エルフのだきまくら

棚霧書生

エルフのだきまくら

 あれはいつのことだったか。からりと晴れた陽気の良い午後、まだ日は高く昇っていた。散歩でもすればきっと気持ちがいいだろう、そんな天気の日に俺は昼寝に付き合わされることになった。

「寝るのは少しもったいないかなぁ」

 あの人は窓の外を眺めながらそう言ったが、特に残念そうでもなかった。カーテンを引くと部屋があっという間に暗くなる。カーテンの布越しにわずかに通り抜けた光がぼんやりとあの人の輪郭をなぞっている。

 長く白い髪に白い肌、眼だけが紅色で明るい場所で見ると輝いているように見える彼の姿は、光が遮られたこの寝室でも薄っすら発光しているみたいだった。俺が素直にそのことを口に出すと、彼は「虫じゃないんだからさ」と鼻で笑った。

 彼は上着を椅子の背もたれに掛け、シャツのボタンを外していく、細い指がだんだんと上から下へと動いていくのが、日常のなんでもない動作のはずなのに目を離せなかった。

 ふと、彼と目が合う。不思議そうに一瞬だけ彼の眉が上がる。次の瞬間には紅い眼がくにゃりと弧を描き、クスクスと笑った。

「ヴォル、私ばかり見てないでお前もお昼寝の準備をしてよ?」

「えっ、ああ……もちろんだ……」

 俺も慌てて服を脱いでいく。妙な気分だった。この屋敷で育てられて、彼のことはよく知っているし、お昼寝に呼ばれるのはよくあることで、夜だって一緒に寝ているのに、今更なにを緊張することがあるのか。

 そこではたと気づく。俺は今、緊張しているのか、と。俺がこの世で一番信頼しているこの美しいエルフを相手に、俺はいつの間にか気を張り詰めていたらしい。

 ふぅー、と息を吐き、両手で挟むように頬を叩く。

「なんのおまじないだい、それは」

「特に意味はない……」

 アンタを襲わないためだ、とは当然言えなかった。俺は恐れていたのだろう。信頼のために明け渡された場所に二度と入り込めなくなることに。そして、彼に見限られることに。

「ヴォルフハルト」

 彼は真っ白い己の肢体をシーツに横たえ、隣に空けられたスペースをぽんぽんと優しく叩く。

 俺は呼びかけに応えて、彼の隣に寝転がった。手を伸ばさなくても届いてしまう距離。もう少しでも身を寄せれば簡単に肌が触れ合うだろう。

「ふふふ……」

 彼が遠慮も躊躇もなく俺の頬に触れる。

「変身して?」

「あぁ……」

 彼の要望通り、俺は人の姿から大狼の姿に変身した。身体が火照って骨がミシミシと伸びる感じがして、身体からたくさん毛が生える。彼いわく、ふかふかで触り心地が良く抱き枕にぴったりな毛皮をまとった生き物に俺はなる。

「わぁ、ふかふかちゃんだ!」

 キャッキャと声を上げると毛だらけの俺の首筋に顔を埋めてくる。彼は眠る前にこうして俺の毛並みを楽しむ。これはいつものことで、今まではなにも気にならなかった。しかし、最近は……

「ヴォルは悩みがあるのかい?」

 内心ギクリとした。彼に見透かされている。だが、それも当然のことかもしれない。彼は長生きで物知りのエルフなのだから。俺とは比べ物にならないほどの経験と知識がある。できれば隠し通したい、けれどそれは難しいことなのかもしれない。俺にも限界が近づいている。

「ヴォルフハルトも随分と大きくなったからね。私に隠し事の一つや二つあったっていい。だけど、お前は今、困っているだろう?」

「そんなことはない……」

 虚勢を張ったところでボロが出るのはわかっていたけれど、俺は強がりたかった。彼には頼りたくなかったのだ。今、思えばただの反抗期だったのかもしれないが。

「お前のそれは人狼として、当然の欲求だよ。おぞましいことじゃない」

「…………俺は別になにも困っちゃいない」

「嘘はいけない。キッチンで料理の仕込みをしていたアンナをじっと見ていただろう。あのとき、お前はなにを考えていた?」

 アンナは当時、十六、七くらいの家出少女で、彼の屋敷に身を寄せていた。料理が上手くて気立ての良い女だった。俺は彼女のことが嫌いじゃなかった。

「今日の飯はなんだろうと……」

「本当にそれだけ?」

「腹が減ったなと……」

「うん、それで?」

 俺が黙ってしまっても、彼はただただ見つめて俺の奥底にあるものについて追及していた。それは断罪ではなかった、もっと優しくて包み込むような優しさがあった。だから、きっと気が緩んでしまったのだ。

「…………べ、たい」

 自分の欲望を認めてしまえば、その存在を無視することが難しくなる。できれば知らないフリで蓋をしたままでいたかった。

 だけど、彼がそうさせてくれなかった。あれは誰が悪かったのだろう。

「食べたくて堪らねえよ……」

「そうか、やっぱり人間を食べたいんだね」

「クソッ……」

「気に病むことじゃないよ。人狼であるお前にとって、当たり前の欲求だ。アンナを食べてしまうのはダメだけれど、私もお前が困らないようになにか別の手を考えよう」

「アンナじゃない……」

「うん?」

 アンナじゃない、アンナじゃないんだ、俺が一番食べたいのは、真っ先に口に入れて、クチャクチャと咀嚼してやりたいのは。血を啜って、骨を噛み砕いて、あますところなくすべてを食らってしまいたいのは。

「俺が食べたいのはアンタだ。セレク・フェンウッド」

 グルルと喉が鳴る。いや、腹の音だったかもしれない。わからない。俺はそのときとても興奮していた。あの人を、セレクを食べる想像を始めたら、止まらなくなってしまった。

 この恐ろしい想像を現実にしたい。食べたい、食べたい、食べてしまえ!


「あっ……痛ぁい……」

「ハァッハァッハァッ…………お、俺が、ああ、違うんだッ……! そんなつもりは……!!」

「オーケー、落ち着いて、ヴォル。私は大丈夫だから」

「大丈夫な訳があるかッ!!」

 目の前が一瞬白んで、正常に戻った視界には血に塗れたセレクがいて、彼の腕は一本なくなっていた。

 腕はベッドにも床にも落ちていない。どこにいったのかなんて、口の中に血の味がしている時点でわかりきっていて、吐き出さなければならないと思うのに、恐ろしいことに俺の身体はまだ肉を欲していた。

 肩から腕を千切られたセレクのその痛々しい傷口から滴る血に俺は舌を這わせる。生臭い血の味がどうしてこんなに美味いのか、訳がわからなかった。

 人間よりもエルフは丈夫で魔法も使えるから、多少の怪我は怪我のうちに入らないことは知っている。セレクが腕を失ったのにやけに冷静なのはそれが理由だろう。しかし、いくらエルフといえどもこれ以上、身体を損傷したら回復できなくなる。食べたらダメだ、彼を失いたくはない。

 理性はやめろと叫んでいるのに、彼の傷口を舐り続けてしまう。治そうと思ってするのではない。ご馳走が名残惜しくて、離れられないのだ。

 ヴォルフハルト、と彼が俺の名前を呼ぶ。

「食べたいの?」

 彼はなにを思ってそんなことを聞いたのだろう。食べたいに決まっている、それと同時に俺は絶対に食べたくないのだ。滝のようなよだれが垂れて彼の顔を汚した。

 どう返事をしたものかと迷っているうちに、また彼が口を開く。抑揚も温度もない、まっさらな声だった。

「いいよ、ぜんぶ食べてしまっても」

 真意はわからない。セレクがなぜそんなことを言ったのかは謎のままだ。

 時が止まったようにも引き伸ばされたようにも感じた。妙な時間感覚だった。一瞬だったのか、長いことそこにいたのか、まったく覚えていない。

 気づいたときには、俺は寝室の窓をぶち破り、外に駆け出していた。晴れていたはずの空は雲が張り出し、薄暗くなっていた。

 飛び出したその日から俺はセレクのもとには戻っていない。


終わり

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