4-6 マリウス・エベール(1)
目の前にある、エベール侯爵の別邸の樫の木でつくられた玄関扉がずいぶん大きく感じたのは気持ちの問題だろう。
今からエベール侯爵と腹の探りあいをして、協力を乞わなければいけない。あの底冷えするような視線に耐えて、どこまで上手く振る舞えるか分からなくて気圧されしていたし、それに今していることは、とても非常識なことだったから。
先触れも出さず、共もつけずに辻馬車でここまで来た。貴婦人としてあるまじき行動だった。
独身男性の住まいに先触れもなく訪れるなんて、とんでもなく非常識だ。しかも私は既婚者。いや未婚でも、一人で訪れるのは問題がある。
貴婦人が一人で家族や伴侶以外の男性に会いに行くのは、とても、とても非常識なのである。貞操や不義を疑われても文句は言えない。
おまけに――もう時刻は午後だが、エンドルフの貴族にとっては寝起きに来客されるようなものだ。
でも、そんな非常識なことをして、彼に会わねばならない理由があった。
ジェラール公爵に監視されているからだ。
使用人達の誰かが彼に買収されているのなら、先触れを出したら誰の元を訪れたか、すぐに知られてしまう。だから先触れを出さずに、いきなり訪問をした。
それと、屋敷の使用人である御者の目を欺く為に、私はかなり思い切ったことをした。
ギゼラの診療所から、富裕層が多く住むサングリエ街の飲食店まで馬車で向かった。
富裕層の女性に人気のお店だとアドリーヌ達から教えてもらった店だった。最近は若い貴族令嬢が訪れるのも増えてきているらしい。
御者には二時間後に迎えに来るように言って、そこで昼食を取るふりをして、給仕にお金を渡し、裏に辻馬車を呼んでもらった。
……どこからこんな知恵を仕入れたかというと、小説である。
母が、本を読むのをあまりいい顔をしなかった理由が今ならわかる気がする。こうやっていらない知識を蓄えていくのだから。
そうして、辻馬車で向かったのが、今、目の前にあるエベール侯爵の別邸だった。
追い返されても、文句は言えないし、もしかしたら本邸にいるのかもしれない。
それ以前に、彼とジェラール公爵が共謀している可能性だってある。
つまり、私の考えたことは、かなり行き当たりばったりだった。
呼び鈴を鳴らし、出てきた従者か従僕らしい若い男性は、怪しむような顔をしたが、名刺を渡すと、壮年の男性がすぐに出てきて、彼は自分がこの別邸の家令であると名乗った。
エベール侯爵は外出中とのことだったが「半刻ほどでお戻りになります。良ければ中でお待ちください」と言われて、お言葉に甘えて、そうさせてもらうことにする。
屋敷の中に招かれ、玄関ホールと続く吹き抜けの広間内装は蕭酒という言葉が相応しいものだった。
壁も天井も白く、神殿風の柱と化粧漆喰の見事さが際立ち、床の磨かれた大理石の流線の模様が美しい。
華美な装飾が無い分、飾られた花器の花々が映えた。
偏見かもしれないが、女性的な趣がある設えだと感じた。
母親であるエベール侯爵夫人の好みなのか、もしくは、恋人の趣味だろうか。
広間を抜け、案内された応接室は、窓が大きくて日当たりが良い。
お茶とお菓子を出されて、一人、応接室に残される。
非常識な訪問だったのに、相応にもてなしをされたのは、ファルネティ伯爵夫人の肩書きのお陰かもしれない。
エベール侯爵が戻るのはまだだ。
多少、行儀が悪いことをしても誰にも見られることはないだろうと手袋を脱いだ。皿に盛られたレモンケーキを一つつまんで立ち上がり室内を見てまわる。
淡いグレーと、薄い水色を基調にした内装は、今の自室よりも好ましい設えで、今度、エベール侯爵夫人にどこの内装業者に頼んだのか聞いてみようと思った。
行儀悪く、立ったままケーキを食べながら、飾られた調度品を見ていると、マントルピースの上の壁に飾られた風景画が気になり、そばに近寄ってみる。
どこかで見たことのある絵のような気がしたが、それもそのはずで、描かれていたのは、リージュにあるライラックの丘の風景。
丘からリージュのシンボルでもある神殿の四本の尖塔を見下ろす風景、北部の短い夏の景色を描いた絵画だった。
アデライードと私はこの丘によく遊びにいった。
この丘を越えたところにある、ブスケさんの林檎園。いなくなった子犬を探しにいったルイーネの森。
郷愁に駆られて絵画を見ていると、慌ただしい足音が近づいてきたかと思うと扉が開いて、中に入ってきたエベール侯爵と目が合った。
彼は息を弾ませていて、髪も少し乱れている。手には騎馬鞭を持ったままで、なぜか、信じられないものを見たような表情を浮かべていた。
私は、彼がかなり早く帰ってきたことと、あの凍ったような彼が表情らしい表情を浮かべたことに驚いて、数秒見つめあったまま固まった。
自分が食べかけのケーキをつまんだままなことに気づいて思わず残りのケーキを口の中に押し込む。
そして、つまみ食いがばれた子供みたいなことをしてしまったのが恥ずかしくて、口元を手で覆った。
私がケーキを飲み込んでいる間も、エベール侯爵は、まだ驚いたような表情をしていて顔に熱が集まった。きっと茹でた海老みたいに真っ赤になっていたに違いない。
非常識な訪問、おまけに、こんな行儀の悪いところまで見られた。印象は最悪だ。
ぎゅっとつぶった目蓋を恐る恐るあげると、彼は目元を和らげて、笑顔のような表情を浮かべていた。これは、幻覚なのかな、と思った。
彼は部屋に入ると、鞭を置いてテーブルにあるお茶の入ったティーカップを持って私にそれを差しだす。
恥ずかしかったが、慌ててケーキを口に詰め込んだので、その気遣いは有り難かった。
ぬるくなったお茶を喉に流し込んで、見上げた彼の顔は呆れてもいなかったし、冷たい表情でもなくて、唇も僅かに口角が上がっているようにも見える。
何か話さなければいけないと「早いお帰りでしたね」と言うと、彼の端麗な顔は、はっきりと微笑みと呼べる表情を浮かべた。――まるで石の彫像に命が宿ったかのようで、その変化は、なんというか、私の興味を引いた。
じっと彼の顔を見ていると、次第に微笑みは消えて感情の読めない冷たいものに戻っていった。
期待して落胆したような、私を誰かと見間違えて誤りに気付いたような、そんな変化だった。
それを少し残念に思いながらも、頭を冷やすには充分で、ここにきた目的を思い出させた。
「先触れもなく、非常識な訪問をして申し訳ありません」
詰まることなく、喋ることが出来て内心ほっとした。不思議だったが、エベール侯爵を前にそこまで緊張していなかった。
「……パリスは、妻が共もつけずにここへ来るのを知っているのか?」
彼は少し警戒するように硬い声で言った。
「いいえ、知りません。ですが、花束をいただいて浮かれて、お邪魔したのではありませんし、エベール侯爵の名誉を汚すつもりもございません。お力添えを頂きたくて伺いました」
彼は安心したのか、少しだけ肩から力を抜いた。
「……大したもてなしも出来ないが、昼食を一緒にどうだろう。そこで話しを伺おう」
朝はいつも通りスープだけだったので、お腹は空いていた。
それで、ありがたくご相伴に預かることにしたのだが……。
グラスに注がれた白葡萄酒は、家令に銘柄まで説明されたので良いものらしく、香りも味も申し分ない。
銀食器は細かな細工は見事だし、皿も色鮮やかな絵付けと金の装飾が美しいが、問題は食器の上にのったものだ。
黒く焦げた腸詰めと、茶色くなるまでしつこく煮た野菜類……。
(なんですか!これは!黒い!茶色い!ちっとも美味しそうじゃない!)
料理をしたことのない人が、料理らしきことを真似て作ったようなものだった。
これは、無礼な訪問をしたことへの嫌がらせなのかと思ったが、エベール侯爵も同じものが皿にのっていたし、彼の腸詰めは私の目の前にあるものより焦げていて炭のようになっている。給仕をする家令は、困り顔で、私の様子をとても気にしていた。
エベール侯爵はそんなことは気にもせず平然としていて、炭化した腸詰めにナイフを入れ、かろうじて無事だった中の部分を優雅な仕草で食べていた。
この食堂に置かれたテーブルは、ファルネティ家のような無駄に長いテーブルではなく、二人で使うにはちょうど良い大きさで、お互いの姿が良く見えたのだ。
出されたものに口をつけないのは無礼だ。観念して皿に盛られたものをおそるおそる口に運んだ。
野菜はぐちゃぐちゃで水っぽくて味がしないし、腸詰めはいやにしょっぱくて炭の味がした。唯一の救いはパンだけは美味しかった。
「パンが好きなの?」
パンばかり口に運ぶ私を不思議そうに彼が眺めた。
「……ええ、とても美味しいです」
「これは本邸の料理人が焼いたものだから旨いと思うよ。この屋敷にいる使用人はパンが焼けない」
「……でしょうね」
黒焦げにしか腸詰めを焼けない人がパンを焼けるはずはない。いくら別邸であっても、こんな腕前の人が料理人であることが驚きだった。
もしかして、私が恵まれていただけで、エンドルフの料理人の腕はこうも差があるのだろうか?
今まで、本当に運が良かったのだなと、びちょびちょの野菜を胃におさめた。
「別邸には料理人はいないんだ」
驚いて「えっ!」と声を出してしまった。
「従僕が調理している。これでも少しはまともになった方だ。前は黒焦げなのに中身は生焼けだった。今日は中まで火が通っている」
彼は少し自慢気な様子で言ったので、私は脱力してしまった。家令の男性は、そんな主人に疲れた顔を向けている。
思い返してみれば、この屋敷で見た使用人は今部屋にいる家令と、玄関扉を開けた若い従僕だけだった。メイドの一人や二人すれ違ってもいいはずだが、彼ら以外の使用人を見ていない。
「つかぬことを伺いますが、こちらのお屋敷では使用人は何人いるんですか?」
「七……いや六人」
使用人を満足に雇えないほど、エベール家は困窮しているのだろうか?いや、そんなはずはない。ファルネティ伯爵から、あのクンデルを買えるはずはないだろうから。
部屋がいくつあるのかはわからないが、侯爵一人が住むにしても、少なくとも倍以上の数は必要だろう。
「人が多いのは煩わしいだろう?たまには静かに過ごしたいこともあるんだ」
おそらく、私が戸惑うような顔をしていたからだろう。彼はそう説明した。
「そうですね……そういうこともあります。ですが、ご不便……ではありませんか?」
「事は足りるよ。従僕が作れないものは本邸から持ってこさせればいいし」
食事を見る限り不便そうだが、彼は食事に執着しない質のようだ。主人がこうでは、使用人達はいったい何を食べているのだろうと少し心配になり、そっと家令を窺ったが、彼の心の内は表情からは読み取れなかった。
私がそんな心配している間、彼は自分の皿のものを炭だけ残して平らげて、口元をナフキンで拭った。
「そろそろ用件を聞いても?」
まだ家令が部屋にいたので、私はそれが気になったが、エベール侯爵は気にする様子がなかった。
私は仕方なく一通の手紙を出した。
「叔父に、この手紙を出したいんです。なるべく早急に」
彼は既に封をしてあるそれを一瞥した。
「紋章がファルネティ家のものじゃない」
蝋封には、ファルネティ家の孔雀の紋章ではなく、実家のデュシャン家の紋章、鷹の印璽を押していた。
本来なら、私はファルネティ家の紋章を使わなければいけなかったが、これはいつもの手紙ではない。叔父との決め事で緊急の件を知らせる場合の連絡方法だった。
私が答えずにいると、彼はそのことは追及せず手紙から視線を外した。
「手紙ならファルネティ家からでも出せるだろう。わざわざ私を頼る必要はないはずだ」
「ある方の間諜が屋敷にいるようなので、その方に悟られず、この手紙を叔父の元に届けたいのです」
彼は柳眉をひそめた。家令を呼ぶと何かを耳打ちし、家令は頷くと部屋を出ていく。
足音が遠ざかってから、彼は冷たい声で尋ねた。
「ある方って誰?」
「ジェラール公爵です」
彼は目を伏せ、考えるように俯いたがすぐに面をあげ、探るような眼差しをこちら向けた。
「なぜ、ジェラール公爵の間諜がいると分かった?」
「公爵が、ファルネティ家の内情に詳しかったからです」
「それだけで決めつけたのか?噂話をかき集めれば、それなりのことは分かる」
「公爵は初対面であるにも関わらず、私が誰なのか知っていました。公爵は特徴を知っていたから分かったのだと言っていましたが、以前の私の特徴をご存知ですよね?あのみっともない姿が、私の特徴でした。
今のような装いで催しに出たのは初めてだったにも関わらず、彼は私の特徴を知っていたから誰か分かったと言ったんです。知り合いの貴婦人たちは、名乗るまで私が誰か分からなかったのに。
それに、私の侍女が劣等感まで噂で知ることが出来るでしょうか」
「それはパリスの妾になった侍女?」
「そうです。リュリー……夫の元妾です。彼女がルゴフ子爵主催の狩猟でジェラール公爵の愛人に手を上げたのも、公爵が仕掛けたことだそうです。
愛人を使ってリュリーの劣等感を煽り、怒らせて恥をかかせたのだと彼自身が言いました。私への贈り物のつもりだったそうです」
「間諜はともかく、邪魔な妾を彼のお陰で排除できたのなら、感謝こそすれ邪険に思うことはないはずだ」
「いらない贈り物をもらって感謝する人間がいるでしょうか。それに、公爵のせいで計画が狂ってしまいました」
「計画?」
「もっと妻にふさわしい女性を夫に会わせて、リュリーをお役御免にする予定でした。公爵のせいで計画が前倒しになってしまったのです」
「それに何の問題が?どうせ追い出すつもりだったのなら支障はないはずだ」
「いいえ、あります。夫は激怒して、後先考えずリュリーを屋敷から追い出そうとしました。なんとか当初の計画通り穏便に屋敷から出すことはできましたが、他のことが全く進んでないんです。……それに公爵のせいで、夫が私を妻として扱おうとしてきました」
彼は不可思議なものでも見るような顔でこちらを見ていた。
しまった。ここまで話すべきではないと後悔したが、口にした言葉は取り消せない。
「……兎に角、ジェラール公爵がしたことは、全て余計なことだったんです」
「すまない。私がしたことも君の計画とやらを狂わせた原因かもしれない」
すまないと言ったわりに、その涼しい顔は、悪いと思っているようには見えなかった。
序盤で消える脇役ですが、主人公と再会するために奮闘します 加藤八式 @kato8type
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