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「えー! 正奈せいなちゃん絵上手〜!」


 スケッチブックを覗き込んだ1人の女子は少し大きな声を出した。


 休み時間、クラスの視線が集まり恥ずかしそうにしているのは、黒髪を肩下まで伸ばした女子である。


 ぱっちりと大きな目、滑らかな肌、確かな膨らみのある胸。一言で言えばモテそうな女子。顔が良い、よく笑う、陰キャにも話しかけ、文武両道。実際、思春期に入り出した男子共の性愛の対象として、日々視線に晒されている。


 一心いっしん正奈せいなは向けられる視線の先がスケッチブックではなく、自分の胸に来ていることに嫌悪感を感じた。咄嗟にスケッチブックに覆いかぶさり、胸と絵どちらも隠す。


「も〜声大きいよ〜」

「だって上手なんだもん! 中学校行ったら美術部行きなよ!」

「び、美術部かぁ……まあそうしようかな。元々興味あったし……」

「ねえ、他にはどんな絵描いてるの?」


 正奈のスケッチブックを奪い取り、中を除く女子生徒。


 途端に正奈は目を見開き、冷や汗を浮かべた。手を伸ばすが女子生徒はひょいと躱し、パラパラとスケッチブックをめくっていく。


「あっちょっ、待って!」


 手の動きを止めた女子生徒の周りに、他の生徒達も集まっていく。そしてスケッチブックを覗き込んでは、「うわ!」や、「えー!」などと驚嘆の声を発していく。


 同時に正奈の顔は、みるみると青くなっていく。


「……え? 裸の人じゃん……」

「……あ……」

「うーわ! きんもー!」

「待って前の方全部裸じゃん!」

「ちんことかめっちゃリアルやん!」


 正奈の残り3ヶ月も無い小学校生活は、その瞬間に打ち砕かれた。









 何がきっかけだったのか。


 いつしか私は人間の裸体が好きになっていた。


 1番古い記憶は小学2年生の頃……私はAVを見た。裸の男女が抱き合うやつ。困惑するしかない内容のものも多い今となっては、割とスタンダードなやつだったなと思う。


 とにかく私は幼少期から人間の裸体が好きだ。男女関係無く。


 好きと言っても性的な意味ではない。ただ美しく、神秘的で、情熱的で、それでいて冷ややかな意志も感じる。そんな裸体が好きだ。


 人間の体をネットなどで調べていくうち、生物の体とはとてつもない奇跡で生まれたものだと知った。以来余計に人の体が好きになった。


 成長していくにつれて、裸体に対する欲求は高まっていった。見て、触れて、聴いて、嗅いで、舐めて、密着したい。こんな欲求を持っていて、これが性欲由来でないことに自分でも驚きだ。


 小学生3年になる頃には、私は絵を描くようになっていた。写真や動画に映る裸体は、自分の思い通りの体勢や動きはしてくれない。だから自分で描き出したのだ。


 ここの筋肉はどう膨らむのか、この関節はどう曲がるのか、曲がったらどう肉の形が変わるのか。絵を学ぶにつれ体の構造も知ることができ、さらに裸体を描くことで欲求を発散できるようになっていった。


 5年生になって少しした頃にセックスについて知ったが、恋人同士だと裸で抱き合うのも普通らしい。あの時はなぜ裸の男女が抱き合う動画があるのかようやく理解できてすっきりした。


 だから裸体への欲求は誰にも言わずに、彼氏ができたら裸体を少し触らせてもらおう。もしかしたら打ち明けても受け入れてくれるかもしれないし、彼氏が私の体を好きになってくれたら嬉しい。


 その時まで私の欲求は誰にも言わないようにしようと思っていた。


 なのに。


 誰にもバレないようにって思ってたのに。


 誰にも、バレたくなかったのに。









「うわ! 一心絵うまっ!」


 中学校に上がって2ヶ月ほど。


 私はあれからもずっと絵を描いていた。


 元々は自分好みの裸体を見たかったから始めたけど、沢山描いてるうちに絵自体も好きになっていたから。


 けど当然、自分の欲求を公にしているわけではない。学校で絵を描く時は首、行っても肩から上しか描いていない。顔も首も立派な体だ。皆服を着ていても顔は大抵裸なのだ。


 いつも通り顔を描くことで、裸体欲求を僅かながら発散していたある日の休み時間。


 あの日を想起させる言葉を投げかけてきたのは、別の小学校から上がってきた男子の1人だ。


「……」

「凄えな……なんつうか、唇に厚みがある……写実的っていうの? リアルに描けるのほんと凄えよ!」

「……ありがと」


 あれから私は随分と根暗になってしまった。


 別に友達は以前と変わりなく接してくれている。けど絵を描いている時は人は近寄って来なくなったし、男子は所構わず馬鹿にしてくるし、女子は陰でこそこそ噂を流すようになった。


「あ! 変態がまた裸描いてる〜!」


 ……全く、素晴らしいものだよ、人間の体ってのは。


 男子は大きな声でクラス全体に情報を渡し、漏れや他クラスには女子が表面下で噂を流す。無駄が無い。


「こいつ裸の絵めっちゃ描いてんだよ! 本の前の方に!」

「え? 嘘だ〜」

「嘘じゃねえって! ほら!」


 声を大きくしながら、その同じ小学校の男子はナチュラルに私のスケッチブックを手に取った。そのまま中を開き、隣の男子に見せる。


「う、うわっ、マジじゃん……!」


 その男子はチラリと視線を私に向ける。だがすぐに視線は私の作品達に引き寄せられた。


 目から読み取れるのは、驚愕と笑いと興奮といったところか。面白いぐらいに予想通りだ。


 別に今更他の生徒にバレたからって弁明をする気は無い。自分の欲求が変態だというのは自覚しているし、12か13の男子が女体に興奮するのも別に普通だと思う。私の作品をオカズにしてくれたって一向に構わない。


 こっちはそういう心持ちなのに、他の人は私の欲求を馬鹿にしてくる。


 多分今目の前で騒いでいる男子は、イジメているという気は無いのだろう。ただ面白いという気持ちに従っているだけ。噂を流す女子もそんな感じだろう。


 結局私の欲求は瞬く間にクラス、そして学年全体へと広がった。すぐに学年全員が一心正奈は裸体を描く変態だ、という事実ないし噂を知っている状態になっただろう。


 あぁ、辛い。


 でも絵を描く以外に昼休みにやる事ないし、絵を描いてなければ裸描かないのって馬鹿にされるし、結局はスケッチブックを取り出すことになる。まあ描いてても馬鹿にしてくるんだけど。


 もういいや、中学校は適当に過ごしてよう。高校は親に頼んで遠くの学校に通わせてもらおう。彼氏ができていい雰囲気になったら、サラッとカミングアウトすればこの欲求も受け入れられるはず……


 なんて考えていると、視界の端にこちらへ向けられる視線が映った。


 また胸かと思ってそちらを見ると、そこには1人の男子がいた。私のような黒髪だ。髪型は何というか自然な感じ。変に気取って整えられていたり、逆にボサボサでもない。顔も普通。ただ眉がキリッとしてて真面目な感じで、雰囲気がなんとなくカッコいい。


 名前は確か、受村うけむらめぐみ。席が後ろだからよく顔を合わせる。


 恵くんは何故か教室の扉近くの壁に背中を預けてこちらを見ていた。


 私が顔を向けると、恵くんは咄嗟に顔を背けた。なんというか、分かりやすい。


「……恵くん」

「えぇ⁉︎ な、何?」


 声をかけると、あからさまにびっくりしている。目を見開き、引き攣った顔をこちらに向ける。


「ずっと見てたでしょ」

「……あー……まあ、見てた」

「……まあしょうがないよね。男子も思春期だもんね。でもやっぱり嫌だからやめて?」

「待て待て! なんか誤解してねえか⁉︎ 絵だよ絵! オレは絵を見てたの!」


 心外だ、とでも言うように、恵くんは必死に弁明した。慌てているのも相まって言い訳にしか聞こえないが、まあそういうことにしておいてあげよう。


「ああ、そっちね……」


 私はヒョイヒョイと手招きをした。恵くんは複雑な表情をしながら、恐る恐る私の席へと歩いてくる。


 私は横にかけてあるバッグから適当なスケッチブックを取り出し、ページをめくった。そして良さげに思うページを開き、隣までやってきた恵くんに差し出してやる。


「えっ! ちょっ!」

「別に持って行ってもいいよ。スペアはウチにいくらでもあるし」

「だっかっらっ、そういうんじゃねえって‼︎」


 ここまで意地を張るの? と思うが口には出さない。あれか、これが童貞臭いとかいうやつか?


「も〜……こういう誤解されたくないから離れて見てたのに……」

「……え? ほんとに違うの?」

「だからそう言ってるでしょ! ……あー、オレは絵そのものじゃなくて、正奈が絵描いてるとこが見たいの!」


 ……これはかなり予想外の言葉だった。


 これはどう解釈すればいいんだろうか。告白……にしては言い回しが違う気がする。絵が上手と褒めている……にしては絵そのものは見てないと言っている。


 昔はそこそこモテていた気がするけど、誰かに褒められた記憶がほとんど無い。あの日以来は特に。


「……え、それどういう意味?」


 だから私は思ったことをそのまま口にするしか出来なかった。


「そ、そのままの意味だよ! オレは正奈が絵を描いてるとこを見るのが好きなの!」

「はあ……まあ、見てるだけならいいけど」


 結局恵くんが見ていたのは何なのだろう。私の胸、描いてる絵……私の指? 姿?


 台詞は完全に言い訳だったけど何だか本気って感じがした。


 ……もしかしたら、恵くんも私みたいな秘密があるのかもしれない。だとしたら、せめて私だけはそれを否定しないであげよう。


 誰にも迷惑を掛けていないのに避けられ、馬鹿にされる辛さは誰よりも知ってるはずだから。


 恵くんはそれ以来、私が絵を描いているとすぐ後ろの席からわざわざ扉の前まで移動して絵を見ていた。


 そしてふとした瞬間に


「……綺麗だなぁ」

「……繊細だなぁ」


 などという言葉を発する。なんだかむず痒いが、悪い気はしない。


 時が経つにつれて、恵くんは少しずつ近い場所で私の絵を見るようになっていった。


 夏休みが終わる頃には、前の人の机にもたれかかって。


 年が明ける頃には、横に立って。


 梅雨に入る頃には、しゃがみ込んで。


 体育祭や音楽祭、学校行事に追われる頃には前の人の椅子に座って。


 桜が咲く頃には、隣に椅子を並べて。


 よく飽きないな、などと思いながら、今日も今日とてお絵描きだ。最近は昼休み、心なしか外で遊ぶ人が減ってきた気がする。心が休まらないが、もう今更だ。


 いつも通り恵くんのお絵描き観察をされながら絵を描くこと約20分。昼休み終了のチャイムが響き渡り、私はスケッチブックをバッグへしまった。


「えー、まあ皆もとうとう受験生ですよね。今年の前半は高校を調べる授業も入ってくるから。県立に行くのか、私立に行くのか、勉強したいのか、部活をしたいのか、自分の将来を考えて選びましょう」


 ……え?


 受験生? 嘘でしょ? は、早くない?


 なんか一瞬で時が過ぎた気がする……裸体好きがバレてから小学校卒業までの3ヶ月より、中学入ってからの2年の方が何倍も早い気がする……


 なんでだろう……やってることは何も変わってないはずなのに。あの日の後も前も、中学に入ってからも、絵を描くことしかやっていない。


 それも陰口言われてるんだろうなって考えながら……楽しい時間はあっという間と言うけれど、絵を描くのが楽しいと感じたことは無い……


 けど、恵くんがお絵描きを見始めてからはかなり気分が楽になった。否定も無理な肯定もせず、ただ傍にいてくれるっていうのは……


「……は……? いっ、いやっ、えっ?」

「え、何。どうした?」


 声が口に出てしまった。隣の男子に困惑の視線を向けられながら、私は顔を赤くして俯く。


 な、なんなの……? 恵くんのおげで絵を描くのが辛くなくなったって……まるで私が恵くんのことを好きみたいな……!


 うぅ、でも……気持ち的に楽になったのは事実だし……思い返すとかなり救われてた……のかも……


 ああやばい……気づいちゃったらもう意識しちゃう……


「……正奈?」

「えぁ⁉︎ なっ何⁉︎」

「いや、ずっとミミズ描いてるから……」


 ある日の昼休み。


 はっとなってスケッチブックを見ると、ただの線が乱雑に描かれた、落書きとも呼べないものがあった。


 今日も恵くんは椅子を私の席の横に並べてお絵描き鑑賞をしていた。


 だが私が唸りながらひたすらミミズを描いているものだから、彼は相当困惑しただろう。


「……なんかずっと顔赤いしボーッとしてるし……体調悪い?」

「あー……まあ、そんな感じ……?」

「なら無理すんなよ。受験前に倒れちゃマズい」

「そ、そうだね……今日は絵はやめておく……」


 スケッチブックを閉じ、横のバッグにしまう。


 力を抜いて背もたれによりかかり、息を吐く。


 これが恋というものなのか。今まで男女関係なく、私の人間に対する興味はその肉体にしかなかった。相手を欲するという意味では変わっていないはずなのに、この幸福感というか、満ち足りたような気持ちが恋愛と裸体欲求の違い……?


 胸中に満ちる初めての感覚に戸惑っていると、私は横でうろうろしている恵くんに気がついた。


 思えば彼の前で絵を描かなかった時が無い。彼の昼休みのルーティンは私の絵を見ることで固定されており、そのお絵描きが無くなると休み時間の過ごし方が分からないのだろう。


 ならばと、私はずっと心の隅に引っかかっていたことを打ち明けることにした。


「……恵くん」

「あ、な、何?」

「……恵くんってなんで私のお絵描き見るの?」


 同じような質問を、かなり最初の方にした気がする。あの時は「私が絵を描いているのを見るのが好き」という答えだったと思う。


 今思うと小恥ずかしいが、なんだかあの答えは遠回しというか、恵くんの気持ちを完全には言語化できていないような気がする。


 恵くんは「んぇ⁉︎」と変な声を出した。そして目を伏せて顔を背け、赤面していく。


 ……まっ、そんな反応されたら……


 顔が熱くなっていく。きっと私の顔も赤くなっているのだろう。


「……べ、別にいつかも言ったろ……」

「ほ、ほんとに? 本当のこと言ったの……?」

「っ……! ほ、本当だよ! 本当のこと言ったよ! あっと、えっと、だからその、本当なんだよ!」


 もう顔がまっかっかになった恵くんはそんな日本語になっているのか分からないことを吐き捨て、自分の席へと戻っていった。


「……いくじなし……」









 中学3年生の夏が過ぎた。


 夏休み、皆はどう過ごしたのだろうか。まあきっと勉強だろうな。私も呆然と勉強してたし。


 ただ最近になって、入学当初の県外の学校に行くという目標がブレてきている。


 中3にもなると、周りの私の裸体好きに対する興味も無くなってきた。馬鹿にしてくる人も少なくなったし、なんなら仲の良い女子の中には受け入れてくれている人もいる。


 恵くんの存在もあって、皆と同じ学校でもいいかと思い始めてきたのだ。


 ただ問題がある。勉強のモチベーションが著しく低下したのだ。


 県外の高校に行くんだと息巻いていた頃には夢中で勉強していたのに、別に近くでいいかとなってから目指す高校が無くなってしまった。目標が無いのだから、モチベーションなんて維持できるはずもない。


 幸福とは難儀なものだ。


 とはいえだ。まだ夏だと断言できるほどの暑さを誇る10月上旬。先生達は夏が終わったから一層気を引き締めろとやかましい。


 具体的には、休み時間に絵を描いていると注意されるようになったのだ。


「ちょっと正奈、もう中3の10月なんだから、絵じゃなくて勉強したら?」

「えー? それ喫煙者に禁煙しろって言ってるようなものですよ。無理です」


 小学生の頃の私ならこんな口答えはしなかっただろう。だがあの馬鹿な男子共のせいで性格が捻くれてしまった。


 散々怒られた後あの33歳老け顔帰国子女女教師の服をひん剥いた絵を描いているのも、私ではなくあの時私を馬鹿にした男子共のせいというわけだ。


「やってることエグッ……」


 隣でドン引きしている恵くんも、その視線を他の男子に向けてやるといい。


 それはそれとして。


「……恵くん」

「ん? どした」

「私ね、学校で絵描くのやめようと思ってるの」

「え……⁉︎」


 恵くんは驚愕の後、目尻を落として悲しそうな表情をした。


「……あー、まあ、受験期だしね……どこか行きたい学校あるの?」

「……別に、そういうのじゃない。先生がうるさいから、学校で描くのはやめるだけ。その分家で描く……」


 私の視線は、そこから少しずつ下がっていった。顔も熱くなっていく。


 恵くんも見えているだろう。私が耳まで真っ赤になっている様子が。


「……だから、今日の放課後、ウチに来ない……?」


 震える声を発し、ゆっくりと恵くんの表情を見る。


 彼はただ呆然としていた。真顔で口をポカンと開け、感情を読み取れない声を発する。


「……行きます……」









 ……え……


 やってしまった……


 裸で一緒の掛け布団にくるまる私と恵くん。目の前の恵くんはうっとりとした表情で私を見つめ、荒れた息を整えている。


 私はただ呆然と、彼の顔に触れた。


 どうしよう、中3でするのってよくないよね……? やり方ただしかった? これで妊娠とかしないよね? ミスってたら出産?


 そんな不安が頭によぎるし、ぶっちゃけ全然気持ちよくなかった……


 なのに、この胸に満ちる幸福感と満足感はなんだというのか。


「……恵くん」

「何?」

「私ね、人の裸が好きなの」


 私は恵くんの体に指を走らせながら言葉を紡ぐ。


「小さい頃に大人向けのビデオを見てね……性的な意味じゃないんだけど、それから裸が好きで……その……」

「……そっか。それで絵描いてたの?」

「うん……ずっと陰口言われて……」


 消え入るような私の声。


 恵くんは優しく肩を抱き、包み込んでくれた。


「……大丈夫。オレは否定しないよ」


 気づけば私は喉を震わせ、一筋の涙を流していた。


 顔を恵くんの胸に埋め、私はしばらく泣いていた。









 空の色も変わってきた午後6時頃。


 私は元々着ていた制服ではなく私服を見に纏い、水を飲んでいた。


 並んでベッドに腰掛ける恵くん。しばらく無言で時が過ぎていたが、彼の顔には微笑みが浮かんでいる。チラリと彼へ視線を向けた私もまた微笑んでいるのだろう。


「……正奈、その……大丈夫だった?」

「……正直結構痛かった」

「う……ご、ごめん……」

「いやいや、初めてなんてそんなもんでしょ。私も下手くそだっただろうし……」


 まあ正直、2人の初めては失敗だった。けどそれはそれでいい思い出なのではないだろうか。でもこれは一歩間違えたらかなり拗れるような気もする。


「あの……正奈、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど……」

「ん、何?」


 そろそろお別れかという時間に、恵くんはおずおずと話しかけてきた。


 迷うような、不安がるような、緊張したような表情を浮かべている。


「……実はさ、オレも、その……人に言えないような趣味を持ってて……」

「……う、うん……」

「オレ……指が好きなんだ……」

「指……手の指?」

「うん……細くてしなやかで、繊細な動きをする人の指が好きで……ずっと人に言えなくて、受け入れてくれる人をずっと待ってて……!」


 恵くんの喋る速度が、少しずつ上がってくる。


 恵くんはパッと私の手を取り、持ち上げる。


「……いい……かな……」

「……うん……」

「……ずっと見てた……正奈が絵を描いてるとこ……! 鉛筆を走らせる正奈の手、凄く綺麗だった……!」


 どこか儚げな笑みを浮かべながら、恵くんは私の手を顔に近づけていく。そして小さく口を開け、私の指が生暖かい口内に入る。


 直前の言葉の意味を理解するのと、恵くんの舌が私の指に絡まるのは同時だった。


 背筋にゾワリと気色の悪い感覚が走る。


「嫌ッ、やめて!」


 私は無意識に手を払い、逃げるようにベッドから立ち上がっていた。


 恵くんは身開いた目で私を見つめる。


 私は何がなんだか分からず、嫌な感触の残る指を反対の手で覆う。


 恵くんの目から、光が消えた。


「……ぁ……」


 絶対にやってはいけないことをしてしまったのだと、私はその瞬間に自覚した。









 暗闇の自室。食事と風呂を済ませ、いつもならこれから勉強という時間だ。


 だが私はベッドに仰向けに倒れ込み、ただ呆然とうっすら見える天井を見つめていた。


 ……なんでだろう。なんで私はあんなことをしてしまったんだろう。私を受け入れてくれる人がいたら、相手のことも受け入れると心に決めていたはずなのに。


 結局私はその日一睡も出来ずに日を跨いだ。


 次の日、恵くんは学校に来なかった。


 その次の日も、そのさらに次の日も。


「この時期に不登校……これは良くないぞ……」

「原因とか、親御さんは何か言ってなかったか?」

「あまり詳しくは……ただ、学校を休む前日、帰宅時に凄く辛そうな顔をしていたと……」


 そんな先生達の会話が耳に入った。


「……私のせいだ……」


 自室。ベッドに腰掛け、右手を見つめる。


「あの時私が嫌がったから……」

「私が受け入れてれば……」

「あれ……?」

「私を馬鹿にした男子と一緒じゃん……」

「あいつらと同じことを私はやったんだ……」

「とんだ馬鹿野郎じゃん……」

「私のせいで恵くんは私みたいに苦しむ……」

「違う、不登校なんだ……」

「私より辛いんじゃん……」

「高校に行けないかもしれないし……」

「人と喋れなくなるかもしれない……」

「もしかしたらもう二度と立ち上がれないかもしれない……」

……」









「……正奈」

「何?」

「その、嫌だったらいいんだけど……最初の方の絵も見せてくれない……?」

「え……?」

「ああいや、見られたくないならいいんだけど……」

「……うーん……まあ、恵くんだったらいいよ」

「え、い、いいの?」

「うん。だけど馬鹿にしたらもう絵見せてあげないから」

「そ、それは嫌だな……」

「……はい、これ」

「……」

「……」

「……」

「……ど、どう……?」

「……うーん……よく分かんないや」

「な、なんだよぉ……」

「だって絵ってちゃんと勉強してないと分かんないもん。めっちゃ上手いって思った人の絵とか、プロに見せると下手だって言ったりするし」

「ま、素人目じゃ分かんないかもね」

「わあ厳しい。……でも個人的には、ポーズは全部好きだな」

「ポーズ?」

「たまに2人以上同時に描いてる時あるじゃん? 明らかに恋人同士ではないように見えてもべったりくっついたりしてて……歴史の教科書に載ってそうな感じ」

「それ褒めてるの?」

「良し悪しじゃなくてオレが好きだって話。特にこれ好きだな、これ」









 山積みになったスケッチブック。


 私は特に理由も無くその山を崩し、適当なスケッチブックを手に取った。


 何故こんな行動をとったのか分からない。今の私に自分の趣味を楽しむことなどあってはならない。


 なのに何故か体が止まらない。まるで体が何かを見つけようとしているような……


「……あ……」


 適当なスケッチブックの適当なページ。他のスケッチブックにも山ほど描いてある人の裸体が、そこにもあった。


 だがその絵は、少し特別なものだ。


 今思い出した。この絵は、彼が唯一私の絵について褒めてくれた絵だ。


 それは、男女2人が支え合っている絵だ。どちらかが居なくなればもう1人は倒れてしまう。これを描いた当時の記憶は全く無いが……当時の私は、この2人を幸せそうな表情で描いていた。


「……」


 私は無言で立ち上がった。


 適当な上着を羽織り、家を飛び出す。


 11月も半分を過ぎ、肌寒くなってきた夜をひた走る。


 恵くんの家は知らない。今思うと雑談こそすれど、お互いについてはほとんど何も話さなかった。3年同じクラスでずっと一緒にいて、セックスにまで及んだにしてはお互いのことを知らなすぎる。


 だが、恵くんと私は小学校が違うのは分かっている。だから家は割と離れているだろう。


 それでも走る。


 息が切れても、電灯が無くて真っ暗でも、足が痛くても、泣きそうになっても。


 それでも走る。


 ただ走った。私が傷つけてしまった1人の少年に会うために。


 ただ走った。勉強も、絵も、私のあらゆる時間を犠牲にして。


 気温はドンドン低くなり、手袋をつけていない手が痛くなってくる。同時に色々な店の前にクリスマスに関する旗が並び始めた頃……


 私は彼を見つけた。


「……恵くん‼︎」


 彼はびくりと体を跳ねさせ、恐る恐る振り返る。その目は驚愕に染まっていた。


「え……せ、正奈……」


 彼は目を伏せ、僅かに後ずさった。その表情は怯えているような、悲しんでいるような、はたまた申し訳なさそうな……見ているこっちが辛くなる表情だった。


 心が痛い。彼をそんな表情にしてしまったのは私だから。


 だからこそ、私は言わなくてはならない。


 私は荒れた息を整え、思いっきり肺に空気を溜め、叫んだ。


「恵くんは、気持ち悪い‼︎」

「え……は、はあ⁉︎」

「女の人の指をベロベロ舐め回すのが趣味なんて‼︎ 気持ち悪いに決まってるでしょ‼︎」

「ちょっ! まっ! お前何叫んでんだあ‼︎」

「どうしようもないほど気持ち悪いよ‼︎ でも……気持ち悪いけど、好きだよ‼︎」

「……え……」


 叫びながら頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。目頭が熱くなり、声と共に感情も溢れていく。それでも、私の言葉が途絶えることはない。


「ずっと異端者だった私を受け入れてくれて‼︎ 悪口も、見え透いた慰めも言わないで‼︎ ずっと傍にいてくれた‼︎ だったら少し気持ち悪くても好きになっちゃうよ‼︎」

「まっ、待って! 声デカいって!」

「恵くんは⁉︎」

「え?」

「恵くんは私の裸好き知った時、どう思ったの⁉︎」

「そっ、それは……」

「……」

「……え、エロいと思ったよ‼︎ 裸が好きな女なんてエロいに決まってるだろ‼︎」

「えっ、エロいって……! やっぱり変態じゃん‼︎」

「せ、正奈にだけは言われたくない‼︎ 思い返すとヤった後もベタベタ触ってきてたじゃねえか‼︎」

「うるさい‼︎ このエッチ‼︎ 変態‼︎ スケベ‼︎」

「そ、そっちだって変態だろ‼︎ ビッチ‼︎ 痴女‼︎ 露出狂‼︎」

「露出狂は違あう‼︎」

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

「……はぁ、はぁ、はぁ……」


 幼稚な言葉の応酬に、私達は息を荒げていた。


 私はフラフラと恵くんの元へ歩いていく。


 彼はもう、私から遠ざかろうとはしなかった。


 彼の前までやってくると、私は力が抜けたようにへたり込んでしまった。


「……ごめんなさい……あの時……私のせいで……」

「……違う……オレが弱かったせいだ……こっちこそ、オレのせいで辛い思いさせて……ごめん……」


 腰を落とし、目線を合わせてくれた恵くん。彼もまた、涙を流していた。


 互いに泣きながら立ち上がり、正面から見つめ合う。


 言わなければいけないことは言った。けど、これからどうすればいいのだろうか……


 そんなことを思っていると、恵くんが両手を広げていることに気づく。


 私の足は、自然に動いていた。


 互いの温もりを感じながら抱擁する。もうれっきとした冬の夕方だというのに、寒さを全く感じない。それどころか体も心も、温かいもので包まれている。


 長い抱擁の後、私と恵くんは手を繋いだ。反対の手で目を擦り、2人の家がある方へ向く。


「……舐める?」

「言うなよ。もう脱がねえぞ?」

「それはやだなあ」


 2人で歩き出そうとしたその時。道路の反対側に人がいるのに気がついた。


 小学校の高学年と思われる男子が4人と、雑談中だろう中年のおばさんが3人。全員笑ったり怪訝な顔をしている。


 私と恵くんはチラリと視線を交差させ……


 2人揃って、そいつらに中指を突き立てた。



※※※※※


 あとがき


https://kakuyomu.jp/users/ScandiumNiobium/news/16818093082300597328

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