りんじんぞう
小金井ゴル
りんじんぞう
1.
私はフリーのイラストレーターとして活動する傍ら、自宅近くのスーパーでパートの仕事をしている。
数年前のある日、バックヤードに同僚女性数人で集まり、雑談をしていたときのこと。
問題のアパートは、通学路に各部屋のベランダを向ける形で建っている。
そのあたりの道は私も日常的に使っているので、漠然とだが「あの建物かな」とイメージすることができた。
クリーム色の外壁に黒いスレート屋根を載せた、どこにでもある、ちょっと小綺麗な普通のアパートだ。二階建てで、一フロアは四部屋。
その建物の二階、一番東の角部屋に、出るのだという。正確に言うならばその部屋の、通学路に面したベランダの一角に現れる。
女である。
こちらに背を向けた女が、ぼうっ……とベランダに立って、部屋の中を見つめているのである。
一見すると、普通の人間となんら変わらない。何かの手違いで部屋から閉め出されてしまった住人が、途方に暮れているようにも見える。茶色がかった髪を肩のあたりまで伸ばしており、部屋着のようなパジャマのような、くつろいだ服装をしているそうだ。
基本的に、女はただ立っている。
現われる季節も時間帯もまちまちだが、その行動には一切変化がない。陽炎が揺らぐ真夏の炎天下でも、冷たい風が吹きすさぶ冬の夕暮れでも、女はいつもと寸分違わぬ位置、寸分違わぬ姿で、そこにいる。左肩のちょっと下がった姿勢すら、毎回変わらないそうだ。
鳥辺さんの息子いわく、そのの通学路を日常的に使っている生徒なら、誰でも一度か二度はその女性の姿を見ているらしい。
ほとんどの目撃者は、それを幽霊だなどとは思わない。単に「ちょっと変わった女の人がいるな」と思う程度だ。それ以上、恐ろしい体験をするわけでも、危害を加えられるわけでもない。ただし。
ごくまれにだが、女が部屋の中ではなく、こちらを──通学路のほうを向いて立っていることがある。そのときだけは、話が別だ。
もしも、女と目が合ってしまったら。
死ぬ。
元々怪談好きということもあって、興味深く話を聞いていた私は、そこで思わず噴き出してしまった。
途中までは実話らしい、抑制の効いた手触りがあったのに、最後でいきなり火力が上がりすぎである。ただまあ、小学生の噂話らしいといえば、らしい。
そう言うと、鳥辺さんも「そうよねえ」と破顔した。
「でもうちの子ったら本気にしちゃって。怖いから、もう、あの道通りたくないなんて言うのよ」
「かわいいじゃないですか。私だって子供のころは、近所のトンネルとか通れなかったですよ。暴走族の落書きが、意味もなく怖かったりして」
「そうねえ。でも」
と、彼女はふいに、顔を曇らせる。
「そういう変な人が小学校の近くに住んでるって考えたら、ちょっと心配よね。結局うちの子は見てないんだけど……PTAで一緒のお母さんたちの中には、確かに自分も見た、って言う人もいるのよ。ベランダに立ってる女の人」
「ああ」
確かに、それが生身の人間であるなら、子を持つ親にとっては現実的な脅威である。
「不審者として通報……は、ちょっと難しそうですね。自分の家のベランダに立ってるだけだし、いつもいるわけでもないし」
「そうよねえ。オジサンとかならともかく、女の人だしねえ」
「いやあ……。それね、違うと思うよ、たぶん」
と、だしぬけに声をかけてきたのは、私たちのグループから少し離れたところで弁当を広げている女性だった。同じパート仲間だが、私たちより十五から二十ほど歳上で、普段はそんなに言葉も交わさない。
「違うって、どういうこと。
鳥辺さんが問い返すと、その女性、安達さんは、苦いものでも食わされたような顔をする。
「あんたたちが話してる建物ってさ、四丁目の『コーポ
「知らないわよ名前まで」
「そうなんだってば。うちのお嫁さんが独身の頃住んでたんだもの、そこ。ほんの三、四年前よ」
四年前が「ほんの」かどうかは異論がありそうだが、興味深い証言ではある。
「住んでたって、その、ベランダに女が立つ部屋にですか」
「違う違う。そこは二〇四。お嫁さんが住んでたのは、その下よ。一階」
「じゃあ、一〇四」
「そう。で、上の人があんまりコロコロ変わるから、気味が悪くなって息子の部屋に転がりこんできたの。おかげでまあ、息子のほうも身を固めるふんぎりがついたわけだから、ありがたいっちゃありがたい話だけど」
ふんぎりの話はどうでもいいが、興味深い証言ではある。
「コロコロ変わるっていうのは……」
「お嫁さん、二年間ばかりそこに住んでたんだけどさ。その間に……十人だったか、十五人だったか、そのくらいは人の出入りがあったんだって」
確かに尋常なペースではない。少なく見積もっても、ひとりあたり二カ月半ほどで転居していることになる。
「それは……つまりその、女の姿を見てしまうから、ということですよね。その部屋のリビングからは、ベランダに立つ女の姿がもろに見えてしまうから、そのせいで……」
「いや。うーん。そうは言ってなかったけどねえ」
と、安達さんは途端に歯切れが悪くなる。
「じゃあ、なんと言ってたんですか」
「んん……まあ、又聞きだから、あんまり真に受けないんでほしいんだけどね。死ぬのよ」
「え」
ぞわ、と首の後ろの毛が逆立つ感覚。
「全員じゃないわよ? 全員じゃないんだけど……仕事から帰ってきたら上の部屋の前に救急隊がいたとか……小さい赤ちゃん連れで越してきたのに、出ていくときはご夫婦だけになってたとか……あとは、そう、ペットのハムスターだかインコだかがどんどん死んじゃって、変なガスでも出てるんじゃないかって大家さんにゴネてる人がいたとか、ね。そういう場面を何度も見ちゃって、それですっかり気味が悪くなっちゃったのよ。うちのお嫁さん」
死の続く部屋。
それは──ベランダに立つ女のせいではないのか。
視線によって死をもたらす、ベランダの女。その女が見つめるリビングで暮らしていたせいで、二〇四号室の住人たちは急激に命をすり減らされてしまったのではないか。そして赤ん坊や小動物のような、体力の少ない者から、順に──。
わざわざ口に出すまでもなく、会話に参加していた全員が、同じ疑念を抱いていることがわかった。鳥辺さんが、ぽつりと漏らす。
「まあ……わざわざ無理に通らなくてもいいって、息子には言っとくわ。不審者かもしれないし、ね」
私は頷き、そして思った。
自分も、できるだけあの道は通らないようにしようと。
2.
それから一年ほどして、この話を人前で話す機会があった。県内某所で開かれた怪談イベントに参加したときのことだ。
壇上に立つ怪談師たちが手持ちの怪談をひとしきり披露し、場がすっかり温まったところで、そのうちのひとりが、こんなことを言った。
「実は僕、最近、アパートとかマンションの怪談とかを集めてまして。もしこの場のお客さんの中に『知っとるでー』って人がいたら、手ぇあげてもらってもいいですか」
観客席から、にょきにょきと手が伸びる。少し迷った末、私も挙手をした。
「ほんなら、そっち、左の奥のお姉さん」
私だ。
指名を受けた私は、つっかえつっかえ、例の話を語った。壇上の怪談師や観客からの反応はなかなか好意的で、あの日は口に出さなかった推測──ベランダの女の視線こそが二〇四号室に死をもたらしているのではないかという仮説を語ったときには、会場がどよめきさえした。
怪談イベントはつつがなく終了し、私は帰途に就こうとした。
オールナイトのイベントだったので、外は早朝だ。徹夜明けで乾いた目に、朝日がちくちくとしみる。会場から吐き出されていく人波から離れ、看板の前で目薬を探していると、ふいに声をかけられた。
「あの話、
ぎょっとして振りむくと、私より少し年下くらいの、小綺麗な女性がいた。猫を思わせる、人懐っこい顔立ちだ。怪談イベントの会場で見た顔である。
さっき私は、人名はもちろん、地名やアパート名も伏せて語った(ちなみに、本稿に登場する固有名詞もすべて仮名である)。にもかかわらず、彼女がアパートの場所と名前を正確に言い当てたということは……。
「あたし、新卒の頃あそこに住んでたんです。もう十年前くらいかな……。二○四じゃなくて、二〇三でしたけど」
やはり、直接の関係者。
ベランダに女が出る部屋の、隣の住人か。
私があっけにとられていると、彼女は悪戯っぽく笑った。
「ちょっとお茶しませんか。まあ、マックぐらいしか開いてないかもですけど。この話……前から一度、誰かに話したかったんです。今がそのときかなって」
気づいたときには、頷いていた。
彼女は
ハンバーガーチェーンのコーヒーにミルクを垂らしながら、彼女は言った。
「そのベランダの人、たぶん、さやかお姉ちゃんだと思うんです」
「え? は?」
私は、自分でも滑稽なくらいにうろたえた。そんな私にくすりと笑いかけ、阿用川さんは続ける。
「お姉ちゃんっていっても、実の姉じゃなくて、母方のいとこです。結構歳が離れてましたけど、小さい頃は親戚の集まりなんかでよく遊んでもらって、懐いてましたね、私。もっともお互い成長するにつれて、だんだん疎遠になっていきましたけど。亡くなる直前の十年くらいは完全に没交渉でしたよ。お葬式も行かなかったし」
「亡くなったん……ですか。あのアパートで?」
「いいえ? 違います。ぜんぜん違う場所です」
そう言って、彼女が名を挙げたのは西日本のとある県だった。ここは関東。確かに、まるっきり別の土地である。
「じゃあ、どうして」
「たぶん……あたしが呼んじゃったんだと思うんですよね」
阿用川さんはそう言って、ガラスの向こうに視線を泳がせた。
「あのアパートに住んでたの、新卒の頃だったって言いましたよね。そのとき入った会社っていうのが、まあブラックとまでは言わないけど、けっこうキツい職場で。休日出勤も多くて、なんかもう、家にはほとんど寝に帰るだけ、って感じだったんです。それでもだんだん仕事ものみこめてきて、しんどいなりにやりがい感じたりもして。なんとかやっていけるんじゃないかな、って自信を持ちはじめた頃に……あの人が引っ越してきたんですよね」
「……隣の、二〇四に?」
「そう、二〇四に。詳しくは知らないけど、シングルマザーだったみたいで。まだ小さい……一歳? 二歳かな? そのくらいのお子さんを連れてました。で……その子がね。泣くんですよ。夜」
コーポ一条の壁は薄く、夜泣きの声は阿用川さんの部屋までよく響いた。しかも母親は子供の扱いに不慣れなのか、それとも泣くに任せて我が子を放置しているのか、なかなか泣きやまない。やっと止まったと思っても、二、三時間ほどの間隔を開けて、また再開する。
阿用川さんはたびたび、泣き叫ぶ赤子によって眠りを妨げられることになった。
はじめのうちは我慢していた。子供だって、別に悪意があって泣いているわけでもないし、シングルマザーの苦労もしのばれる。だが慢性的な睡眠不足によって実害が生じはじめると、そうも言っていられなくなった。
集中力の低下によってミスが増え、せっかく順調だった仕事の成績はみるみる低下した。音に過敏になり、赤子の鳴き声だけでなく、幼稚園の子供たちがあげる嬌声や動物の鳴き声すら受けつけなくなった。ストレスで髪が抜け、体重が激減した。
「耳栓を試してもダメでした。大家さんに相談しても、『あなたもいつかママになるんだし』とか言って、動いてくれないし。あのシンママも結構苦労してた人っぽいんで、きっと同情してたんでしょうね。……だったらもう少し、ストレスでボロボロのあたしにも同情してほしかったですけど」
阿用川さんはそう言って、乾いた笑みを浮かべた。こちらは笑い返してよいのかどうかもわからない。この話がどこへ向かうのか、私はまだはかりかねていた。
「もちろん、本人にも言いました。けど、口ではすみません気をつけますって言うくせに、ぜんぜん改善されなくて。我慢できなくなってまた苦情を言いに行くと、めそめそ泣くんです。それじゃ、あたしが一方的な悪者みたいじゃないですか。こっちだって泣きたかったのに。引っ越そうにも仕事は忙しいし、貯金もそんなにないし……でね。ある夜、暗い気持ちで二〇四側の壁を眺めてたら、ふっと思いだしたんです。さやかお姉ちゃんのこと」
このときすでに「さやかお姉ちゃん」は故人となっていた。
自殺だった。
彼女は大学を卒業して間もなく結婚し、夫の実家で主婦として暮らしていたらしい。平凡ながら、幸せな新婚生活だったそうだ。
歯車が狂ったきっかけは、彼女が産んだ待望の第一子が、生まれて間もなく亡くなってしまったことだった。いわゆる突然死、自然死だった。「さやかお姉ちゃん」がわずかに目を離した間に起きた、避けようのない悲劇だった。
だが夫も、義理の父母も「さやかお姉ちゃん」を責めた。責められて、責められ疲れて……「さやかお姉ちゃん」は死んだ。部屋着のまま、夫の車に排ガスのチューブを引き込んで、自ら命を絶ったのだ。
阿用川さんは「さやかお姉ちゃん」の死後、母親からその経緯を聞かされて、なんともやりきれない思いを感じたそうだ。
「でね。あたし、二〇四号室のほうを向きながら、心の中で、さやかお姉ちゃんに呼びかけたんですよ。理不尽だよね、って。さやかお姉ちゃんにだって、もっと幸せになる権利があったのに。何も悪いことをしてないさやかお姉ちゃんが死に追いやられたのに、隣の部屋のあの人は、他人に迷惑をかけながらのうのうと生きてる。なんか不公平だよねって。だからさ──あの人たち、
「え?」
「そう思ったんですよ。あげる。あげるよ、さやかお姉ちゃん。好きにしていいよ。さやかお姉ちゃんが失くしちゃったものを、あの人から取り戻せばいいよって。毎日毎日、何度も何度も、さやかお姉ちゃんに呼びかけたんです。そしたらね、ある日を境に、ぱたっと──」
「泣き声が、やんだ?」
「ええ。しばらくしたら、あの人も部屋を出ていきました。小さなお骨の壺を持って」
阿用川さんは少し疲れたふうに肩を落とすと、コーヒーをすすった。
「あたしはそれから一年ほどして、転職を機に部屋を出ました。二〇四号室にはなかなか新しい人が入らなかったので、隣がそんなことになっていたなんて、少しも知りませんでしたよ。赤ちゃんが死んだのだって、偶然かそうじゃないのか、ずっとわからなかった。あの人の子供をもらって、さやかお姉ちゃんは天国で幸せに暮らしてるのかもしれない……なんて想像したこともありましたけどね。……そっか。結局、どこへも行けなかったのか。かわいそ」
「あなたねえ……」
「あたしのせいだって言うんですか? ……ううん、別に、責任がないとは言いません。でも、それなら、あのときあたしはどうすればよかったんですか? あたしが二〇三号室で自殺して地縛霊になってたほうがよかった? それであたしが新しい住人を呪い殺してたら、結局は同じことじゃないですか? ……なーんて、ね」
阿用川さんはトレイを手に立ちあがった。
「お話聞いてくれて、ありがとうございました。……たぶん、もう会わないと思いますけど、お元気で」
そう言うと彼女は、半分以上残っていたコーヒーの飲み残しを捨て、肩の荷を下ろしたような足取りで去っていった。
私はしばらくその場を動けず、ただ、冷めていくコーヒーの熱を掌に感じていた。
3.
あれ以来、私は自分の生活音が気になりはじめた。
私が暮らしているのは、三階建てのワンルームマンションだ。だが、同じ建物の住人と顔を合わせたことはほとんどない。隣に暮らすのが、どんな人かも知らない。もし、隣の住人が私の存在を疎ましく思い、死んだ自分の親戚に、毎日毎日、何度も何度も私の死を願っていたとして──果たして、私に気づくすべはあるのだろうか。
私は、日本の集合住宅にどれほどの人が暮らしているのか知らない。無数の隣人たちが壁越しにどんな憎悪を抱き、どんな呪詛を投げつけあっているのか、わかるはずもない。
私はフリーのイラストレーターとして活動する傍ら、自宅近くのスーパーでパートの仕事をしている。最近、ようやくイラストの仕事も軌道に乗りはじめた。打ち合わせは都内が多いから、関東からは動かないほうがなにかとやりやすい。
なのに。
私は部屋の壁を見ながら、東北の実家に帰ることばかり考えている。
りんじんぞう 小金井ゴル @KoganeiGol
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