桃ちゃんのオリンピック

@nakamayu7

第1話 桃ちゃんのオリンピック

 「普通」って言う言葉はよく使う。普通って何か分からないけど、「上野」って「ウエノ」って読むのが普通なのかな。でも桃ちゃんの住んでいる町では「コウズケ」って読むのが普通。「ウエノ」より「コウズケ」の方がカッコいいって桃ちゃんは思っている。 上野桃(コウズケ モモ)12歳。奈良県在住の中学一年生、女子。


 江戸時代、上野(こうずけ)は今の群馬県あたりにあった国の名前らしい。それに、江戸時代、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)って言う有名なお侍さんがいたらしい。忠臣蔵って本では悪者として殺されちゃったらしいけど、名君だったって話もある。 まあ、それはいいとして……


 今、世界は2024年7月。桃ちゃんはオリンピック出場を賭けて最後の挑戦をしようとしていた。

 今年のオリンピックは、1924年に開催された第8回夏季オリンピック以来ちょうど100年ぶりに再びフランス、パリで開催される。開会式は7月最後の土曜日である27日。そこから16日間におよぶ各種競技での熱戦が繰り広げられることになっている。

 桃ちゃんが挑戦しようとしているオリンピックはもちろんその「オリンピック」ではない。国内で毎年8月に開催される競泳の「全日本ジュニアオリンピック」である。


 桃ちゃんが水泳を始めたのは3歳、幼稚園の年小さんのとき。市内のスイミングスクールに体験で入学したのが始まりだった。

 それからなんやかんやで2年が過ぎて年長さんになったとき、スイミングスクールで普段から桃ちゃんの泳ぎを見ているコーチがお母さんに提案した。

「選手クラスに移りませんか?」


 小さい体ながら25mのプールをきれいなフォームのバタフライで泳ぐ桃ちゃんを見て、お母さんは桃ちゃんには水泳の才能があると見込んだらしい。

 それまでは週2回だけだったスイミングが、選手クラスに入って週4回になったけど、桃ちゃんはまったく苦にしなかった。

 学校から帰って軽く夕食を食べてから送迎バスでスイミングスクールに行く。夕方から2時間くらい泳いで、また送迎バスで帰宅。再び夕食を食べ、眠い目をこすりながら宿題をして、お風呂に入ったら、倒れるように眠る。そんな生活が小学校の低学年からずっと続いている。桃ちゃんにとってはそれが普通なのだ。


 桃ちゃんの得意な泳ぎはバタフライ。バタフライだったら市や県の大会でも同い年の子たちに引けをとることはなく、常に上位の成績をとることができた。いい成績がとれたらさらに水泳が楽しくなる。その繰り返しで特に嫌な思いもせずここまで来た。


 今年4月に中学生になった桃ちゃんの通うスイミングスクールでは、5月に入ってすぐ計測会が行われた。

 計測会では4種の泳法、クロール、バタフライ、平泳ぎ、背泳のそれぞれでタイムを測る。距離は50m、100m、200mのいずれか。

 その計測会で桃ちゃんは50mの自由形(クロール)で全日本ジュニアオリンピックの参加標準記録に近いタイムを叩き出した。

 得意なバタフライよりもクロールの方が成績がよかったのはちょっと意外だった。

 ちなみに全日本ジュニアオリンピックへの参加資格は、年齢別に設定されている参加標準記録を上回ること。何とかの大会で何位以内に入らなければならないとかいうことはない。


 これまでは全日本ジュニアオリンピックなんて雲の上の人たちが参加する大会だって思っていた。その世界に自分も手が届くかもしれないと思うと桃ちゃんの気持ちは自ずと沸き立った。

 全日本ジュニアオリンピックの予選会は7月に3回行われる。そのいずれかで参加標準記録を突破ればいい。つまり、それまでに自己ベストを3秒縮めることが求められる。


 桃ちゃんは7月までの2か月間、一生懸命にクロールのトレーニングをした。

 ちなみに50mの場合、短水路(25m)と長水路(50m)それぞれで標準記録が定められている。

 短水路(25m)の場合は当然途中で1回ターンが入るため、長水路(50m)の標準記録よりも速いタイムが設定されている。


 桃ちゃんのようなまだ小さい少年少女では、長水路で50m泳ぎ切るには体力が足りないので、短水路(25m)で泳いだ方がいい記録が出ることが多い。桃ちゃんも短水路(25m)で記録を狙う。


 7月。一回目の予選会はダメだった。あと2秒足りなかった。

 その予選会の後でコーチが言った。

「モモ、お母さんに頼んで競泳用の水着を買ってもらえ」と。

 競泳用の水着は高い。これまで着ていた水着も競泳用ではあったのだが、お母さんがメルカリで手に入れた中古品である。

 以前からお母さんは言っていた。

「全国に行けたら新品を買ってあげる」と。

 でもここに来て、あと2秒。道具でなんとかなるならと、お母さんもついに腹を括った。


 コーチに教えてもらったスポーツショップで買った水着は、表面がつるつるで光沢があって、水を弾く素材で作られている。

「こうなったら!」と、いっしょにスイミングキャップも買ってもらったら全部で5万円以上になった。


「これで頼れるものには全部頼っちゃった。これであかんかったら次は何に頼ればええん?」

 そんな情けないセリフを言う娘にお母さんは、

「あとは神様に頼るしかないんとちゃう?」

 と如何にも桃ちゃんのお母さんらしい返事を返してくれた。自分の力でがんばれって言わないところにお母さんの優しさを感じる。


 新しい水着とキャップを身に着けて臨んだ2回目の予選会では……なんと0.8秒足りなかった。

「それくらい見逃してくれよ~」と心のなかでお母さんは叫んだ。きっと桃ちゃんも同じ気持ちだっただろう。もちろん競技だから仕方ないことは分かっているんだけど……

 でも道具を替えた効果もあってか前回よりも1秒以上は速くなった計算だ。残るチャンスはあと1回。次の日曜日に行われる3回目の予選会だけ。スタートとターンの精度を上げればまだ可能性はある、まだまだ諦めない、と桃ちゃんは思う。


 2024年パリオリンピック開会式当日の土曜日、桃ちゃんとお母さんは近所の上野神社にお参り行った。明日いよいよ桃ちゃんはオリンピック参加を賭けて最後の戦いに挑む。



おわり


____

2024.7.29(Mon)

 実はこのお話の主人公の桃ちゃんにはモデルがいます。

 リアル桃ちゃんも昨日ジュニアオリンピック出場を賭けて3回目の挑戦をしました。結果、0.11秒足りず……!!!

でした。競技の世界の厳しさを傍目にも感じる結果でした。

 でもジュニアオリンピックって毎年2回、夏と春に開催されます。桃ちゃんは春に向けてもう動き出しているようです。

 ちなみに最終3回目の挑戦のとき、見ているお母さんはめちゃくちゃ緊張したそうですが、当の桃ちゃんに「緊張した?」って聞いたら、「緊張ってなに?」って逆に聞かれたそうです。大物の予感。がんばれ桃ちゃん!






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