7

「木村憲仁。それが真犯人の名前ですわ」


 得体の知れない女の、そのはっきりと断言した口調に私達は一瞬で凍りついた。


「なっ…! ちょっ……えぇっ?」


「ば、馬鹿な! あの死体の被害者が犯人だと!? そりゃ一体どういうことだ? ……お、おい、 アンタ……マジで頭は大丈夫か! 正気なのかよ!?」


「そちらこそしっかりなさったらどうですか? 西園寺さんに東城さん。貴方達が私と同じ考えに至れないということは則ち、お二人は、未だ犯人の作り上げた悪夢の罠にまっていると考えなければなりませんわ。きちんと論理立てて考えていけば、今現在、世間を騒がせている、この事件のこの混乱した状況こそが、まさしく犯人である、彼の意図したことなのですよ?」


 相変わらず凍りついたように沈黙する西園寺と私を真正面から見据えたまま、彼女は続けた。


「彼は死体となった今でも、聖創学協会の壊滅だけを目的に、腐りもせず、焼かれもせずに祈るような格好で彼らを呪い続けている。……いえい、その呪いの先すらも見通している。そう言っているのですわ」


「監禁して殺された末に、あの餓死した状態になったんじゃないってのか?」


「複数犯の仕業じゃない、と?」


「……そう、そこからして既に、私と発想が真逆なのですわ」


 彼女は深いため息をついて車椅子を撫でている。なぜ解らないの、と言わんばかりのやや呆れた退屈な様子である。こうした相手の反応は、彼女にとって日常茶飯事なのかもしれない。


「東城さんに西園寺さん、貴方達も含めて多くの方々が勘違いをさせられていますわね。見たいものを見たいようにしか見ていない。だからこそ、私と同じ結論に至れないのです。腐らない死体やバラバラ死体、喋る生首に電気錠の密室といった謎の数々は、すべて犯人である彼の作為ですわ。お二人は犯人の仕掛けた、その罠に綺麗に嵌まって論理の陥穽かんせいに落とし込まれていると考えられます。あの黒いキャリーバッグに入っていた死体は、生贄にされたのでも餓死した末に遺棄されたのでもありません。そもそも殺されてすらいないのです。……逆なのですわ」



「“自らが御神体になる”ことが犯人の目的だったからです」



「なっ…! えぇっ…!?」


「ご、御神体…だと?」


「これをご覧になって」


 女は素早く傍らにあったタブレットを操作して私達に画面を向けてきた。彼女が私達に見せてきたものは画像検索で引っ張ってきたと思われる、一枚の奇怪な写真の画像であった。そこには目を半開きにして、歯を剥き出しにした男の死体が写されていた。外国人であろうか? 死体は一見、真新しそうに見えたが、かなり古い。死体は氷土や寒冷地の墓か何かから掘り起こしたものであろう。氷の破片が死体の額と周辺に散らばっているのが見てとれる。だが、問題はその表情だ。生気が宿っていないはずの死体が、まるで先ほどまで生きていたかのように見えるのだ。何よりも、その表情がそうさせていた。異様だった。


「なんだこりゃ? し、死体が…」


「笑っているように……見えるね」


 女はこくりと頷いた。


「フランクリン遠征のトリントンという有名な写真ですわ。通称“笑っている死体”」


「笑っている……死体?」


「フランクリン遠征は、1845年に英国を出発したイギリスの北極海探検航海のことですわ。22歳のジョン・トリントンという方が乗組員としてこの遠征に参加中、鉛中毒により死亡し、凍土に埋葬されたのです。ところが1984年に科学者が調査の為、トリントンの墓を掘り起こしたところ、遺体は完全に冷凍保存されていたのです。しかし、その姿が衝撃的だったのですわ。それが、その写真。トリントンの眼を見開き笑っている様なこの遺体の写真は、世界中の人々にショックを与えたのですわ。先ほどの貴方達のように」


「100年以上も経ってた死体なのかよ!? 始めて見たぜ。まるで、これは……」


「あ、ああ……木村憲仁にそっくりだ」


「驚きましたでしょう? 先ほど見せて頂きましたが、木村憲仁の死体の写真も、正に同じような感じですものね。この写真のこの悪名高い遠征でフランクリンを含む隊員129名全員が死亡し、幾つもの捜索隊が彼らの足取りを追ったのです。そこで見つかった遺骨の検査の結果、彼らは最終的に飢えから人肉食を行った事まで分かっておりますわ」


「く、食ったのか? ひ、人を……」


 西園寺の問いに女は頷きを返した。


「…とまあ、このこと自体は事件とは何の関係もないことなのですが肝心なのは、この死体が鉛中毒で死んだ永久死体だということですわ。永久死体で有名なところではレーニンや北朝鮮の指導者だった金日成、世界一美しい死体といわれるイタリアのロザリア・ロンバルドなどがありますが、腐敗しない死体というのは、エンバーミングや屍蝋や、ミイラの原理がある程度知られるようになった最近では、別にめずらしいものじゃありませんわ」


「いや、何というか……凄く解りやすい……。凍死したってこともあるんだろうけど、鉛中毒で死体が腐らないなんてことが、実際にありえることなのか…」


「傍証としては優秀な素材だな。そこは認めてやるが、ここは日本の大都会東京のど真ん中だ。真冬といえど、北極海並みの寒冷地じゃないぜ?」


 あっさり認めて受け入れた私と違って、さすがというべきか、刑事の西園寺は疑り深く、ややしぶとい。


「そうですか。では、今度はこれをご覧になってください」


 彼女の動作は相変わらず俊敏である。まるで西園寺のその反応を予期していたかのように、タブレットを操作して別の画像を既に出していた。


 今度はミイラのようである。ミイラが立派な台座のようなものに安置されている。ミイラは高帽子を被り、高僧の着る立派な袈裟をその身にまとい、座禅を組んでやや前傾している。僧侶の前には鈴に燭台しょくだいといった仏具が置かれている。


「何だこりゃ? ミイラ? いや、ミイラ化した死体……だな。コイツは……坊さんか?」


 これは私も知っていた。過去に取材に行った時に見たことがあったからである。


入定にゅうじょうミイラだね。山形県のお寺に取材に行った時に見たことがある。僧侶の遺体は確か、信仰の対象になっているんじゃなかったかな」


「そう、即身仏そくしんぶつですわ」


「即身仏? あの落語の黄緑色の凄い師匠が自らをネタにするアレだよな? どこからどう見たって、坊主のミイラじゃねぇか。信仰って……死体を拝んでるってことなんだよな? まぁ、どんなに立派な大仏や銅像や木像や地蔵や史跡だって、石くれや木っ端と割り切るなら、それを拝んでることに、さした違いはないけどよ」


「素晴らしい見解だわ! 実に刑事らしく罰当たりで無見識で、情緒や風情など欠片もない意見ですのね。素敵! 今後の参考にさせて頂きますわ。……西園寺さんって面白い方ですのね!」


「だろう? 刑事なんて罰当たりな商売をやってるとこうなるんだぜ、ははは。人間性を捧げて不毛な亡者の眷属けんぞくになるんだ。法の番人は悟りと一番遠いとこにいるからな」


「いや、褒めてないから……」


 私の役目とばかりに、私は一応そう突っ込みを入れた。どうも腹芸や皮肉やボケや煽りや話術の技巧にも長けた、アクの強いこの二人の間に入ると、私は自然とそういう役回りにされるようだ。


「わーってるよ。ンなことはどうでもいい。……で?」


 実に西園寺らしい、簡潔でいい加減な反応の仕方に、女は形のよい眉をやや苦笑気味に寄せて続けた。


「即身仏とは衆生救済しゅじょうきゅうさいを願い、厳しい修行の末に自らの肉体をミイラにして、後世に残したお坊様のことですわ。仏教では最も過酷な修行の末に行き着く境地だといわれています」


 女はタブレットの画面をスライドして、私と西園寺の方へと向けた。ネット上のページで先ほどとは違う写真である。こちらは金糸銀糸の編み込まれた立派な法衣を身に纏い、高帽子を被って座した即身仏の写真だった。


「こちらは真如海上人しんにょかいしょうにんという方の写真です。山形県朝日村に生まれ、青年時代より仏門に帰依出家きえしゅっけし、生前は世の中に慈悲を尽くし、生き仏として多くの人々より尊ばれた方ですわ。20代で即身仏を志し、70年にもおよぶ苦行を経て、96歳で即身仏になられた方なのです。山形県の庄内地方は、特に即身仏信仰が盛んな土地なのですわ。日本には現在、全国に17体の即身仏がお祀りされ信仰の対象となっています。ほとんどが江戸時代以降に入定された方々のものなのですが…」


「それは知ってるぜ。戦後の埋葬法の改正だろ? どんなに宗教上は尊い理由があろうと、自殺であることに変わりない。手助けなんかしたら自殺幇助。作ろうとしたら殺人罪で即刻逮捕だ。電車やコインロッカーに、遺骨を置いて立ち去るようなアホは昔からいるが、実刑五年以上は覚悟してやれと言いたいぜ」


「もちろん、法で禁止されておりますわ。いくら衆生救済や救世ぐぜを願う為とはいえ、西園寺さんの仰るように今は自殺と同義だと見なされています。即身仏になるための修行というのは恐ろしく過酷で、木食修行もくじきしゅぎょう土中入定どちゅうにゅうじょうという二段階に分けられているのです」


「興味本意で聞くんだがな、具体的にはどうするんだ? ……ええとだな、つまりだ、腐らない死体になる為には、どうすればいいんだって意味なんだが……」


 ようやくそこに繋がった。


 専門外だからなのか、めずらしくやや遠慮がちな西園寺の問いに、女は頷いて言った。


「木の皮や木の実を食べることによって命を繋ぎ、経を読んだり、瞑想をするのですわ。まず最も腐敗の原因となる脂肪が燃焼され、次に筋肉が糖として消費され、皮下脂肪が落ちていき水分も少なくなる。最初の木食修行では、生きている間に体を腐敗のしにくいミイラの状態に徐々に近づけていきます。そして第二段階が土中に石室を設け、そこに入り、竹筒で空気穴をもうけて完全に埋まります。僧は石室の中で断食をしながら漆を飲み、鐘を鳴らして読経どきょうするのですが、やがてその音が聞こえなくなり、長い歳月を経てから姿を現すのです。喩えるのはとても無礼なのですが、ダイエットなどとは程遠い荒行なのですわ……」


「必ず死ぬ訳だからね。過酷なんてものじゃないな……」


「俺には違いがさっぱり解らねぇ。悟りを得る為に自殺するってことか?」


「それは違いますわ。お坊さんは別に悟りをひらく為に修行している訳ではありませんもの。即身仏と即身成仏そくしんじょうぶつは全く別物です。違いは即身成仏は生きている状態で悟ること。生きたまま究極の悟りを得る為によく混同されるのですが、即身仏は瞑想を続け、そのままの状態でミイラになることなのですわ。死んで仏になるのではなく、自らの遺体を御本尊とするのです」


 女は自らのタブレット端末をホーム画面に戻し、小脇に抱えた。


「……解って頂けまして? 怠惰な死体と表現するなど実はとんでもない話なのですわ。救世とは生死を賭けて行うもの。世の中を動かす為には己を殺すことだって厭わない。魂がたとえ肉体から離れても、自分自身の肉体はこの世に残る。腐らずに朽ちもせずに残る不死の体となる。故に不死なる我が遺骸いがいにあらゆる救いの願いをめよ。魂魄こんぱくは、たとえ天に還りて肉体より離れ出しも、死しても尽きぬ我が遺骸がそのしろとなろう……。ある意味で、そうした究極の死生観に踏み込んで、人々の願いを体現する、文字通りの仏の姿といえるのです」


「ちょっと待てよ。奴が……木村憲仁が全ての犯行を成し得た犯人なのだとしても、他にも幾つも疑問が出てくるぜ。例えば喋る死体と密室の問題がある。ネタ記事を書ける東城はともかく、刑事がそいつを手放しで信じる訳にはいかねぇな。……奴が犯人だと断定した、その論理的な根拠ってやつを示してくれるつもりは、当然あるんだろうな?」


 もちろんそのつもりですわ、と女はまだ懐疑的な西園寺に向けて自信たっぷりといった様子で艶然えんぜんと微笑んだ。


「お二人は、死体が声を出すという現象を聞いたことがないようですわね」


「アンタまで、肉屋のあんなホラーどころか法螺話ほらばなし与太話よたばなしを間に受けてんのかよ。……死体が喋るだぁ? ンな訳ねーだろ。バカミステリーも大概にしろってんだ」


「あら、バカとはずいぶんと失礼な言い方ですわね! 私は大真面目に言っているのですわよ。……東城さんはいかがですか? 聞いたことありまして?」


「ある訳ないでしょ。さっきは僕も罰当たりにもテンションが上がって将門公だの妖怪だのを持ち出したけど、そのミートハウス高木って肉屋の高木さんも嘘にしても、もう少しマシな嘘をつけと言いたいよ」


「ミートホープの桶屋の高飛車は、何も間違ったことを申しておりませんわ!」


 私は思わず、ずっこけそうになった。どうも、この女、頭脳明晰なようなのだが、興奮したりテンションが上がると、話し言葉まで怪しくなるようだ。名前も盛大に間違っている。


「ミートハウスな。あと肉屋の高木さんな。アンタ、頭はいいが色々と滅茶苦茶だな。そのお嬢様言葉も無理してやってねぇか? いい加減になんとかならねぇのかよ……。聞いてて、どうも胸元がゴージャスな芸能人姉妹の話言葉を聞いてるみたいで、背中がむずがゆくなってくるぜ…」


 西園寺は的確に突っ込みをいれながら、あからさまに、女の控えめな胸元の膨らみをチラリと見て、さもがっかりしたようにため息をついた。女は西園寺のその反応と視線の動きに、白い顔の目元を血色チークのようにほんのり赤く染めて、胸元を覆い隠すような仕草をしながら彼をねめつけた。


「ワタクシの、この話言葉は地ですわ。別にどこぞの芸能人姉妹など真似てなどおりません! あんな不自然なシリコンの入れ乳共と一緒にされたら、私のかわいらしい、ナチュラルな……このお胸は……ああ、もう! ンなことは、どうでもよイのですッ! ……と・に・か・く! その肉屋の高木って○○○野郎は、これっぽっちも嘘はぶっこいておりません!」


 拳銃の効果音が鳴り響きそうな放送コードに引っ掛かる発言をした女は、ブチ切れて感情を爆発させた挙げ句、ぜいぜいと鼻息を荒立て、最後はつんと西園寺にそっぽを向いた。反応や感情の表し方が、恐ろしく速い女である。感情豊かといえばその通りなのだが、まるで三倍速のパラパラ漫画を見ているような忙しさである。


「ボケたりじらったりキレたりねたり、とにかく忙しい女だな……。ブッ飛んでるぜ…」


「まぁまぁ、今は死体が喋る話でしょ?」


 強引に軌道修正した私に、拗ねていた女は答えた。


「死体が喋るとまではいかなくても、死体が声を上げるというのは嘘ではないのですわ。エンバーミングの先進国である米国やエンバーマーやセレモニーホールのスタッフの間では、割と当たり前のように認識されていることですのよ? 日本では一番多いのは、エンゼルケアのナースが遺体の体を拭く時に、遺体を仰向けにした際に唸り声のような音を聞くことが多いそうですわ」


「意識もなけりゃ声を出す意志もない、人間の死体がどうやったら声を出すんだよ?」


「簡単ですわ。そこに意識も意志もないからです。叫ぼうとした喉の形がそのままになって死んだのなら、塞がれていた気道から空気が出てくる時に、声帯を震わせてしまうのは、むしろ当然なのですわ。人の筋肉は伸ばすよりも曲げる方向に強い力が働きますから、体を曲げた際に肺を圧迫したら、空気が抜け出てしまうことがあるからです。腐敗ガスが肺を膨らませても同じ現象は起きます」


 私と西園寺は驚きのあまり、思わずあんぐりと口を開けていた。女は続けた。


「エンバーミングを持ち出さなくても、昔から鼻に詰め物をしている遺体の傍でご遺族が遺体の声を聞くということは、ままあることなのです。遺体が口を半開きにしていた時に、声が出たという証言は多いのですわ。これは気候や気温や室温の変化も影響します。死後硬直が死体の肺の部分を圧迫ないしは収縮させてそうなったのです。声が出るのをたまたま聞けたというだけで、むしろ奇跡的な出来事ですのよ。幻聴だとか未練がましいだとか、まるで死者の呪いのように思われては、お亡くなりになった方も浮かばれませんことよ? 死者の最後の声として、有り難く合掌して見送ってあげるのが正しい在り方ですわ」


 まくし立てるように一気に話した女の口調は、あまりに淡々としていたが、私と西園寺は口を開けて凍りついたままだった。


「お、おい……じゃあ、あの茅場町の冷凍庫の異様な現場の死体は……。ま、まさか、それを人為的に行った……ってことなのかよ?」


「ああ、わかった! そうか! あれは、死体を見つけさせる為だったのか!」


「時限式のトリックですわ。死体が見つかったのは、もちろん偶然ではありませんのよ。ガラス製の骨壺にドライアイスを詰めておけば、絞殺された河西祐介の声帯なら、自然にそうなりえます。何しろ河西祐介の胴体と生首が発見された1月15日は、茅場町の施設では朝から電気設備の点検が行われていた。つまり冷凍庫の電気が消える日だったのです。死体が発見された時に、死体を覆っていたビニールは濡れて水浸しの状態になっていたというのでしょう? 中身が溶けていた証拠ですわ。ドライアイスは溶ける際の昇華で無味無臭の炭酸ガスを出します。密閉された骨壺に詰めて、生首で蓋をしておけば、それが溶け出したタイミングで声を出させることも可能になるし、痕跡も一切残らない。犯人はだからこそ、茅場町の施設に死体を遺棄したのですわ」


 茫然自失ぼうぜんじしつしている私と西園寺をよそに、女はさらに続けた。


「この首なし死体に声を出させる計画は、成功してもしなくても大勢には影響なかったでしょうが、嵌まると犯人側にとって成功報酬は莫大なものとなりますわ。冷凍庫の温度管理や納品業者なら誰が出入りする状況かを予め知っていて、尚且つミートハウスの高木さんがマメにTwitterやFacebookやLINEを更新している方だという情報を予め知っていたとしたら、それを利用しようと考えない方がおかしいのです。……ほら、ここでも犯人は木村憲仁以外にあり得ないという結論は出ているのですわ。生前、彼と懇意にしていたお肉屋さんの高木様が、どういった役割を担うのかを予測できた立場の人間でなければ、まず思い付かないトリックだということなのです」


「つまり、聖創学協会を追い詰める為に……」


「首なし死体が声を出すという劇場型の犯罪で波及効果はきゅうこうかを狙った、ということなのか…」


「そうです。脅しに復讐に批判、恨み辛みに妬みに嫉み。ちまたに流れる、ありとあらゆる聖創学協会への悪感情を一時いちどきに爆発させる為には、ネット上も含めて、教団とは関係ない人間が騒いでくれた方がより効果的なのです。バラバラ死体だけでもインパクトはありますが、信者以外の人間をより事件に引っ張る為には、もう一つ過剰な演出が必要だと考えたのでしょう。これもフォロワーの獲得という目的の為ですわ」


 とんでもなく緻密な計算のもとに、とんでもない仕掛けが成されている。私は思わず、犯人の悪魔的な頭脳と目の前の女の洞察力に感嘆のため息を漏らした。女は続けた。


すねに傷持つ教団が一番恐れるのは、ネットの社会的な影響力です。こればかりは教団側としては、情報を統制しようと、偏向報道を辞さない子飼いのメディアに呼び掛けても、却って火に油を注ぐ結果にしかなりません。始めに言ったはずですわよ? この事件は全てにおいて、ある法則の下に犯行が行われていると。則ち、聖創学協会の解体と壊滅を目的としているのです。ドライアイスを使ったトリックなど、とあるマニア達の間では、初歩中の初歩ですわ。周囲の温度変化に顕著な何らかのガラス製品と冷凍庫が出てきた時点で、何らかの作為があったのだろうと考えなければ、モグリかニワカと呼ばれてしまいます。……まぁ、ンなことは別にどうでもよろしいのですけれど」


 女はこの短時間のうちで、早くも友人の悪影響を受けているようである。どうもいい加減な物言いが気に入ったようである。割といい加減な女は続けた。


「一見、異常だ狂気だとしか思えない演出こそ、何より雄弁に意志を主張しているというのは、とある小説の世界では常識です。私が生首に聞いてみた結果は、この結論でしたわ」


「じゃあ……おい、あの二人が殺された時の状況はどうなる? 木村憲仁が犯人だってのなら、少なくとも奴は二人の部屋に同時に入って、二人を同時に殺していなきゃいけないことになるぜ。カードキーが二枚なきゃ、密室を突破して二人を殺害できない」


「殺害時にカードキーは使っていませんわ」


「はぁ!? アンタ、マジで言ってんのか? カードは実際に使われてるだろ。何が言いてぇんだか、訳がわからねぇぞ」


 女の論理は突飛とっぴとも思えたが、今や自信家の西園寺の牙城を崩しつつある。もちろん、私も彼女の自信に満ちた発想には驚かされたが、西園寺の当然の疑問を受けて畳み掛けた。


「そう、西園寺の言う通りだ。カードキーで開けられていなかったってのは暴論だ。それならテンキーで入力して、ドアを開けたことになるけど、テンキーなら液晶を押す際に、番号となる数字や記号の配列が変わってしまうんじゃ?」


「東城さんの仰るのはランダムテンキーというシステムですわね? しかし、この事件の場合のシステムはそう複雑なものではありませんから、そこまで深く考える必要はありません。なぜならあのテンキーは、ランダムテンキーではないからですわ。このテンキーは中央のパネルに手を触れることで、数字が表示されて、押せるようになるのでしたわよね? ランダムテンキーというのは、この際に数字や記号のキー配列が変わってしまう仕組みです。この液晶に関しては、番号の位置は変わりません。信者はオートロックの部屋なのに対して、教団幹部の部屋は全部屋共通のカードキーしか渡されておらず、盗聴や盗撮を警戒して、幹部同士しか互いの部屋を行き交えないようにしてある 」


「そうさ。だからこそ河西麻美が使えないはずのカードキーの入室記録が河西祐介の部屋と開けられた時間がほぼ同時刻だから、被害者は同時に襲撃されたっていう結論になる。こりゃ論理的帰結ってやつだろうが?」


「そう。東城さんに西園寺さんは、ここでも犯人の手口に嵌まっておりますわね。犯人がカードキーだけでしか扉を開けていないというのが、思い込みであり罠なのですわ。極端な話、テンキーのナンバーを知っている人間ならば、誰でも侵入自体は可能なのですわよ? そこへ持ってきて木村正孝がカードを紛失しているという情報が転がり込んだ。河西麻未と彼がカードを紛失していたという事実から、犯行には、この二枚のカードキーが使われたに違いない。ここに論理の落とし穴が待っておりますわ」


「ちょいと待ちな。じゃあ、アンタの言うように犯人が仮にテンキーを使って扉を開けたのだとしよう。論理論理と小うるせぇ話だが、犯人がカードキー以外を使ったって証拠は? 少なくともカードキーなしでドアを開ける為には、予め番号を知っていなきゃならないぜ? それを証明しなきゃ、推理の前提が存在しない」


「ナンバーを予め知っておく方法ならありますわ。立派な証拠も。例えば指紋があります。特に河西麻未は、カードを紛失して、テンキーでしか入室していなかったという証言がありましたわよね? ならばテンキー入力の液晶画面に彼女の指紋が一つ二つしか残っていないというのは、明らかにおかしいのですわ。くどいようですが、大事なことなので、もう一回言いますわよ? テンキー入力で何度も入室したはずなのに、彼女の指紋が僅かしか残っていないのは明らかに不自然です。ベタベタと残っていないのは、即ち誰かが拭き取ったということ」


「え、指紋……を?」


「拭き取った……だと?」


「そうです。犯人が予め自分と河西麻未の両方の指紋を拭き取らなければ、まずそういった状態にはなりません。ついでに言えば拭き取った人物なら、指紋の跡で部屋の開錠キーを推測することも可能です。しかも、このテンキーは押し間違いによるミスに対応していません。せいぜい警備室で軽い警報音が鳴るだけで、過去に何度も鳴っているから、部屋の主ご本人からのお達しにより警備員も気にしないことにしていた。これは犯人側にとっては朗報ですわ。極端な話、何回でも間違えられるのです。システムとしてはそれなりに優秀でも、扱う人間のセキュリティー意識が希薄では、システムとて穴だらけになってしまうということなのですわ」


「河西麻未の方だけをピンポイントに狙った理由は? それも説明できんのか?」


 河西麻未の死因と部屋の場所ですわ、と女は西園寺に向けてニヤリと笑った。


「普通は毒殺ならば、ウィスキーの中に毒を混ぜておきさえすれば、それでお仕舞いのはずでしょう? なのに犯人は、ほぼ同時刻に電気錠の扉を開けている。そして、凶器となった毒の回収すらしていない。……それはなぜなのか? 私は若干ひねくれた女でして、謎と聞けば、解き明かす為に手近に生まれた別の疑問をまずは解くことを考えるのですわ。一見、永久氷壁のような硬い氷でも、弱いクラックを探し当て、そこを突き砕いて、止めの一撃が見舞えるコアとなる亀裂を探す感覚に近いですわ。……さあ、犯人は既に解っておりますわよね? なぜ木村憲仁は、時限式の毒殺という罠を仕掛けた立場でありながら、そんな手の込んだことをする必要があったのでしょうか?」


「被害者二人の部屋のドアは、カードキーによって、ほぼ同時に開けられている…? テンキーの液晶には河西麻未の指紋しか残されておらず、それは一つか二つである…? そして、木村憲仁が犯人である…? え…? それって木村憲仁は、やっぱり単独犯ではなかったってことの証明にしかならないんじゃ?」


 彼女の論理を私が改めて整理していた時、西園寺が驚きの声を上げた。


「ああッ! そうか……! 解ったぞ! 複数犯による犯行だと思わせようとしていたということか! やっとアンタの言いたいことが、俺にも解った! 奴らは同時に襲撃されたと思い込ませる為に、河西麻未の方だけ、カードキーを使わなかった。……いや、犯行直前まで使う必要がなかったからなんだ。中にいた犯人は、別の手段で部屋に入り込んでいたんだな?」


「その通りです。殺害当時に被害者の部屋のドアが同時に開けられたからといって、被害者が同時に殺されたとは限らない。これは、電気錠という開錠した時間と開錠方法の記録や痕跡がシステム側のサーバーにはっきり残ってしまう、この建物の入退室システムというセキュリティーシステムを、逆手に取った手口だったのですわ」


「ちょ、ちょっと二人とも待ってよ! 僕を置き去りにしないでくれ。僕にはまだ解らない。河西麻未の部屋だけカードキーが使われていなかった? ……じゃあ、二人の部屋が同時に開けられているのはどういう訳だい? 少なくとも二ヵ所の密室を、一人で同時にカードで開けたということになるだろう? そんな方法などない」


「……いいや、方法はあるぜ。これも立派に痕跡が残っているんだ。痕跡というより、関係者の証言だがな。氷を使った……だろ?」


「そうです。氷を楔型くさびがたにして、カードリーダーの位置にカードが触れる状態になるような仕掛けをしておけば、見掛け状は紛失したカードキーでしか開けられておらず、同時に二人が襲撃されたという体裁が作られます。カードには首にかけられるよう、赤い紐のストラップが付いている。これを利用しない手はありませんわ。例えばスマートフォンが二台あれば一台で動画を撮影しながら、もう一人のターゲットの前でモニタリングして、確かめながら行うことも可能なのですわ。……証言にもありましたわよね? 酒好きの河西麻未の部屋には、常に大量の氷があったであろうというのを? 幹部ならそのことは全員知っていた。……そこで、あのバラバラ死体の出番なのですわ。あのバラバラ死体の資料を見て、お二人は不自然に思いませんでしたか?」


 女は銀色の杖の先にある、ネジ状の突起を弄びながら淡々と続けた。


「あのバラバラ死体には、根本的におかしなところがあるのです。使われた切断凶器は三つ。バンドソーにデュアルソーに大型裁断機。いずれも短時間で死体をバラバラにすることは可能です。しかし、死体を解体する順番や手順を考えてみた場合、どうしても辻褄が合わないことがあるのです。予め犯人側に、二体の死体をバラバラにする計画があったのだとすると、どうしてもエレガントでない部分が見えてしまう、と言い換えてもよいのですけれどね」


「エ、エレガント……三つの凶器で人間二人分の首と胴体と両腕と両足の五つのパーツに分断されたバラバラ死体が美しいとでも? ひたすら悪趣味で統一性も欠片もない、ただ猟奇趣味が先行した死体がエレガントな訳ないじゃないか!」


「……いや、待て東城。今の二人の掛け合いで俺にも解った……気がする。捜査の報告書のデータをよく見てみろ。河西祐介はバンドソーで断ち切られていない! 三つの凶器で、二体が断ち切られてる訳じゃないんだよ」


「さすがは西園寺さん。粗野でぶっきらぼうでも、伊達に警視庁のキャリアはやっていないですわね。その通りですわ。単独犯なら一つの凶器で二人を解体すればよいはずなのに、この犯人はそれをしていない。グループによる犯行なら三つの凶器で、それぞれ割り当てられた手順で割り当てられた担当のパーツを分断すればよいはずなのに、それをしていない。裁断機に至っては、被害者の右腕と左腕だけをそれぞれ切断するに留めています。この中途半端な手口こそ、犯人の置かれた状況を如実に物語っているのです」


「犯人の置かれた……状況だと?」


「ええ、当初は河西麻未と同様に河西祐介の死体も、三つの凶器で分断する予定だったはずですわ。紙とペンで二体の死体を書いてみると解りやすいかもしれませんが、おそらく河西祐介の右腕部分にバンドソーで断ち切られた痕跡が残っていれば、二体の死体が左右対称となり、より統一性が保たれていたはずです。河西祐介の死体だけがバンドソーで断ち切られていない、というこの事実は、使だと考えられるのですわ」


 ひたすら困惑している私をよそに、女は淡々と余裕に満ちた態度で続けた。


「……さて、次はその生まれた疑問の扉をじ開けることに致しますわね?」


 女の持つ銀色の杖が、暖色系の照明を反射して妖しくきらめいた。


「犯人はエンバーミングの機材まで用いて、執拗に死体を腐らせずに、死体をばらまくという目的に固執しています。死体の解体作業においては犯人は失敗は許されなかった、という状況だったと仮定してみるのです。これは大型の裁断機によく現れていますわ。

 バラバラに解体した本当の目的は、後にバラバラ死体を信者宅に送る計画があったからだと考えられます。これを突き詰めて考えていけばよいのですわ」


「バラバラ死体の使い道ってことか?」


「ええ、死体を速やかにバラバラにしたい時に一番怖いのは、ターゲット以外の人間が解体現場に現れること。これは死体から採血する時や、不測の事態が起きてしまった時に即座に対応できないからです。そして、バラバラにする際に、切断部位となる部分以外を、無闇矢鱈むやみやたらに傷つけてはいけないということです。この四肢は防腐剤を注入して梱包し、腐らせないようにして世間を騒がせる為の時限爆弾という目的に使用されることになるのですから」


 杖を撫で回しながら女は続けた。


「その為にはB区画に誰かが侵入してきては駄目だし、死体を誰かに見られては絶対に駄目だし、犯行が行われているという事実自体を、隠しておかなければなりません。深夜の間に秘密裏に全ての犯行を完遂し、解体作業を済ませ、翌朝に幹部の二人が忽然といなくなっていたという体裁を作る必要がある。バラバラにされた、腐らない死体のパーツを安全に作り上げるには、どうすればよいか?

 殺害時刻の誤認と解体された順番、そして腐敗の程度や犯人自身の存在をあやふやにする必要がある。そして、この本部施設という鉄壁の要塞のような施設内で、安全確実に一連の犯行を成すために施設内の状況を常に確かめ、殺人行為から、死体の解体と自らの離脱までを当日に臨機応変に対応する為には、一体どうすれば効率がよいだろうか? やや荒っぽいのですが、私ならこうします」


 迷いなく。女は続けた。



「河西麻未の腕を断ち切って、彼女の腕を使って部屋に入り、施設全体を見下ろせる、その部屋に潜伏すればよいのです」



「ああッ! そういうことなのか! 河西麻未は河西祐介よりも先に殺されていたのか!」


「マジか……。死体の腕を使ってテンキーを押して部屋に入り込み、夜中に潜んでバラバラにしていたっていうのかよ…」


「そうですわ。生首を施設のど真ん中に埋める為にも、これは必要なことだったのです。これも入退室の記録が物語っています」


 彼女はそう言って、入退室履歴の資料を私達に見えるようにカウンターの上に広げ、河西麻未の名前の書かれた部分を指で指し示した。


●河西 麻未(57)/A棟4F・A区

2014.01.03 18:29 /TK

2014.01.03 19:07 /TK

2014.01.03 21:08 /TK

2014.01.03 23:17 /SC

2014.01.03 23:26 /TK


「そうか、てっきり犯人が現場の後始末に入り込んでいたのかと思って読み流していたけど、考えてみれば、犯人なら盗んだカードキーで入室すればいい。都合五回も入室しているのに、確かに河西麻未の指紋の数とは、帳尻が合わないことになる」


「ああ、参ったぜ、畜生……。19時7分には奴は入り込んで河西麻美を毒殺し、もう一人のターゲットを暗殺する機会を窺っていたって訳か……。ぶっつけ本番でやるには無茶がある氷のトリックも実験できていたし、台車で死体を運べる機会もあったってことになるな」


 敗北宣言のような私と西園寺の述懐に、彼女は頷いて言った。


「生体認証や指紋や声紋や眼球認証の照合によって入室できるシステムや、ホームセキュリティーが今や当たり前になってきている場所では、まず無理だったでしょうね。ランダムテンキーや防犯カメラがないという状況なら、この方法が最も施設内やB区画の状況を確かめ、準備や休憩をとりながら殺害と解体する手段には適切ですわ。優秀な狙撃手のいる分隊に優秀なスポッターがいるのと同じように、自らそれを行うには、この両方をこなす必要があるのです。そうした意味では、彼はスポッターとしては一流の腕前ですわ。犯行や解体から離脱まで、施設内にいた誰にも気付かれていないのです。但し狙撃手としては僅かに急所を外してしまっています。コンディションが万全な状態だったなら、命中精度とて完璧なスナイパーだったはずなのですけれどね……」


「じゃあ…

…河西祐介が、バンドソーで解体されていないっていうのは……」


「体がもたなかったからです……。体格がやや大柄で筋肉質で、体重89Kgもある重たい河西祐介の体を、高さを調整できるといってもせいぜい30cmほどの、全高197cmもある大型のバンドソーの台座の上に持ち上げるということが、木村憲仁は既に出来る体ではなかったからです。両足と両腕を断ち切って、軽くした後に胴体を載せればいいと考えるかもしれませんが、彼は既に河西麻未の死体を台車で運び、腕を解体した後で、格闘技も習っていた河西祐介に激しく抵抗された後だったと考えれば、力持ちが冷凍マグロを解体するように、ひょいと台座に載せるという訳にはいきませんわ。作業員が現場を完全に離れてからが解体するのには都合がいいのですが、時間的な制約に人は抗う術はありません。翌朝まで待っていられる時間的な余裕はないし疲労の極致で、彼自身がいつ倒れてもおかしくない状況だったはずですわ。木村憲仁は五穀十穀を断った生活を1ヶ月半も続けていたのです。筋力や握力とて相当落ちていたはずです。たった一人で自らの死期を見据えながら企てた、この壮大にして禍々しい計画は、時間と己との戦いだったはずですわ……。人を捨てて獣のような獣性じゅうせい享受きょうじゅした者でも、飢餓には勝てません。より人らしく獣らしく、ただそれだけでいられたならば、彼とてこんな道を選びはしなかったはずですわ。げに恐ろしきは人の復讐心。何が彼をそこまで憑き動かしていたのか、もはや想像するよりないのですが…」


「なんてこった…」


「この事件の悪意の種は、ずっと前に既に蒔かれていたようですわ。今度はこれをご覧になって下さい。この事件の動機に大きく関わる新聞の記事です」


 彼女は再びタブレットを操作して、新聞記事と思われるページを出して私達に示した。記事は2012年1月7日の記事のようである。


■    ■    ■    ■ 


【西荻窪の児童公園で主婦の遺体発見】


 警視庁荻窪警察署は1月7日の夕刻、記者団に対し東京都杉並区に住む行方不明の主婦(25)が西荻南児童公園の砂場で、他殺体となって見つかったと発表した。


 午前9時45分ごろ、杉並区西荻の児童公園の砂場で若い女性がうつ伏せで「く」の字に曲がっている状態で死んでいるのを、犬の散歩中の近所の住民が発見し、警察に緊急通報した。


 その後、遺体の身元はテレビの報道で知った家族の問い合わせを受けた荻窪警察本部の捜査の結果、杉並区西荻窪在住で三日前から捜索願いが出ていた水野沙耶さん(25)であることが判明したという。


 警視庁荻窪署は遺体発見時に被害者は靴を履いていなかったが白い靴下が汚れていないことから、沙耶さんは室内などの別の場所で暴行され、殺された上で車で運ばれて公園に捨てられたとの見方を強めている。


■   ■   ■   ■   ■   ■


「これはネット検索で、ネットの記事をキャプチャーしたものですわ」


―   ―   ―   ―   ―   ―


 被害者の水野沙耶さんの靴、バック、腕時計、携帯電話は発見されていない。


 沙耶さんの死因は窒息死。このほか首の喉元付近に強い打撃あるいは圧迫を受けた痣や、腹部を素手で殴られたような跡、手の爪には抵抗を試みて何かをひっかいたような吉川線があったことから、喉元付近を不意打ち的に絞められ、加害者に激しく抵抗した可能性が高い。


 被害者の水野沙耶さん(25)は近所でも有名な美人で西荻窪のマンションで夫(27)と2人暮らし。自宅には別居している京都府に住むヨルダン国籍の父親(58)も時々訪れていた。


 沙耶さんはハーフで背が高く、日本人離れした容貌で大変美しい方だったそうである。


 1月4日の夕刻、夕食の買い物に出ていた沙耶さんは近所の児童公園内にいた、たこ焼き売りの女性アルバイト店員と意気投合し、売り込みなどを手伝った後、足取りが途絶えており、22時頃に夫が鳴らした携帯電話も繋がらなくなってしまった。


 そして三日後の1月7日午前9時45分頃、遺体となって発見された。


 また、沙耶さんは近所の仲のよいママ友に、母方の実家の遺産を近々相続するかもしれないと漏らしていたこと、最近夜中に悪戯電話や無言電話が何度もかかってきていたことなどを愚痴っていたという。


出典

【ネットの力で風化を止めろ! 未解決事件を追う 杉並区西荻窪主婦殺害事件】


―   ―   ―   ―   ―   ― 


「そして、もう一つがこちらですわ。この事件から2ヶ月後……つまり2012年の3月27日の新聞記事です」


■   ■   ■   ■   ■   ■


【死体遺棄事件で男を逮捕】


 東京警視庁荻窪署は3月27日、杉並区西荻窪市に在住の水野沙耶さん(25)を1月7日に車で連れ去り殺害したとして、大田区の無職、佐川明人容疑者(32)を暴行と殺人と死体遺棄容疑で逮捕した。


 佐川容疑者は帰宅途中に水野沙耶さん(当時25才)を車で連れ去った上で首を絞めて殺害し、西荻南児童公園の砂場に遺棄したと見られている。


 逮捕された男は、沙耶さんを連れ去り、大田区蒲田の自室に閉じ込め陵辱しようとした際、激しく抵抗を受けたため殺害したと供述していることがわかった。


■   ■   ■   ■   ■   ■ 


「これが、動機……だったのか……。クソが! 容疑者は無職だと! このクソッタレの佐川明人が聖創学協会の信者で、被害者はハーフだったなんて一言も出てきてねぇじゃねぇかよ! 奴らに不都合な情報だから、隠して報道しやがったな! おの腐れきったマスゴミ共が!」


 怒れる西園寺とは対照的に、私は呆然としていた。


 次々と私達の常識からは、かけ離れたところで外堀が次々に埋められていく感覚であった。彼女の言葉が次々に、謎に満ちた世界を壊している。


 分厚くそびえ立つ永久氷壁の要塞は、今や彼女の止めの一撃によって粉々に打ち砕かれようとしている。私はまざまざとその手腕を間近で見せつけられ、皮膚がざわざわとあわ立つ思いだった。


 それは多分に時代錯誤とも奇矯の物語と受け取られながらも時代も国をも越え、世界中で愛され続け、過去に数多あまたの先達によって脈々と連綿と受け継がれてきた、とある手練手管てれんてくだに長けた者達の手腕そのものだった。


 世界を砕く鎚を手にできる者だけが放つ、特異点のような存在感。紛れもなく彼女にも、その血は受け継がれていると確信できるに足る、圧倒的な凄みと場を支配する牽引力があった。


 私は暗然と、深いため息をついた。


「復讐の為に聖創学協会に入ったのか……」


「そうです。彼は最近になって一族経営の聖創学協会に入った信者で、入信するや否や教祖も驚くような神通力を発現して幹部にまで登り詰めたのだそうですわね? そして、教祖の孫娘の木村美也子と婚約するはずだった、と。それで、もしやと思ったのです」


「その情報だけで、これだけ掘ったってのかよ……。浅はかで悪いが、俺には考えもつかない発想だったぜ」


「同感だ。まず自分が死ぬことを前提とした殺害計画なんて、普通は想定できないよ。狂っている……と思うのは簡単で、僕も彼の域には到底至れていない証拠だな。至れるとも思っていないが……。常識だの良識だの生存本能だのという当たり前な思考が働く」


 無理もありませんわね、と女は静かに頷いた。


「この事件の犯人の作り上げた、この並外れた死生観や論理を仮に“狂人の叡知えいち”と喚ぶのなら、それに触れる側も普通の論理や思考に照しただけでは理解できないことがあると思いますわ。科学技術が発展してこうして幾らでも情報を引き出せても、こうした事件の真相は、いつだって人の常識の埒外らちがいにあると考えなければ至れないことが幾つもあると思うのです。因みに彼の前職は何でした?」


「確か医者……じゃなかったかい? 入信する前は内科医をしていた」


「そう、彼は元医師なのですわ。インチキ教祖は人を救える幻を見せたり金儲けをすることはお上手でも、具合の悪い患者を治したり、人の心を癒すことはできなかったようですわね。だからこそ、彼は信者からはとても信頼されていた。しかも彼は死して信仰を集め始め、御神体となって、正式に協会の破滅をも導く存在になっているのです。なぜなら新たな御本尊になって、新たな象徴として誕生したことになるのですからね。彼の目的は多くの人を自らの私欲の為に不幸にし、愛する妻を亡き者にした聖創学協会の内部崩壊と壊滅だと考えられるのです。繰り返しますが、怠惰な死体だなんてとんでもない表現なのです。彼は恐ろしく勤勉で計算高く、死体となった今でも、目的を遂げようとしていますわ。この事件の悪夢のような様相は、全て彼の意図したこと。復讐に全てを捧げた男の恐るべき計画の為せる離れ業なのです」


「それだ。最初からアンタが聞いていた上で話すが、警察に捜索願いが出されたのは1月4日だ。さっきも言ったが信者達の話じゃ何でも、木村憲仁は過酷な修行の最中に脱走したと思われていたようだ。そして、バラバラ死体の被害者である河西祐介と河西麻未の捜索願いも1月4日だ。これは身内と、捜索願いを出した警察にしか知らせていなかったようだ」


「ところが三人の死体はとんでもない方法で世間に暴露されてしまうことになるのです。きっかけはコインロッカーから見つかった黒いキャリーバッグ。犯人である木村憲仁の死体だったのです」


「聞いて納得ってやつだ。よく、これだけの情報でここまで掘ってくれたもんだぜ。正直、ここまでの情報だけでもアンタには感謝だ。しかしだな、その……自分の腐らない死体だけで騒動の起爆剤になれるものなのか? 死体は特に傷んでいないし、腐敗していないというだけで特徴は何もない。もちろん遺書もないし聖創学協会を示すような手掛かりは、捜査線上で初めて浮かんだことなんだ。再三問い返すがな、木村憲仁が自分からあの死体になったと、最初にそこまで言い切った根拠は?」


 死体が発見された時の状態ですわ、と女は即座に西園寺に切り返した。


「…ここで改めて、確認しますわね? “黒いキャリーバッグに入っていた木村憲仁の死体は切断されておらず、バッグの中の死体の背中が当たる側は若干じゃっかん膨らんでおり、まるで新品の電化製品のようにビニール袋が被せられ、胡座あぐらをかいて反り返った姿で箱詰めされていた”のでしたわよね?」


 一度読んだだけの捜査資料の文言を、寸分違わず諳んじて、女はさらに続けた。


「“死体入りのビニール袋は香が焚き染められた匂いが残留していた。東京駅のロッカー事務所の係員がアラームの音を止めようとしたが、キャリーバッグには数字錠が掛けられていた。幸いナンバーは0107で空けられる状態のまま数字が動かないように固定されていた為に係員によってバッグは開けられた。開けた途端に新品のスマートフォンが床に転げ落ちたが、係員達はバッグの中身に釘付けで腰を抜かして驚くこととなる。中には死体が綺麗に梱包された状態で入っていた”と」


 私は寒気がした。常軌じょうきいっした姿である。死体を発見したのはロッカー事務所の係員達という話だが、一目でトラウマとなるようなとんでもない悪夢の光景であったろう。しかし、自ら入り込んだとなると当然の疑問が出てくる。私は彼女に問いかけた。


「そうだ。死体は自らの意思であの状態となったとあなたは言うのでしょう? 先ほどあなたは御神体になるのが犯人の目的だった、とはっきり言ったばかりじゃないですか? 事実、発見したのは教団関係者でなく東京駅のロッカー事務所の係員達ですよ? 棺桶かんおけのようには見えないし、どう考えても御神体になるという発想が生まれてくるとは思えない。確かに他殺の線はないにしても、殺されて遺棄されたようにしか最初は思われなかったはずだけど……。変死なら司法解剖に回されるし、誰が遺棄したのかが捜査の焦点になる。普通はその遺棄した人物が詰め込んだと思うはずで、キャリーバッグは棺桶にならないし、まして入定しただなんて罰当たりもいいとこだ」


「その通りですわ、東城さん。しかし、逆説的にこうも言えるでしょう? 死体が発見された時の様子が第一発見者から見て棺桶のように見えてしまってはいけなかったからだ、とも。だからこそキャリーバッグと東京駅という舞台装置が選ばれたのですわ。芸能人がTwitterで舌禍ぜっか事件をわざとつぶやいて話題作りをしたり、フォロワーを増やしたりするように、多大な騒動に発展する、劇場型の効果を同時に狙ったと考えられるのですわ。演出家としても彼は最高です。それに最初に言いましたが、御神体になるという表現は、矛盾どころかストレートに彼の目的に合致がっちした表現ですのよ。そうしなければならない理由があったと思える、確かな根拠が他にもあるからです」


「自らが死体となって発見されることで得られるメリット……ってことか? それが何なのか、あれだけのテキストで解るってのか?」


 もちろんですわ、と彼女は西園寺に向けて頷いた。


「自分が腐らない死体となって荷物となって運ばれなければいけない以上、運ぶ間に中身が第三者にバレてしまってはいけないのです。中身が死体だと思われて早々にキャリーバッグの中身を調べられてしまうと、この自ら偽装した壮大な自殺と復讐の殺人、そして協会の壊滅という壮大な計画が破綻してしまいます。……では、西園寺さん、木村憲仁の死体が1月12日に発見されたことで、どんな結果が生まれましたか?」


「被害者は……実際は犯人な訳だが、木村憲仁という男の死体の身元は、スマートフォンの契約者情報から聖創学協会の関係者で、いずれ教団の幹部となる幹部候補の人間だったと判明した……いや、判明させた訳だな? 自ら異様な死体になることで世間を大騒ぎさせる起爆剤になった訳だ。自爆テロみたいなものか…」


「その通り。そこで今回の騒動にようやく繋がるのですわ。教祖に次ぐ教団の大幹部である河西祐介と河西麻未夫婦の死体は、二人ともバラバラに解体され、それぞれが都内に三ヶ所ある教団の二つの施設や信者個人の元に届けられ、最初の河西麻未の生首は木村美也子の愛犬が見つけて激しく吠え出した」


「全て計算通りとなるよう見越した上で、そうした。それも計画のうちだったというんだね?」


「ええ、その通りですわ、東城さん。この事件は全てにおいて、聖創学協会を不利に追い込むという法則性に基づいて計画されているのです。これを大前提として、彼の立場になって考えていけばいい。暴力団関係者やTV業界や政界とも黒い付き合いのある、あの聖創学協会の誰かや教団そのものによって犯行が行われ、いかにも教団を恨む外部の人間か怨恨の末に教団内部の人間に殺されたように見せかけ、捜査の目や世間の好奇の視線が彼ら教団に全て向く必要があった。何しろ、幹部でも世間に多大な影響を及ぼしていた張本人達のバラバラ死体なのです。その殺人現場ともなれば、世間に情報が公開されない訳がありません」


「そうか。非協力的な態度では批判は協会の信者全てに向けられ、彼らの事業そのものにも及ぶことになる。風評による不買運動は進み、評判はがた落ちで、関連企業の株価は駄々下がりになることだろうね」


「ええ、しかして聖創学協会の関係者達からは、黒いキャリーバッグの中で腐らない死体となった彼の姿は、さながら何らかの宗教儀式の末に奇跡を体現したか、腐敗もせず呪いながら教団を恨んで死んだようにも見え、信者達からは畏怖され、神格化される必要があった。……事実、そうなっているのでしょう?」


 女の問いに西園寺が頷いた。


「ああ、既にきちんとした真言宗派に改宗したり脱会する信者達まで次々に出てきて散々な状況だよ。死体の引き取り手がきちんとエンバーミングの防腐処置を施して、歴史資料としても御神体としても正式に保存して、協会の組織構成を刷新しようと動き出しているようだからな。……おっと、このことは絶対に外部に洩らすんじゃねぇぞ。警察が畑違いの宗教に首を突っ込みたくはないんだが、あの教団はもう駄目かもわからんな」


「確かに目的が教団の壊滅だったとすると、目的それ自体が成功しつつあることになるんだね。つまり殺人と腐らない死体は、セットで彼の計画だったと?」


「その通りですわ。殺人に関しては彼以外に全ての犯行を成し得る人間はいないのです。繰り返しますが、自ら腐らない死体となるメリットは、自らに疑いの目を向けさせずに殺人を行った事実を隠す為と、死体の発見の順番をある程度コントロールすること。そして信者か教団関係者の犯行に見せかけること。その際は複数犯による犯行と見せかけること。もう一つが復讐する教団に自分の存在をこれでもか、と過剰な形で誇示することにあったのですわ。仮にバレたとしても、世間的には覚悟の自殺を遂げたという結末にしかならないのですから」


 女は銀色の杖をつうと撫でた。


「御本尊……いえ、この場合はやはり御神体と呼ぶべきですわね。御神体になった者が教団に現れたというのは、“設立のきっかけが土中入定した遺体の奇跡に触れ、真言密教から枝分かれしたと公言して新興宗教を設立・運営して勢力を拡大してきた”教祖側にとっては致命的なのですわ。事実、教祖は木村憲仁のあの姿に触れ、精神に異常をきたして入院するほど追い込まれているのでしょう?」


「ああ。教祖の木村太輔は孫娘の婿があんな姿になったことで、発狂寸前らしい」


「全てギリギリを見切った上での恐るべき作為だったと考えられます。キャリーバッグの中身が死体だとは解らせず、かつ他殺死体よりも前に発見され、自らの異様な死体が一斉捜索の契機となる必要があるのです。これは、自らの死期まで計算に入れた人間でなければ到底できない計画なのですわ。自ら死体として発見されることで、蜂の巣を突ついたような騒動を世間にもたらし、時限爆弾のような効果を与える為には、そうする必要があったのです」


「キャリーバッグが殺人犯を運んできたってことになるのかよ……」


「ただの殺人犯じゃないよ……。復讐に全てを捧げ、人を越えた人だ。被害者でもある……」


 私達の述懐に、女は静かに頷いた。


「何がきっかけだったかはもはや想像するしかありませんが、自ら死体になって何らかの目的を遂げようとしていたのだという明確な形跡は残されていますわ。死体が発見された時の、スマートフォンのアラームと、あの数字錠を思い出して頂きたいのです」


「あの騒ぎの引き金になったアラームと意味のないナンバーロックか? 意味が……あったって訳だよな?」


 彼女は深く頷いた。


「スマホのアラームが盛大に鳴り、数字錠は開けられる状態であったにも関わらず、ご丁寧にも数字が動かないようにロックした状態で掛かっていたのです。……さて、この状態は果たして何をもたらすことができるでしょう?」


「まさか自分の死体を早く発見させる為か? そうか……死体が出てきた時の、スマートフォンとセットだったというんだな? 自分の死体を発見させなきゃ、始まらなかったからだ! 数字錠がかかったままじゃ最大音量のアラームは止められず、旅客やロッカー事務所がそもそも異常に気づかなかったかも知れない。それで鳴動時間を無制限に設定して、スヌーズの時間を1分間隔にしていた訳だな?」


「その通りですわ。東城さんに西園寺さん、私が真相を看破できたきっかけは、正にその辺に理由があるのですわ。全くの新品のスマートフォンが現場に残っており、アラームを鳴らして死体を発見させたというのは、完全に犯人側の作為と見るべきなのですわ」


 私と西園寺の反応がないのを見てとると、畳み掛けるように彼女は続けた。


「この場合、全く新品のスマートフォンのアラームを鳴らす利点とは何か? 誰かからの電話やメールでの着信音では駄目なのです。盗難されたものを使っても駄目なのです。自分も含めて誰かの発着信の履歴があっても駄目なのです。他の端末機で外部から操作されては駄目だし、余計なアプリケーションを入れては駄目だし、自らGPSで位置情報を知らせるようなことをしては駄目だし、普通の目覚まし時計では緊急性がないのでもちろん駄目なのです。時限式のアラームで死体を見つけさせる為には、スマートフォンのアラーム音声でなければならず、そのバッテリーの残量が充分に残っていなければならないからです。なぜなら死体の身元に辿り着く為には、自分自身の遺体が崩れていてはいけないし、スマートフォンの契約者情報から辿る以外に警察には方法がないからです。でなければネットを常日頃から監視している教団の部署に隠蔽されてしまいかねないし、世間も巻き込んだ大騒ぎにならないからですわ」


 私と西園寺の疑問が次々に氷解していく。カラリ、と飲みかけのウィスキーグラスの氷が音を立てた。女は続けた。


「そしてなぜ東京駅のAロッカーでなければならなかったのかは、丸の内南口の改札口や中央線快速の1・2番線ホーム、山手線と京浜東北線の3、4番線ホームからも近いからですわ。旅客や改札の係員が異常を知りやすい位置に入れられなくては駄目だからです。さらに係員に開けさせる為には、入れられてから三日以上は経過していなければならないし、発見される日はロッカーが埋まりやすい休日を選ばなくてはなりません。その方がロッカーを使いたい旅客の気を引ける効果が最大限に見込めるし、即座に警察による現場検証でロッカー付近が封鎖されて大騒ぎになるからです」


 氷のように冷静な女は、淡々と続けた。


「死体が鳴らしたアラームという体裁は、自殺を疑わせるものになりかねないのですが、自らの腐らない死体が異常の契機となり、身元調査の後に発見されるであろうショッキングなバラバラ死体の生首と、同時多発的に発生する、一都三県に跨がる殺人死体遺棄事件の展開を早期に迎えさせることで回避可能になるのです。これらの演出、小道具、舞台は全て、その後の展開を見越した上で選ばれていたのですわ」


 回り続ける車輪のように、畳み掛けるようにして彼女は続けた。


「そして、あの数字錠です。考えても見てください。そもそも中身を空けられる状態のままロックしたのでは、数字錠の意味を果たしませんわ。閉めた本人でなければ開けられないようにする為の数字錠なのですから」


 彼女は視線を彼方かなたを見るように一点に集中させ、左のこめかみに指をあてて続けた。


「使われている数字が4種類で1111、2222といったように同じ場合の組み合わせは10通りですが、0~9のうち4つ別々の数字を取り出そうと思ったら組み合わせは、10の4階乗通りとなり210通り。これに同じ数字が重複する二種類を取り出す場合、重複する三種類を取り出す場合と、それぞれのパターンが最終的に合計となるように考えていけばよい訳ですから、つまり何も知らない人間が4桁の数字錠を解錠しようと思ったら0000~9999 までは10+630+4320+5040となり、答えは10,000通りとなりますわね。……あら、数字ばかりでごめんなさい。何が言いたいのかといえば、一万通りもの数字の組み合わせを試すような真似を犯人側はさせたくなかったという反証になりえるのです」


「敢えて開けられる状態にしていた……か」


「ええ。数字は0107。数字が動かないように固定までされているし、総当たりで最初に0000から試しても早期に引っ掛かるように、設定してあるのです。まるで隠す気など最初からなく、誰かに中身を見てほしかったようではありませんか? 数字自体や舞台となった東京駅という場所にも、何かしら深い意味やメッセージがあると考えねばならないのですわ」


 彼女はゆっくりと車椅子の手摺てすりを撫で、自らの銀色の杖を弄びながら続けた。


「そこで考えてみたのです。木村憲仁が全ての犯人だと仮定して1月7日に全ての犯行が終了し、1月12日の12時00分にアラームをセットして鳴らしたのだとすると綺麗に謎の全てが現在のような状態に収束することができるのではないか、と。数字自体が遺書のようなものであり、何らかのメッセージとなって残るように予め仕向けていたのではないか、とね。そこでその数字があった日に何があったのか調べ、二年前に殺人死体遺棄で逮捕された男と被害者の水野沙耶という女性の名前がある、先ほどの記事を見つけたという訳ですわ」


「そういうこと……だったのか」


「0107で固定されていたのは、ネット上の検索で日付に関する項目が一番最初にくることを見越して、そうしたのだと考えられるのです。

“聖創学協会”や“事件”を探せば、すぐに引っ掛かるように配慮していたということですわね。でなければネットを監視している部署に、事件に関する記述をこれまた消されてしまいかねないからですわ。誰かの不都合なことは、消せば逆に増えるというインターネット上の法則を逆に突こうとしていたとしか思えません。そして、彼自身がどうしようもなく優しく不器用で、フェアプレー精神まで持って、誰かに何かを伝えようとしていたということなのです」


「参ったな……。さっきの僕達のやり取りだけで、そこまで見抜いたのか……」


 私は西園寺の方にチラリと視線を送った。彼は私の視線の意味を汲み取ったのか、苦虫を噛み潰したような顔で観念した。


「わ~かったっつの! そんな恨みがましい目で見るなよな。畜生、俺も今日から宗旨替えだ! 名探偵は現実にいるよ。い・る! これでいいだろ? ……ちっ、こんなに早く自分に巨大なブーメランが刺さりにくるとは思わなかったぜ」


 彼女はクスッと笑って、居ずまいを正して続けた。


「話の途中で西園寺さんから聞いた情報で、彼は教団に入信する前の名前は本当は水野憲仁といって今や憲仁上人と呼ばれる人となった、いやいや水野上人と呼ぶべきだ、木村家はとんだ紛い物の団体だ偽物だインチキだ、と信者達からはそう叩かれ始めているのでしたわよね? その話を聞いていた時におや、と思ったのですわ。最初に事件のアウトラインを聞いて被害者の話が出た時に、彼は教団に自分の本名は木村憲仁というのだと最初に名乗り、その面白い偶然をきっかけに教祖の孫娘を射止めることができて今の地位を築いたというのでしょう? でも、これはおかしくありませんか?」


「そんな都合のいい偶然が、果たしてあり得るのかってことだね?」


「ええ、始めは勘違いか、同性同名の別人のことかと思いましたわ。普通は妻帯していたという事実は、本人は隠していたいことなのかもしれませんが、再婚する上でそれほど障害になるものですか? 真っ先に教えて然るべきはずの、再婚する新妻はともかくとして、信者にも偽名を名乗る理由が見当たらないんですもの。教えずに木村と名乗ったからには、入信した当初は、背後に何か名乗れない理由があったのだと考えねば、辻褄が合いませんわ」


「最初から教団内部に入り込むことが目的で、木村ではなく水野だったという事実が、後から効いてくるような仕掛けを施す何らかの計画があった。だから偽名の姓を名乗っていたと?」


「そういうことになるのですわ。復讐の計画が生まれうる可能性を、私はそこに見出したのです。妻帯していた事実を隠したかったのだとすれば動機は男女に関することか家族に関することだろうか? その目的は復讐だろうか、とね……。怠惰な死体という表現は、死体の形状からきたA新聞の社説の見出しが最初でしたが、実際の彼は非常に熱心な信者で、殺される理由が見当たらないそうではないですか。動機の面では絞りようがないというのを、予め見越していたとしか思えないのですわ」


「なぜ奴が河西祐介と彼の妻の川西麻未を殺したと断言できたんだ? 易しい難易度どころか、俺達はそこでもつまづいていたんだぜ?」


「難易度が易しいと言ったのは、取っ掛かりのこの大きな謎が解けてしまえば、事件の大枠の構造と法則性が読めるからです。論理の展開が知恵の輪や数学の証明問題を解くように順番に展開できるのです。つまり、バラバラ死体のパーツが発見された順番や、なぜバラバラにしたのかの理由がある程度、限定できるからですわ。捜査の上で見つかる順番は最初に愛犬によって発見されたもの以外は、おそらく宅急便の送り状の順番通りとなるはずで、最初から彼の計画に入っていた。これは最終的に事件のフォロワーを増やす為、複数人の犯行に見せかける為にバラバラにしたと考えられるのです」


 愛犬の存在はとてもよいヒントになりましたわ、と彼女は続けた。


「あ、そうか! それでさっき犬の名前と行動を確認していたのか」


「その通り。察しがよくて助かりますわ、東城さん」


「……おい、犬が何だって?、最初もそうだったが、そこが俺にはなんのことか解らねぇぞ。解るように説明しろ」


 私が彼女に代わって答えた。


「愛犬の名前はサヤだ。元妻の名前をつけていたってことになるね。オス犬なのにメスの名前をつけていたのには理由があったってことだ」


「待てよ、何でオスだと解る?」


「片足を上げてオシッコをするのは、オス犬の習性なのですわ。死体の生首を見つけたのは彼なのです。だからビニールに付着した唾液の状態を確認したのですわ」


「パブロフの犬だね。穴を掘ってビニールを見つければ、餌を貰えるという訓練を、予め仕込まれていたとしか思えない。大量に唾液が付着したビニールにその痕跡がある。犬に死体を見つけさせたというところにも、犯人は飼い主か世話した人間以外にあり得ないことになる」


「そう、補足しますとオス犬の掛け尿が始まるのは、生後8~9ヶ月頃でメス犬が最初の発情期を迎える時期でオス犬は尿中の男性ホルモンであるテストステロンをメスの鼻に近いところに残すことで、自分の存在をアピールしているのです。あとは衛生管理ですわね。オス犬のペニスは前方を向くように付いていますので、そのまま排尿すると胸にまでおしっこが掛かってしまいます。ですから片足をあげて下半身をやや捩った状態で排尿すると自分の胴体を汚さずにおしっこできるのです。そして、掛け尿は縄張りの主張でもあります」


 妙に幅広い知識を持つ女は、さらに続けた。


「動物学者B.Hartが1974年に行った調査結果では、犬を新しい場所やしばらく訪問していなかった場所に連れて行ったとき、どういう頻度で尿マーキングをするかを実験したのですが、雄犬は新奇な場所に連れてこられてすぐの時間帯において、マーキングの回数が突出する結果となったそうですわ。要するにこうした傾向は、おしっこを掛けることで、自分のテリトリーをいち早く確立したいという本能的な衝動と緊張感のもたらした結果だともいえるのです。他のとても似たような場所で仕込まれていた、ということになりますわね。例えば茅場町にある植え込み付近、とかね。よく犬や猫と遊んでいたそうでしたから」


「なるほどな……。クソッ……考えもしなかったぜ」


 あくまで傍証ですけれどね、と彼女は続けた。


「殺害の実行犯を絞る上では、行方不明になっていた当日の聖創学協会の主要なメンバー…つまり家族全員のアリバイを素直に考えていけば、答えにはたどり着けるのですわ。最初の他殺死体が発見された日付さえ解ってしまえば、推理は簡単です。密室と生首とて法則性が解っていれば、あとは応用です。簡単な消去法だと言ったのはそういう意味ですのよ? 残った家族の……教団幹部のアリバイは、崩しようがないほど完璧だったでしょう?」


「なるほど、資料を追う限りでは、他に犯行を成し得る人間がいないと決めつけていたな」


「普段は施設内で働いている信者らを含む教団関係者が全員、参加するのを前提とした上で、その三斉勤行という儀式が1月3日にも行われ、その時に殺害されてバラバラにされたのだとすると、その日に犯行が可能だった人物は、1ヶ月前から水道橋の施設で祓いの禊を行いながらも、人知れず木食修行という荒行に入っていた木村憲仁以外にいない。実は全てが彼の単独犯行だったという結論になるのですわ。餓死した木村憲仁を実際に目撃した人間は誰一人いません。食事は彼の代わりに誰かが摂っていたから、入れ換わっていたというのはホラーやミステリー染みていて大変面白い思いつきなのですが、逆に言えば食事を自ら摂らなかったから餓死したともとれるのです。あらゆる可能性を除外してはいけませんわ」


「じゃあ、木村憲仁は最初から……復讐の対象を殺したら、自分も死ぬつもりで……」


「そうです。死体のパーツが発見された生首の位置と彼の愛犬サヤの賢い行動を考えれば自然に導き出せます。なぜなら三斉勤行の最中にA棟の河西麻未の居室に入れ違いに堂々と入れて毒を混入できたのは、教団幹部であり、三斉勤行に参加していない人間であり、テンキーの番号さえ知り得る人間しかあり得ないからです。これは木村政孝のカードを犯行当日の朝に盗む際にも使われた行動です」


 確かに教団内部に詳しい人間以外に、犯行など不可能だろう。


「河西麻未は行が終わったら自室でウィスキーを引っ掛けて、宝石を愛でながらTVを観るのが楽しみで、誰も邪魔はしなかったし部屋の解錠キーも、好きなTV番組のアイドルで金田一耕輔や明智小五郎役をやったこともある俳優にかけてある、と幹部なら知っていた。解錠キーは恐らく“5603《ゴローサン》”ですわ。指紋を辿ればさらに確実です。部屋に入室する時に、幾らカード番号が残らないシステムでも、盗んだカードキーを使う訳にはいきませんでした。河西麻未の紛失したカードは、殺害という目的の為に盗まれたカードです。いざという時以外に使ってしまっては、警備員に侵入者がいるかもしれないと教えるようなものです。カードを使って犯行を行った後にも、テンキーで入室しているからこそ、彼は怪しまれなかったし、自分の指紋も彼女の指紋も消したのです」


 恐ろしいほど入念に計画された犯罪である。しかも、たった一人で実行しているところに、執念というべきか、怨念さえ感じる。


「死体遺棄された異常な死体でバラバラの切り口も手口もバラバラだ、誰かが入れ換わっていたんだ、これは複数犯人による連続殺人死体遺棄事件だとなってしまっては先入観で目を曇らせ、順番に論理を展開する純粋な思考を邪魔します。厳然とした事実をファンタジーのように認識し、物事を見たいように見てはいけませんわ。テキストからの情報が推理する上では全てなのですから。素直に考えれば、1月2日の段階で信者に紛れて侵入する為に飲まず食わずでいたともいえるし、後に餓死した木村憲仁こそがカードキーで予め部屋に潜伏できる立場にあり最も疑わしく、その後に御神体になった彼しか犯人はいない、ともいえるのです。関係者のアリバイをしらみ潰しにしても無駄ではありませんし、アリバイ崩し自体も趣があって推理する側もとても楽しいのですが、最終的に至れる結論がカードを持った複数犯や幹部なら誰でもあり得るなんてお粗末過ぎます」


「なるほどな……恐れ入ったぜ。色々とな……」


 そう言って、西園寺は黙ってカウンターの縁を能面のように無表情に見つめている。


 私は疑問に思っていたことを口にした。


「なぜ、彼は河西麻未と河西祐介を、そこまで憎んでいたんだろう? バラバラの腕や足を送られた信者達も、何か事件と関係があったってことになるけど……」


「それはね東城さん、彼の奥様をはずかしめ、死に至らしめた犯人こそ、殺された河西祐介と彼の妻の川西麻未を中心とする、教団信者達だったからでしょうね。バラバラ死体を送られた信者達が、彼の妻の死に関わっていると考えるのが、きわめて論理的な帰結ですわ」


「ってことは、奴はキャリーバッグに入って西荻窪の本部に侵入し、河西麻未の部屋に潜伏し犯行を成し遂げ、離脱の際もそれを利用していたってことになるんだな? つまり……」


「そうですわね。この計画は協力者がいなければ絶対に成り立ちません。消去法の最終的なQEDは協力者の存在と死体の足りないパーツですわ。……協力者が誰なのかは、もう言わなくても解っているのではありませんか?」


 もちろん私は既に解っていた。西園寺もどうやら気付いているようである。


 だが、問題は、その理由だ。二の句が次げなかった。


 その人物は“家族殺し”に関わっている。


 黙り込んだ私達に、容赦なく女は次の言葉を続けようとしていた。


 真実を解き明かす為に場を支配するその姿は、まさしく“探偵”と呼ぶに相応しい、威風堂々としたものだった。


「なぜかはもう解りますわよね? 愛犬の名前、そしてそれを彼という“知り合い”から継いで、世話していた人物は誰だったのか? その存在がなければ、巧妙なバトンタッチは行われなかったし、バラバラ死体が次々に発見されることはなかったでしょうから」


「木村美也子……なんだな?」


「その通りです。1月2日に殺害の実行犯をキャリーバッグに入れて教団本部に堂々と入り、1月5日に同様の手段で離脱させ、1月9日に東京駅の八重洲南口Aロッカーに黒いキャリーバッグを遺棄した人物は、教祖の孫娘で、木村憲仁のフィアンセである木村美也子です」


 女は自らの車椅子の車輪を、細い指先で撫でていた。私はキャリーバッグにも付いている、その車輪というものに深く思いを寄せずにはいられなかった。


 暗然とした思いで私は呟いていた。


「彼女は……どうしてフィアンセが人殺しをしたり、自ら死ぬのを止めなかったんだ。どうして彼の死を目の当たりにしながら死体を遺棄したんだ? それも、東京駅だなんて……」


「女の秘密を探るのは野暮というものですわよ。東城さん、焦らなくていいと思いますわ。私は今、世間を騒がせているこの事件には、近いうちに後日談がくると思っていますの。何らかの形で……必ずね」


「足りないパーツ……とも言ったな? アンタが最初に言った、思わせ振りな台詞を今さらだが思い出したぜ……」


「そうです、西園寺さん。人の血は緩やかに全てを溶かし、そこから全てが始まる……。謎は人の血に帰り、人の血から生まれる物語とは、即ち人が生きること。この事件はね、この国の行く末を憂いた、とある勇敢なサムライの最後の戦いの物語なのです。足りないパーツとは採血された二体の死体の血液であり、それが見つかっていない場所にこそ、全ての答えがある。そして、それは死体がまだ見つかっていない水道橋の施設であると推察致しますわ」


「やれやれ、悪いが、俺らはアンタにゃ敵いそうもねぇな。何故そう断言できるんだ?」


「女の勘……では駄目ですか?」


「それは狡いな。探偵は真実を告げる役割を担っているんじゃないのかい?」


「じゃあヒントだけ。木村美也子は恐らくフィアンセが死ぬつもりなのだと知っていたと思いますわ。知っていた上で協力したのです。そして、木村憲仁はキャリーバッグに1月7日に自ら入った時にはまだ生きていてキャリーバッグは1月9日に東京駅に入れられた。彼女しか祓いの禊を行っている彼に接触できなかったし、彼女は真言密教でも異端とされる、真言立川流をこの現代に復興させようとしていた。そして、東京駅の丸の内南口のAロッカーから直線で真っ直ぐ結んだ先には何があるか?」


 女は目を閉じて少し間を持たせた。


「これだけ言えば充分でしょう? これ以上は内緒ですし、夫婦間のことにも立ち入ることになるので遠慮しておきますわ。男女の感情の機微は、推理や論理とは無関係ということにしておいてくださいな」


「その答えは今は待つしかない、か…」


「やれやれ……。犬猫のようにお預けを食らう羽目になるとはな……」


 釈然としない私と西園寺に向けて、彼女は静かに微笑みながら言った。


「彼は復讐の為に自らが腐らない死体になることで満願成就まんがんじょうじゅを果たしたことになります。教主の木村太輔は、発狂するほど精神に異常をきたして入院し、世間でこれほどまでに騒がれ、東城さんや西園寺さんも含む信頼できるマスコミ関係者や警察まで動き出し、ネット界隈では今も尚、絶賛大炎上中。繋がりのあるキー局は、報道しない自由を発動して、ぱったりと報道しなくなって叩かれているという今、聖創学協会は事実上、壊滅したも同然なのですからね。まぁ簡単には潰れてくれないかもしれませんが、例の集団ストーカーの手口も、いずれ明らかにされることでしょうね」


 彼女はそう言って鈍色に光る銀色の杖を畳んだ。見たこともない、まるで王女が携える王錫のように立派でやや太い杖である。伸縮式なのか、女は手慣れた動作で、その杖を車椅子の左の脇にあるホルダーに、侍が納刀するように逆手で納めた。


 車椅子もやや特徴的である。イスバスの名で知られるパラリンピックのバスケット用の車椅子のようだが、軽量かつ高剛性な仕様である。タイヤは正面から見ると大きく八の字になっており、すばやいターンが可能で転倒防止用に後方に小さな車輪がある。違いといえば、普通の車椅子のように背凭れの部分に持ち手となるハンドルがあるようである。


 見たこともない変わった車椅子と銀色の杖は、彼女こそが主に相応しく近衛騎士としてつかえるのが当然であるかのように彼女の手となり足となって、この風変わりな主人を支えているのだろう。それは、まるで一対の工芸品のように、彼女と共にあって始めて存在感を増し、輝きを得たような、とても絵になる光景であった。


 私はゆっくりとした動作で廻る車椅子の車輪を目で追っていた。こうして改めて見てみるに、身障者とは思えないほどの身のこなしと立ち振舞いで、動作が優雅で無駄がない。


 これは一人言なのですが、と彼女はわざとらしく隅の席に戻りタブレットを開いてカウンターに頬杖をつきながら天井を向いて言った。


「警察って今は報奨金をちゃんと出すのよねえ。捜査特別報奨金対象事件っていうんだっけ? 時代は変わりましたわ。報奨金なんかいらないから情報提供した市民のお願いを聞いてくれないか、なんて聞いたら今の警察やマスコミは真摯に聞き入れてくれるのかしら? 集団ストーカーの教団信者達が死体を送りつけられて迷惑してるなんて、さも同情を引くように報道されているなんてしゃくなんですもの。あの事件って色々と腹が立つことも多いから、私も派手にネットに拡散してやろうかしら」


 ところで東城よ、と隣にいた西園寺はややわざとらしそうに大きめな声を上げ、氷の溶けきったグラスを空けて私に水を向けた。


「丸の内警察署ってなキャリアの登竜門みたいなとこらしくてな。研修中の若いキャリア連中ときたら血の気が多くて、今回の事件は世間にも注目されてるから、どんな情報でも食いついて全力で捜査するんじゃねぇかな。それによ、最近の警察はだらしねぇなんてよくいわれるが、変な横槍に惑わされず、己の誇りと威信と魂に賭けて、悪質な宗教の違法な手口は全部まるっと洗い出して、まとめてしょっぴいてやるっつー気骨のあるブレない刑事ってのも、俺はきっといるはずだと思うんだよな」


 そうだな西園寺、と私もグラスを空けて彼にわざとらしく応じることにした。


「僕もそんな熱い刑事や不正を許さない正義の民間人がいたら、ぜひ協力したいよ。こう見えて信心深くてね、御本尊がたとえ鰯の頭でも、大切にしないとバチが当たると信じてるクチだからね。けどさ、復讐に全てを賭けた孤独な男がもしこの世にいるのなら、僕はなぜ僕達に相談してくれなかったんだ、と逆に聞いてやりたいんだよ。……だって、そうだろ? 事件記者ってのは世間の怒りの代弁者じゃなきゃいけないんだ。集団ストーカーみたいな悪質な手口だって取材する価値があるし、世間に周知させる為にも、放っておく訳にいかないじゃないか」


 その言葉を合図に、私達はお互いに顔を見合わせ、共に笑いあっていた。


 さてと、と西園寺が仕切り直すように快活な声で言った。


「辛気臭い話はここらで一回しめようぜ。まずはオールドパルで乾杯でもするか?  新しい友人を迎えた今日という特別な日を祝して、パーっといかなきゃな! 刑事と事件記者と名探偵が合わさりゃ難事件なんてなんのそのだ。ここは女の特権ってヤツを全力で活用すべきだと思うぜ。今日はもちろん俺達に奢らせてもらえるんだよな?」


 西園寺の提案に、私も微笑んで応じた。


「それはいい考えだ。でも西園寺、彼女を迎えるには旧友の再会を祝した酒より、真っ赤なキールがいいよ。キールの酒言葉を知ってるかい?

“最高のめぐり合い”と“陶酔”だ。今夜はこれが何より相応ふさわしい」


「ふふっ…今日は素敵な夜ですわ。素敵で楽しい殿方達と出会えたこの夜に、私もブルー・ムーンなど些か無粋でしたわね。西園寺さんに東城さん、不束者ふつつかものですが、改めて宜しくお願い致しますわ。私のことは……そうね、美波。片桐美波かたぎりみなみと呼んでくださいますか?」


 そう言うと片桐美波は形の良い白い指先で青い液体の入ったカクテルグラスの芯をくい、と持ち上げ艶然と微笑んだ。


 その仕草はとても優雅で、さながら舞踏会でドレスを着た麗人が一曲踊りましょうとでも言わんばかりに裾を持ち上げる動作にも似た、美しくも秘めやかな毒を内に隠した女だけが持つ、独特のつややかさと華があった。



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