第27話:扇動
朝靄が立ち込める青墨の街。雨上がりの潤んだ空気が、昨夜の激しい出来事を静かに包み込んでいた。
盧燕と馬刃は、人気のない路地裏の片隅で身を寄せ合い、周紅梅から入手した書類に目を通していた。二人の表情は、次第に驚きと怒りに染まっていく。
「これは...」盧燕が息を呑む。彼女の細い指が、紙面を震えながらなぞっていく。
馬刃は無言で頷き、眉間にしわを寄せた。書類には、青墨の権力者たちによる詳細な不正の証拠が克明に記されていた。
許貞の人身売買のネットワーク。張元豪の贈収賄の記録。馮灼による予算水増しと横領の証拠。そして、これらの不正を法的に認める劉正定。
青墨の闇は、想像以上に深く、広がっていた。
しかし、趙安総督に関する直接的な証拠は見当たらない。二人は顔を見合わせ、眉をひそめた。
「これをどうすべきか...」
盧燕が呟く。彼女の声には、困惑と焦りが混じっていた。
馬刃は周囲を警戒しながら、低い声で答えた。
「楊家に直接持ち込むには危険すぎる。かといって、学生たちに渡せば...」
「短絡的に利用されて、逆に証拠が埋もれてしまう可能性もある」
盧燕が言葉を継いだ。
二人は一瞬沈黙し、朝もやの中で思案に耽った。
やがて馬刃が静かに提案する。彼の目が鋭く光り、声は低く、しかし確かな響きを持っていた。
「まずは安全な場所に移し、複製を作りましょう」馬刃は慎重に言葉を選びながら続けた。「その上で、小報や評書に少しずつ情報を流すのはどうでしょうか」
盧燕は興味深そうに眉を上げ、馬刃の言葉に耳を傾けた。
「民衆の間には既に漠然とした不信感が広がっています」馬刃は説明を続けた。その表情には長年の経験から得た確信が浮かんでいた。「しかし、それはまだ明確な形を持っていない。我々がこの情報を巧みに流すことで、その不信感に輪郭を与えることができるのです」
盧燕は頷きながら、「なるほど」と呟いた。彼女の目に理解の色が浮かぶ。
「例えば、茶館で囁かれる噂話や、市場の片隅で交わされる会話の中に、少しずつ真実を織り交ぜていく」馬刃の声には熱が帯びていた。「人々は自分で真実に気づいたと思い込むでしょう。そうすれば、単なる噂ではなく、確信へと変わっていくのです」
盧燕は感心したように頷いた。「そうすれば、権力者たちの圧力にも屈しない、強固な民意が形成されていく...」
「そうです」馬刃は満足げに微笑んだ。「我々の手を離れた後も、真実は人々の間で生き続け、広がっていく。それこそが、最も強力な武器になるのです」
馬刃は一瞬言葉を切り、周囲を警戒するように目を向けてから、さらに声を潜めて続けた。「そして、忘れてはならないのが学生たちの存在です」
盧燕は興味深そうに眉を寄せた。
「学生たち?」
馬刃は頷き、目を細めた。「そうです。民衆の間に不信の種が蒔かれ、真実への渇望が芽生えたとき、それに火をつけるのは間違いなく学生たちでしょう」
「なるほど」盧燕の顔に理解の色が浮かぶ。「彼らの情熱と行動力が、民意をさらに強固なものにする...」
「まさにその通りです」馬刃は熱を込めて言った。「学生たちは、我々が広めた真実の火に油を注ぐ存在となる。彼らの若さと情熱が、民衆の漠然とした不満を明確な抗議へと変えていくでしょう」
盧燕は頷き、さらに次の行動を決意する。彼女の目に決意の光が宿る。
「周紅梅の書類に書かれていた青泰商会のことですが...」
盧燕は声を潜めて言った。
「塩や茶葉の密売を行っているとありました。私はそこに潜入してみるべきだと思います。これらの商品は日用品。定期的にどこかで密売が行われているはずです」
彼女の声には力強さが戻っていた。
「それに、馮灼との繋がりも深いようですし、さらなる証拠が見つかるかもしれません」
盧燕は一瞬言葉を切り、目を輝かせながら続けた。
「そして、これはただの証拠集めにとどまりません」
馬刃は興味深そうに盧燕を見つめた。
「なるほど、それも市中に広めるということか?」
「はい、青泰商会と馮灼の不正を白日の下に晒すのです」
盧燕の声は熱を帯びていた。
「例えば、彼らの密売の現場を押さえる。あるいは、不正な帳簿を見つけ出す。それを公開するんです」
馬刃の目が大きく見開かれた。
「他の情報と合わせていい効果が得られるな...」
「一度そういった噂が広まれば、もう止められません」
盧燕は続けた。
「商人たちの間で、市場で、茶屋で、その話題で持ちきりになるでしょう。民衆の怒りと不信感は一気に高まる」
「そして、その怒りが馮灼だけでなく、彼を庇護する総督府全体に向けられる」
馬刃が言葉を継いだ。
盧燕は力強く頷いた。
「そうです。これは単なる証拠集めではなく、民意を煽る絶好の機会になるのです」
二人は互いの目を見つめ、静かに頷き合った。彼らの計画が、青墨の権力構造を根底から揺るがす可能性を秘めていることを、二人は痛感していた。朝もやの中、彼らの決意はさらに強固なものとなっていった。
馬刃は眉をひそめ、慎重に考えを巡らせた。
「青泰商会か...確かに重要な手がかりになりそうだ」彼は顎に手を当てながら言った。「しかし、簡単には潜入できないだろう。何か繋がりはあるか?」
盧燕は少し困ったように首を傾げた。
「直接の繋がりは...ないですね」
馬刃はしばらく黙考した後、ふと顔を上げた。
「私の知り合いに、青泰商会と取引のある商人がいる。彼を通じて紹介してもらえるかもしれない」
盧燕の顔が明るくなる。
「それは助かります!」
「ただし」馬刃は真剣な表情で付け加えた。「慎重に行動しなければならない。怪しまれれば、これまでの努力が水の泡だ」
盧燕は頷いた。
「分かっています。細心の注意を払います」
馬刃は満足げに頷いた。
「よし、では私から手引きしよう。まずは...」
二人は頭を寄せ合い、潜入計画の詳細を詰め始めた。朝もやの中、彼らの姿は決意に満ちていた。
一方、馬刃は周紅梅の身の安全を案じ、彼女との接触を図ることにした。「紅梅閣には私が行きましょう。周紅梅の安全確保が最優先です」
二人は互いに頷き合い、それぞれの任務に向かって別れた。朝日が徐々に街を照らし始め、彼らの影が長く伸びていく。
その頃、夜鴉(呉霜)は趙安のもとで傷の手当てを受けていた。総督邸の奥深い一室。豪華な調度品に囲まれながら、呉霜は苦痛に顔をゆがめていた。
「くっ...」呉霜の表情に苦痛の色が浮かぶ。盧燕につけられた左腕の傷は思った以上に深く、指先が震えている。
趙安は呉霜の傷を見つめながら、ゆっくりと包帯を巻いていく。その手つきは意外なほど優しい。
「お前との出会いを覚えているか」趙安の声は低く、懐かしむような響きを帯びていた。
呉霜は黙って頷いた。その瞳に、遠い日の記憶が蘇る。
幼い頃、路地裏で飢えと寒さに震えていた呉霜を拾い上げたのは趙安だった。当時、若き官僚だった趙安は、呉霜の鋭い眼差しと生存本能に可能性を見出したのだ。
「お前には才能がある」趙安はそう言って、呉霜を青墨の警備特務隊に入れた。
厳しい訓練の日々が始まった。呉霜は、体術から諜報活動、変装術、毒や薬の知識まで、ありとあらゆる技術を貪欲に吸収していった。その姿を見守る趙安の目には、わが子を見るような愛情が宿っていた。
やがて呉霜は「夜鴉」の異名を取るほどの実力者となる。趙安は彼の力を巧みに利用し始めた。最初は些細な情報収集から始まり、やがては厄介な政敵の排除、さらには青墨の裏社会を操る重要な任務へと発展していった。
「呉霜、お前にしか任せられない仕事がある」
そう言って趙安が呉霜に任務を与えるたびに、呉霜は心の奥底で誇らしさを感じていた。趙安の信頼は、彼にとってこの世で最も価値あるものだったのだ。
二人は次第に、まるで親子のような強い絆で結ばれていった。そして共に、青墨の安定には強権による支配が必要だという信念を育んでいった。
「民は愚かだ。彼らには明確な力で示さねばならない」
趙安のその言葉を、呉霜は心に深く刻み込んだ。
今、傷を負いながらも、呉霜の心には揺るぎない忠誠心が宿っていた。趙安との年月が、彼の存在意義そのものとなっていたのだ。
趙安が優しく呉霜の頭を撫でる。その仕草は、まるで幼い子供をあやすかのようだった。「休んでいろ。お前がいなければ、私の統治は成り立たない」
呉霜は黙って頷いたが、その瞳の奥に一瞬、何かが揺らいだように見えた。
朝日が総督邸の窓から差し込み、二人の影を壁に映し出す。その影は、まるで運命に縛られたかのように重なり合っていた。
青墨の街に新たな一日が始まろうとしていた。表面上は平穏な日常が流れていくが、その下では、激しい闘争の火種が静かに燃え続けていた。
次の更新予定
毎週 水曜日 23:00 予定は変更される可能性があります
異世界奇譚 ―鳳凰の旅路― 雪村ことは @kotoha_yukimura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。異世界奇譚 ―鳳凰の旅路―の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます