●「まがつ神」関して

・月乃の生家は薬屋の「おぼろ堂」。ぼうっと霞んだ春の朧月のように、病による痛みや苦しみを和らげる薬をという意味で名付けたそうだが、どことなく、おどろおどろしい雰囲気をはらんだ名前ではある(…と思うのは私だけだろうか?)。


・早撃ちの描写 

「まがつ神」の中で描いた銀作の早撃ち描写について、「いやお前コレ……どこがリアル……?」と思われるかもしれないんですが、実際におっそろしい早撃ちの腕を持っていたと言われるマタギが存在します。それが“重ね撃ち竹五郎”の異名を持つ、村田竹五郎。銀作と同時代の幕末~明治にかけて活躍したといわれる名マタギで、撃っては寝ころんで弾丸を詰め、また撃っては寝ころんで詰め……という射撃が、連発銃を撃つように速かったと言われています。

 

 ※参考文献:戸川幸夫「マタギ 日本の伝統狩人探訪記」ヤマケイ文庫



・「目と目が合うということ」

「見る」という言葉にはもともと「結婚する」という意味がありました。自分が相手を見て、相手もまた自分を見る。それによって恋愛関係が成立する。

 異性の姿を見ることが難しかった時代だからこそ生まれた言葉かもしれませんが、こういった意識は現代にも残っているように思います。「意中の人に振り向いて欲しい」というのも、相手が振り向いて自分を「見る」ことを望んでいるわけですから。

 しかし最近は、自分が相手を「見つめる」のはよくても、相手が自分に「振り向く」ことは望まないという人が増えているように思います。例えば「推しに認知されたくない」という心理。理由は人それぞれでしょうが、中には「自分を知られて失望されるのが怖い」という気持ちからという人もいるのではないかと思います。

「ただ一対の心の目になって、彼女を見守りたい」……『まがつ神』の中でそう願った「彼」の心の内にも、自分の存在を肯定できない苦しみがありました。


・おこそずきんちゃんシリーズには東西の色々な童話や昔話のオマージュを取り入れているんですが、「まがつ神」は特にそれが多いです。例えば終章に登場する七つの星(金平糖)と銀の柄杓はどんな物語の暗喩かお気づきになった方はいるでしょうか?

 終章の七つの星と 兎児爺の銀の柄杓は 北斗七星を表しており、トルストイの童話「七つの星」のオマージュになっています。「七つの星」では、干ばつに苦しむ村の少女が、病気の母親のため、柄杓を手に水を探しに行きます。彼女は手に入れた水を、自分は一口も口にしないまま、他の人に分け与えます。その心に応えるように柄杓からは水が滾々と溢れ、最後には天に昇って北斗七星となる……献身と利他の心の美しさを描いた物語です。

 柄杓は月乃を想う庄九郎の献身と自己犠牲の象徴です。彼は初め、自分がそこから水を飲むのを固辞しますが、物語の途中(十八話)で疑念と焦燥に憑りつかれた際には、柄杓を使ってがぶがぶと水を飲みます。しかし最後には、再び月乃への純粋な想いを取り戻し、その心に応えて、夢の中の柄杓には水が……月乃の涙が溢れます。

 また、北斗七星が中国で神格化されたのが北斗星君で、こちらは人の死・寿命を司る神。空から降り注ぐ七つの星は、作中で犠牲となった「七人」でもあり、それらが「流れる」ということは、囚われていた彼らの魂がきちんと死を迎えることができたという事を表しています。月乃もまた、歪な永遠から解放され、「寿命」を取り戻すことによって、再び「めぐり」の世界に戻ることができました。そのためには、やはり庄九郎の存在は不可欠なものでした。


・「まがつ神」の表紙と”七人”の名前について。

 月乃の周りに配された8つの薔薇(月季花)の内、色の薄い7つは、まがつ神に囚われていた7人、色が濃い1つは庄九郎を表しています。彼もまた、月乃に執着して まがつ神に囚われかけた者の一人であり、ただし一人だけ生者なので鮮明に描いています。月乃の胸から花開いているのは、彼が月乃にとって忘れられない存在になることの暗示。

 青白く光る手骨は、月乃の祖父・甚左衛門のもの。孫娘を自身の「所有物」としか見ておらず、おのが利のために、まがつ神に差し出すことに何のためらいもない。

 で、肝心のまがつ神はというと……あの、あれです。後ろで白っぽく発光している、ゆる~くくねくねしてるアレ。仕方がなかったんです。本当は蛇の骨を描こうとしたんだけど、画面がうるさくなりすぎるし、なによりめんどくs……ゴフンゴフン、だったので;;


 ちなみに、まがつ神に囚われていた七人。名前に共通点があるよと以前言ってたんですが、全員「蛇」に関係する名前を持っています。


*ほおづき堂の加賀地真右衛門 

… 酸漿(ホオズキ)の古名を輝血(カガチ)といい、蛇の赤い目は酸漿によく喩えられることから、「カガチ(カガシ)」は蛇の異称にもなっている。

*おぼろ堂の手代 長吉 … 蛇の異称「長虫」から

*おぼろ堂の女中 お縞 … 日本固有の蛇の一種「シマヘビ」から(ちょっと苦しい…)

*薬草売りの巳之介 … 「巳」は蛇の形から生まれた象形文字で、へび年を表す。

*遊女 くちなわ … 「くちなわ」も蛇の異称

*紺屋の息子 水太 … 蛇に似た、水を司る想像上の動物「蛟(みずち)」から

*盗賊 蟒蛇五平 … 蟒蛇(うわばみ)は大蛇の異称 


 今思うと、お縞は「おみわ」とかでもよかったかも。響きが可愛いし、三輪山の大神神社は蛇神で有名だし。色々考えたけど、女中さんだからあんまり派手すぎない名前のほうがいいなと思ったんですよね。



☆七人が囚われていたもの

 叢雲に喰われた七人は、その魂も囚われて、「輪廻の環」というめぐりに戻れなかった……というだけでは、ありません。七人は魂だけでなく、その「心」もまた囚われています。

 二十話で「不意に彼らの声音が変わった」シーンを描いていますが、これはトラウマによるフラッシュバックを表しています。七人はそれぞれ、己の命が奪われる瞬間に立ち戻っているのです。

 あまりにも強く刻まれた恐怖によって、何度でも過去の一点に心が立ち返ってしまう。前に進めなくなってしまう。これもまた生者のめぐりから外れること。苦しく、せつなく、さみしいことだと思います。


☆十九話で、銀作が水太に「動くな!」と怒鳴っていますが、これは水太を仕留めるためではなく、むしろ傷つけないようにするため。誤って水太本人の魂に弾を当ててしまうと、彼の魂を壊してしまうことになる。そうならないよう、あくまで水太と叢雲の魂のつなぎ目を確実に撃ち抜くために「動くな!」と指示しています。


・1話の庄九郎がお月ちゃんを助けるシーン。最初は「憧れのお嬢さんに触れてしまった庄九郎が恐縮し、池の中で土下座して頭を水の中につっこみブクブクやる」という描写を入れようかと思ったが、コミカルさがノイズになるなと思ってやめた。あと庄九郎までそれをしてしまうと、女の子の前でわたわたする男ばっかりになっちゃうなと思ったので、内心はどうか知らないけど、外見はあくまで泰然とさせておくことにしました。結果的に「落ち着いていて、少し影のある少年」というイメージが守れてよかったと思います。


・「おこそずきんちゃん」は時代柄、筋肉質な男性キャラが多いんですが、庄九郎はやや細身なイメージ。

 あと公式イケメン。原作でも現パロでも歩いてたらめちゃくちゃ声かけられるけど、ALL聞こえないフリで足早に通り過ぎます。あんまり周りできゃいきゃい言われるのが好きじゃない。

 お月ちゃんにはいつも丁寧なので彼女には気づかれてないけど、基本、尊敬する相手以外には塩対応(後輩は別)だし、割と口も悪い。


・商家の奉公人って本当は「○松」「○吉」「○七」など 呼び名が決まっているものらしい(○に本名の一字を入れる)。が、庄九郎の場合は他のキャラと差別化したかったのもあり、本名のまま呼ばせることにしました。なんとなく雅な響きの名前だなと思う。


☆……実は庄九郎を「庄吉」にすることも一時期考えたんですが、「幸吉」と響きが似ていて絶対間違えると思ったのでやめました。やめて良かったと思う。



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「気まぐれ創作語り」まとめ(※2024年7月27日現在) 伽藍 朱 @akinokonasu

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