魔の終電

アールグレイ

第1話

 カラオケルームの喧騒が嘘のように、静寂が俺たちを包み込む。眠気を誘う終電の車内で、スマホをいじる幼馴染のアリアの横顔を見ながら、さっきまでのカラオケの思い出に浸っていた。

「こんな時間に地下鉄に乗るのは、初めてだ」

 そう呟きながら、俺はガランとした車内を見渡した。深夜0時を過ぎた地下鉄に、俺たち以外の乗客の姿はない。人気のない車内、無機質なアナウンス、そしてこの静けさ。得体の知れない不安が、じわりと心を侵食していく。

「終電なのに、誰もいないなんてことあるのかな……」

 アリアの言葉が、俺の胸のモヤモヤを代弁する。普段は賑やかな路線のはずだ。それが、今日はまるで別世界のように静まり返っている。

 ガタゴトと車輪の音が響く中、俺は窓の外を眺めた。トンネルの壁が、不気味な影絵のように流れていく。その暗闇の奥に、何かがいるような気がして、思わず目を背けた。

「急停車します、お摑まりください」

 突然のアナウンスに、俺は思わずアリアの手を握った。次の瞬間、車両が大きく揺れ、キーッという甲高い音とともに急停車する。

「っ、なんだ!?」

 俺はバランスを崩し、アリアのふとももに覆いかぶさるように倒れ込んだ。

「だ、大丈夫?」

 アリアの声が、すぐ上から聞こえる。俺は気恥ずかしさから慌てて身体を起こし、窓の外を見た。

 そこには、漆黒の闇が広がっていた。トンネルの出口が見えない。まるで、車両が闇の中に飲み込まれたかのように。

「ちょ、ちょっと怖いね……」

 アリアの声が震えている。俺も、得体の知れない恐怖を感じていた。


 瞬間、ばっと視界が奪われる。


「!?」


 アリアは、俺に思わず抱きつく。役得かもしれないが、そんなことを考えている余裕はなかった。

 状況の飲み込む前に再びアナウンスが流れる。

「ただいま、原因不明の停電が発生しております。復旧までしばらくお待ちください」


 停電


 その言葉が、更なる不安を呼び起こす。

 暗闇の中、俺はアリアの手を強く握りしめた。

 二人の間に流れる沈黙を破ったのは、アリアの小さな声だった。

「ねえ、こんな時にする話じゃないかもだけど、こんなうわさ話をしていい?」

 その声には、明らかな緊張が滲んでいた。ろくでもない話であることは、容易に想像がつく。だが、アリアは今一人でそのうわさの恐怖を抱えているのだ。アリアを一人不安にさせるわけにはいかない。

「魔の終電って言うんだけど、ほんとは終電を過ぎたはずのホームに電車が来るんだって。ラッキーって思うって乗ると、異界の連れてかれちゃうらしいの」

 アリアは、恐る恐るそう告げた。俺は、恐怖を打ち消すように、わざと大きな声で笑った。

「はは、なんかよくありそうな話だな」

 だが、内心ではゾッとした。こんな状況で、こんな話を聞かされるとは。

「だ、だよね」

 アリアも、無理やり笑みを浮かべた。

 その瞬間、パッと電気がついた。しかし、それは先ほどまでの明るい照明とは違い、薄気味悪い薄暗さを車内に広げる。

「電車って、こんな照明あったっけ?」

 俺は、思わず呟いた。アリアも、怪訝そうな顔で天井を見上げる。

 確かに、こんな薄暗い照明は見たことがない。まるで、ホラー映画のワンシーンに迷い込んだかのような、不気味な雰囲気だ。

 俺は、アリアの手を握りしめた。その手は、冷たく汗ばんでいた。俺も、恐怖で心臓がバクバクと音を立てている。


 魔の終電


 アリアの言葉が、頭の中でリフレインする。もしかしたら、俺たちは本当に異界へと迷い込んでしまったのかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎった瞬間、再び車両が大きく揺れた。

 突然、ギギギという耳障りな金属音が響き渡り、車両が大きく傾き始めた。

「ちょ! どういうこと!?」

 アリアが叫ぶ。俺も何が起こっているのか分からず、ただ呆然と立ち尽くす。

 次の瞬間、アリアが息を呑んだ。パクパクと口を動かしながら、窓の外を指差す。

「ね、ねぇ、あれ」

 その声は、恐怖で震えていた。俺は、恐る恐るアリアの指の先を追った。

 暗闇に包まれた窓の外。そこに、真っ白い掌が、まるで吸盤のように窓ガラスに張り付いていた。

「ひっ……」

 アリアが小さく悲鳴を上げる。俺も、その不気味な光景から目を離すことができない。


 バン!


 次の瞬間、更に一つ、手が現れた。


 バン!バン!


 また一つ、また一つ。


 バン!バン!バン!


 三つ、四つ、五つ。


 バン!バン!バン!バン!バン!バン!


 無数の手が、まるで獲物を狙うかのように、窓ガラスを覆い尽くしていく。

 その光景は、あまりにも異様で、あまりにも恐ろしかった。俺は、アリアを抱き寄せ、必死に目を瞑った。

 しかし、耳を塞いでも、無数の手が窓ガラスを叩く音は、容赦なく鼓膜を打ち続ける。その音は、まるで俺たちの心臓の鼓動と共鳴するかのように、どんどん大きくなっていく。

 それは、死を告げる鐘の音のように思えた。俺たちは、恐怖で身を寄せ合い、ただひたすらに目を瞑り続けた。

 しかし、次の瞬間が訪れることはなかった。

「……?」

 恐る恐る目を開けると、窓の外には、先ほどまでの無数の手は消え失せていた。

「なん、だったんだ」

 俺は、安堵とも恐怖ともつかない感情を抱きながら、深く息を吐いた。

「怖いよ……」

 アリアが、震える声で呟き、俺の胸に強く抱きついてきた。俺は、アリアの背中を優しく撫でながら、しっかりと抱きしめた。

「何が起こったのか分からないが、とにかく異常事態だ」

 俺は、冷静さを保とうと努めながら、アリアに語りかけた。

「とりあえず、他の乗客や運転手を探そう」

 アリアも、頷きながら俺の言葉に同意した。

「先頭車両を目指そう」

 俺は、震えるアリアの手をしっかりと握り、立ち上がった。恐怖で足がすくみそうになるが、ここで立ち止まるわけにはいかない。


 俺たちは、手探りで通路を進み始めた。薄暗い車内は、まるで深い闇の中に続く道のようだった。

 次の車両へと足を踏み入れる。しかし、そこには誰もいない。人気のない空間が広がっているだけだ。


 さらに次の車両へ。ここも無人。


 また次の車両へ。やはり無人。


 次の車両へ。またしても無人。


「…………」


 どうやら、本当に俺たち以外に乗客はいないようだ。

「ねえ、おかしくない?」

 アリアが、沈黙を破る。その声は、恐怖でかすれていた。

「私たち、4号車にいたんだよね? それで、1号車方向に進んでいるのに、何両分進んだ?」

 アリアの言葉に、俺はハッとした。確かに、おかしい。4両分進んだはずなのに、まだ先頭車両にはたどり着けない。

 俺たちは、恐怖で顔を見合わせ、慌ててさらに前の車両へと進む。しかし、まだ先頭車両は見えない。


 進む。


 続く。


 進む。


 まだ先がある。


「どう、なっているんだ?」

 俺は、混乱する頭を抱えた。この車両は、まるで終わりのない迷路のように、俺たちを翻弄している。

 アリアは、俺の手を強く握りしめた。その手は、冷たく汗ばんでいた。

 俺たちは、この異常事態から抜け出すことができるのだろうか?


 不気味な静寂を破ったのは、後方から聞こえるガラガラという音だった。それは、車輪の軋む音。誰かが何かを転がしている。

「誰かいるみたい!」

 アリアの弾んだ声とは逆に、俺の背筋を冷たいものが走る。直感が、危険を告げていた。

「アリア、隠れよう」

 俺は、可能な限り声を抑えてアリアに指示した。アリアは、状況を察したのか、無言で頷き、俺と身を寄せ合って物陰に隠れた。


 ガラガラ、ガラガラ。


 音は、刻一刻と近づいてくる。暗闇の中から徐々に姿を現したのは、一台のベビーカーだった。しかし、その中には誰も乗っていない。

 ベビーカーを押している「何か」の姿も、ぼんやりと見えてきた。それは、女性のような、しかし人間とは違う何か。


「~~♪」


 女は、不気味な子守唄のような歌を口ずさみながら、ゆっくりとベビーカーを押している。


「~♪ ~♪」


 その旋律は、この世のものとは思えないほど不協和音で、聞く者の心を掻き乱す。


「……っ!」

 アリアが、恐怖で俺の腕にしがみつく。俺もまた、全身が粟立ち、心臓が異常な速さで鼓動しているのを感じた。


「~♪」


 女は、相変わらず不気味な子守唄を口ずさみながら、ゆっくりとベビーカーを押している。その虚ろな目は、何かを探すようにギロギロと左右へ動いている。どうやら俺たちは完全に死角らしく、女は俺たちの存在に気付いていないようだ。

 やがて、得体の知れない「それ」が、まるで存在しないかのように、静寂の中に去っていった。

「ぷはぁっ!」

 アリアは恐怖で息を詰まらせていたのだろう。その肩は激しく上下し、肺を満たす空気を渇望していた。

「はぁ、はぁ……一体何が起こっているの……?」

 それは、彼女が幾度となく繰り返した疑問だった。暗闇の中、得体の知れない存在の恐怖は増すばかりだった。

「もしかして、あの噂の……?」

 アリアの言葉に、息を呑んだ。今この状況では口にしたくない、忌まわしい噂の存在が頭をよぎった。

「ああ、考えたくはないが、そうなのかもしれない」

 諦めにも似た声が、暗闇に響く。希望は薄れ、絶望が影を広げていく。

「何か、脱出する方法とか、ないのか?」

 わずかな希望を込めた声が、暗闇に投げかけられる。しかし、答えはすぐには出てこない。

「どうだったかな……でも、噂になったってことは、誰かが脱出したはず。何か、手掛かりがあるはずよ」

 アリアが一縷の望みに縋るように、言葉を繋ぐ。諦めかけていた心に、再び火が灯る。

 思考が巡る中、視界の隅に非常口のコックが見えた。それは、出口への唯一の手がかりだった。

「出て……みる?」

 声には、恐怖と希望が入り混じっていた。俺たちは顔を見合わせ、暗闇の先にある出口へと一歩踏み出す決意を固めた。


 非常口のコックをゆっくりと回し、軋む音を立てながらドアが開く。外の景色は、車内の薄明かりとは対照的に漆黒の闇に包まれていた。アリアは思わず身震いし、俺の腕をぎゅっと掴んだ。

「俺が先に行く。何かあったらすぐに知らせるから」

 俺はアリアを安心させるように微笑みかけ、線路へと降り立った。足の裏にひんやりとしたコンクリートの感触が伝わり、緊張感が高まる。時折、地下空間を抜ける風の音と共に、遠くから水滴の音が聞こえ、恐怖心を煽る。

「今のところ、何もいないみたいだ。でも、油断は禁物だ」

 俺はアリアに手を差し伸べ、彼女を線路へと導いた。二人は肩を寄せ合い、暗闇の中を注意深く進んでいく。

「どっちに進もうか?」

 アリアは不安げな表情で周囲を見渡した。

「わからないけど……来た道を戻るのが一番安全かもしれない。それに、この先には何があるかわからないし……」

 アリアの言葉に、俺は深く頷いた。この得体の知れない場所から一刻も早く脱出したいという思いは、二人とも同じだった。

「よし、じゃあ戻ろう。線路を目印に進めば、駅に戻れるはずだ」

 二人は固く手を繋ぎ、来た道を戻ることにした。心細さと不安が押し寄せる中、ぼんやりと伸びる線路だけが、唯一の希望の光だった。


 ほどなくして。暗闇を進む二人の背後から、甲高いホイッスルの音が容赦なく鳴り響く。振り返れば、異形の駅員が手旗を振り回しながら、不気味な笑みを浮かべて追ってくる。その姿は、闇に溶け込みながらも、異様な存在感を放っていた。

「急げ! アリア!」

 俺は恐怖で震えるアリアの手を握りしめ、全速力で闇の中を駆け抜けた。心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖と、アリアを守らなければという使命感が、俺の足を前に進ませる。

 笛の音は、まるで獲物を追う獣の咆哮のように、二人の背後を執拗に追いかける。しかし、諦めるわけにはいかない。微かな光を目指し、ひたすら走り続ける。

 そして、ついに闇の向こうに、見慣れた駅のホームの灯りが見えた。希望の光に安堵し、俺はアリアをホームへと押し上げた。

「戻れたんだ…!」

 アリアは安堵の涙を流しながら、俺の胸に飛び込んできた。俺もまた、彼女を抱きしめ、無事に生還できたことを心から感謝した。


 あの日以来、俺は地下鉄に乗るたびに、あの闇と恐怖を思い出す。あの出来事は、一生忘れられないだろう。

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