第23話「指先の記憶」

十月初旬の肌寒い夜気が、名古屋の街を包み始めていた。新月から三日が過ぎた夜空に、かすかに弧を描く月が浮かんでいた。建物の谷間から吹き抜ける風が、どこか冷たい響きを持って通り過ぎていく。


文学部の講義棟の一室で、カエデは「家族の歴史」をテーマにしたレポート課題を前に、ため息をついていた。「文学における親子関係の描写と、その影響についての考察」というテーマだ。何を書こうかと悩みながら、思わず携帯で「カンゼン☆セカイ」の楽曲を小さな音量でリピート再生している。


「キラキラ夢見て わたしは強くなる...」


昨日も、コンビニのレジで夕勤をしながら、この曲を口ずさんでいた。ふと目が合った小学生の女の子が、カエデの歌声を聞いて満面の笑みを見せてくれた。その瞬間、胸の奥で何かが震えた。でも、そんな夢を追うなんて。一生懸命働いて大学に通わせてくれている両親の期待を裏切るようで...。


レポートのためにネットで資料を探していると、「オーディション情報」の文字が目に入る。思わず手が止まる。スクロールしようとした指が震える。読み進むと、名古屋を拠点に活動する某アイドルグループの追加メンバー募集の案内。応募締め切りは10月24日。満月の日。マヤさんから聞いた、特別な日。偶然とは思えない符合に、カエデは息を呑んだ。


午後の講義棟はすっかり静まり返り、廊下には蛍光灯の明かりだけが残っていた。スマートフォンが震える。ミサキからのメッセージだ。友達のために始めた夕方のコンビニバイト。今の給料では、とても108万円には足りない。でも、友達の笑顔のために、きっと何かできるはず...。


「カエデちゃん、まだ大学にいる?レポートのこと、相談があるの」


思わずホッとする。ミサキは、自分の気持ちを少しだけ分かってくれる存在だった。


「うん、まだいるよ。17時からバイトだけど、その前に図書館によろうと思ってたところ」


返信を送ろうとした時、ミサキからもう一通のメッセージが届く。


「実は、たまたま大学の資料室で面白い本を見つけたの。"1990年代の大学生活と占いブーム"っていう研究紀要」


カエデの指が、返信ボタンの上で止まる。1990年代。ちょうど母が大学生だった頃...。


「もしかして、レポートの参考になるかも」


資料室に向かう足取りが、自然と早くなる。蛍光灯の明かりが、廊下の影を不規則に揺らす。まるで、これから起こる何かを予感させるかのように。途中、顔見知りの学生とすれ違う。「カエデちゃん、最近コンビニで見かけたよ。頑張ってるね」。その言葉に軽く会釈を返しながら、胸の内で小さくため息をつく。誰にも本当の理由は言えない。これは、ミサキのため。そして、ミサキを誘ってしまった自分の責任。


資料室では既にミサキが待っていた。彼女の前には古ぼけた研究紀要が広げられ、そのページには90年代の学生たちの写真が並んでいる。手相や占いのサークル活動の様子を伝える記事。その時、一枚の写真がカエデの目を捉えて離さない。思わず息が止まった。世界の時間が、その一瞬だけ静止したかのように。


「これ...」


微かに震える指が、ページの端をなぞる。そこには紛れもなく、若かりし日の母の姿があった。手相を見つめる真摯な横顔。今とは違う、何かに心を奪われたような輝きを湛えた瞳。研究紀要の粗い印刷と色褪せた紙面を通しても、若き日の母が放っていた生命力が、まるで時を超えて伝わってくるかのように感じられた。


普段は決して見せない表情。諦めてしまった何かを、その時の母はまだ抱きしめていたのだろうか。紙面に吸い込まれそうになりながら、カエデは自分の指先が小刻みに震えているのを感じていた。


この一枚の写真が、これまで知らなかった母の姿を、あまりにも鮮やかに映し出していた。周りには似たような年齢の女性たちが写っている。そして、その背景に見える木彫りの像。どこかで見た形。まるで...。


「カエデちゃん?どうしたの?」


ミサキの声で我に返る。「あ、ううん。なんでもない...」


その日、カエデは午後の講義を終え、これからコンビニの夕勤に向かう前の時間だった。17時からのシフトまでまだ少し余裕があり、ずっとあの写真のことを考えていた。母の若い頃の姿。あんなにも生き生きとした表情を、今の母からは見たことがない。


バイトが終わって、自宅に戻る。押し入れを探っていた。家族の歴史。レポートの参考資料。そう自分に言い聞かせながら、古いアルバムを探していると、革のバッグが出てきた。中から「手相占術基礎講座」という和綴じの本が出てくる。20年以上前のものだろうか、表紙は色褪せ、紙も少し傷んでいる。ページをめくると、インドの神様(ガネーシャ)のスタンプが押された受講証。その下には見覚えのある暗号のような文字列が。


まるでマヤさんから受け取った暗号文のように見える文字列。偶然だろうか。それとも...。


「カエデ?まだバイトの準備していないの?」


突然背後から聞こえた母の声に、思わず紙切れを握りしめた。振り向くと、母が表情を固くして立っていた。普段は穏やかな母の、見たことのない表情。


「ごめんなさい。レポートの資料を探してて...」


「もうバイトの時間よ。レポートの続きは明日で十分でしょう」


母は慌ただしくアルバムを手に取り、「これは古い思い出だから」と言って片付けようとする。しかし、その手が微かに震えているのをカエデは見逃さなかった。


「お母さん、手相占いしてたの?」


「...ええ、大学生の時よ。ただの興味本位だったわ」


「マヤさんって...」


その名前を出した瞬間、母の手が震え、表情が変わった。


母は一瞬言葉を失い、それから静かに、しかし強い口調で言った。

「そういう占いには、関わらない方がいいわ」


「どうして?」カエデの問いに、母は遠くを見るような目をして続けた。

「ただの占いのつもりでも、人の心を操ろうとする人たちがいるの。特に、若い人の純粋な気持ちにつけ込んで...」

そこで言葉を切る母の表情に、何か深い陰りが見えた。


カエデは母の目に、どこか深い悲しみのようなものを見た気がした。でも、それ以上は何も聞けなかった。母の横顔が、写真の中の若い日の表情と重なって見える。何があったのだろう。何が母をこんなにも変えてしまったのだろう。


夕方のバイトを終え、その夜もカエデは眠れずにいた。母との会話が、レジを打つ手の中にも、帰り道の足取りの中にも、そしてベッドに横たわる今も、頭から離れない。零時を過ぎても目が冴えて、もう一度アルバムを確認しようと暗い廊下を歩いていると、キッチンで母と鉢合わせた。


「カエデ」母は疲れた表情で言う。「私にも言えない事情があるの。でも、これだけは覚えておいて。人の心を読むことは、諸刃の剣なのよ」


翌朝、アルバムも革バッグも跡形もなく消えていた。しかし、カエデはこっそりスマートフォンで撮影しておいた紙切れの文字列と写真を見つめていた。


その日の夜、コンビニのレジに立ちながら、カエデは考えていた。母の過去。マヤさんの占い。そして、自分の夢。全てが混ざり合って、まるで解けない方程式のように頭の中で渦を巻いていた。


「お会計648円です」


レジを打ちながら、ふと目に入ったアイドル雑誌。表紙には「夢を諦めない」という文字。その夜、帰宅してから、カエデは決意を固めた。スマートフォンを取り出し、ユキトへのメッセージを打ち始める。


「お兄ちゃん、大切な話があるの。明日、バイトの前に部屋に来てもらえないかな...レポートのことで資料を探してたら、変なものを見つけたの」


バーカウンターを拭いていた俺のスマートフォンが震える。カエデからのメッセージを読み返しながら、首をかしげた。妹らしからぬ謎めいた言い回し。まるで、複雑なカクテルの味わいのような、そんな違和感のある文面。客のいないバーカウンターに、氷を落とす音だけが響く。


「どうしたもんかな」


呟きながら、グラスを磨く手を止める。カウンターの奥に並ぶボトルたちが、蛍光灯の光を受けて琥珀色の輝きを放っている。その光景は、まるで暗号を解読しようとするプログラマーの画面のように、何かメッセージを伝えようとしているかのよう。


「了解。仕事前に部屋に寄るよ。コンビニのバイト、無理はするなよ」


送信ボタンを押しながら、俺は考える。これは単なる妹の相談なのか、それとも...。夜風が、まるで答えを知っているかのように、冷たく頬を撫でていった。


閉店後、深夜の街を歩きながら、ふと「スパイス・オラクル」の方を見やる。24時間営業を謳うネオンが、いつものように不完全な明かりを放っている。先日カエデから聞いた話を思い出す。友達のために、夕方にコンビニでバイトを始めたという。妹なりに一生懸命なのだろう。その健気な様子と、今回の謎めいたメッセージが、どこか不協和音を奏でているような気がする。


カレーのスパイスの香り。マヤから受け取った暗号文の残りの半分。そしてカエデの発見。全てが何かで繋がっているような、しかし、その糸を手繰り寄せようとすると、まるで霧の中をさまよっているような、そんな感覚。俺の中でそれらは、まるで異なる銘柄のウイスキーを無秩序に混ぜたような、複雑な渦を巻いていた。


次の日の夕方。バーでの仕事の前、約束通り妹の部屋を訪れる。机の上には文学部のレポート用紙が広げられ、その横にスマートフォンが置かれている。画面には例の暗号文の写真が映し出されていた。


「これ...お母さんの」

カエデが差し出した紙切れには、確かに見覚えのある形式の文字列が並んでいる。


「昨日、レポートの資料を探してたら見つけたの。お母さんが大学生の頃の...」


妹の説明を聞きながら、俺は紙切れを見つめていた。そこには確かに、マヤから受け取った暗号文と同じような形式の文字が並んでいる。この発見は、単なる偶然なのか。それとも、もっと深い意味を持つものなのか。


「実は、お母さんが大学時代、手相占いの教室に通ってたみたいで...」


カエデの言葉を聞きながら、俺は考えを巡らせる。この発見が意味するものは何なのか。20年以上前の出来事と、現在起きている謎。まるで、長年熟成されたウイスキーに、新しい材料を加えるように、事態は更なる複雑さを増していく。


「写真も撮っておいたの」


スマートフォンの画面には、若かりし日の母の姿。手相を見ている横顔。そして、その背景に写る木彫りの像。見間違えようのない、あのガネーシャ像だ。


背筋に冷たいものが走る。写真の中の像と、カレー屋やマヤの館にあるものが、どこまで同一なのか。カエデに詳しく聞くことはできない。妹に余計な心配をさせたくない。


いつの間にか、カエデの机の上に、アイドルグループのオーディション情報が載った雑誌が置かれているのが目に入った。そっと伏せられているそれは、妹の小さな夢の形なのかもしれない。机の上のアイドル雑誌と、ミサキのための必死のバイト。それぞれの形で表れている妹の純粋な思いに気づかないふりをしながら、俺は深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。


ピザニキに連絡を取るべきか。いや、まだその時ではない。母の過去と、現在の謎が交差する地点に、きっと重要な何かが隠されているはずだ。


「カエデ、その写真と暗号文、コピーを取らせてもらえるか」


妹は少し躊躇った後、小さく頷いた。「うん...でも、お母さんには内緒にして。昨日、アルバムのこと、すごく気にしてたから」


細く光る月が、窓の外で闇に溶けていく。その闇は、まるでこれから始まる新たな謎への序章のようだった。スマートフォンの画面に映る暗号文を見つめながら、俺は決意を固める。


「ありがとう。それと、コンビニのバイト、本当に無理するなよ」


立ち去ろうとする俺に、カエデが小さな声で言った。「お兄ちゃん...マヤさんのこと、お母さんが何か知ってるのかな」


その問いに、即答はできなかった。ただ、確実なことが一つある。この謎は、もはや俺たち兄妹だけの問題ではなくなりつつあるということだ。


バーに向かう途中、俺は立ち寄り先を一つ加えることにした。まだ時間はある。その前に、確認しておきたいことが一つ。「スパイス・オラクル」へと足を向けながら、ポケットの中の水晶に触れる。その感触が、まるで俺の決意を後押しするかのようだった。


人の心を読む力。それは諸刃の剣。母の言葉の意味が、これから明らかになるのかもしれない...。


家族の歴史という名のカクテルは、今、新たな材料を加えられ、その味わいを大きく変えようとしていた。​​​​​​​​​​​​​​​​

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