第5章:真相への糸口
梅雨明けを告げる蝉の声が、紫苑女子大学のキャンパスに響き渡る朝。神崎美玲は、いつもより早く目覚めていた。昨夜の雨で洗われた空気が、彼女の頭をすっきりとさせる。
美玲は慎重に今日の計画を立てていた。アレックス・ジョンソンの動向を探る必要がある。しかし、それ以上に彼女の興味を引いたのは、高田教授の最新の研究内容だった。
朝食を軽く済ませた美玲は、大学の化学研究棟に向かった。早朝にもかかわらず、建物には既に幾人かの研究者の姿があった。美玲は周囲を警戒しながら、高田教授の研究室がある階へと足を進めた。
研究室の前で立ち止まった美玲は、ドアに貼られた「関係者以外立入禁止」の張り紙を見つめた。しかし、彼女の決意は固かった。周囲を確認し、誰もいないことを確かめてから、慎重にドアノブに手をかけた。
鍵がかかっていない。
美玲は一瞬躊躇したが、真相を知るためには必要な一歩だと自分に言い聞かせ、そっとドアを開けた。
研究室内は、事件当日のままの状態で保存されていた。美玲は手袋を着用し、慎重に室内を調査し始めた。高田教授の机の上には、半分飲みかけのコーヒーカップがそのまま置かれていた。
美玲はカップを注意深く観察した。カップの縁には、微かな染みが付着している。彼女は小さなサンプル瓶を取り出し、その染みの一部を慎重に採取した。
次に、美玲は教授のコンピューターに目を向けた。パスワードで保護されているが、彼女は教授の研究テーマや個人的な情報から、可能性のあるパスワードをいくつか推測した。
美玲は教授のコンピューターの前に立ち、深呼吸をした。画面にはパスワード入力欄が表示されている。彼女は頭の中で高田教授の情報を整理し始めた。
まず、教授の誕生日を試してみる。「1965-07-22」。アクセス拒否。
次に、教授の研究テーマの略称。「OrganoPhos」。再びアクセス拒否。
美玲は眉をひそめた。もっと個人的な情報が必要だと感じた。彼女は教授の机を見回し、そこに置かれた写真に目が留まる。教授の愛犬の写真だ。
「Buddy2010」
三度目のアクセス拒否。
時間が経つにつれ、焦りが出てきた。美玲は深く息を吐き、冷静さを取り戻そうとする。そして、ふと教授の口癖を思い出した。
「真理は単純さの中にある」。
彼女は画面を見つめ、ゆっくりとキーボードに向かった。
「SimpleChemistry」
画面が変わり、デスクトップが表示された。美玲の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「まさか…」
美玲は息を呑んだ。
画面には、高田教授の最新の研究データが表示されていた。有機リン化合物の新しい合成方法に関する革新的な内容だった。美玲は急いでデータをコピーし、自分のUSBメモリに保存した。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
美玲は慌てて周りを元の状態に戻し、物陰に隠れた。
ドアが開き、入ってきたのはアレックス・ジョンソンだった。
美鈴は息をひそめた。
アレックスは周囲を警戒しながら、高田教授のデスクに近づいた。
彼は引き出しを開け、何かを探しているようだった。
美玲は冷静にその様子を窺っていた。
アレックスが取り出したのは、小さな実験ノートだった。
彼はそれをカバンに入れ、急いで部屋を出て行った。
美玲は深く息を吐いた。この光景が意味するものは何か。アレックスは本当に研究データを盗もうとしているのか、それとも別の目的があるのか。
研究室を出た美玲は、図書館に向かった。彼女は高田教授の過去の論文や、有機リン化合物に関する専門書を次々と調べ始めた。そして、USBメモリに保存したデータと照らし合わせながら、その意味を解読しようと試みた。
昼過ぎ、美玲のスマートフォンが鳴った。画面には「高橋健太郎」の名前が表示されている。
「もしもし、健太郎?」
「美玲、大変だ。新しい情報が入ったんだ」
健太郎の声は緊張感に満ちていた。
「何があったの?」
「高田教授の血液から、微量の有機リン化合物が検出されたんだ。しかも、通常の農薬とは少し異なる構造をしているらしい」
美玲の目が大きく開いた。
「それって……」
「ああ、おそらく教授の研究に関連した物質だ。でも、なぜそれが教授の体内に…」
美玲は黙って考え込んだ。この情報は、彼女が今朝見たデータと明らかに関連している。
「健太郎、ありがとう。とても重要な情報よ」
電話を切った後、美玲は急いで化学実験室に向かった。そこで彼女は、オンライン化学実験シミュレーターを使って、高田教授の研究データと検出された物質の関連性を検証し始めた。
時間が経つのも忘れて没頭する美玲。夕方になって、ようやく一つの仮説にたどり着いた。
「もしかして……」
美玲は急いでノートに書き込みを始めた。高田教授の研究は、従来の有機リン化合物の構造を微妙に変更することで、その毒性を大幅に低下させながら、農薬としての効果を維持するという画期的なものだった。
しかし、その過程で偶然に発見されたのが、極めて特殊な作用を持つ新しい化合物だった可能性がある。それは、適切に使用すれば医療分野で革命を起こす可能性を秘めているが、同時に危険な兵器にもなり得るものだった。
美玲は深く息を吐いた。この発見が事件の核心に迫るものだという直感があった。
夜、寮に戻った美玲は、集めた全ての情報を整理し始めた。ホワイトボードには複雑な化学式と、事件の関係者の名前が書き連ねられていく。
そこへ、ルームメイトの花が部屋に入ってきた。
「美玲ちゃん、また今日も夜鍋仕事?」
美玲は顔を上げた。
「ええ、少し気になることがあって」
花は美玲の様子を心配そうに見つめた。
「無理しないでね。あ、そういえば、さっきキャンパスで警察の人たちが動いてたよ。何かあったのかな」
美玲の目が光った。
「警察? どんな様子だった?」
「うーん、化学棟の方に向かってたみたい。それと、アレックスって留学生も一緒にいたような……」
この情報に、美玲の心拍数が上がるのを感じた。事態が動き出したのか。
「ありがとう、花。少し外の様子を見てくるわ」
美玲は急いで部屋を出た。キャンパスに到着すると、確かに化学棟の周りに警察の姿があった。そして、パトカーの後部座席に座るアレックスの姿も見えた。
美玲は物陰に隠れながら、状況を観察した。そこへ、高橋健太郎が近づいてきた。
「美玲、やはり来ていたか」
「健太郎、一体何が?」
健太郎は周囲を確認してから、小声で説明を始めた。
「アレックス・ジョンソンを事情聴取することになったんだ。彼の部屋から、高田教授の研究に関する機密文書が見つかったらしい」
美玲は眉をひそめた。
「でも、それだけで彼が犯人だとは限らないわ」
「ああ、その通りだ。でも、少なくとも重要な証拠にはなる」
美玲は黙って考え込んだ。アレックスの行動、高田教授の研究内容、そして検出された有機リン化合物。全てのピースが少しずつ、しかし確実につながり始めていた。
「健太郎、私にも協力させて」
美玲は決意を込めて言った。
健太郎は躊躇したが、最終的に頷いた。
「分かった。正直美玲が頭脳を貸してくれるのはありがたい。でも、くれぐれも慎重にな」
二人が別れた後、美玲は静かな夜のキャンパスを歩いた。頭の中では、まだ見ぬ真実の姿が徐々に形を成しつつあった。
「もう少しよ」
美玲は星空を見上げながらつぶやいた。
「もう少しで、全てが明らかになる」
そして彼女は、新たな決意を胸に、寮へと戻っていった。明日は、きっと大きな展開が待っているはずだ。真相解明への道のりは、まだ続いていた。
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