第3章:調査開始

 朝日が紫苑女子大学のキャンパスを柔らかく照らす中、神崎美玲は早朝の静寂を破るように、寮を後にした。昨夜、幼なじみの高橋健太郎から密かに入手した情報が、彼女の中で整理されつつあった。


 美玲はまず、大学の中央図書館に向かった。開館と同時に入館し、化学関連の書架に直行する。高田教授の研究テーマに関連する文献を次々と取り出し、テーブルに積み上げていく。その動きは効率的で、まるで事前に計画を立てていたかのようだった。


「おはよう、美玲ちゃん。こんな朝早くから勉強?」


 図書館スタッフの鈴木さんが声をかけてきた。

 美玲は軽く頷きながら答えた。


「おはようございます。ちょっと気になることがあって」


「もしかして高田教授のことかい?」


 鈴木さんは心配そうな表情を浮かべた。


 美玲は一瞬躊躇したが、これは情報収集の好機だと判断した。


「ええ。教授の最近の研究について、何か聞いていませんか?」


 鈴木さんは周囲を確認してから、小声で答えた。


「実はね、最近教授が頻繁に特殊な化学物質の本を借りていったんだよ。珍しいことだったからね、覚えているんだ」


 美玲は内心でこの情報を記録しながら、平静を装って尋ねた。


「そうですか。どんな化学物質だったか、覚えていますか?」

「うーん、確か有機リン化合物とかそんな難しい名前だったような……」


 この情報を得た美玲は、さらに調査の範囲を広げた。有機リン化合物に関する文献を集中的に調べ始める。その姿は、まるで解剖学者が生体を解析するかのように緻密で集中力に溢れていた。


 昼過ぎ、美玲は図書館を出て、キャンパス内を歩き始めた。学生たちの間で交わされる会話に耳を傾けながら、SNSの投稿もチェックしていく。事件に関する噂や憶測が飛び交う中、美玲は冷静に情報を取捨選択していった。


「みれいちゃーん!」


 後ろから聞こえた声に、美玲は振り返った。ルームメイトの佐藤花が駆け寄ってくる。


「どうしたの、花?」

「えへへ、ちょっと面白い情報を手に入れちゃった」


 花は得意げに言った。


「化学棟の周りで聞き込みしてたらね、事件の日、見知らぬ外国人が建物に入っていくのを見たって人がいたんだ」


 美玲は眉をひそめた。


「外国人? 留学生かもしれないわね」

「うん、でもその人、すごく不審な様子だったらしいよ」


 美玲は黙って考え込んだ。この情報が真実なのか、単なる偶然なのか、それとも誤った観察なのか。彼女の頭の中では、様々な可能性が検討されていた。


「ありがとう、花。とても参考になったわ」


 その後、美玲は化学棟の周辺を歩き回った。建物の構造、出入り口の位置、監視カメラの配置など、細かく観察していく。時折、スマートフォンで写真を撮ることもあった。


 夕方近く、美玲は大学のコンピュータールームに向かった。そこで彼女は、オンライン化学実験シミュレーターにログインした。有機リン化合物の性質や反応を、仮想的に検証し始める。その指の動きは素早く、まるでピアニストが難曲を奏でるかのようだった。


「こんな所にいたのか、美玲」


 突然の声に、美玲は振り向いた。

 そこには幼なじみの高橋健太郎が立っていた。


「健太郎、どうしたの?」

「ちょっと様子を見に来たんだ」


 健太郎は周囲を確認してから、小声で続けた。


「警察の捜査はあまり進展がないんだ。でも、君が何か見つけたんじゃないかと思ってね」


 美玲は軽く目を細めた。


「まだ何とも言えないわ。でも、少しずつ糸口は見えてきたかもしれない」


 健太郎は溜息をついた。


「そうか。実は俺も、できる範囲で協力したいんだ。美玲の優秀さは俺が一番知ってるからね。これ、現場の写真のコピーだ。くれぐれも内密にね」


 彼が差し出した封筒を、美玲は静かに受け取った。


「ありがとう、健太郎。慎重に扱うわ」


 二人が別れた後、美玲は寮に戻る途中、静かな公園のベンチに腰を下ろした。封筒から取り出した写真を一枚一枚丁寧に確認していく。その瞳は、まるでレーザーのように鋭く、細部まで見逃さなかった。


 特に、高田教授の机の上に置かれたコーヒーカップに注目した。

 カップの縁に残された微かな染みが、美玲の興味を引いた。「これは……」

 彼女は思わずつぶやいた。


 夜、寮の自室に戻った美玲は、集めた全ての情報を整理し始めた。壁に貼られたホワイトボードには、事件の時系列や関係者の情報が細かく書き込まれていく。花は美玲の真剣な様子を見て、黙って温かい紅茶を差し出した。


「ありがとう、花」


 美玲は珍しく柔らかな表情を見せた。


 夜更けまで作業を続ける美玲。彼女の頭の中では、複雑なパズルのピースが少しずつ組み合わさり始めていた。しかし、まだ決定的な証拠は見つかっていない。


 窓の外では、満月が静かに輝いていた。その光は、まるで真実への道を照らすかのように美玲の部屋を優しく包み込んでいた。


「もう少しよ」


 美玲は静かにつぶやいた。


「もう少しで、この事件の核心に迫れるはず」


 そして彼女は、新たな朝を迎える準備をするかのように、深く息を吸い込んだ。明日は、きっと新たな展開が待っているはずだ。美玲の目には、真実を追い求める強い決意の光が宿っていた。

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