第2章:美玲の日常

 翌朝、神崎美玲の目覚めは早かった。夜明け前の微かな光が部屋に差し込む中、彼女は静かに起き上がった。隣のベッドでは、ルームメイトの佐藤花がまだ深い眠りについていた。


 美玲は無言で眼鏡をかけ、部屋の隅に並べられた小さな盆栽たちに目をやった。昨日の事件のことを考えながら、彼女は几帳面に盆栽の手入れを始めた。剪定ばさみを手に取り、一枚一枚の葉を丁寧に観察しながら、不要な部分を切り落としていく。その動作は実に繊細で、まるで難解な方程式を解くかのようだった。


「おはよう、美玲ちゃん。相変わらず早いね」


 花の声に、美玲はわずかに顔を上げた。


「おはよう、花。急がなくていいの? 今日は早めの授業があるんでしょう?」

「えっ、どうして知ってるの?」


「昨日、君の机の上にあったスケジュール表があったから。もう全部覚えたわ」


 美玲の鋭い観察眼と記憶力は、日常生活の些細な部分にも及んでいた。


 朝食を済ませ、二人は紫苑女子大学へと向かった。キャンパスに到着すると、昨日の事件の余波が未だ残っているのが感じられた。学生たちの間では様々な憶測が飛び交い、不安な空気が漂っていた。


 最初の授業は古典文学。

 美玲は静かに席に着き、教授の話に耳を傾けた。彼女のノートには、教授の言葉が整然と書き記されていく。時折、周りの学生たちがざわつく中、美玲だけは集中を崩さなかった。


 授業の合間、美玲は図書館に足を運んだ。彼女は化学の専攻ではなかったが、高田教授の研究に関する資料を探し始めた。その姿は、まるで謎解きに挑む探偵のようだった。


「美玲、こんなところにいたの」


 声の主は、美玲の双子の妹・神崎琴子(ことこ)だった。

 琴子は美玲とは対照的に、明るく社交的な性格で、華やかな雰囲気を纏っていた。


「どうしたの、琴子?」

「もう、相談があるって言ったでしょ! 今度のコンパのこと…」


 琴子は恋愛や交友関係の悩みを、よく美玲に相談していた。

 論理的で冷静な美玲のアドバイスが、意外にも的確だったからだ。

 まあ、自身の恋愛の実践は全然だめなのだが。


「分かったわ。昼休みに話を聞くわ」


 美玲は淡々と答えたが、その眼差しには妹を思いやる優しさが垣間見えた。


 昼食時、中庭のベンチで琴子の相談を聞きながら、美玲は周囲の様子も細かく観察していた。学生たちの会話、教職員の動き、そして遠くに見える化学棟。全てが、彼女の鋭い感覚に捉えられていた。


「あのね、美玲。最近、いい匂いのする人がいるの」


 琴子の言葉に、美玲は少し身を乗り出した。

 匂いと言えば、それは美玲の特殊な才能に関わることだった。


「どんな匂い?」

「うーん、爽やかだけど少し甘い感じ。でも、はっきりとは分からないの」


 美玲は目を閉じ、妹の言葉から匂いを想像した。

 彼女の嗅覚は人並み外れて鋭く、わずかな香りの違いも識別できたのだ。


「ベルガモットとバニラのブレンドかもしれないわね。珍しい組み合わせだけど」


 琴子は目を丸くした。


「すごい! どうやってそんなに詳しく分かるの?」


 美玲は肩をすくめた。


「ただの推測よ」


 午後の授業が終わると、美玲は自習室に向かった。そこで彼女は、古典落語の音声を聴きながら化学の問題を解いていた。無表情で問題と向き合う美玲だが、落語の滑稽な場面では思わず口元が緩んだ。


 美玲が聴いていたのは、江戸時代末期の人気噺家・三遊亭圓朝の代表作「真景累ヶ淵」だった。この怪談噺は、深い人間ドラマと巧みな語り口で知られている。


 美玲は特に、主人公の民谷伊右衛門が罪の意識に苛まれ、幽霊に取り憑かれていく様子が好きだった。圓朝の巧みな語り口が、伊右衛門の心理描写を鮮やかに表現し、聞き手を物語の世界に引き込んでくれる。


 美玲は、この物語の構造と展開が、今回の事件の謎解きにも応用できるのではないかとひそかに考えていました。


 夕方、寮に戻る途中で美玲は立ち止まった。路地裏から聞こえてくる猫の鳴き声に耳を傾けたのだ。周囲を確認すると、誰もいないことを確かめてから、美玲はそっと猫に近づいた。


「どうしたの? 怪我でもしているの?」


 優しく語りかける美玲の表情は、普段の無表情からは想像もつかないほど柔らかだった。猫の様子を確認し、近くの動物病院の連絡先をスマートフォンで調べる。そして、動物愛護団体にも連絡を入れた。


 寮に戻った美玲は、再び盆栽の手入れを始めた。

 小さな木々を丁寧に世話する姿は、まるで難解な謎に挑む探偵のようでもあった。


「ねえ、美玲ちゃん」


 花が声をかけてきた。


「高田教授のこと、気になる?」


 美玲は手を止め、遠くを見つめるように答えた。


「ええ、少しだけね」


 その「少し」という言葉の裏に、並々ならぬ興味が隠されていることを、花はよく知っていた。


 夜、就寝前の美玲は、窓際に立って星空を見上げていた。そこには、昨日と同じ星々が輝いている。しかし、美玲の心の中では、既に何かが大きく動き始めていた。

 高田教授の事件。それは、彼女の鋭い頭脳と特殊な才能が、真価を発揮する舞台となるはずだった。


 明日はどんな展開が待っているのだろうか。美玲は静かに目を閉じ、明日への準備を整えるように深呼吸した。彼女の周りで、事件の真相へと導く糸が、少しずつ編み上げられ始めていたのだ。

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