脳内の紫煙

鴻上ヒロ

世界が粒子で構成されるなら

 時折、視界が遠のくことがある。目に見えている風景が、勝手に遠くに遠くに、奥へ奥へと移動していくのだ。奥の方にスライドするかのように遠のいていく様子は、まるで昔遊んだ奥スクロールのゲームのよう。視界が遠のくときは必ず、靄がかかる。薄い蒼白の煙が脳内を満たしているかのように。


 たとえば、人間の脳が別の生き物だとしたら、きっと頭の中で煙を燻らせているのだろう。そうして薄紫のような青白いような煙を頭の中に吐き続けているから、視界が遠く感じ、思考に靄がかかるのかもしれない。だとしたら、俺は俺じゃない別の何者かの意志により、動かされているということになるのだろうか。


 カーテンが半開きだ。差し込む朝の陽の光が、痛みを伴って視神経に入り込む。反射的に目を閉じると、瞼の裏には無数の光の粒子が飛んでいた。世界の物質は原子でできており、原子もまた素粒子というものでできている。世界のあらゆる物質を構成する素粒子が、透けて見えているかのようだった。


「もしも、俺を素粒子にまで分解したら、あんな風に不快感を伴う綺麗なパーティクルになるのだろうか」


 考え事が、口をついて出た。自分の耳から脳内に返ってくるその言葉が、俺の脳にいる何者かに届くだろうか。そう思うと、また視界が遠のき靄がかかるようだった。きっと、届いたのだろう。俺の脳が、俺の浅い考えを吐き捨てている。


 ゆっくりと立ち上がってカーテンを開けるも、部屋は薄暗い。窓からは強い日差しが入り込んできているのにも関わらず、遮光カーテンだからか、それとも開いてもいまいち開ききらないからか、部屋は明るくはならなかった。電気をつけるのも億劫になり、そのまま窓際にある椅子に腰をかけ、窓を開ける。


 そばに置いてある缶を開け、両切りタバコを一本取り出し、火をつけた。一服するごとに、俺の視界を紫白に染める毒の煙が、俺には妙に心地が良い。脳内の何者かも喜んでいるのか、視界が俺のすぐ近くまで戻ってきた。


 近くにあるデスクが振動して音を立てている。原因は、上に置いてある俺のスマホのようだった。アラームをかけていたわけじゃないのに。手に取ると、どうやら着信のようだった。表示された名前を見た瞬間、また視界が俺から離れ、意識を奪われていく。さっきまで見えていたはずの名前が、急に文字化けして見えた。


 応答ボタンを、俺の体が勝手に押している。俺の脳内にいる何者かの仕業だろう。


「おいお前、今家か? なんで出なかった!」

「なんでって……」

「わかった今から行くから待ってろ! 絶対動くんじゃねえぞ!」


 今の声、誰だったか。俺の意志に関係なく着信履歴を漁る指を見つめながら、文字化けした文字列を見る。誰が誰だかわからない。タバコをもみ消し、よろよろと立ち上がり、俺の体は勝手に顔を洗いはじめた。それから水を飲む。水が口の中に入り、食道を通る感覚がやけにハッキリと感じ取れる。自らの生を証明するかのような水の動きを、俺はどこか他人事のように感じた。


 缶を手に持ってフラフラと家を出る。遠くに感じる視界を、強烈な白が焼き尽くす。益々遠くなる視界に足元が歪み、眼前に無数の粒子が浮遊した。粒子の中を掻き分けて、階段を上へ上へとのぼっていく。煙が高く昇るように、粒子が上へ上へと高く舞い上がる。俺の体が粒子の中に混ざり、煙と同化するかのように、どんどんどんどん、上へ、上へ。


 やがて粒子は昇るのをやめ、立ち止まった。つられるかのように立ち止まる俺の体は、今度は歪んだマンションの手すりに座り始める。危ないぞと脳内に忠告を送るも、脳内の何者かはただ煙を吐き続けるだけで、廊下に降りるつもりはないようだった。


 缶から一本の両切りを取り出し、火を付ける。


 一服するごとに、視界が俺のそばに寄ってきて、意識もまた戻ってきた。自分自身が何をしているのかをようやく理解し、俺は真下を見る。先程まで歪み、素粒子にまで分解されていたように感じた景色が、俺の眼前にハッキリとした実像を伴って現れた。住んでいるマンションの最上階の廊下の手すりから見下ろす世界は、恐ろしく小さい。


 視界にかかる紫煙が、一つの実像を結んでいく。


 そうだ、俺は失敗したのだ。失敗して、意識を失っていたのだ。


 目の前の紫煙が、彼女の横顔に見えた。その横顔に触れようと手を伸ばす。


 しかし、煙はただただ上へ上へ、日光の中に見える光の粒子と共に昇っていく。


 世界が全て小さな小さな粒子の寄せ集めだというのなら、紫煙に紫や白や黒が交じって見えるのと同じなのだろう。俺の脳内の何者かが頭の中を紫煙で満たすように、この世界もまた紫や白や黒に見える薄い煙に満ちている。粒子に分解されるというのなら、煙のように天へと霧散していくのも同じなのだろう。


 彼女はきっと、粒子に、あるいは煙になったのだ。


 俺はまだ、その時ではない。


 再び視界が遠のくのを感じながらも、俺は手すりを降り、廊下に着地した。上へ上へと昇っていくタバコの煙を置き去りにして、俺は階段を降り、家に帰った。

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脳内の紫煙 鴻上ヒロ @asamesikaijumedamayaki

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