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 その日、私は“ある事件”の情報の為に友人の西園寺と東京駅の地下で待ち合わせていた。


 仕事柄、警察とのコネクションは記事の取材には欠かせない。だが世間に蔓延はびこる事件には刑事という担当者がおり当然そこには守秘義務というものがあるのだが、そこは蛇の道は蛇というべきか、毒食わば皿までというべきか、代わりに警察は“民間人からの情報提供”、いわゆるタレ込みというやつも常に広く募っている訳である。そうした意味で私と西園寺とは情報交換という名目で、公私共に仕事でもそれ以外でも付き合いのある間柄である。


 そう、これから現れる待ち人の西園寺和也さいおんじかずやは丸の内警察署の刑事組織犯罪対策課、いわゆる刑事課の刑事なのである。大学時代からの友人付き合いになるのだから、彼とはかれこれ十年来の付き合いにはなろうか。


 一応大手出版社の事件記者と宮仕えの公務員である刑事。お互い都会の殺伐とした仕事に追われているうち、あれよあれよという間に月日は過ぎ、お互い早々に32を迎えてしまった。


 私も西園寺もそろそろ嫁を貰い、身を固めねば危うい年なのだが、因果なもので、都会の事件と日本の住宅事情並びに派遣型が当たり前の雇用情勢と過密化と景気動向の緩やかな流れは、今や凄まじいほどに男女の晩婚化を促し、出生率を著しく下げ、高齢化する要因になってしまったのである。我々もそうしたうちの一人だ。世間一般の幸福論とは無縁の存在で、女性よりも殺伐とした都会の事件ばかり追いかけている。つくづく都会暮らしの労働者達とは、プライベートの時間のりまで気忙きぜわしく因果なものである。


 いちじるしく都会化した国家は概ねそうした運命を辿るものだが、ここ首都東京は、そうした意味でも異常な過密化の影響を日本中にもたらしている特異な場所といえよう。今や独身貴族と呼ばれる存在は軒並み日本の労働者と同義語で、日本の大半を占めるほどに肥大化して歯止めが利かなくなってくると、もはや社会が生み出した悲しくもあわれで自由な虜囚りょしゅうの群れである。


 そこはそれとして、お互い自由の身であるからこうしてアフター5に誰を気にかけることもなく馴染なじみ同士で一杯引っかけられる身分に興じていられるのは、ある意味でとても現代的でラフなスタイルであるともいえる。近場には大手町に有楽町から新橋のガード下に八重洲地下街。電車で少し移動すれば錦糸町や新宿歌舞伎町もある。都会の憐れな虜囚二人をかくまってくれるオアシスには幸いにも事欠くことはない。


 私は自分の腕時計を確認した。時刻は20時32分。約束の時間を少し過ぎているくらいのものだった。私は改めて広々とした地下の周囲を見渡した。


 丸の内地下南口から出て改札外のすぐにあるこの場所は動輪の広場と呼ばれており、少し前までは反対側の丸の内の地下北口にあったものだ。喫煙者を煙を吹き出す蒸気機関車になぞらえたものか、移設前はちょうど喫煙所として利用されていた。


 今は広々とした地下の学生待合所を示すシンボルになっている。朝早くここにくれば、修学旅行へ向かう学生の団体客に出会でくわすことになるのだが、今はアフター5を満喫しているビジネスマンや旅客達が気忙きぜわしそうに、広い空間を各々が右往左往に、縦横無尽に行き交っていた。


 地下のこの辺りは、地上の丸の内南口のドームから、正面にある階段を降りて地下のこの広い場所に繋がっていることから、丸ビル地下道とも呼ばれており、ここから地下鉄丸ノ内線や地下鉄大手町駅にある東西線、半蔵門線に千代田線、都営三田線へのアクセスも可能な地下通路だ。そしてJR京葉線、そして丸ビルの地下や新丸ビルへも続いている。地下といえど、そこはターミナルの直下であるから、比較的広い場所である。首都圏は初見で下手に地下になど降りてきたら迷うところだが、東京駅もそこは同じで、相当に広大で迷路のように感じるかもしれない。


 東京駅の赤レンガ駅舎がリニューアルされ、ちょうど東京ステーションホテルも開業したとはいえ、南口は地上も地下もまだまだ開発の途上にあるせいか、今一つ待ち合わせ場所としては改札内の銀の鈴の方が有名で、ここ動輪の広場はまだまだメジャーな待ち合わせスポットには至っていないように感じた。


 あと三年もすれば、地上の赤レンガの駅舎前には立派な広場まで出来て、皇居の方へと続く行幸通りを一望できるようにもなるらしい。日々生まれ変わってロケーションが変わるのが都会の常だが、ハイセンスな場所へと生まれ変わる予感は、辺りからひしひしと感じるものである。


 地上の丸の内南口改札のドームを通って地下へとやって来たのだが、なかなかの広さだった。この動輪の広場にある立派な動輪は、実際の列車の車輪で、かつて東海道線を走っていたC62-15型蒸気機関車のもので直径1m75cmの動輪が三つ並んでいる。通称シロクニと呼ばれて親しまれていた列車で、これだけでも博物館に置けるほどの価値ある代物だろう。


 地下はあちこちが工事中であるせいか、全体的に白い壁や死角がやたら多いように感じる。外国人旅客や年輩の旅客も含めて東京駅を出発点として多数の人々が利用すると考えると、お世辞にも案内表記や地図での案内は、細部まで行き届いているとはいえない状況のようである。


 その時、私は多くの旅客が行き交う京葉線方面へと続く地下通路に、見知った男を見つけた。男は相変わらずお上りの旅客を思わせるようなキョロキョロとした素振りは一切なく、油断なく辺りを窺いながらこちらへと向かってきていた。その辺りはさすがは刑事というべきである。


 私は西園寺へと手を振った。さすがに刑事である彼の名前を大声で呼ぶには抵抗がある。彼はすぐにこちらに気づくと、訓練された猟犬のような野性的な表情を若干じゃっかんゆるめ、こちらへと向かってきた。


 白いロングコートにアンダーはダークカラーのストライプスーツ。赤系のネクタイで少し派手に決めた親友の西園寺和也は、今日は一見すると刑事にはとても見えないちである。


 私はといえば、黒のロングコートにネイビーのストライプスーツでネクタイは黒系を選んできていたものだから、並んでみるとちょうど西園寺とは対照的な格好になったものだ。そこはハイセンスな流行とある程度の見栄が求められる天下の丸の内であるから、お互いにそれなりにめかし込んできたのは一緒のようだった。西園寺は快活そうに私に近づいてきて言った。


「よぉ東城、待たせたな」


「なぁに、僕も早く着いたとはいえ、ほんの10分くらいのものさ。変わりゆく丸の内の地下通路とアフター5のビジネスマン達を現地取材していたところだよ」


「晩飯は? 食ったか?」


「とっくに済ませたよ。雰囲気のいい敷居の高い丸の内の店で飲むのも、例のあの話を聞くのも、今から待ち遠しくて堪らないよ」


「まぁそう急くなよ。店に着いたらゆっくり話して聞かせてやるさ。……それじゃあ行くか、少し歩くぜ?」


「かまわないよ。じっとしている方が寒い。ここは地上から木枯らしがビュンビュン吹いてくるんだから、堪らないなぁ」


「なぁに、地上だって似たようなものさ。首都圏のビル風の冷たさは北海道の街よりも遥かに寒いんだぜ? 独り身はさっさと帰っておねんねするか、洒落た店に避難してブランデーグラスでもあおって暖をとるのがお似合いだ」


「違いない。老人の孤独死は男女ともに冬に多いらしいよ? 腹の底から温めてくれる酒や楽しみの一つもなきゃ孤独と切なさで春までもたずにぽっくり逝くのかもね」


 そんな軽口を叩きながら私と西園寺は連れ立って、ちょうど西園寺がやって来た方向の通路へと足を向けた。東京駅の京葉地下丸の内口と京葉地下八重洲口の改札へと続いている改札外のこの長い連絡通路はアートロードと呼ばれ、地上の丸の内の街並みに続く出口が左右に幾つか開けている通路だった。


 左側には東京駅を象徴するような瀟洒しょうしゃな赤レンガが施され、三菱一号館美術館のある丸の内パークビルディングや、丸の内南口前に昨年の3月にオープンした日本郵便が初めて手がける商業施設のkitte(キッテ)にも地下から行ける通路で京葉線の方向へと足を向ければ、相田みつを記念館のある東京国際フォーラムや東京ビルTOKIA(トキア)の地下へも続いている。


 アートロードの8番出口の階段から地上へと上がる。私達は冷たい空気の満ちた丸の内二丁目の街へと躍り出た。高層ビルを遥か見下ろす冬の夜空は、灰色の雲が一面に立ち込めており、吐く息は白く、時折吹いてくるビル風が身を切るような冷たさで襲いかかってくる。


「寒いなぁ……。早いとこ綺麗で暖かい穴蔵あなぐらの中に退散するとしようぜ」


「同感だ。うぅ……去年から今年は暖冬だなんて話はありゃ嘘だね。今日は特に冷える」


 私は西園寺と共に、ぶらぶらとくだんの店へと歩みを進めていった。目的の店へは歩いて10分くらいのものだろう。この辺りは、かの三菱地所である。忙しそうに家路へと急ぐ丸の内のビジネスマン達が、次々と横を通り過ぎては今しがた歩いてきた東京駅や地下鉄へ続く階段の方向へと向かっていく。既にアルコールも入った酔客達の機嫌の良さそうな声もあちこちから聞こえてくる。かの三菱地所も夜になると全く別の顔になるものだ。


 後ろを振り返ると遠くに東京駅の赤レンガ駅舎と日章旗の立派な掲揚塔が見えた。周囲の高層ビルと赤レンガの立派な駅との対比が実に威風堂々とした姿である。両隣にはノースタワーとサウスタワーが控え、トラストタワーとサピアタワーが、まるで玉座の王を守る騎士達の如くそびえ立っている。行幸通りを挟んで丸ビルと黒っぽい外観の新丸ビルも居並ぶと実に壮観で見事というよりない。


 誰もが憧れ、一度は訪れてみたいと口にする日本一のターミナル駅である。週末や祝日にはコインロッカーが昼までには埋まり、エキナカのグランスタの店舗や各所では土産物を買い求める人々でごった返し、近隣のレストランはランチタイムには満席となるのが当たり前なほど、これまた人で溢れ返るのが常だ。


 美しき旅の始まりを夢見るのに、これ以上ないロケーションの場所である。改めて見るに、駅とは思えないほどに風光明媚で瀟洒で厳かな外観の丸の内のシンボルだ。


 そこには遊びもレジャーもビジネスも、団欒だんらんする家族も、老人達も恋人達も子供達も、孤独な者達も異国から訪れた人々に至るまで、全ての旅人達を受け入れる巨大な懐の深さと不思議な温かみがある。正に王の風格である。


 グラントーキョーと呼ばれ、トーキョーステーションシティーという、駅周辺が丸ごと街になるという構想は、ひとえに重厚な歴史ある東京駅が持つ、人々を惹き付けてやまない美しさと、その懐の深さ故なのであろう。


 東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、特に東海道新幹線と東北新幹線の起点となっており、全国の新幹線網における最大の拠点となっている。また、東海道本線や東北本線など主要幹線の起点駅でもあり、東京駅からは何と乗り換えなしで実に32都道府県と結ばれており、1日当たりの列車発着本数は約3000本というから凄まじい数である。


 日本を代表するターミナル駅の一つは、プラットホームの数も日本一多く、正に宇宙悪夢的な規模の広さで在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線。新幹線が地上5面10線。地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当する。


 主要な地上の線路を境に八重洲やえす側と丸の内側にへだてられ、改札口はそれぞれ北口、中央口、南口と地上は主に六ヶ所の改札口に分かれ、地下は八重洲側に一ヶ所と丸の内側に三ヶ所に分かれている。ここから見える、あの赤レンガ造りの丸の内側の駅舎は建築家、辰野金吾らが設計したもので1914年に竣工、2003年には国の重要文化財に指定されている。


 王に謁見えっけんするが如く初見の人々はまず、その巨大なラビリンスのような構造におののき、迷いつつも夢を膨らませ、それぞれ目的の場所へと旅立つようである。


 丸の内中央口から南口に至る東京ステーションホテルもリニューアルし、年末にはライトアップした一大イベントまで行われるきらびやかな東京駅とは裏腹に、こちら側は夜でも静謐せいひつな闇が漂っていた。


「ふぅ……寒いけど、ここまで来れば少しは人混みからは離れられるね。いいだけ年始に騒いだ世間の皆様としちゃ、オフィス街にある夜の店なんて無用に思うのかな」


「まぁな。ここから先はもう皇居だからな。静かなもんだぜ。……さて、目的の店はあっちだ。もう少しだけ歩くぞ」


 そんな話を淡々としながらも私達は件の店へと歩みを進めていった。首都圏の中心部はいつだって人で溢れ返っているというのは大きな間違いで、夜も21時を過ぎたこの時間ともなると、主要な地下鉄の支線や駅から離れるに従って、人の流れは閑散としてくるものだ。私は夜のとばりが落ちた都会のビルの群れを改めて見渡した。


 大昔、この辺りの丸の内から日比谷にかけては大海原おおうなばらだったらしい。日比谷入江と呼ばれる場所で、1592年からこの入り江が埋め立てられたことで、ようやく陸としての体裁が出来上がる。その陸地にかの江戸城が拡張された。しかし、その後の名暦の大火によりこの辺り一帯はほとんど焼失してしまう。


 丸の内のシンボルである東京駅の赤レンガ駅舎がああして復活した今では信じられない話であるが、その当時のこの付近一帯は、日本初のレンガ造り建築の草分けであるところの大蔵省分析所のある辺り以外はみな木造で、野原の間に粗末な建物やバラックがちらほら建っており、追い剥ぎまで横行するような荒涼とした場所だったようである。


 その後、1872年(明治5年)に東京で発生した大火災である、銀座大火が起こる。折からの強風に煽られ東京の中心地である丸の内、銀座、築地一帯が丸ごと焼失してしまったのだ。


 これをきっかけに、明治新政府は銀座を耐火構造の西洋風の街路へと改造することとなるのである。これが赤レンガの綺麗な町並みのルーツとなった。


 丸の内周辺にその改善の兆しが訪れたのは明治21年。市区改正条例が新たに施行され、丸の内は新たな市街地へと転化されることとなる。


 陸軍は麻布に初の煉瓦れんが造りの兵舎を建造しようと計画するが、その費用は巨額で当時の懐事情ではとても用意できる額ではなく、丸の内の木造兵舎跡地を売却するという結論にまで至った。陸軍は宮内省や東京府にも声をかけるが、それは思うようには行かず、広大な土地を持て余していたところ海運事業(日本郵船)が好調だった三菱が、1890年の明治23年に分割払いで購入することになる。


 その後、4年ほどは荒れた状態が続いていたが明治27年に状況は一変した。重厚な東京府庁(現在の東京国際フォーラム)が完成し、さらに三菱第1号館が建造されることになる。翌年には第2号館が、翌々年には第3号館が次々に竣工。こうして現在に見られる日本の金融・経済の中心地としての丸の内が作られていったのだ。


「驚いたな。丸の内といっても、この辺りは比較的静かなものなんだな」


「今だけさ。ここも実は開発の真っ最中でな。見ろ、そこら辺に重機がちらほら見えるだろ。夜にしか大規模な工事は進められないからな。ほら、例のプロジェクトさ。いずれ3年後くらいには、ここも新たな東京の有名スポットに変わるんだろうさ。あれだけ綺麗でゴージャスな皇居外苑に賑やかな銀座や日比谷にも近い場所なんだぜ? なんてったって大丸有だ」


 西園寺の言う計画とは、丸の内3-2計画のことだろう。大丸有とは、東京都千代田区にある大手町・丸の内・有楽町の3つの町を合わせたエリアの頭文字をとったものだ。


 皇居の東~北東側に位置し、東京駅や大手町駅周辺では主にオフィス街が、有楽町駅周辺では歓楽街が発展している。2000年代以降は都市再生緊急整備地域の指定に伴う再開発により超高層建築物の建設が相次いだのだ。そのため、官民合同でのヒートアイランド現象抑制への取り組みがこの辺りは非常に活発な場所であると聞く。


 水と緑の景観が広がる皇居外苑と商業、文化色の色濃い銀座、日比谷、有楽町と近接することで、ビジネスの中心地にいながらも気品と華やかさが感じられる場所。東京商工会議所や東京會舘を低層部に構え、歴史を紡いできた高い“格式”に加えて、商業や文化の香り漂う“華やかさ”を持つ両面性の確立が、丸の内3ー2計画というプロジェクトの特徴なのだそうだ。


「まぁ東京駅が王様なら、この辺りは今は舞踏会デビューを飾る前に眠る、お姫さまみたいなもんだ。これから行くところもなかなかいい雰囲気の場所なんだぜ。俺達もせいぜい丸の内の王女様の恩恵にあやかるとしよう」


 そんな会話をしていると、ほどなくして目的の高層ビルは見えてきた。なるほど、ここから丸の内警察署は比較的近い。オフィスビルの地階といえば大概はレストランや飲食店がメインでターゲット層はビジネスマンを対象にしているものだが、夜には営業形態が変わる場所もあるのだろう。オフィスビルもレストランゾーンもこの時間ともなると割と閑散としており、静かなものだった。年始早々に寒い夜を会社のビルで過ごさないものなのかもしれない。


 地階はB2Fまであり、地下二階は会員制のレストランのようである。西園寺は私を伴い、オフィスビルの下層を奥へ奥へと進んでいく。白を貴重とした落ち着きのあるレストランゾーンの最奥。ひっそりとたたずむように、その店はあった。


「今夜は人が少なくて快適だね。丸の内にいるとは、とても思えない静けさだな」


「まぁ今夜だけさ。日中のランチタイムに来てみるといい。違いに驚くぜ?」


 店名は『Huster』《ハスター》とある。アンブローズ・ビアスかクトゥルフ神話のものかは一見しただけでは判然としないが、シックで落ち着いた木製のクラシカルなドアのそばにはエレベーターもある。身障者向けの配慮もさりげなく為されている辺りは、なかなかに粋なものだ。


 私や西園寺がこうして事件の話をするのにショットバーを選ぶのは、ひとえに人の起こす都会の事件を呆れるほど追いかけているという過度なストレスがそうさせるのかもしれない。日々ささくれ、神経を磨り減らしてはやさぐれるような都会暮らしには、夜のショットバーのような非日常の雰囲気が堪らなく恋しくなるものだ。


 事件の話など大人の社交場としては些か似つかわしくなく不粋でもあるのだが、殺伐とした他人の非日常は、酒でもあおってひたらねばやりきれないものがある。


 私や西園寺の思いとは裏腹に事件は勝手に起こるものだし、その度にこうして彼と情報交換に出会うのだから、それも悪くはないと思っている。お互いに躍起になって駆け抜けるように都会で生きては他人の悪意に触れ、その度に厭な思いもするが、それとて人生にとっては良きさかなとなろう。緩慢に流れる時間と美酒が某かの教訓と知恵を与えてくれるような気もする。戦友と無事を確かめあう儀式のようなものだ。お互いオールドパルには早すぎる。


 単純に私自身がこうした非日常の空間を好むせいもある。私は世の中が面倒くさくなった時は一人でもバーにふらりと足が向く。西園寺も同様だろう。ぬるま湯に浸っているような暗めの照明の中にいて好きな酒を飲んでいると、時間の流れが変わったように感じるのだ。都会の喧騒を忘れるのにこれほど居心地のいい空間はあるまい。


 入口の木製ドアを開けると小気味のよいベルの音が地下の闇に響き渡る。階段は狭いが、行きと戻りで人一人分が交差する分には申し分ない広さがある。地下一階から地下二階のようにちょうど中間にある構造は中二階などと高層ビルなどでは表現するが、この店もそうした位置にあるようだ。


 階段の暗がりに西園寺と私の足音が響く。建材であるオーク材の故か、足下が暗く足音が響くというのもまた演出のうちに入るのだろうかなどと思いながら、私は未踏の暗闇をさらなる地下へと降りていった。


 内装やデザインは飲食店にとっては生命線とも言える重要な要素だが、特にこうしたショットバーやバルやラウンジの場合、私や西園寺のように客は現実世界から離れて解放的な気分を味わうために来店するケースが多かろう。日常にありながら非日常を味わいたいという顧客のアンビバレントな心理と現実との乖離かいり具合が店の売りとなる。


 その辺りは推理小説やホラー小説によく似ている。せっかく訪れた非日常の空間が凡百のものであれば、もう二度と客は来店することは無いだろう。ジャンルの違いや過去との比較、類別に細かいミステリー読者を相手にするように繊細な心配りと大胆な発想を両立させる空間演出は必要不可欠なものだ。


 またバーはターゲット層が明確な為、店のコンセプトも際立って特徴づけられていることが多い。コンセプトと内装デザインはこれまた密室殺人事件とトリックや関係者のアリバイのように切っても切れないほど重要な関係だろう。


 例えば若者をターゲットとした場合は気分を高揚させる空間演出が必要だし、中年の富裕層をターゲットとした場合は、落ち着きのある端正なデザインが求められるものだろう。


 音楽も空間を作り上げる要素の一部で重要である。いくら内装デザインにこだわったとしても、そこに流れる音楽がチープなものであれば場の一体感は生まれない。内装デザインのコンセプトと音楽は統一すべきであるし、クラシカルなバーであれば洋楽ジャズが良いし、最先端の現代的なバーであればオシャレなハウスミュージックなどがマッチする。


 エキセントリックで他に類がなく斬新であればよいというものでもないのだろう。その辺りの呼吸はシンクロニシティーのようなもので、共同幻想とでも呼ぶべきであろうか。現実は容赦ようしゃなくシュールで過酷かこく醜悪しゅうあくなものだ。非日常の空間は時に甘く、時にアイロニックに出来ていて、それでいてゆったりとクラウドを包み込む空間でありたいものだ。とはいえ、これから友人と話す話題はお世辞にも上品なものとはいえないのだが。


 ハスターの店内へと足を踏み入れると、そこは意外にも他に例が見当たらないほど特徴的な空間が広がる店だった。


 入ってすぐに目を惹いたのは、左の壁際にある鏡と右側の深海の光景だった。


「ぅわっ!」


 私は思わず驚きの声を上げた。いきなりギョロリとした奇怪な生物と目があったのだ。禿げ上がったような頭に異様にブヨブヨと膨らみ、垂れ下がった大きな口許と同じくダラリと垂れ下がった大きな団子鼻。表面は薄い粘液のようなものでテラテラと覆われており一瞬、陸に揚がった俯せの中年男性の水死体をアップで映したのかと勘違いするような奇天烈きてれつな深海魚の映像だった。


 店のカウンター席の奥にいた女性がこちらの方を見てクスクスと含み笑いしているのが遠くに見える。私は気恥ずかしくなって、若干恨みがましい目で、教えてくれなかった傍らの西園寺をねめつけた。


「ははっ、驚いたか? これがお前に見せたかったものの一つだ。俺も最初に驚かされたクチでな、敢えて教えてやらなかったのさ。コイツはブロブフィッシュといってな、日本じゃニュウドウカジカって名前の深海魚らしいんだが、本当に気持ち悪い顔してるよなぁ……。ウチの上司にそっくりだぜ。お前も後でググってみろ」


「それにしても凄い見た目だね」


「ああ、コイツは深海じゃナマズみたいな姿なんだが、体内にやたら多くの水分を含んでて捕獲されて水揚げされた時には、水圧の関係で体がこんな風にゼラチン質のゼリーみたいな粘液ねんえきに覆われた、ダラリとした状態に変化してしまうんだそうだ。本来の姿じゃないこっちの方が有名になって、イギリスで世界一ブサイクな魚のお墨付きをもらったほどの深海魚なんだぜ」


 今度は巨大な魚影が我々の目の前を横切った。私は思わず仰け反りそうになった。


「ぉおっと! 今度はラブカだな。うへぇ……コイツも薄気味悪いな。ここを作った奴も相当変わってるだろ? まったく、驚くやら気味悪いやらで変なテンションになっちまうよな?」


 西園寺が私に解説とも注釈ちゅうしゃくともつかない感想を漏らした。確かに一見するとグロテスクとも思えるような過剰な演出だが、もちろん実際の水槽がある訳もなく、薄暗い深海の生物の映像をひたすらに映しているだけのスクリーンなのである。唐突に映像が切り替わる為に本当に心臓に悪い。


 地球外生命体を思わせるグロテスクな姿をした深海生物が私の真横を通りすぎていく。深海は地上より宇宙に近いと云われるが、中にはエイリアンのような生物がいても不思議ではないのかも知れない。


 私はそこで入口にあったハスターという店名に納得がいった。まさか、クトゥルフの神々を深海の生物に見立てているとはつゆほども思わなかったからだ。


 片側には大小様々に意匠をらした鏡が掛けてあり、それぞれに様々な角度で店の風景を映し出している。


 百合のレリーフをあしらったゴージャス感の漂うものもあれば、シンプルな丸い鏡にデコラティブな装飾が施されたものや蔦の絡まった模様のクラシカルな物まで、これまた偏執狂へんしゅうきょう的なほど凝った演出だが、店全体に広がるほんのりと黄色味がかった暖色系の淡い間接照明が場に奇妙な統一感と上品さを持たせていた。


 右手には鈍く光る真鍮しんちゅう製の手摺てすりが張り渡してあり、緩やかに店の奥側のカウンター席へとスロープ状に下っており、バリアフリーの空間であることは一目瞭然で、ふと後方を見ると確かに私と西園寺が下ってきた階段の横には奥まった通路があり、向こう側にエレベーターが見てとれる。左側にはテーブル席が幾つかあり、手前の方で中国人のカップルが談笑している以外はカウンターの隅の席に先ほどの女性客がいるのみで他に客の姿はなかった。女性客の傍らには車椅子があり銀色の杖が立て掛けてある。彼女はイヤフォンをしてタブレットの画面を見ていた。


 私と西園寺はカウンターのある奥の方へと歩いていった。赤いキャンドルグラスがカウンター席の各所に設けられ、隅の方にはエキゾチックなアイアン製のランタンが吊るされている。


 飾り棚のようなカウンターバックは洋酒がズラリと並べられ、それ自体がインテリアとなって我々を出迎えてくれた。


 入口側の深海の青みがかった暗闇と奥側の暖かい篝火かがりびのような淡い暖色系の灯りが、まるでぬるま湯に浸っているかのように居心地よく、私は初見ですっかりこの店が気に入ってしまっていた。まさに都会の隠れ家といった雰囲気の非日常の空間である。


 壁際のフックにコートを掛けて席に着くと、品のいいバーテンダーがいらっしゃいませ、とタイミングよくベルベットに無地のコースターを私達の前に差し出した。西園寺が赤いラークの箱を取り出したのを見とめると、バーテンは素早く灰皿も置いた。


「ご注文は?」


「俺はそうだな……バッファロートレースをトゥワイスアップで。つまみはビーフジャーキーを貰おう」


「じゃあ僕は……メーカーズマークレッドトップをハーフ・ロックで。こっちはスモークチーズをください」


「かしこまりました」


 西園寺は赤いラークから一本取り出して愛用のジッポーで火を点けた。


「……で、どうだったよ? 問題の場所には?

行ってきたんだろ?」


「お見通しか。流石だね」


「わからいでか。地下の動輪の広場で待ち合わせと聞いて、お前の行動を想像しない方がおかしい」


「バレバレか。まぁ、しいて言うなら特に感想はないよ。天井を大の字に寝転がって撮影してたり、後ろも確かめず自撮り棒を伸ばして通行人にぶつかってる外国人客を見かけたくらいだ。相当な騒ぎになったろうね、あの場所じゃ……」


「改札口も中央線や山手線や京浜東北線のホームからも近い。日曜日にお祭り騒ぎに駆り出された身になってみろ。規制の最中だってのに、地方からきた年寄り共ときたら平気で道を訊ねてくる。通行人は写メ撮ってSNSにアップしようと人だらけの通路で立ち止まりやがるもんだから大混雑だ。……ったく、日本人は勤勉で礼儀正しいが、やや陰湿だなんて外国人はよくボヤくが、野次馬根性も大概にしろってんだ」


「それは今さらじゃない? 退屈に飢えてる市井しせいの姿はいつの時代も変わらないよ。東京駅は少なくとも過去に首相が二人も死んでる場所じゃないか。あ、駅じゃ遭難って言い方するんだっけね」


「そりゃ戦後のご時世の話だろ? この平成の世の中で丸の内のど真ん中だぞ。非常識も度が過ぎると笑えないぜ」


「確かにね。インパクトは抜群だ。Twitterじゃ生首が出たなんて誤報も流れてたらしいし」


「生首の方がまだ分かりやすかったぜ。目的がはっきりしてるからな」


 その時、先ほどのバーテンがまたタイミングよくオーダーの品を持ってやって来た。バーボンをコースターに載せるとバーテンはごゆっくりどうぞ、と慇懃無礼いんぎんぶれいに一礼して反対側に立ち去った。


 西園寺は辺りに油断なく視線を配るとスーツの懐から茶色の封筒を取り出し、中身の数枚をカウンターに広げた。


「本日の議題だ」


 私は食い入るようにそのを見つめ、我知らず呻くような口調になって呟いていた。


「東京駅丸の内南口。改札内Aロッカー…」


「ああ。黒いキャリーバッグに遺棄されてたモノだ。まったく腐敗しないってんで付いた渾名あだなが“怠惰な死体”。ぶっとんでるぜ!」

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