第7章:決定的証拠

 夏の夜明け前、紫苑女子大学のキャンパスは異様な静けさに包まれていた。神崎美玲は、昨日の出来事から一睡もできずにいた。彼女の部屋のホワイトボードには、複雑な事件の全容が描かれている。しかし、まだ決定的な証拠が足りなかった。


 早朝5時、美玲のスマートフォンが震えた。知らない名前からのメッセージだった。


「化学棟地下室。7時。一人で来ること」


 美玲は深く息を吐いた。

 罠の可能性もある。

 しかし、これが真相への最後のピースになるかもしれない。


 慎重に準備を整えた美玲は、まだ誰もいないキャンパスを静かに歩いた。朝露で濡れた草の匂いが、彼女の緊張を僅かに和らげる。


 化学棟に到着した美玲は、普段は使われていない裏口から建物に入った。地下室への階段は薄暗く、かすかに薬品の匂いがする。


 地下室のドアの前で、美玲は深く息を吐いた。ドアノブに手をかけると、意外にもすんなりと開いた。


 薄暗い地下室に足を踏み入れた瞬間、後ろでドアが閉まる音がした。美玲は急いで振り返ったが、ドアは既にロックされていた。


「よく来てくれたわ、神崎さん」


 声の主は、高田教授の助手・山田良子だった。

 彼女の隣には、アレックス・ジョンソンも立っていた。


「山田さん、アレックスさん……一体これは?」


 美玲は冷静を装いながら尋ねた。

 山田が一歩前に出た。


「あなたの調査が、私たちの計画を脅かしていたのよ。でも、あなたの洞察力なら、真実を理解してくれるはずだと思って」


 アレックスが続けた。


「僕は確かにスパイだ。でも、高田教授の研究を守るためにここにいるんだ」


 美玲は眉をひそめた。


「では、教授を毒殺しようとしたのは……」


「私よ」


 山田が静かに告白した。


「でも、殺すつもりじゃなかったの。ただ、教授を一時的に無力化して、研究データを守るためだった」


 美玲の頭の中で、パズルのピースが急速に組み合わさっていく。


「つまり、高田教授の研究は……」


「そう、貴女ももうわかってると思うけど、化学兵器に転用可能な新種の有機リン化合物よ」


 山田が言った。


「でも、教授はその危険性に気づいて、研究の公表を躊躇していた。そこで私たちは……」


 アレックスが言葉を継いだ。


「僕の任務は、その研究データを確保し、悪用されないようにすることだった。でも、事態は僕らの予想を超えて複雑になってしまった」


 美玲は静かに聞いていたが、突然気づいた。


「待って、この会話……録音されている?」


 山田とアレックスは驚いた表情を見せた。

 美玲は部屋を見回し、小さなICレコーダーを発見した。


 その瞬間、地下室のドアが勢いよく開いた。そこには、高橋健太郎と特殊部隊の姿があった。


「全員、その場で動くな!」


 健太郎が叫んだ。

 混乱の中、美玲は急いでICレコーダーを手に取った。

 そこには、山田とアレックスの告白が全て記録されていた。


「美玲、よくやった」


 健太郎が近づいてきた。


「君の推理と勘が、この作戦を成功させたんだ」


 美玲は困惑した表情で健太郎を見た。


「健太郎、あなたが……ICレコーダーを?」


「ああ」


 健太郎は少し申し訳なさそうに頷いた。


「実は、俺が仕掛けたんだ」

「でも、どうして?」


 健太郎は深く息を吐いてから説明を始めた。


「君の調査能力は信頼していたが、法的に有効な証拠が必要だったんだ。それに」


 彼は真剣な眼差しで美玲を見つめた。


「君の身の安全も心配だった。万が一の事態に備えてね」


 美玲は黙って聞いていた。


「実は」

 健太郎は続けた。


「俺が捜査から外されたのは嘘だった。国際的な化学兵器取締機関と協力して、この事件の全容を明らかにする大規模な作戦を立てていたんだ。君の調査は、その重要な一部だった」

「そう。だからICレコーダーを……」

「ああ。君が山田とアレックスから情報を引き出す時間を稼ぐ必要もあったしね。それに、もし君が何らかの理由で情報を入手できなかった場合のバックアップにもなる」


 美玲はようやく全てを理解した。彼女の調査が、より大きな捜査の一部となっていたのだ。そして健太郎は、彼女を信頼しつつも、確実な証拠収集と安全確保を優先していたのである。


 美玲はようやく全てを理解した。彼女の調査が、より大きな捜査の一部となっていたのだ。


 その後の数時間は、まるで夢の中にいるようだった。警察の事情聴取、メディアの取材、そして大学当局との話し合い。


 夕方、全てが一段落したとき、美玲は大学の屋上に一人で立っていた。夕陽が地平線に沈もうとしている。


「美玲」


 振り返ると、そこには健太郎がいた。


「本当にすまなかった。君を危険な目に遭わせてしまって……結果的に俺は君を利用してしまった……」


 美玲は静かに首を横に振った。


「いいえ、私は自分の意志でこの事件に関わったのよ。それに……」


 彼女は少し照れくさそうに続けた。


「ただ私は、あなたの期待に応えたかったの」


 健太郎は優しく微笑んだ。


「ありがとう、美玲。君がいなければ、この事件は解決できなかった」


 健太郎の言葉に、美玲は首を傾げた。


「どういう意味? 警察の捜査があったはずでしょう」


 健太郎は深くため息をつき、周囲を確認してから小声で説明を始めた。


「実はな、この事件、警察内部でも難航していたんだ。高田教授の研究を正確に理解できる専門家が我々にはいなかった。君の化学の知識と鋭い観察力が、事件の核心を掴む決め手になったんだ」


 美玲は黙って聞いていた。


「それに」


 健太郎は続けた。


「君は学生という立場を活かして、アレックスや山田との信頼関係を築くことができた。我々警察では到底できないことだった」

「でも、警察はもっと多くの情報を持っていたはずよ」


 健太郎は苦笑しながら首を振った。


「それが、そうでもないんだ。実は警察内部にも、国際的な武器ディーラーと繋がりのある人物が潜んでいてね。捜査の進展を内部から妨害されていたんだ」


 美玲の目が驚きで大きく開いた。


「それだけじゃない」


 健太郎は更に声を落とした。


「政府からの圧力もあった。事件の国際的な影響を懸念してね。我々は表立って動くことができなかった」

「だから私の調査を……」

「そう、利用させてもらったんだ」


 健太郎は申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「君の予想外の行動が、事件関係者の警戒心を解いた。我々が意図的に流した誤情報と相まって、真相に迫るきっかけを作ってくれたんだ」


 美玲はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「分かったわ。でも、どうして私を信用したの?」


 健太郎は優しく微笑んだ。


「君の分析力だよ。断片的な情報をつなぎ合わせ、事件の全体像を把握する。我々が見落としていた重要な関連性を、君が次々と発見していった。正直、君の行動は常に監視下にあったんだが、それは君の安全を確保するためでもあり、君の調査の進展を見守るためでもあった」


 美玲は複雑な表情を浮かべた。自分の調査が、思いもよらない大きな捜査の一部だったことを知り、驚きと共に使命感のようなものを感じていた。


「美玲」


 健太郎が真剣な眼差しで言った。


「君の存在が、この国際的な事件の解決に不可欠だったんだ。本当にありがとう」


 美玲は静かに頷いた。この経験が、彼女の人生に新たな方向性を示したことを、はっきりと感じていた。


 二人は並んで夕陽を見つめた。キャンパスには、平穏が戻りつつあった。


 しかし、美玲の心の中では、新たな疑問が芽生えていた。この事件の背後にある、もっと大きな闇。国際的な諜報活動と化学兵器開発の影。そして、これらと戦うために必要な、自身の能力。


「健太郎」


 美玲が静かに言った。


「私……もっと学びたいの。この事件で、自分にはまだまだ足りないものがあると感じたわ」


 健太郎は驚いた表情を見せたが、すぐに理解を示すように頷いた。


「分かった。僕も君の力になれることがあればなんでもする」


 美玲は決意に満ちた眼差しで遠くを見つめた。この事件は終わったが、彼女の真の旅はここから始まるのだ。


 夜空に最初の星が瞬き始めた。美玲は深く息を吐き、まだ見ぬ未来への期待と不安を胸に秘めながら、新たな一歩を踏み出す準備をしていた。


 事件の真相は明らかになったが、美玲の物語は、まだ序章に過ぎなかったのである。

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