第3話

 泥の地平線を断ち切って、生き写しの二人が向かい合う。白装束と死に装束。長い黒髪の隙間から、死人の肌と泥色の肌が見え隠れした。似て非なる盲目の娘たちを、山の木々の中で澪と仔鹿が固唾かたずを呑んで見守る。

 白く華奢きゃしゃな背中の娘が声を上げる。

「どうして、こんなことを」

 その低い声音には、押し殺された悲しみがあった。

「私は、あなたの亡骸から象られた形代かたしろ――紛い物に過ぎません」

 その告白は澪には理解できなかった。かつて死に装束の少女が猛り狂う川の神に捧げられ、その果てに全く同じ姿形をした娘が生まれたことなど、彼女には知る由もないことだ。

「だけど、私はあなたの末期まつごの想いを知っている。あなたは誰も恨んではいなかった。それなのに、どうしてこんなことになったの」

 胸を押さえて訴えかける。悲痛な叫びだった。この惨状を問うているのだろう。わずかな灌木かんぼくが突き出すばかりの泥の平原は、もはや人が住める土地ではない。何もかもが底に沈んでしまったのだ。人も獣も、彼女が親しんだ故郷でさえも例外ではない。

 全部、滅びてしまったのか。愕然がくぜんとして、澪は膝から崩れ落ちそうになる。その彼女を、仔鹿の背中が支えた。斑点が散った茶色い体躯にすがりつく。睫毛の長い目を細め、少女に頬擦りした。

 白濁した空の下で、死に装束の娘はぎこちなく佇んでいるばかりだった。揺れる黒い前髪から、めしいた瞳が覗く。それだけで、白装束をまとう少女の左手が泥と化した。

 澪は悲鳴を上げた。片手を失った娘は膝を折る。泥が跳ねた。その濁った眼差しの先には、体を形作っていた紙人形が黒く染まって沈んでいくさまがあった。

 深く嘆息たんそくした。

「ああ……水底の厄を全て、その身に」

 片腕の少女は静かに立ち上がる。全て得心した。だからヒトガタは、澪の死を肩代わりすることができた。数百年にも渡って沈殿した厄を、彼女が全て引き受けたから。

 かくして死に装束の娘は、厄そのものとなった。

 片腕の少女は、静かに立ち上がった。澪の頬に冷たい雫が落ち、白い空を見上げる。急激に雨が降り出した。

「ねえ、覚えていますか」

 篠突しのつく雨の下で、濡れた白装束の娘は一歩踏み出す。澪が目を見張る。雨滴が彼女の左腕を伝い、失ったはずの輪郭をなぞった。透き通る、たおやかな手が形成された。その指先がうごめき、空に爪を立てる。

 死に装束の娘が不思議そうに小首を傾げた。揺れる髪の毛の背後で、泥が大きく隆起りゅうきした。あたかも大蛇の群れと化し、一斉に迫り来る少女へと襲いかかった。

 澪が叫ぶ。透明な人差し指が宙をなぞった。わずかな仕草に応じて、降り注ぐ雨の刃が泥を切り裂いた。そのあいだも、白装束の娘は語りかける。

「よく菊の野原に行ったでしょう。自分と同じ名前だから、なんて子供みたいな理由で」

 その語り口には含み笑いがあった。

 ますます雨足が強まる。全身を濡らす澪と仔鹿は事の推移を見守る他ない。死に装束の娘を中心に、泥の蛇が形成される。鎌首をもたげ、再び獲物に向かって突進した。その牙が届く前に、水から生まれた龍が喉元を噛み千切る。おびただしい水の龍と泥の大蛇が争う光景を見て、澪は思った。

 まるでおとぎ話だ。

「そこで、お花とお喋りしましたね。妙に皮肉屋で、お節介で」

 背景で繰り広げる闘争とは無関係な様子で、白装束の娘は足を進める。一歩ごとに泥が浄化され、澄んだ真水となる。白い素足が水を掻きわけた。

「楽しかったなあ」

 清水の勢力圏が広がっていった。泥は退けられ、後退を余儀なくされた。死に装束の娘は静かに佇んだままで、ただ最後の抵抗とばかりに背後で泥の柱がせり上がった。束ねられたそれは、大きな濁流となって眼前の敵を葬らんとする。同時に、白装束の娘を取り巻く水の奔流がぶつかった。

 一瞬だけ拮抗きっこうし、すぐに泥を押し返した。勢いを保ったまま死に装束の娘を呑みこみ、その身が崩れていく。今まで死に至らしめた人々と同じく、人の形を保てなくなる。

 白装束の娘が眼前に立った。朽ち果てようとするその体を、そっと抱き締めた。

「神の御許みもとへ還りましょう」

 声を震わせた。

「あなたは、ひとりじゃないよ」

 その言葉を聞いて、崩壊していく少女は静かに瞼を閉じた。

 空から降りしきる雨はもはや天変地異となり、山の麓まで水位を上げていた。鉄砲水のごとく押し寄せ、仔鹿が鳴き声を上げる。澪も避難しようとして間に合わず、手近な樹木の幹にしがみついた。腰まで届く奔流が、華奢きゃしゃな少女を押し流そうとする。歯を食い縛って必死に耐えた。

 死んでたまるか。その一心で、手を放さなかった。



 雲間から淡い陽光が差していた。

 前髪から水滴を垂らした澪が、大水が引いた山麓で湿った樹肌に手をついていた。その見下ろした先には、輝きを散りばめた透明な湖が広がっていた。ほんの少し前まで泥に覆われていた大地とは思えない変容だった。

 精も根も尽き果てた澪は、緩慢に首を巡らせる。仔鹿の姿はどこにもない。水にさらわれてしまったのだろうか。そう考え、首を振った。あの尋常でない娘が従えていたのだ。きっと主の元へ帰ったのだろう。

 雲の裂け目が広がり、日の光がこぼれ落ちる。眩しさに目を細めた。その白い輝きの中に、湖上に佇む人影を見出した。その輪郭には覚えがあった。

「お姉ちゃん……?」

 紫色をした唇で呟く。ここに姉がいるはずがない。幻でなければ、あるいは――もうどちらでも良かった。澪は大声を張り上げた。

「お姉ちゃん、あたし生きてるよ。死んでない」

 木々のあいだから身を乗り出し、声を振り絞った。喉がれてもいい。どうしても言わなければならなかった。

「これからも生きる、皆の分まで」

 目尻から涙が溢れる。できることなら、生前に伝えたかった。

「だから、お姉ちゃんは何も悪くない」

 吐露とろされた思いがこだまする。澪は肩を上下させた。湖上の人影は動かない。少しだけ首を傾げ、こちらに笑ってみせた。そう見えた。

 そのまま日差しに薄れ、溶けて消えていった。立っていられなくなり、澪は膝をつく。嗚咽を漏らした。ぼやけた視界の中に、水際に浮かぶ一輪の花を見た。

 菊の花だった。ほとんどの花弁が抜け落ち、枯れている。透き通った水の上に横たわり、流れに身を任せ、やがて底へと沈んでいった。

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泥濘に咲く花 @ninomaehajime

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