第6章:危機と決意

 梅雨明けの蒸し暑い朝、神崎美玲は不安な予感とともに目を覚ました。昨夜のアレックス・ジョンソンの事情聴取以来、キャンパスの空気が一変していた。


 朝食を取りながら、美玲はニュースをチェックした。地元のニュース番組で、紫苑女子大学の事件が取り上げられていた。


「昨夜、高田誠司教授の毒殺未遂事件に関連して、留学生の男が事情聴取されました。警察は……」


 美玲はテレビの音量を上げた。しかし、その瞬間、彼女のスマートフォンが鳴った。画面には「高橋健太郎」の名前が表示されている。


「もしもし、健太郎?」

「美玲、すまん」


 健太郎の声は焦りに満ちていた。


「俺、捜査から外されることになった」

「え? どういうこと?」

「昨夜のアレックスの事情聴取後、上からの命令で俺は別の事件に回されることになったんだ。理由は明確には言われなかったが……」


 美玲は眉をひそめた。


「まさか、あなたが私に情報を漏らしていることがバレたの?」

「いや、それはないはずだ。でも、俺がこの事件に深く関わりすぎていると判断されたみたいだ」


 美玲は深く息を吐いた。

 最大の情報源を失うことは、彼女の調査にとって大きな打撃だった。


「分かったわ、健太郎。あなたには迷惑をかけてしまってごめんなさい」

「いや、謝らないでくれ。むしろ、俺から頼みがある」


 健太郎の声が真剣さを増した。


「美玲、この事件の真相を暴いてくれ。俺にはもうできない。でも、君なら……」


 美玲は一瞬言葉を失った。しかし、すぐに決意を固めた。


「分かったわ、健太郎。私に任せて」


 電話を切った後、美玲は急いで支度を始めた。今日は土曜日。キャンパスは通常より人が少ない。これは調査のチャンスだ。

 大学に到着した美玲は、まず図書館に向かった。しかし、入り口で思わぬ障害に直面した。

「申し訳ありません、神崎さん。今日から当分の間、図書館の利用は関係者以外お断りすることになりました」


 図書館員の鈴木さんが困った様子で告げた。


「どうしてですか?」

「警察からの要請なんです。高田教授の事件に関連して……」


 美玲は一瞬たじろいだが、すぐに冷静さを取り戻した。


「分かりました。ありがとうございます」


 図書館を諦めた美玲は、次に化学棟に向かった。しかし、そこでも同様の制限が設けられていた。キャンパス全体が、まるで彼女の調査を妨げるかのように閉ざされていく。


 昼過ぎ、美玲は途方に暮れてキャンパスの中庭のベンチに座っていた。そこへ、双子の妹・琴子が駆け寄ってきた。


「お姉ちゃん、大変!」


 琴子の表情は真剣そのものだった。


「どうしたの、琴子?」

「さっき、アレックスを見たの。彼、とても慌てた様子で化学棟の裏口から出てきたわ。そして、この封筒を私に渡したの!」


 琴子が差し出した封筒を、美玲は慎重に開けた。

 中には、高田教授の研究に関する機密文書のコピーが入っていた。


「琴子、これは重要な証拠かもしれない。警察に……」


「待って、お姉ちゃん」


 琴子が遮った。


「実は、アレックスが私に言ったの。『これを神崎美玲に渡してほしい。彼女なら真実を理解してくれるはずだ』って」


 美玲は驚きのあまり言葉を失った。

 アレックスは彼女の調査に気づいていたのか。

 そして、なぜ彼女を信頼したのか。


 封筒の中身をさらに調べると、小さなメモが見つかった。そこには暗号のような文字列が書かれていた。


 美玲は急いでその暗号を解読しようとした。しかし、通常の解読方法では歯が立たない。


「もしかして……」


 美玲は高田教授の研究テーマを思い出した。有機リン化合物の新しい構造。その化学式を暗号のキーとして使用すると……


「これは!」


 解読された内容に、美玲は息を呑んだ。そこには、高田教授の研究の真の目的と、それを狙う某国の諜報機関の存在が記されていた。


 そして、アレックス・ジョンソンの正体。彼は単なる留学生ではなく、ある組織から派遣された調査員だったのだ。


 美玲の頭の中で、全てのピースが一気につながった。高田教授の研究、アレックスの行動、そして健太郎が捜査から外された理由。


 しかし、その瞬間、背後から声がした。


「そこまでだよ、神崎美玲さん」


 振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。そしてその手には銃らしきものが……。


「そのメモを渡してもらおうか」


 男性の声は冷たかった。


 美玲は瞬時に状況を把握した。彼女の調査が、誰かの目に留まったのだ。そして今、彼女は危険な立場に置かれている。


「琴子、逃げて!」


 美玲は叫んだ。

 琴子は一瞬躊躇したが、姉の真剣な眼差しに従い、その場から走り去った。

 美玲は深く息を吐いた。頭の中では様々な選択肢が走馬灯のように駆け巡る。逃げるべきか、交渉すべきか、それとも……。


「降参するわ」


 美玲はゆっくりと手を上げた。


「でも、その前に一つだけ言わせて」


 男性は警戒しながらも、わずかに頷いた。

 美玲は静かに、しかし力強く語り始めた。


「この事件の真相は、単純な研究データの窃盗や個人的な恨みではありません。これは、国家レベルの諜報活動に関わる重大な問題です」


 男性の表情が変わった。


「私には、この事件の全容を解明する能力があります。そして、その真相を世に出す覚悟もあります。あなた方が私を黙らせようとしても、既に複数の場所にバックアップを用意してあります」


 これは半分ブラフだった。しかし、

 美玲の眼差しは揺るぎなかった。


 男性は一瞬躊躇した後、ゆっくりと銃を下ろした。


「……話を聞こう」


 その瞬間、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。琴子が警察に通報したのだろう。


「くっ……」


 男性は歯噛みしながら、急いでその場を立ち去った。


 美玲は深く息を吐いた。

 危機は去ったが、これで終わりではない。

 むしろ、本当の戦いはここからだ。


 彼女は握りしめていたメモを見つめた。この小さな紙片が、大きな真実への鍵となる。


「必ず、真相を明らかにしてみせる」


 美玲は静かに、しかし強く誓った。


 夕暮れのキャンパスに、警察車両のサイレンが近づいてくる。美玲の闘いは、新たな段階に入ろうとしていた。

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