第2話
仔鹿を従えた白装束の娘が澪に告げた。
「あなたは死にました」
薄い
「なのに、どうしてあなたは生きているの?」
白濁した瞳が虚空に
あれらは全て夢だったのだろうか。
水のせせらぎが聞こえた。どうやら川辺で、ここまで流れ着いたらしい。溺れていたことを思い出したせいか、急に咳きこんだ。肺の中から水が吐き出された。茶色い泥が混じっていた。
全身が濡れそぼっていた。短い前髪から雫が垂れ、着物が川の水を含んで重い。体の感覚が現状に追いついて、体温が非常に低くなっていることに気づく。震えが止まらなくなった。
地面に腰を下ろしたまま凍える澪の様子にも構わず、盲目の娘は得心した。
「ああ、それが厄を引き受けたのですね」
白い指が澪の胸元を差す。見下ろすと、自分でも気づかないまま握り拳を作っていた。小刻みに震える手のひらを開く。その中には黒く染まった紙人形があった。風に
「厄を負って流されたはずのヒトガタが、人の死を肩代わりするなんて……」
その呟きには、まだ疑問が残っている様子だった。澪は両肩を抱き締めて、歯の根が嚙み合わないまま尋ねた。
「あなたは、誰?」
「誰でもありません」
娘は答えた。困惑する澪の顔が見えているのかどうか、手を差し伸べた。
「ここは人がいるべき場所ではありません。外へ案内します」
その死人にも似た手を前に
戸惑う澪を
「ついてきてください。さもなければ、二度と出られませんよ」
白い背中が言った。仔鹿が鳴らす蹄の音が追従する。遠ざかる人影に、澪はようやく覚悟を決めた。一度は死んだ身だ。怖いものなんてあるもんか。凍える体に鞭打ち、立ち上がった。
白装束の娘の横に並びながら、その横顔に話しかける。
「ここはどこなの?」
「
どうにも要領を得なかった。つまり、どこなのだろう。こちらを見上げる仔鹿のつぶらな瞳と目が合った。お前のご主人は不思議だね。
澪は質問を変えた。
「あなたの名前は?」
少し沈黙があった。
「誰でもありません。そうは答えませんでしたか」
「名がないなんて言ってないでしょう。あたしを助けてくれるんなら恩人だ。その人の名前を知らないのは不義理だよ」
彼女は改めて自己紹介をした。
「あたしは澪。あなたは?」
長い黒髪の向こうで、白濁した瞳がこちらを
「どこにでもある、花の名前ですよ」
「じゃあ、お花さんで良い?」
「……どうぞ、お好きに」
振り回される主の様子を、仔鹿が物珍しそうに眺めていた。
腐葉土を踏み締める足音と蹄の音が響く。今は朝だろうか、昼だろうか。
置いていかれそうになり、澪が声を上げる。
「ちょっと待ってよ。あなた、本当は目が見えてるの」
「見える見えないは問題ではありません。元々が人の目には映らない世界なので」
相変わらず
「どうしてここにいるの」
「どうして?」
「ここでその子とずっと一緒なんでしょう。お家には帰らないの」
白装束の娘は足を止めた。肩越しに振り返る。白い瞳の焦点が澪に定まった。
「そんな場所は、もうどこにもありません」
その声音は、これ以上の追求を拒絶していた。
しばらく無言の時間が続いた。少し気まずい。沈黙に耐えられなくなって、澪が再び口を開く。
「ねえ、お花さん」
「やっぱり、その呼び方は止めませんか」
彼女の抗議は無視した。
「これからどこに行くの」
「外の世界。人の世ですよ」
「故郷に帰れる?」
盲目の娘はわずかに言い
「……幽世と現世では、時の流れが違います。あなたは神隠しに遭ったのと同じ。故郷に帰れたとしても、あなたのことを覚えている人間はもういないかもしれません」
澪はその言葉に衝撃を受けた。神隠しに遭った子供が、何十年も経ってから同じ姿で帰ってきたという話を聞いたことがある。自分もそうなのだろうか。両親や姉はどうなったのだろう。
やはり、自分は死んだと思われたのだろうか。姉の気持ちを考えると胸が沈んだ。
「それでも、故郷に戻りたいですか」
その問いかけに唇を引き結び、やがて澪は
「あたしは故郷に帰りたい。家族と暮らした場所だから」
澪の表情を、盲いた瞳が眩しそうに見た。
「なるほど、あなたは私とは違う。だから死を免れたんですね」
彼女の呟きに澪は首を傾げる。白装束の娘はこれ以上喋らなかった。
地形が上がりから下りになり、少しずつ木々の密度が薄れていく。漂う靄も晴れてきた。なのにどうしてだろう。
辺り一帯を、
この臭いの正体を白装束の娘に確かめようとして、口をつぐんだ。
「私より前には出ないで」
張り詰めた声音で警告された。
「これは――死臭だ」
木立が切れ、視界が晴れた。澪が想像した景色とはまるで違った。泥の地平線が彼方で空をわかち、まばらな
澪は立ち尽くした。夢と全く同じだ。生物の気配が死に絶えた、虚無そのものである。
呆然としていると、着物の袖を何かが引っ張った。目を下ろすと、仔鹿が歯で
「どうして……」
かすれた声が聞こえた。盲目の娘が
流動的に立ち上がった泥はやがて人の形を成した。長い黒髪に死に装束。肌は泥と同じ色で、前髪の隙間から白く濁った瞳が垣間見えた。ほとんど同じ姿をした二人が向かい合う。
まるで双子だった。
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