第26話:激情

紅梅閣の二階、周紅梅の部屋は今や戦場と化していた。華やかな赤と金の壁紙が、その激しい闘いの様子を皮肉にも彩っている。


盧燕は首筋の傷を押さえながら、夜鴉と向き合っていた。彼女の瞳には怒りの炎が宿り、普段の柔和な表情は影を潜めている。血走った目には、裂けんばかりの激情が満ちていた。


「なぜだ。なぜ琳華を襲った」


盧燕の声は低く、抑えきれない怒りを滲ませていた。その声には、友への深い愛情と、加害者への憎しみが混ざり合っていた。


夜鴉は無表情のまま、黒い装束に身を包んだ姿勢を崩さない。彼の姿は、まるで夜の闇そのものが人の形を取ったかのようだった。


「琳華?あの少女か。任務だ。個人的な感情など、ない」


彼の声は冷たく、感情の欠片も感じられなかった。その言葉は、氷の刃のように盧燕の心を切り裂いた。


その瞬間、盧燕の怒りは頂点に達した。彼女は短剣を構え、一瞬で夜鴉に向かって跳躍する。その動きは風のように素早く、部屋の空気を切り裂いていった。盧燕の長い袖が宙を舞い、その中から鋭い短剣が閃いた。


夜鴉は驚きの声を漏らす。盧燕の動きは、彼の予想を遥かに上回る速さだった。


「まさか...」


部屋の中央で、二人の影が交錯する。短剣と暗器がぶつかり合い、火花が散る。周紅梅は息を呑んで、この予想外の事態を見守っていた。彼女の艶やかな赤い衣装が、緊張で強張った体を包んでいる。


盧燕は更に攻撃を仕掛ける。彼女の動きには無駄がなく、まるで舞うかのように夜鴉の攻撃をかわし攻撃をする。しかし、夜鴉も並の相手ではない。彼の動きは影のように素早く、盧燕の攻撃を巧みにかわしながら、反撃の機会を窺っている。黒い装束が部屋の闇と一体化し、その姿を捉えるのが難しい。


激しい戦いの中、周紅梅は机の引き出しから何かを取り出そうとしていた。その動きに気づいた夜鴉が、一瞬だけ周紅梅に目を向ける。彼女の手には、小さな小刀が握られていた。


その僅かな隙を、盧燕は見逃さなかった。


「はっ!」


鋭い掛け声と共に、盧燕の短剣が夜鴉の腕を捉えた。黒い装束が裂け、赤い血が一筋の線となり壁紙に模様を作った。月明かりに照らされ、その傷口が生々しく浮かび上がる。


「くっ...」


夜鴉は痛みに顔をしかめながらも、後退する。彼の目に、初めて迷いの色が浮かぶ。額には汗が滲み、呼吸が乱れ始めていた。


その時、外から周紅梅の部屋の異常を感じた者たちの物音が聞こえ始める。廊下を駆ける足音と、混乱した声が近づいてくる。


盧燕と夜鴉は一瞬、視線を交わす。互いの瞳に、この状況を打開しなければならないという共通の理解が浮かぶ。


突如、部屋の窓が大きく開かれ、夜の闇に夜鴉が飛び出していき、彼の黒い姿が、青墨の夜景に溶け込んでいった。


盧燕は周紅梅に近寄ると先ほど渡そうとしていた書類を受け取り懐に入れる。「ありがとう」と小声で告げる。

盧燕が夜鴉が飛び出していった窓から後を追うように出ていこうとした時、周紅梅が盧燕を呼び止めた。


「あの男の名前は呉霜ごそう。趙総督は夜鴉と呼んでいます。彼を見つけて口止めしてください。でないと私の立場が...」


盧燕はその言葉に頷くと、彼女もまた夜の闇に消えていった。


残された周紅梅は、開いたままの窓を見つめながら、深いため息をつく。彼女の表情には、明らかな動揺が見てとれた。手に持った小刀は震え、その瞳には、これから始まる嵐への不安と、前に進み始めた自分に待ち受ける未来への恐怖が浮かんでいた。


一方、符陽は盧燕との会話を終え青墨学府に戻っていた。彼は学府の薄暗い廊下を歩いている。彼の足取りは慎重だが、顔は赤く興奮に満ちている。心臓の鼓動が早くなり、手のひらには汗が滲んでいた。


地下図書室に辿り着くと、符陽は重い扉をそっと開ける。部屋に足を踏み入れた瞬間、興奮気味だった符陽を圧倒するほどの熱気と緊張感が彼を包み込んだ。


薄暗い灯りの中、十数名の学生たちが集まっていた。彼らの眼差しには、社会を変えようという強い意志が宿っている。その目は、まるで闇夜に輝く星のように光り輝いていた。


符陽は驚き、この熱狂の原因を確認しようと中心へ歩みを進める。彼の足音が、静寂を破る唯一の音となっていた。


中央には一人の中年男性が立っていた。彼の服装から、総督府の官僚であることが窺える。灰色の官服は質素ながらも整然としており、その佇まいには威厳が感じられた。その横にいるのは日々符陽とこの青墨の未来を語りあう同志、韓智風だった。


韓智風が符陽に気がつくと語り掛けた。彼の声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。


「おぉ、符陽もどったか!彼は総督府の中堅官僚で、上層部の不正を暴くために協力いただいた。これからは彼と協力し、より一層総督府の不正を糾弾していこう!」


仲間たちは符陽と韓智風に近づき、韓智風を見つめ、その後ほかの仲間たちの方へ振り返り、続けて語りかけた。


「韓、私も今日、新たな協力者を得た。彼女の力を借りれば、さらに多くの情報が手に入るはずだ」


その言葉に、部屋中が興奮に包まれる。学生たちの間で、小さなざわめきが起こった。それは、まるで風に揺れる若葉のように、部屋中に広がっていった。


中央に立つ中年男性が符陽の前に出て自己紹介を始めた。


「私の名は柴耀さいよう、戸部の中堅官僚だ。」


彼は40代半ばで、やや白髪の混じった短髪に、知的な印象を与える眼鏡をかけている。彼の声色には緊張と決意が入り混じっている。深いしわが刻まれた額からは、長年の苦悩が読み取れた。


符陽に自己紹介を終えると、群衆に振り返り語りかけた。


「諸君」柴耀の声は低く、しかし力強かった。「私は長年、総督府の腐敗を目の当たりにしてきた。趙総督の下で、どれほど多くの不正が行われているか...もはや見て見ぬふりをすることはできない」


彼は深く息を吐き、続けた。その息遣いには、長年抱えてきた苦悩が滲んでいた。


「私には娘がいる。私の娘や君たちのような若者のために、この青墨を...いや、この翠玉朝を変えなければならない」


柴耀の言葉に、学生たちの目が輝きを増す。彼らは、ついに体制の内部から協力者を得たことの意味を理解し始めていた。その目には、希望の光が宿っていた。


符陽は柴耀に近づき、彼の肩に手を置いた。その手には、若さゆえの熱さが感じられた。


「柴様、あなたの勇気に感謝します。共に、この腐敗した体制を打ち破りましょう」


部屋の空気が一段と熱を帯びる。学生たちの間から、小さな拍手が起こり、それが次第に大きくなっていく。その音は、まるで雷鳴のように部屋中に響き渡った。


しかし、韓智風の表情には僅かな翳りが見えた。彼は柴耀をじっと見つめながら、何かを考えているようだった。その眼差しには、複雑な思いが宿っていた。


「これで、私たちにも勝機が見えてきた」


ある学生が興奮気味に呟く。その声には、若さゆえの希望と、わずかな不安が混ざっていた。


「ああ、でも慎重に進めないとな」


別の学生が諭すように答える。その声には、年長者としての責任感が感じられた。


符陽は仲間たちの反応を見ながら、胸の内で決意を新たにする。そして追い打ちをかけるように発言した。


「今日という日は、青墨を変える大きな転換点として記録されるだろう!」


地下図書室を埋め尽くす学生たちの熱気は、まるで火薬が弾けたような激情として部屋中に満ちていった。彼らの表情には、狂気にも似た陶酔が現れていた。その目は、まるで星空のように輝いていた。


青墨の夜が更ける。彼ら学生たちによって青墨には大きな変化の渦が巻き起ころうとしていた。その渦は、やがて青墨の、そして翠玉朝の未来さえも変える力を秘めているのかもしれない。


盧燕は窓から飛び出すと、再び青墨に降り注ぐ雨にさらされた。短く刈り込まれた黒髪が雨に打たれ、乾いていた深い紺色の短衣は雨水を含んで重くなっていく。雨に濡れた屋根瓦を踏みしめる足音は、雨音に紛れてほとんど聞こえない。


前方に夜鴉の黒い影を見つけ、盧燕は追跡を開始する。彼女の動きは軽やかで、まるで風のように屋根から屋根へと飛び移っていく。その姿は、夜空を舞う燕のようだった。


「待ちなさい!」


盧燕の声が夜空に響く。しかし、夜鴉の姿はますます遠ざかっていく。彼の動きは負傷を負っているとは思えないほど素早い。まるで夜の闇そのものが動いているかのようだった。


盧燕は歯噛みしながら、さらに速度を上げる。彼女の呼吸が荒くなり、首筋の傷が再び痛み始めた。それでも、彼女は追跡をやめようとはしない。その目には、諦めない強い意志が宿っていた。


夜鴉は巧みに街の影を利用し、時に青楼街の人通りの多い通りに身を隠し、時に狭い路地に姿を消す。盧燕は必死に彼の動きを追おうとするが、徐々にその姿を見失っていく。


明らかに手慣れた闇に生きるものの動きだと盧燕は悟った。その動きには、長年の経験が滲んでいた。


盧燕は屋根の上で立ち止まり、周囲を見回した。しかし、夜鴉の姿はもうどこにも見えない。夜鴉が流している血も、青墨の雨が洗い流し、追跡を困難にした。夜の街並みは、彼を完全に飲み込んでしまった。


「くっ...」


盧燕は歯を食いしばり、拳を強く握りしめた。雨が顔を伝い落ちる中、その目には燃えるような悔しさが宿っていた。


「琳華...」


彼女は小さく呟いた。傷ついた琳華の姿が脳裏に浮かび、胸が痛むようだった。その痛みは、雨の冷たさよりも鋭く、盧燕の心を貫いた。


「あと少し...あと少しだったのに」盧燕の声は低く、悔しさと怒りが混ざっていた。「取り逃がしてしまった...私は何て無力なんだ」


彼女は雨に打たれながら、じっと自分の手を見つめた。その手には夜鴉との戦いで負った擦り傷がついていた。赤い筋が雨に濡れて光り、その痛みが彼女の無力感をさらに強めた。


「自分の弱さが憎い...」


雨脚が強くなり、街全体がさらに暗くなる。盧燕は肩で息をしながら、懐から先ほど周紅梅から受け取った書類が濡れていないか服の上から確かめた。紙の感触を確認し、彼女はわずかに安堵の息をついた。


これ以上、雨に濡れ内容が確認できなくなるような事態を避けるため、盧燕は近くの建物の軒先に移動する。瓦屋根から滴る雨音が、彼女の耳に響く。


濡れた髪から雨粒が頬を伝い落ちる。その冷たさが、彼女の熱い思いを少しずつ冷ましていく。盧燕は深呼吸をし、冷静さを取り戻そうとする。


(逃がしてしまった...)


彼女は低くつぶやいた。その声には悔しさと、少しばかりの安堵が混じっていた。夜鴉を取り逃がしたことへの悔しさは大きかったが、同時に周紅梅から重要な情報を得たという事実が、彼女の心に小さな希望の灯りをともした。


盧燕は再び深呼吸をし、自分の心臓の鼓動を落ち着かせる。雨に濡れた街の匂いが、彼女の鼻腔をくすぐる。彼女の目に、決意の色が宿る。その瞳には、さっきまでの迷いは微塵も見えない。


「でも、これで一歩前進したわ」


彼女は自分自身に言い聞かせるように呟いた。その声には、新たな決意が込められていた。


「呉霜、次は必ず仕留める」


盧燕は雨を避けるように家々の軒先を移動しながら心の中で誓った。彼女の歩みは確かで、迷いはない。


雨は止むことなく降り続ける。青墨の街を覆う闇は、ますます深くなっていく。しかし、盧燕の心にある復讐の炎は、この雨でさえも消すことはできないだろう。その炎は、むしろ雨によってさらに強くなったかのようだった。

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