第3話
泥の地平線を断ち切って、生き写しの二人が向かい合う。白装束と死に装束。長い黒髪の隙間から、死人の肌と泥色の肌が見え隠れした。似て非なる盲目の娘たちを、山の木々の中で澪と仔鹿が
白く
「どうして、こんなことを」
その低い声音には、押し殺された悲しみがあった。
「私は、あなたの亡骸から象られた
その告白は澪には理解できなかった。かつて死に装束の少女が猛り狂う川の神に捧げられ、その果てに全く同じ姿形をした娘が生まれたことなど、彼女には知る由もないことだ。
「だけど、私はあなたの
胸を押さえて訴えかける。悲痛な叫びだった。この惨状を問うているのだろう。わずかな
全部、滅びてしまったのか。
白濁した空の下で、死に装束の娘はぎこちなく佇んでいるばかりだった。揺れる黒い前髪から、
澪は悲鳴を上げた。片手を失った娘は膝を折る。泥が跳ねた。その濁った眼差しの先には、体を形作っていた紙人形が黒く染まって沈んでいくさまがあった。
深く
「ああ……水底の厄を全て、その身に」
片腕の少女は静かに立ち上がる。全て得心した。だからヒトガタは、澪の死を肩代わりすることができた。数百年にも渡って沈殿した厄を、彼女が全て引き受けたから。
かくして死に装束の娘は、厄そのものとなった。
片腕の少女は、静かに立ち上がった。澪の頬に冷たい雫が落ち、白い空を見上げる。急激に雨が降り出した。
「ねえ、覚えていますか」
死に装束の娘が不思議そうに小首を傾げた。揺れる髪の毛の背後で、泥が大きく
澪が叫ぶ。透明な人差し指が宙をなぞった。わずかな仕草に応じて、降り注ぐ雨の刃が泥を切り裂いた。そのあいだも、白装束の娘は語りかける。
「よく菊の野原に行ったでしょう。自分と同じ名前だから、なんて子供みたいな理由で」
その語り口には含み笑いがあった。
ますます雨足が強まる。全身を濡らす澪と仔鹿は事の推移を見守る他ない。死に装束の娘を中心に、泥の蛇が形成される。鎌首をもたげ、再び獲物に向かって突進した。その牙が届く前に、水から生まれた龍が喉元を噛み千切る。
まるでおとぎ話だ。
「そこで、お花とお喋りしましたね。妙に皮肉屋で、お節介で」
背景で繰り広げる闘争とは無関係な様子で、白装束の娘は足を進める。一歩ごとに泥が浄化され、澄んだ真水となる。白い素足が水を掻きわけた。
「楽しかったなあ」
清水の勢力圏が広がっていった。泥は退けられ、後退を余儀なくされた。死に装束の娘は静かに佇んだままで、ただ最後の抵抗とばかりに背後で泥の柱がせり上がった。束ねられたそれは、大きな濁流となって眼前の敵を葬らんとする。同時に、白装束の娘を取り巻く水の奔流がぶつかった。
一瞬だけ
白装束の娘が眼前に立った。朽ち果てようとするその体を、そっと抱き締めた。
「神の
声を震わせた。
「あなたは、ひとりじゃないよ」
その言葉を聞いて、崩壊していく少女は静かに瞼を閉じた。
空から降りしきる雨はもはや天変地異となり、山の麓まで水位を上げていた。鉄砲水のごとく押し寄せ、仔鹿が鳴き声を上げる。澪も避難しようとして間に合わず、手近な樹木の幹にしがみついた。腰まで届く奔流が、
死んでたまるか。その一心で、手を放さなかった。
雲間から淡い陽光が差していた。
前髪から水滴を垂らした澪が、大水が引いた山麓で湿った樹肌に手をついていた。その見下ろした先には、輝きを散りばめた透明な湖が広がっていた。ほんの少し前まで泥に覆われていた大地とは思えない変容だった。
精も根も尽き果てた澪は、緩慢に首を巡らせる。仔鹿の姿はどこにもない。水に
雲の裂け目が広がり、日の光がこぼれ落ちる。眩しさに目を細めた。その白い輝きの中に、湖上に佇む人影を見出した。その輪郭には覚えがあった。
「お姉ちゃん……?」
紫色をした唇で呟く。ここに姉がいるはずがない。幻でなければ、あるいは――もうどちらでも良かった。澪は大声を張り上げた。
「お姉ちゃん、あたし生きてるよ。死んでない」
木々のあいだから身を乗り出し、声を振り絞った。喉が
「これからも生きる、皆の分まで」
目尻から涙が溢れる。できることなら、生前に伝えたかった。
「だから、お姉ちゃんは何も悪くない」
そのまま日差しに薄れ、溶けて消えていった。立っていられなくなり、澪は膝をつく。嗚咽を漏らした。ぼやけた視界の中に、水際に浮かぶ一輪の花を見た。
菊の花だった。ほとんどの花弁が抜け落ち、枯れている。透き通った水の上に横たわり、流れに身を任せ、やがて底へと沈んでいった。
泥濘に咲く花 @ninomaehajime
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