第8章:真相解明

 紫苑女子大学の事件から一週間が経過した朝、神崎美玲は警視庁の特別会議室に招かれていた。部屋には高橋健太郎を含む捜査関係者、大学関係者、そして国際機関の代表者たちが集まっていた。空気は緊張感に満ちていた。


 美玲は静かに席に着きながら、なぜ自分がここにいるのか、改めて考えていた。彼女の独自の調査が、警察の正式な捜査では見落とされていた重要な情報をもたらしたこと。そして、彼女の化学の知識が、高田教授の複雑な研究を理解する上で不可欠だったこと。それらが、この特別会議への招待につながったのだろう。


 さらに、美玲は学生という立場を活かして、アレックスや山田との信頼関係を築いていた。この関係性から得られた情報が、捜査にとって非常に価値があることは明らかだった。


 会議室を見回すと、国際機関の代表者の姿も見えた。この事件が単なる大学内の出来事ではなく、国際的な影響を持つ複雑なケースであることを物語っている。美玲の分析が、この国際的な文脈での事件理解に大きく貢献したことも、彼女がここにいる理由の一つだろう。


 そして何より、ICレコーダーに記録された会話など、美玲が発見した決定的な証拠が、事件解決の鍵となったことは間違いない。


「神崎さん」と、警視庁の上級捜査官が声をかけた。


「あなたの分析は、この事件の解決だけでなく、今後の類似事件の防止や対策にも重要な示唆を含んでいます。それゆえ、今日はあなたの報告を公式な捜査記録に含めるため、この特別会議を設けました」


 美玲は深く息を吐いた。この招待が彼女の貢献の重要性を示すとともに、今後の彼女のキャリアひいては人生にも大きな影響を与える可能性があることを、はっきりと理解した。


「では、神崎さん。あなたの分析結果を聞かせてください」


 警視庁の上級捜査官が静かに促した。


 美玲は深呼吸をし、立ち上がった。

 彼女の前には、この一週間で収集・分析したデータが山積みになっている。


「はい。まず、高田教授の研究の本質について説明します」


 美玲は落ち着いた声で話し始めた。


「教授が開発した新種の有機リン化合物は、従来の概念を覆す画期的なものでした。その特性は、低毒性でありながら、特定の条件下で驚異的な効果を発揮するというものです」


 会議室内が静まり返る。


「しかし、この化合物には二つの側面がありました。一つは農薬としての利用。もう一つは……」


 美玲は一瞬言葉を選んでから続けた。


「化学兵器への転用可能性です」


 部屋の空気が一気に重くなった。


「高田教授は当初、この化合物の農薬としての可能性にのみ注目していました。しかし、研究が進むにつれ、その危険性に気づいたのです」


 美玲はプロジェクターを操作し、複雑な化学式を映し出した。


「この式が示すように、特定の触媒を加えることで、この化合物は極めて強力な神経毒に変化します。しかも、従来の検知システムでは発見が困難なのです」


 会議室内でざわめきが起こった。


「教授はこの発見に衝撃を受け、研究の中止を決意しました。しかし、ここで問題が生じたのです」


 美玲は山田良子の写真を映し出した。


「助手の山田良子は、この研究の軍事的価値を認識し、独自に研究を続行しようとしました」


 美玲は次にアレックス・ジョンソンの写真を表示した。


「一方、アレックス・ジョンソンは国際的な監視機関から派遣された諜報員でした。彼の任務は、この研究が悪用されないよう監視することでした」


 美玲は一瞬言葉を詰まらせた。アレックスが彼女に機密情報の入った封筒を渡したことを思い出したからだ。彼女はその理由を今まで考えていなかったが、ここに来てようやく理解できた気がした。


「アレックス・ジョンソンの行動には、複数の理由があったと考えられます」


 美玲は慎重に言葉を選びながら続けた。


「まず、彼は私の分析能力を信頼していました。事件の真相に迫りつつあることを認識し、複雑な状況を正確に理解できると判断したのでしょう」


 会議室内の空気が変わるのを感じながら、美玲は続けた。


「また、私が警察でも大学当局でもない中立的な立場にいたことも重要でした。バイアスなく情報を評価できると考えたのだと思います」


 美玲は一瞬、健太郎の方を見た。彼が小さく頷くのを見て、自信を持って話を進めた。


「さらに、アレックスは時間的制約も感じていたようです。自身の身柄が拘束される可能性を察知し、重要な情報を安全に伝える時間が限られていました。私に情報を渡すことで、真実が埋もれてしまうリスクを減らそうとしたのでしょう」


 美玲は深呼吸をして、さらに詳しく説明した。


「興味深いのは、封筒の中の情報が暗号化されていたことです。この暗号は、高田教授の研究を理解していなければ解読できないようになっていました。これは情報保護の観点から非常に賢明な選択でした」


 会議室内で小さなざわめきが起こった。美玲はそれを無視して続けた。


「最後に、アレックスの良心の問題も考慮する必要があります。彼は自身の立場と任務の間で葛藤していました。私に情報を渡すことで、自分の良心に従いつつ、任務も遂行しようとしたのだと思います」


 美玲は一瞬言葉を区切り、部屋の空気を感じ取った。全員が彼女の言葉に聞き入っていることを確認してから、結論を述べた。


「つまり、アレックス・ジョンソンの行動は、複雑な状況下での最善の選択だったと言えるでしょう。彼は私の能力を信頼し、かつ私の立場を利用することで、重要な情報を安全に、そして確実に伝えようとしたのです」


 会議室内は再び静寂に包まれた。美玲の分析が、アレックスの行動に新たな光を当てたことを、全員が理解したようだった。


「素晴らしい洞察です、神崎さん」と、国際機関の代表者が言った。


「あなたの分析は、この複雑な事件の背景をより深く理解する助けになりました」


 美玲は小さく頷き、次の説明に移った。


「では、次に事件当日の出来事について詳しく説明します」


 会議室内の緊張が高まる。


「事件当日、山田良子は高田教授を一時的に無力化し、研究データを盗み出そうとしました。使用された毒物は、皮肉にも教授自身が開発した化合物の派生物でした」


 美玲はさらに詳細なデータを示しながら説明を続けた。


「しかし、彼女の計画は完全ではありませんでした。アレックスの介入により、事態は思わぬ方向に展開したのです」


 そして、美玲は最後の切り札を取り出した。


「そして、これが決定的証拠です」


 彼女がテーブルに置いたのは、小さなUSBメモリだった。


「このUSBには、山田良子とアレックス・ジョンソンの会話、そして彼らと接触していた国際的な武器ディーラーとのやり取りが記録されています」


 会議室内が騒然となった。


「これらの証拠から、次のことが明らかになりました」


 美玲は冷静に結論を述べた。


「この事件は単なる大学内の研究データ窃盗事件ではありません。国際的な化学兵器開発競争の一端だったのです」


 美玲の分析が終わると、部屋は重い沈黙に包まれた。


 しばらくして、国際機関の代表者が口を開いた。


「神崎さん、あなたの分析は驚くべき洞察力を示しています。しかし、一つ質問があります。なぜ高田教授は最初から当局に相談しなかったのでしょうか?」


 美玲はこの質問を予期していたかのように答えた。


「教授の日記から、彼が深いジレンマに陥っていたことが分かりました。この研究が適切に管理されれば、世界の食糧問題を解決する可能性があったのです。しかし同時に、悪用された場合の危険性も認識していました。彼は最後まで、人類に貢献できる方法を模索していたのです」


 会議室内に、同情と理解の空気が広がった。


「さらに」


 美玲は続けた。


「この事件には、まだ明らかになっていない背後関係があると考えられます」


 彼女は慎重に言葉を選びながら話を進めた。


「国際的な武器開発競争、大国間の諜報活動、そして多国籍企業の利権。これらが複雑に絡み合っているのです」


 美玲の分析が終わると、部屋は再び沈黙に包まれた。

 しかし、それは先ほどとは異なる、何かが動き出す予感を孕んだ深い沈黙だった。


 最後に、警視庁の上級捜査官が立ち上がった。


「神崎さん、あなたの分析と洞察に深く感謝します。この事件の処理と今後の対策について、国際機関と協力して進めていくことになるでしょう」


 会議が終わり、部屋から人々が去っていく中、高橋健太郎が美玲に近づいてきた。


「美玲、素晴らしかったよ」健太郎の目には誇りの色が浮かんでいた。


美 玲は少し照れくさそうに微笑んだ。


「ありがとう、健太郎。でも、これで全て終わったわけじゃないわ」


「そうだな」


 健太郎は頷いた。


「これからが本当の戦いの始まりかもしれない」


 二人は窓の外を見た。東京の街並みが夕日に照らされ、オレンジ色に染まっていた。


「健太郎」


 美玲が静かに言った。「私、決めたわ。この事件を通じて、自分にはまだまだ足りないものがあると感じたの。だから……」


「私、警察科学研究所の特別研修プログラムに応募するつもりなんだ……だろ?」


 健太郎が美玲の言葉を先取りした。


 美玲は驚いて健太郎を見た。


「どうして分かったの?」


 健太郎は優しく笑った。


「君のことだから、きっとそう決意するだろうと思っていたんだ。実は、もう推薦状を書いておいたよ」


 美玲の目に涙が浮かんだ。


「健太郎……ありがとう」


 二人は再び窓の外を見つめた。夕焼け空の下、新たな挑戦への期待と決意が胸に広がっていった。


 真相は明らかになった。しかし、これは終わりではなく、新たな始まりだった。美玲の前には、まだ見ぬ謎と挑戦が待っている。そして彼女は、その一歩を踏み出す準備ができていた。


 夜空に最初の星が瞬き始めた。それは、美玲の新たな旅の始まりを祝福しているかのようだった。


(了)

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【探偵推理小説】静かなる名探偵 ・神崎美玲―紫苑女子大学における事件の場合― 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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