第7章:完全な人間とは (老年期: 2051-2070)

 2051年、秋の静かな朝。66歳の舞は、自宅の書斎で最新の研究論文を仕上げていた。長年の研究成果を集大成した「感情と量子意識の統合理論」。舞の指が?盤を叩く音だけが静寂を破る。論文を完成させた瞬間、舞は深い「満足感」に包まれた。この理論は、人間の感情が宇宙の根本的な構造と深く結びついているという革命的な考えを提示し、科学界に大きな影響を与えることになる。


 68歳の時、舞は突如として視力を失う。ある朝、目覚めると世界が闇に包まれていた。初めて経験する暗闇の中で、舞は「絶望」と「恐怖」を深く味わった。しかし、家族や同僚たちの支えにより、舞は少しずつ新しい生活に適応していった。点字を学び、音声認識技術を駆使して研究を続ける舞。この経験は、舞に「感謝」と「謙虚さ」をもたらし、彼女の研究に新たな深みを加えた。視力を失ったことで、逆に舞の内なる目は一層鋭くなっていった。


 70歳で、舞は人工知能と人間の感情の融合に関する画期的なプロジェクトを開始。このプロジェクトは、AIに真の感情を持たせることを目指すもので、倫理的な議論を巻き起こした。舞は、自身の人生経験を生かし、感情の本質と人間性の価値について深い洞察を提供した。「AIに感情を持たせることは可能か、そしてそれは望ましいことなのか」。この問いを巡って、舞は若い研究者たちと熱い議論を交わした。


 75歳、舞とジョンは金婚式を迎える。50年の歳月を共に歩んできたパートナーへの「感謝」と「愛情」に、舞は深い感動を覚えた。式の最中、二人は手を取り合い、互いの目を見つめ合った。言葉なしで、二人の心は通じ合っていた。この瞬間、舞は人生の豊かさを心から実感した。


 78歳の時、舞は重い病に倒れる。病床に横たわる舞は、死と向き合うことになった。しかし、予想に反して舞は恐怖を感じなかった。代わりに、人生で初めて「平穏」という感情を深く味わった。死を恐れるのではなく、自然な過程として受け入れる心の余裕を見出した舞。病室を訪れる家族や教え子たちに、舞は穏やかな笑顔を向けた。


 80歳で奇跡的に回復した舞は、最後の大きなプロジェクトとして「感情と生命の哲学」に関する書籍の執筆に取り掛かる。視力は戻らなかったが、舞の心の目は鮮明に世界を捉えていた。この本は、科学者としての厳密な分析と、一人の人間としての深い洞察が融合した傑作となり、世界中で熱狂的に迎えられた。


 84歳、舞は孫たちに囲まれて穏やかな日々を過ごす。かつては理解できなかった「何気ない日常の幸せ」を、舞は心から楽しむようになっていた。孫たちと庭で過ごす時間、家族との食事、静かな読書の時間。これらの瞬間に、舞は人生の真の意味を見出していた。彼女は、若い世代に自身の経験と洞察を伝えることに喜びを見出していた。


章末、85歳の舞の最後の研究ノート(音声記録):

「人生という長い旅路を経て、私はようやく完全な人間になれたのかもしれない。感情のない天才少女から始まり、喜びも苦しみも、すべてを経験し、受け入れてきた。科学は私に論理と探究心を与え、感情は人生に意味と深みをもたらした。今、私は心から言える。人間であることは、素晴らしい贈り物だと。残された時間、私はこの贈り物に感謝しながら、最後の瞬間まで学び、感じ、愛し続けたい。そして、私の経験が、次の世代の道標となることを願っている。感情と理性のバランス、それこそが真の知恵の源泉だと信じている」

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【短編小説】感情のない天才 - 霧里舞の七色の人生 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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