後編




 俺は、集落を出た。やることは決まっている。彼女は天使だったのだから、きっと人間とは違って蘇生できるかもしれない。いや、蘇生できるのか?彼女は今は人間だろ。人間のままで死んだんだから出来るわけないじゃないか。どこかにしまってあった薬物を取り出して、俺はトリップしながら考えている。


 どこかに彼女を生かすことのできる何かがあるはずだ。俺は彼女の遺体を適当な鞄に詰め込んで、背中に抱いて、そうして旅に出た。


 アリエス、ごめん。こんな窮屈な場所においてしまって。ごめん、アリエス、やめると約束したのに、こんな行為をしてしまって。ごめん、ごめんなさい。アリエスが作った環境、世界をすべてを蔑ろにして。


 ごめん、ごめん、ごめん。本当にごめんなさい。


 いつか、君を取り戻すから。




 天使といえば宗教だ。宗教といえば天使やら悪魔について記されている聖書に決まっている。だけれど、聖書なんていう存在は曖昧過ぎて、まったく具体性がない。これはただの小説だ、どうしようもないほどにただの物語で、設定書だ、アリエスの手がかりなんてない。


 でも、天使はいた、確かにいた。二度も見たんだ、それはどこかに世界の理として何かに記されているかもしれない。だから、世界をもっと調べなきゃいけない。きっと、これからも、この先も、ずっと、ずっとずっと。ずっと。




 アリエスは、天使という存在が実はどういったものなのかをよくは知らないようだった。下界に下りる意味をなくして、天使という存在は意味があるのだろうか。もしくは、悪魔というものでさえ破らなかった禁忌を彼女に破らせた結末がどうなるかを、俺も彼女も全く知らなかったし、調べようともしなかった。


 堕天をなぞることは、相応にして最悪的事実であることは、今の俺ならわかるけれど、その堕天がここまでの結末になることを俺は許せない。


──いつか私たちを殺しに来てみなさいな。


 頭に反芻する憎い憎い憎い天使の言葉。それ以上に、どうすることもできなかった俺の存在が、どうしようもなくどうしようもなく後悔として身体を動かす。


 悪がなんだ。彼女だって、堕天という最悪をなぞったのだから、人間ごときの悪がなんだという?


 俺は、これからすることに、全く怖気づくことなく、行動を起こした。




 悲鳴、悲鳴、悲鳴、俺の使命のために、その悲鳴を重ねてくれる信教徒共。心地がいいも悪いもない。薬をやっていないのに、ためらうことなく行動できる自分を俯瞰で見つめている。無感情に繰り返す殺戮行為。老人も、子どもも、男も、女も、それ以外も、全部平等に根絶やしにしてあげよう。それが、こいつらの行きつく先だ。申し訳ないとは思うが、俺の使命のために悲鳴を上げて野垂れ死にしてくれ。俺はその先にある世界の秘密を見てみたいんだ。


 背中のアリエスに、俺は懺悔しながら、聖堂を焼き続けた。




 生きる者は根絶やしにしてあげた。どうせ、天国も地獄も存在しないのだから、別にいいだろう。昔、アリエスにそんな話を聞いたことがある。結局、人間の魂というものは、循環を繰り返していて、また、同じような器に戻って、同じような人生を送ることになる。だから、きっとこれからも同じような人生を送るだけなんだよ、お前らは。憎むのなら、崇拝した天使を恨むべきなんだ。俺と同じように。


 焼け焦げた聖堂を探索すると、都合よく、奥に行ける場所がある。そこがどういう場所かはよくわからないけれど、きっと何か秘密があるはずだ。なければ、天使信仰の聖堂が、今のこの場所と同じような目に合うだけだから、別にいい。


 埃っぽい空気。アリエスに連れてこられた屋内の最初の雰囲気と同じような匂いを感じる。少し郷愁に浸る感覚、そういえば集落の人たちは元気に過ごせているのかな、とかそんなことを考えながら、俺は奥に進む。


 台座、というか、一つの石棺がそこにはある。


 『堕天使ザリエル、ここに眠る』


 ──当たりだ、と思った。


 アリエスから聞いたことがある。人間を信じすぎて、結果的に堕天をなぞることになった天使がいると聞いたことがある。その結末を今天上にいる天使共は何一つ知識として教えられていないのだから、きっとそれは秘匿とされたものなのだろう。


 天使を信仰とするものを調べていけば、いずれはたどり着くことができるとは思っていたけれど、こんなにも都合がよくたどり着けるとは。


 俺は、石棺を開けた。


 ……どうしようもないほどに、死んでいる、天使の死体。



 『哀れなザリエルへ捧ぐ』



 棺の蓋に視線をやって、そんな文字が書いてあることに気づく。



 いつか、アリエスに教えてもらった、天使の文字。



 『お前はこれから地獄へ堕ちる


 哀れなザリエルよ、人となりて、その罪を償いつづけるのだ


 哀れなザリエル、永劫、輪廻と回る』



 そんな戯言だけが、残されている。




 希望を失ってしまった。堕天使の墓場を見つけたまではいいものの、ここからどうしようか見当はつかない。どうすればいいのか、俺はザリエルの隣に座って、黙々と考えていた。


 アリエスの話だと、天国だとか地獄とかは存在しないと聞いていたのに、この碑文は何なのだろう。地獄へ落ちる、というのは、本当に存在するのだろうか。堕天することがそもそも人になるということではないのか。いろいろな考えが頭を回る。


 ──アリエスは、堕天していたのだろうか。


 いや、堕天はなぞっていたはずだ。だから、アリエスは翼をなくして、そうして──、いや違う。彼女の翼は俺が捥いで、そうして人になったのだから、このザリエルとは状況が違う。


 ザリエルの遺体は、思いのほかきれいなミイラだ。少し大きい棺に、ぴったり合うように、翼は存在している。だから、堕天したアリエスとの結末は、全く違う。


 ザリエルは本当に死んだのか?


 俺は、遺体を探ってみる。そして、遺体には胸に穴が数ミリ程度空いていて、それが死んだという結果をもたらしたのではないか、という考察に落ち着く。きっと矢で撃たれて死んだのかもしれない。


 結局は、堕天使のいく末は、死。そして、人になる?


 もしも、堕天使の罰が、人になる、ということだったら?


 俺は、考えた。天使にとっては、確かに人という生活は地獄に思えるかもしれないけれど、そこまでの罰になるのだろうか。


 あらゆる行動が蔑ろにされて、すべてを失うような生き地獄であれば、話は別だけれど。


 ──嫌な想像。


 思い当たる節が、ありすぎる。


 そんなわけがない、とそう思っていても、どうしようもないほどに辻褄があう。




 「天国とか地獄とか、実は存在しないんです。だって前世がそのまま人となりを歩むのですから」


 頭の中のアリエスが語る。語っていた。背中にいる彼女もきっと同じ考えだ。


 「それにしたって、貴方は前世で悪いことをしたわけじゃないと思うのに、ここまでの人生を歩むなんて、想像もできません」


 そうだ。アリエスが語る話が本当ならば、前世も同じような人生を送っていたに違いない。


 「でも、貴方以上に裏切られていた人なんて、今までに見たことがないんです」


 だから、きっと。



 ──堕天していたのは、ずっと前から俺だったのかもしれない。




 堕天という結末が、人間になり、そのすべてを生き地獄に生きるというのなら、きっと彼女もその通りになるかもしれない。心の中で分かっていた、蘇生の不可能さに納得ができない理解をしながらも、俺は一つの可能性を見つけて、少しホッとする。


 もしかしたら、アリエスが人間となって蘇る、かもしれない。


 今の背中にいるアリエスとは別の人間だろうけれど、少しほっとしている自分がいるのが不思議だ。


 それでも、転生してしまった彼女が、俺と同じような人生を送るというのならば、それは話が別だ。


 せめて、俺だけでも、彼女の転生を支えることができたら。……数十億人いるこの世界から彼女を見つけることなんてできるだろうか?不可能な話だろう。情報があれば別かもしれないけれど、そんな情報、こんな世界にあるわけもない。どうしようもない。


 ──そういえば、彼女はどうやって俺を見つけたんだろう。


 ずっとみているような口ぶりだった。ずっと俺の行動を見張っているような口ぶりだった。天界というのは、そういうものを見つけられる世界なのだろうか。


 神様という存在は確かにいるらしい。俺にこんなくそったれみたいな人生を歩ませた張本人なる存在は。アリエスから聞いたことがある。アリエスでさえも会ったことがないらしいけれど。


 ──それなら、神様とやらを問い質せばいい話か。


 俺は、天界に昇る方法を模索した。




 アリエス曰く、天使の翼は天界を探すための道具らしい。翼としての機能も確かに存在はするけれども、その翼のもともとの機能とは、迷わず天界に戻るためのもの、という話だ。


 それなら、俺も同じように天使の翼があれば……。


 


 どうやって?



 俺は、途方に暮れた。




 俺の旅はまだ続く。


 アリエスには窮屈だろうけれど、俺の前世かもしれないザリエルを背中に担ぎながら。別に情とかは抱いていないけれど、何かに使えるのならば、とそう思って持ってきているだけだ。


 俺がこれから調べることは、『前世還り』。それが存在するのかどうかはわからないけれど、俺の前世がザリエルだったとして、前世に還って、天使になれたのならば、それで片が付く。


 だから、俺は前世還りを探す。どれだけの時間がかかろうと。




 懐かしい気分に浸っている。


 密漁船を盗み出して、本当に俺の故郷である日本にたどり着く。


 ──全米を探し回って、前世還りについての情報は全く得られなかったから、とうとうオカルトがたくさんある日本に上陸する、という訳。


 というか海外では前世という考えさえそもそもごく少数しか存在しない。だから、日本にやってきた。


 思い出したくもないことがよぎるけれど、アリエスの生活を思えば、そんなものはゴミ程度の存在だ。俺は、とりあえず寺院周りを探ることにした。




 「お前ぇ、まだ生きてたんだなぁ」


 見覚えのある顔が、目の前にいる。


 「俺の言うことを聞けば、また気持ちいいお薬、恵んであげてもいいんだぜぇ」


 銃声が、パン。


 「ごめんな、俺、やらないってアリエスにこの前誓ったからさ」


 そうして、男はもうしゃべることはない。




 先祖返り、というものが存在する。


 ……前世還りと、雰囲気は似ているかもしれない。




 言葉の意味とは別に、俺が求める前世還りは存在するらしい。寺院の人は、そこまで宗教に固執しているわけじゃないから、特に脅すこともなく殺すことをしなくても、素直に見せてくれたのだからありがたい。


 ほかの国とは違って、石碑とか、碑文とか、そういったもので残していたけれど、古臭い巻物で記されている。


 ……読み辛い。




 端的に、前世還り、先祖返りとは、前世となる遺物を魂で取り込むこと。そして魂で取り込むためには、聖なる遺物を身体に取り込むこと、ということになりそうだ。


 前世となる遺物は、ザリエルの遺体でいいだろう。


 聖なる遺物は、どうすればいいのだろう。


 アリエスの顔を思い浮かべる。彼女の遺体は、人間だから、きっと聖遺物ではない。


 ならば、彼女が天使だった時の翼ならば、──先祖返りは可能なのかもしれない。



■ 


 俺を追ってくる警察は皆殺しにしてあげた。こんなに都合よく上手くいくなんて、昔の自分だったら想像できただろうか。


 俺の存在に気付いた、過去にかかわっていた人間は、俺にかかわろうとしたから、すべて殺してあげた。


 きっと、そんな末路がお似合いだと思うけれど、こいつらがいなかったら、アリエスとも出会えなかったかもしれない。


 感謝はしているよ、今なら。


 俺は、懺悔に銃弾を胸に送ってあげた。




 集落の人間には挨拶はできなかった。汚れてしまった俺の存在で、彼らの存在を汚す訳にはいかない。


 久々の集落、誰かに見つからないように、山奥へ。彼女の翼を求めて。


 草が生い茂っている。いつも歩いていた道が違うものに見えて、思い出してきた郷愁が吸収されるような感覚。俺は、昔とは違う空気感に寂しさを覚えて、小屋へと向かう。


 彼女の翼は、大事に大事に小屋の地下に置いていた。彼女がそれを失ってもなお、俺が彼女のことを天使であったと忘れないように、堕天させたこと、堕天したことを忘れないように。


 地下に置いてあった翼は、綺麗なままだった。まるでずっとそこにアリエスがいたみたいに。


 さあ、始めよう。


 天使に戻る儀式を始めよう。




 魂が、震える。天使と対面したときと比べようがないくらいに、心の中が乱れている。薬をキメたときでもここまで心が乱されることがあったか?


 ──世界とは、こんなにも汚れているものだっただろうか。


 浄化しなければいけない、浄化しなければいけ、……違う、そうじゃないだろう。


 心が浮ついている、物理的に浮ついている感覚がする。これじゃない、この魂は俺ではない。この魂は、天使の要素でしかない。俺ではない。


 考えよう、アリエスのことを。アリエス。


 アリエス。アリエス。アリエス。


 ──アリエス。




 世界に平等なんて存在しない、安定なんて存在しない。不安定を形作り、世界とは、球状に存在する大きなもの。どこまでも転がり続け、無作為に進む軌道。


 彼女の記憶が、心に映る。


 私は、そんな世界をどうしたい?


 ザリエルは俺にそう問いかける。


 ──俺は、壊してやりたいって、そう思ったよ。




 すべてを思い出して、俺は溜息をついた。本当にうまくいくなんて、思わなかったけれど。


 吐き気がする。人間なんてごみにしか思えないし、天使も、悪魔も、神様も、そのすべてが気持ちが悪い。


 アリエス、やっぱり君に会いたいよ。




 翼の感覚を思い出す。ザリエルだったときでも、最後の下界に下りてから、そこまで翼を使うことはなかったから、俺は本当に久しぶりに翼を動かした。


 それにしても、翼とは、こんなにも黒かったっけ。


 ──まるで、死神みたいだな、とそう思わずにはいられなかった。




 堕天していても、天界の場所とはわかるものだ。天使じゃなければ、無暗に空に突っ込んでも戻れはしない。次元が違う場所にそれは存在するのだから、飛行機やなんやらでやみくもに飛び立っても意味がないわけだ。


 でも、今なら、神様に問い質すことができる。アリエスの存在を。


 魂の共鳴でいつの間にか時間は過ぎ去っていて、夜中になっている。幾分か赤く見える月の色が俺の存在を歓迎している気がする。


 必要なものはもっている。


 さて、世界を始めようか。




 加速する。ミサイルのような勢いで雲の上にたどり着く。この雲の上に、あいつらはいる。


 ビュン、と加速した意識とともにそこに飛び込んで、いつか見慣れた景色が飛び込んでくる。


 叫び声。


 「だ、だれ!?」


 「あ、悪魔!悪魔が」


 五月蠅いから、持っていたピストルで、それぞれ胸を撃ってあげた。ゴキブリみたいに出てくる有象無象の天使共。見慣れた顔が、見習いと言われていた憎い天使共の顔が。


 悪魔?俺が悪魔?アリエスに心ないことをしていて、俺を悪魔だと?


 お前らが、そう望むのならば、そう振舞ってやろうか。機関銃を取り出して、俺は息を吐く。


 ──我、上位者となりて、貴様足らずを亡ぼすと値しよう。




 「──」


 ほかの天使共は、可哀相だから胸に一発弾丸を送るだけで勘弁してあげたが、アリエスを殺したこいつらは、望むようにしてあげなければいけない。


 夢にまで見た光景だ、忘れるわけもない、憎い憎い憎い顔。


 声にならない悲鳴で喘ぐ姿。俺が彼女の翼を取り込んだときに彼女の記憶が俺の心に再生される。悲鳴で喘ぐ姿を愉しむ天使の姿が、瞼に焼き付いている。


 「殺してみろよ、って言ったよな」


 だから、俺はこいつらがやったことと同じことを繰り返すことにした。


 「まずは胸からか」


 俺は、彼らがまったく同じようにやったように、彼らから矢を取り上げて、胸を刺す。


 「人間界の道具に興味を持ったんだよな。だからスプーンで目をね」


 苦しみに喘ぐ天使共に愉悦しながら、俺はそれを行う。アリエスに使われたそれを、ちゃんと持ってきていてよかった。大した力も入れずにぼろっと落ちた感覚。


 「そして、隣にあったナイフで捌いて、身体の中身がどうなってるのか、見たかったんだよな」


 俺は、アリエスに使われたナイフを天使共に使用する。でも、さびていてよく切れないから、突き刺しては抜いて、捌いたのと同じぐらいの大穴が空いている。


 「まだ死ぬなよ?まだ足が残っているんだから」




 ことを終えて、何か感情を覚えるかと思えば、何も感じない。つまらない。復讐とはこんなものか。


 用が済んで、俺は天界を歩き回る。地面には大概天使の死骸がうじゃうじゃしていて気持ちが悪い。


 死骸を生みつぶしながら、天界を歩く。


 家屋を見つければ火炎瓶を投げつける。生き残りがいれば、リロードを繰り返して、機関銃で掃討するだけ。ただの作業を繰り返した。


そして、見覚えのある声。


 「──クラリス」


 ──こんな結末が嫌ならば、いつか私たちを殺しに来てみなさいな。


 ──わたくし、クラリスは、ずっと待っていますから。


 「──ずっと、待っていましたよ」




 私は、見習いたちの思い付きに気づくことなく、それは行われていた。


 「悪いことしたから罰だ!」


 「罰だ!罰だ!」


 私が天上でそんな言葉を聞いた時、それを叱りつけて抑えていたけれど、退屈に退屈していた見習いどもにはその声は届かなかったらしい。私が目を離したすきに、それは行われていた。


 だから、私は、彼女に謝罪することしかできない。


 「ごめんなさい」


 きっと、もう届いていないけれど、それでも私はそう言うべきだったと思うから。


 



 彼女は笑っている。どこかで見た笑顔だと思った。それはアリエスの自嘲気味な顔が、どこか重なっていたからだと思う。


 「クラリス、俺は──」


 アリエスの翼を取り込んだ時に見た記憶のすべての中で、こいつは、──何もしていない。ただ、見習いどもと同じ場所にいただけで、何もしていない。


 『ごめんなさい』


 懺悔するような深い声で謝罪を告げるクラリスの声が、耳元にリフレインする。


 「駄目です、私だって天使なのだから殺さなきゃいけないんでしょう?」


 「……でもなぁ」


 俺がクラリスの何かに感情を抱く、というよりもアリエスの記憶が反発して、行動させてくれない。


 「……そうですか」


 クラリスは、呆れたように笑う。


 「ああ、だから、──この先の結末でも見ていてくれ」




 階段を上る。どこまでも続く果てのない螺旋のような階段を、ひたすらに上る。


 天使だった時の記憶、神様は天上に存在していて、天使はそこに昇ってはいけない、という禁則だけが存在していた。


 俺は、その言葉を忠実に信じていて、そうして誰もがその階段を昇ることをしようともせず、神様の存在は、ただ確定もしないままに存在していた。


 長い永いながい階段。俺の天使であった部分が背徳として階段を上ることを避けようとするが。


 「皮肉なもんだな」


 堕天をなぞった俺に、そんな倫理観は存在しない。


 昇れば昇るたびに重力が増していく気がする。世界が俺を拒んでいる、そんな気配。翼が捥げてしまいそうだ。


 それでも、俺は歩みを進めて、天上を昇る。




 目の前に、扉がある。どうしようもない重さに鬱陶しさを覚えながら、俺は扉を開けた。




 「──は?」


 扉を開けて、目の前にいる存在を認識して、最初に出た言葉は、理解ができないものだった。


 


 時計。人間界の時計に似ている、時計みたいな何かがそこにはある。秒針はおおよそ視認することができないほどの速度で回っていて、それ自体が一つの世界のように、君臨している。



 人が想像していた神も、天使が想像していた神も、人型だったから、勝手にそんなものを想像していたのかもしれない。



 だが、目の前にあるのは、無機物的な存在だ。



 問い質してやりたい。アリエスの存在を、堕天のその先の世界を。



 でも、無機物的なものでしかないそれは、何も答えてはくれない。



 ──だったら、もう必要なんてないだろう。



 俺は、時計的存在に照準をさだめて。



 ──俺は、世界を、否定した。




 運命の輪は、破壊された。



 あらゆる秩序をもっていたとされる、運命の輪はもう存在しない。



 運命が意思を持ってしまったからこそ、それは神様と呼ばれた。



 でも、きっと、そこに意思なんてなくて。



 世界は、どうでもいいようにまた廻り続けるだけ。




 そうしてアリエスの行く末はどうなってしまうのか、堕天のシステムとは何なのか、何もかもが分からないまま、俺は天使共の死骸の群れに戻ってきた。


 ……あの神様と言われている時計的存在が、なぜアリエスを殺したのかさえ、意味不明だ。あれでは、誰かに指示を出そうにも、どうしようもない話だから、俺は神様がそんなことをさせた、というのもなかなかに信じられない。


 ……結局、何もわからないままだ。


 でも、きっとアリエスは堕天した罰として、過去の俺のように生き地獄に生かされることだけは、おおよそ確定しているだろう。俺がザリエルだったのだから、きっとそれはどうしようもない運命のようなものなのだと、そう考えるのだ。


 「なら、どうしますか」


 クラリスは、疑問を呈した。


 きっとアリエスは転生する。もしくはもう転生しているのかもわからない。そして、数多くある人間の中から、アリエスだけの存在を探すなんてことは、無理に違いない。


 「……それなら、まあ」


 俺は、頭の中にいるアリエスと言葉を呟く。


 「天使的業務、とやらを、全人類にやっていくだけなんじゃないかな」


 膨大な数から、一人を探すなんて、そんなことはできるわけもない。それなら、膨大な数ごと救ってしまえば、その中にいるアリエスは救われる結果になるだろう。


 「さあ、始めようか」


 俺は、下界を見下ろした。




 神様は、いつだって下を向いている。


 今日も、僕たち天使は忙しいというのに、それを考えずに、人間たちを救うために、ずっとずっと下を向いている。


 でも、楽しいから、別にいい。


 人を助けて、そうして喜んでくれるだけで、僕たちはずっと楽しい気持ち。だから、忙しくても、へっちゃらなんだ。


 「休まなくていいのか?」


 息をついてあくせく働く僕らに、神様は声をかけた。


 「いいんです!楽しいんですもの」


 心の底から、僕はそう思う。


 「それなら、いいけどさ」


 神様はまた下を向いて、何かを探している。


 ずっとずっと、探している。


 これまでも、これからも。ずっと。


 ずっと、ずっと、ずっと。

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