボクの……」

「え……?」

「……僕の、友達だからだよ」

 真白はなにかを言いかけたが、すぐに手を離し、いつもの笑顔でありさにほほえんだ。

「そっ、そっか! そうだよね」

 にぎられた手首が熱い。ありさはふしぎの国で出会った白ウサギを思い出し、また頬を赤く染める。

「おーふーたーりーさーん」

 声をした方向を向くと、伸也と心がありさと真白の分の荷物を抱えて立っていた。

「真白ぉ、なにありちゃんとイチャイチャしてんだよっ!」

「イッ、イチャイチャだなんて!」

「いや~見られちゃったら言いのがれできないなあ」

「真白くんまで!」

「はいはい。早く帰るぞお前ら」

 ありさは心から手わたされたランドセルを背負うと、三人の後を追うように東棟から出た。

 少し肌寒くなってきた秋空の下で真白がつぶやく。

「きれいな夕焼け空だね」

 ありさは立ち止まり、空を見上げる。それは絵の具のパレットのようなカラフルな空でもなければ、スパンコールが散りばめられたような空でもない。

「うん……すごくきれい」

 それでも、見上げたオレンジ色の夕陽は涙が出そうなくらいきれいだった。


 

 翌日、いつも通りの朝をむかえたありさはいつも通りに校門をくぐり、そしていつも通りに友達が待つ教室のとびらを開いた。

「ありさおは~!」

「今日は早いじゃーん」

 いつもと変わらない三人の笑顔に、まずはホッと胸をなで下ろす。

「お、おはよう」

「昨日は大丈夫だったの? 保健の先生から送ってもらったんでしょ」

「あ、うん。そう。そうなの」

 そういう設定なんだな、と思いながらありさは足早に自分の机に向かう。ありさの席を囲うようにたむろしていた妃芽、沙里花、莉歩は待ってましたと言わんばかりに早速昨日の話題を口にした。

「てか昨日はめっちゃびっくりしたよ~」

「ね。いきなりありさが教室からと飛び出しちゃうんだもん」

「あはは、ごめんごめん」

 ありさはそう言いながら、ランドセルから取り出したノートをバンと音を立てて机の上に置いた。そして席に着くと筆箱からえんぴつを取り出し、右手ににぎる。三人は首をかしげながらありさの一連の行動をじーっと見つめていた。

「なにしてんの?」

「小説書くんだ」

「小説う? あ、もしかしてもしかして、わたしの国のなんとかってやつ?」

 妃芽ががにやにやと笑いながら、ありさのノートをのぞきこもうと首を伸ばす。しかしありさはそのノートを隠そうとはしなかった。

「そう。コンクールに送って受賞目指すの!」

 教室中に響きわたるほど堂々と言いはなったありさを見て、妃芽、沙里花、莉歩は目を丸くした。クラスメイトたちもありさたちの方をふしぎそうに見つめている。

 心の中のありさは「言ってしまったあ!」と緊張で頭をかかえている。しかしここまで来たらもう後もどりはできない。

 ありさはバクバク鳴りひびく心臓の音に気づかれないよう祈りながら、澄ました顔でまたノートに向きなおった。

 すると教室のすみでウズウズしていた伸也がにやりと笑った。

「きゃ~! ありちゃんかっくい~!」

 シーンとなった教室の空気をこわすように、伸也は後ろからありさにおおいかぶさった。

「わっ! ねっ、猫田くん!?」

 とつぜんの出来事に、教室中の女子がキャー!と黄色い声をあげた。ありさはどうすればいいか分からず、真っ赤な顔でうろたえる。すると、伸也より頭ひとつ分大きい体がいとも簡単にその図体を引きはがした。すきとおるような白い肌に、さらさらの黒髪……目の前に立っていたのは真白だった。ありさは昨日の放課後に見た夢をまた思い出し、のどをごくりと鳴らした。赤い目で冷こくに笑う白ウサギの姿が頭の中をちらつく。

「こら、伸也。ありさちゃんが困ってるだろ」

 しかしありさの思いとは裏腹に、それはとてもやさしい声だった。伸也のフードを引っぱりながら、やれやれとあきれたようにため息をつく真白。真白の登場で教室はまたザワつき、クラスメイトの視線はありさに集まった。

(な、なんか注目されてるような……)

 おもわず身を小さくすると、ありさの頭にぽんとだれかの手が置かれた。顔を上げると、そこには今までに見たことがないくらいおだやかな顔をした心が立っていた。

「頑張れよ。応援してる」

 心はそう言って目尻をほそめると、ありさの頭をわしゃわしゃとなでた。それを見た妃芽、沙里花、莉歩、そしてクラスの女子全員が、ギャー!と悲鳴のような声をあげる。教室の中はお祭り状態だ。

「ちょっと見た!? あの心くんが笑ったんだけど!」

「ありさすごくない!?」

 ありさを囲っていた三人が興奮気味にありさの肩を揺さぶる。静まりかえっていた教室は、あっという間にいつものさわがしい朝の日常にもどっていた。ありさは三人をなだめながら、横目で真白たちの姿をさがす。しかし、もう教室内に三人の姿はなかった。

そして三人の興奮がおさまったころ、莉歩がとつぜんありさに「ごめん」と頭を下げた。ありさはきょとんとした顔で莉歩を見つめる。

「あっ、あのさ、その……昨日は面白がってごめん。あたし、ありさの夢、知らなくて……ありさが泣きそうな顔で教室飛びだして、あたし、ずっとそれが心に引っかかってて……あの……」

 目に涙を浮かべ言葉につまりながら、莉歩はありさに何度も「ごめん」とくり返した。すると、だまっていた沙里花と妃芽も申し訳なさそうに「私たちもごめん」と頭を下げる。

「ありさがやさしいからって、私たちちょっと調子に乗り過ぎてたかも……」

 三人からの謝罪にありさは一瞬おどろいたものの、すぐに笑顔でううんと首を横にふった。

「ううん。私の方こそムキになっちゃってごめんね」

 ありさが照れくさそうにつぶやくと、妃芽は瞳をうるませながらありさをぎゅうと強く抱きしめた。

「本が発売されたら妃芽一番に買うからー!」

「もー、妃芽気がはやいって」

 ありさと妃芽は顔を見合わせて笑う。沙里花、莉歩も安心したような笑顔を見せると、四人はまた声をあげて笑った。

 自信がついたありさは机の上のノートとまた向き合った。昨日の出来事をひとつひとつ思い出しながら、えんぴつをすらすらと走らせる。

 その様子をかげから見ていた真白、伸也、心の三人は、小さく笑みをこぼした。



 それから四か月後。

 ありさは今、全校生徒の前にいた。

 緊張した面持ちで校内中に響きわたる拍手の音を全身で受け止める。

(夢、みたい……)

 あれから何度も見直しと書き直しを重ね、コンクールに応募した作品『わたしの国のアリス』は主人公のリアルな心情が評価され、最優秀賞を受賞した。なんとおどろくことに現在は書籍化の話まですすんでいる。

「加賀見さん、おめでとう」

 壇上で校長先生から賞状を受けとると、拍手の音はさらに大きくなった。

「それでは、第五十三回小学生小説コンクール最優秀賞を受賞された加賀見ありささんから一言おねがいします」

 アナウンスをした先生がありさにマイクを手わたす。ありさはわたされたマイクをにぎりしめ、ごぐんとのどをならすと、まっすぐに前を向いた。

「六年二組の加賀見ありさです!」

 その表情は晴れ晴れしく、自信なさげにうつむいていたありさはもうどこにもいなかった。

 


「放課後の学校でふしぎの国の迷いこんだ主人公ありす。自信のないありすは三人の男の子に出会い、徐々に自分の弱さと向き合っていく……か」

 学校が発行する新聞『城東通信』の見出し記事を心が口に出して読む。紙面には自信にみちあふれたありさの笑顔の写真。その胸元には青い鳥のブローチが光っていた。

 心は口のはしを小さく持ちあげると、バタバタと風になびく新聞を伸也に手わたした。伸也は新聞をくるくるっとほそく丸めると、それを望遠鏡のようにして全校集会が行われている体育館をのぞきこむ。

「まさかありちゃんの小説が最優秀賞に選ばれるなんてね~ さすが俺たちが見込んだアリスさま」

「あいつは永遠のアリスじゃないって言っただろ。それにそんなことしなくてもここからだとよく見えるだろバカ伸也」

 心が丸められた新聞を伸也から取り上げる。

「あはは、かわいいありちゃんが載った新聞をくるくるに丸めてごめんね心きゅーん」

「だまれ」

 心からの足蹴りをかわしながら、伸也は黙々とスマートフォンをいじる真白を背後からのぞきこんだ。

「真白? さっきからなーに見てんの?」

 画面には全米で行われているフィギュアスケート選手権の様子が速報で表示されていた。

「九十人目のアリス、この前の大会で優勝したんだって」

「へー! やったじゃん! あの子右足のケガで相当自信なくしてたもんね~」

「そういえば七十九番目の片耳の聴覚失ったアリスもこないだピアノのコンクールで賞もらったって言ってたな」

 真白は「そう」と一言だけつぶやくと、スマートフォンをズボンのポケットにしまった。体育館からはぞろぞろと生徒がながれだしている。

「ねね、オレたちもそろそろ行かなきゃ。全校集会サボったことバレちゃうよ~」

 伸也は二人をうながすように屋上のとびらを指差すが、真白はまだ人の波をぼんやりとながめていた。心がその視線をたどると、そこにはたくさんの生徒に囲まれるありさの姿があった。

 心はいじわるそうな笑みを浮かべながら、真白の耳元でささやく。

「残念だったな。加賀美ありさが永遠のアリスじゃなくて」

 真白はぱちぱちと何度か目をしばたたかせると、もたれていたフェンスから体を離した。

「あはは、そうだね。残念かも」

 真白は笑いながら「素直でかわいかったからね」と付け足した。

「まさか現実の世界で白ウサギの存在を気づかせようとするなんてな。おまえらしくない」

「見てたんだ」

「当たりまえだ」

 真白は昨日の東棟でのことを思い出した。

『なんで、真白くんたちはこんな私にもやさしくしてくれるの……?』

『それはキミが……』


───ボクたちのアリスだから

 

「……永遠のアリスじゃなくても、あの子がアリスだったのはまちがいない。ボクたちのアリス選びは今回も正しかったよ」

 真白の言葉に伸也と心はうなずいた。

「だなっ!」

「それにしても、いつになったら見つかるんだろうな永遠のアリスは」

 息を落としながらつぶやく心に、伸也は八重歯を見せながらニカッと笑いかける。

「でも今回は存分に楽しませてもらったからいいかにゃあ」

「伸也、ここは学校だよ。ひげもちょっと出てるし」

「んにゃあっ! そうだった!」

 三人は顔を見合わせて笑うと、屋上のとびらに手をかけた。三人の赤い目が、まだ見ぬアリスをさ探しもとめるようにきらりとあやしく光る。

「さて」


「次はどんなアリスが迷いこむかな」


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放課後のアリス 江乃 @otoeno

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