第4章:容疑者浮上
梅雨の晴れ間を縫うように、紫苑女子大学のキャンパスに朝日が差し込んだ。神崎美玲は早朝から動き出していた。昨夜の調査結果を頭の中で整理しながら、彼女は化学棟へと足を向けた。
朝のひんやりとした空気の中、美玲はゆっくりと歩を進める。化学棟に近づくにつれ、彼女の鋭い嗅覚が何かを察知した。かすかに漂う薬品の匂い。通常なら気づかないほどの微かな香りだが、美玲にとってはそれが重要な手がかりとなる可能性があった。
化学棟の前で立ち止まった美玲は、建物を見上げた。そこで、一人の外国人らしき男性が慌ただしく建物から出てくるのを目撃した。男性は周囲を警戒するように見回してから、急ぎ足で去っていった。
「あれが花の言っていた不審な外国人?」
美玲は小さくつぶやいた。
その瞬間、彼女のスマートフォンが鳴った。
画面には「佐藤花」の名前が表示されている。
「もしもし、花?」
「美玲ちゃん、大変! 昨日の外国人の件、新しい情報が入ったの!」
花の声は興奮気味だった。
「落ち着いて。ゆっくり話して」
「うん、分かった。その外国人、実は大学院の留学生らしいの。名前はアレックス・ジョンソン。高田教授の研究室に所属しているんだって」
美玲は眉をひそめた。
「そう。でも、なぜ彼が不審に見えたの?」
「それがね、アレックスが最近、高田教授と言い争っているところを目撃した人がいるんだって。しかも、事件の前日にも」
この情報に、美玲の頭の中で新たな可能性が浮かび上がった。
「分かったわ。ありがとう、花」
電話を切った後、美玲は化学棟に入った。朝早くにもかかわらず、建物内には既に数人の学生や研究者の姿があった。彼女は高田教授の研究室がある階へと向かった。
研究室の前で立ち止まった美玲は、ドアに貼られた張り紙に目を留めた。「関係者以外立入禁止」の文字。しかし、彼女の好奇心は抑えられなかった。周囲を確認してから、そっとドアノブに手をかける。
「そこまでだよ、神崎さん」
突然の声に、美玲は身を固くした。
振り返ると、そこには大学の警備員・田中さんが立っていた。
「田中さん、おはようございます」
美玲は平静を装って答えた。
「君も気になるのは分かるが、ここは警察の捜査中だ。入ってはいけないよ」
田中さんは優しくも厳しい口調で言った。
美玲は一瞬躊躇したが、この機会を逃すまいと決意した。
「田中さん、実は高田教授の研究について少し聞きたいことがあって……」
田中さんは困ったような表情を浮かべたが、美玲の真剣な眼差しに負けたようだった。
「まあ、少しくらいならいいだろう。何が知りたいんだ?」
美玲は慎重に言葉を選びながら質問した。
「最近、教授の研究室に出入りしている人で、気になる人はいませんでしたか?」
田中さんは少し考え込んだ。
「そういえば、あの留学生のアレックスくんが最近妙に落ち着かない様子だったな。教授とも何度か言い争っているのを聞いたよ」
この情報に、美玲の胸の内で何かが震えた。
花からの情報と一致する。
「アレックスさんのことをもう少し詳しく教えていただけますか?」
田中さんは周囲を確認してから、小声で続けた。
「実はな、アレックスくん、最近夜遅くまで研究室に残っていることが多かったんだ。しかも、高田教授が不在の時にね」
美玲はこの情報を頭の中で整理しながら、さらに質問を重ねた。
「他に気になることはありませんでしたか? 例えば、普段と違う匂いとか……」
田中さんは驚いた表情を浮かべた。
「君、鋭いな。実は先週、研究室の前を通った時に、普段とは違う薬品の匂いがしたんだ。でも、さほど私は気にはしなかったよ」
この言葉に、美玲の中で何かがつながった気がした。
「ありがとうございます、田中さん。とても参考になりました」
研究棟を後にした美玲は、キャンパス内を歩きながら考えを巡らせた。アレックス・ジョンソン。彼が本当に事件に関わっているのか。それとも、単なる偶然の一致なのか。
昼食時、美玲は学生食堂で一人、資料を広げながら食事をしていた。そこへ、双子の妹・琴子が近づいてきた。
「お姉ちゃん、またひとりぼっち?」
琴子は心配そうな表情で座った。
妹の心配も意に介さず、美玲は静かに顔を上げた。
「琴子、ちょうどいいところに来たわ。あなたの交友関係の広さを生かしてほしいの」
琴子は目を丸くした。
「え? どういうこと?」
「アレックス・ジョンソンという留学生のことを、何か知らない?」
琴子は考え込んだ。
「アレックス……ああ、あの金髪のイケメン? 確か、最近キャンパスで噂になってたわ」
「噂?」
美玲は少しだけ身を乗り出した。
「うん、彼が高田教授の研究成果を盗もうとしているって噂よ。でも、本当かどうかは分からないけど」
この情報に、美玲の頭の中で新たな仮説が形成されていった。
「琴子、ありがとう。とても助かったわ」
午後の授業中、美玲の頭の中はアレックスのことでいっぱいだった。彼の動機、高田教授との関係、そして事件当日の行動。全てが少しずつ、しかし確実につながっていく。
授業が終わると、美玲は再び図書館に向かった。今度は、留学生に関する大学の規定や、研究倫理に関する資料を調べ始めた。
夕方、美玲が寮に戻ろうとしたとき、キャンパスの片隅でひそひそと話す二人の姿が目に入った。よく見ると、その一人はアレックスだった。もう一人は、見たことのない女性。二人は何やら激しく言い争っているようだった。
美玲は物陰に隠れ、二人の会話に耳を傾けた。断片的に聞こえてくる言葉の中に、「研究データ」「高田」「警察」といったキーワードが含まれていた。
突然、アレックスが声を荒げた。
「もう後には引けないんだ!」
その瞬間、美玲の足許の枝が折れる音がした。
二人は急いでその場を立ち去った。
美玲は深く息を吐いた。この会話の意味するところは何なのか。アレックスは本当に事件に関与しているのか。それとも、別の真実があるのか。
寮に戻った美玲は、すぐにホワイトボードに向かった。
新たな情報を書き加え、線で結んでいく。その作業は深夜まで続いた。
窓の外では、雨が静かに降り始めていた。その音は、まるで事件の真相に近づく足音のようだった。美玲は眼鏡を外し、疲れた目をこすった。
「まだ決定的な証拠はない」
彼女は小さくつぶやいた。
「でも、確実に近づいている」
そして彼女は、明日への決意を新たにしながら、ベッドに横たわった。アレックス・ジョンソン。彼の正体と、この事件での役割。それを明らかにすることが、真相解明への重要な鍵となるはずだった。
雨の音が静かに部屋に響く中、美玲の頭の中では、まだ見ぬ真実への探求が続いていた。
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