第25話:交渉

紅梅閣の最上階、周紅梅の豪奢な部屋に重苦しい空気が漂っていた。深紅の牡丹の刺繍が施された高級な絹のチャイナドレスを纏った周紅梅は、しなやかな所作で盧燕にお茶を差し出した。その仕草は優雅そのものだったが、彼女の瞳には鋭い光が宿っていた。


「で、梁白義からどんな話を聞いたの?」


周紅梅の声は蜜のように甘美だったが、その底に潜む警戒心は隠しきれていなかった。


盧燕は一瞬たじろいだ。彼女の褐色の瞳が揺らめき、唇を軽く噛んだ。質素な町娘の服を着た盧燕は、この豪奢な部屋の中で明らかに場違いな存在だった。しかし、すぐに決意の表情を浮かべる。


「特に何も。ただ、梁白義が以前証言しようとした許貞の人身売買の証拠を探しています」


周紅梅は一瞬驚いたような表情を見せた後、くすりと笑う。その笑みには皮肉と、わずかな感心の色が混じっていた。


「あら、特に何も聞いていないのに、ここまで来たの?正直者ね」


周紅梅の声は相変わらず蜜のように甘美だったが、その瞳には鋭い光が宿っていた。彼女の細い指が無意識に茶碗の縁をなぞる様子からは、内心の緊張が窺えた。


「そんな薄っぺらな手がかりだけで、こんな危険な橋を渡ってくるなんて。あなた、勇気があるのか、それとも無謀なだけなのかしら」


その時、廊下で軽い足音が聞こえた。二人は息を潜める。盧燕の胸の鼓動が激しくなり、自分の心臓の音が部屋中に響き渡るように感じた。彼女の手は小刻みに震え、冷や汗が背中を伝い落ちる。


足音が遠ざかると、盧燕はほっと息をつき、決意を新たにした。彼女は周紅梅の鋭い視線に真っ直ぐ向き合い、静かに、しかし力強く語り始めた。


「確かに、私の手がかりは薄っぺらかもしれません。でも、今は藁をも掴む思いで情報を集めているんです」盧燕の声は低く、しかし芯が通っていた。「青墨の闇は深く、その真相に迫るのは容易ではありません。だからこそ、どんな小さな手がかりも見逃すわけにはいかないんです」


彼女の褐色の瞳には、不安と共に強い決意の色が宿っていた。


「この危険な橋を渡る理由は、私の個人的な事情、復讐心からくるものです」


盧燕は苦渋の表情を浮かべながら自分の感情を吐露した。


周紅梅は盧燕の言葉を聞きながら、複雑な表情を浮かべている。彼女の目には、若い女性の勇気に対する驚きと、かすかな羨望の色が混じっていた。


雨音が激しさを増す外で、夜鴉は紅梅閣の周紅梅の部屋の窓のすぐ外に身を潜めていた。彼の黒装束は雨に濡れ、体に張り付いていた。耳を澄ませば、部屋の中の会話が微かに聞こえてくる。


一方、総督府では、趙安が玄明親王の来訪に向けて慌ただしく準備を進めていた。玄明親王は永徳帝の弟であり、文化事業や外交に手腕を発揮する人物として知られていた。その来訪は青墨にとって名誉であると同時に、大きなプレッシャーでもあった。趙安は緑色の官服の襟元を落ち着かない様子で整えながら、張元豪を呼び出した。


趙安は厳しい眼差しで張元豪を睨みつけた。張元豪の額には薄っすらと汗が浮かんでいる。「新しい事業とやらで忙しいところ申し訳ないが、今は余計な騒ぎを控えろ。下手に事を起こせば、我々の首が飛ぶことになりかねんぞ」趙安の声には、普段の威厳に加えて、焦りの色が混じっていた。


紅梅閣に場面が戻る。周紅梅が重い口を開いた。彼女の指先が無意識に髪の毛を弄んでいる。「確かに証拠はあるわ。でも、それを見せれば私の命が危ないことくらい、あなたにもわかるでしょう?」彼女の声には、かすかな震えが混じっていた。


盧燕は真剣な眼差しで答える。彼女の背筋はピンと伸び、瞳には決意の色が宿っていた。「あなたを守ります。どうか、青墨の未来のために力を貸してください」彼女の声には、若さゆえの熱意と、使命感が滲んでいた。


周紅梅はしばらく盧燕を見つめた後、深いため息をついた。彼女の肩が僅かに落ち、緊張が緩んだように見えた。「わかったわ。でも条件があるの」


その瞬間、部屋のドアが激しく叩かれた。「周様、お客様です!」という声が響き渡る。


盧燕と周紅梅は顔を見合わせ、緊張が走る。盧燕は咄嗟に立ち上がり、隠れ場所を探した。彼女の動きには慌てた様子が見て取れた。しかし、周紅梅は冷静に彼女の腕を掴んだ。


「大丈夫よ、私に任せて」


彼女の声は落ち着いていたが、その瞳には不安の色が浮かんでいた。


周紅梅はゆっくりとドアに向かい、優雅な仕草でそれを開けた。にこやかな笑顔で客を迎え入れる彼女の姿は、まるで舞台の上の女優のようだった。その仕草には長年の経験に裏打ちされた自信が感じられた。


盧燕の目が大きく見開かれた。そこに立っていたのは、青墨の実力者にして最大の悪徳商人、許貞その人だった。彼の太った体に合わせた高価な絹の服は、雨に濡れてしっとりと光っていた。許貞の顔には薄笑いが浮かんでいたが、その目は鋭く室内を見回していた。


周紅梅は優雅な仕草で許貞を部屋に招き入れた。


「許様、こんな雨の中をよくいらっしゃいましたね。ただ、許貞様がご自身でこんなところに出向くのは色々とまずいのでは?」


彼女の声は蜜のように甘く、表情には計算された艶めかしさが浮かんでいた。


許貞は、雨に濡れた高価な絹の服をはたきながら、にやりと笑った。


「ああ、周さん。君に会いに来たらこの雨も止むというものさ。まぁ、今日はたまたま総督府に出向いていてな。途中だったので寄らせてもらったよ」


彼の目は部屋を素早く見回し、盧燕の姿を捉えた。その瞬間、許貞の眉が僅かに寄った。


「おや、お客さんがいたようだね」


許貞の声には、わずかな疑念が混じっていた。彼の鋭い目が盧燕の姿を上から下まで舐めるように見た。


周紅梅は一瞬のうちに状況を察し、優雅に微笑んだ。


「ああ、この子のことですか? 新しく来た娘よ。まだ教育中なの」


許貞は目を細め、盧燕をじっと見つめた。「そうか...」彼の声には明らかな疑いの色が滲んでいた。


「たしかに...相当な美人だが、男っぽい出立ちの娘だね」


周紅梅は軽やかに笑い、盧燕の肩に手を置いた。


「まあ、許様ったら。最近は男勝りな娘の方が人気があるんですよ」彼女は艶っぽく目を細め、「でも、やっぱり許様のような素敵な紳士が一番ですわ」と付け加えた。


許貞は一瞬躊躇したが、周紅梅の言葉に気を良くした様子で、にやりと笑った。


「そうか、そうか。時代も変わったものだ」


周紅梅は盧燕に向かって、「あなた、お茶をもう一杯持ってきてくれるかしら」と命じた。その声には、かすかに緊張が滲んでいた。


盧燕は深々と会釈をして部屋を出る。彼女の動作には、意図的に女性らしさを強調する仕草が見られた。ドアの向こうで立ち止まり、冷や汗を拭いながら耳を澄ませる。


許貞の声が低く響いた。


「周さん、例の『花』の件だが、次の満月の日に『種まき』を予定している。準備は整っているかね?」


周紅梅は落ち着いた声で返した。


「ええ、ご心配なく。『花壇』の整備は順調です。『庭師』たちも待機しています」


「良いね」許貞は満足げに言った。「今回の『花』は特に高価なものばかりだ。一輪あたり5000銀になるだろう」


周紅梅は小さく息を呑んだ。


「まあ、相当な上等品なのね」


許貞は声を潜めた。


「ああ、だからこそ慎重に扱わねばならん。『花』の受け渡しは、碧水河畔の古い製粉所だ。深夜2時を予定している」


「了解いたしました」周紅梅は静かに答えた。「『花壇』の準備も整えておきます」


許貞は含み笑いをした。


「素晴らしい。報酬は例によって『花』が根付いた後だ。今回は特別に、君の取り分を2割増しにしよう」


「まあ、ありがとうございます」


周紅梅の声には、わずかな緊張が混じっていた。


許貞は話題を変えた。


「そうそう、『夢幻香』という新しい香水の話を聞いたことがあるかね?」


「ええ、噂では聞いたことがあります」


周紅梅は慎重に答えた。


「ゆくゆくは、その新しい香水をここに卸して販売したいと考えている」


許貞の声には、野心が滲んでいた。


「もちろん、君の協力が必要になるがね」


「まあ、それは楽しみですわ」周紅梅は軽やかに答えた。「新しい風が吹くのは、いつでも歓迎ですもの」


「良い心がけだ」許貞は満足げに言った。「これからの我々の『庭』は、もっと美しく、もっと価値あるものになるだろう」


しばらくの会話の後、許貞は立ち去った。

盧燕が部屋に戻ると、周紅梅は深いため息をつく。


「さて、」周紅梅は盧燕を見つめ、声を潜めた。「先ほどの会話は聞いていましたね。次の満月を待てば、現場を抑えることはできます。ただ、ここまで性急に動いていると言うことは時間がないのでしょう?」周紅梅の瞳には、鋭い洞察力が宿っていた。


盧燕は一瞬躊躇したが、すぐに決意を固めた。彼女の褐色の瞳に、覚悟の色が浮かぶ。


「はい、そうです」


盧燕は静かに答えた。


盧燕は今まで考えていなかったが、楊家がこの青墨に滞在している期間に行動しなければ、総督府に対抗できないことを理解した。


楊家の目的は玉京への朝見。青墨の総督府と対決することではない。

また、盧燕が総督府と対決しても、独りでは限界がある、必ずどこかで楊家の力が必要になる。

つまり、楊琳華の回復までが盧燕のタイムリミットだった。


周紅梅はゆっくりと盧燕に近づき、真剣な表情で語り始めた。


「私には条件がある」彼女の声は低く、しかし力強かった。「第一に、私の安全を保証すること。証拠を渡した後、私を確実に保護してくれる場所を用意すること」


彼女は一瞬躊躇したが、続けた。


「第二に、紅梅閣で働く娘たちの未来を保証すること。彼女たちには罪はない。新しい人生を始められるよう、援助してほしい」


盧燕は周紅梅の言葉に、驚きと敬意を覚えた。彼女の目に、周紅梅の新たな一面を見た気がした。


盧燕は深く頷き、「わかりました。私の一存では保証できない部分もありますが、あなたの条件を守るため全力を尽くします」と答えた。


周紅梅は約束を保証できないことに一抹の不安を感じ、即答は避けようと思った。しかし、盧燕の真剣な表情を見て、決断を下した。


「では、梁白義が以前、張元豪と許貞を告発するために準備した証拠をお渡ししましょう」


彼女はそう言うと机の引き出しを開け、その上底になった底板を外し、一つの書類を取り出し、盧燕に突き出した。


その瞬間、雨の音が部屋の中に響きわたる。その後、盧燕の背後に冷たい風が吹き抜けるような感覚と共に、鋭い殺気が彼女を襲った。


「っ!」


かすかな気配を感じ取った盧燕が咄嗟に身を躱そうとした瞬間、黒い影が彼女に覆い被さった。夜鴉だった。彼の動きは水面を滑るように滑らかで、まるで闇そのものが動いているかのようだった。


「甘いな、お嬢さん」


夜鴉の低い声が盧燕の耳元で囁くように響く。彼の左腕が盧燕の首に回され、右手に握られた短刀の切っ先が彼女の喉元にピタリと押し当てられた。冷たい刃が肌に触れ、盧燕は思わず息を呑んだ。


「動くな。さもないと...」


夜鴉がそう言うや否や、盧燕は素早く身を捻り、同時に右肘を後ろに突き出した。鈍い音と共に、夜鴉の体が僅かに揺らぐ。その隙を逃さず、盧燕は夜鴉の腕を掴み、肩越しに投げ飛ばした。


「はっ!」


夜鴉は驚きの声を上げながら、優雅に着地する。彼の目には驚きと興味が浮かんでいる。盧燕の首筋には一雫の血が滴り落ちている。


「あの少女もそうだが、楊家の女性はみなこちらの想像を超えてくる」


盧燕は今の発言からこの男が琳華を害した犯人であることを理解する。

彼女の表情には、この場にいる夜鴉、周紅梅を戦慄させるほどの憤怒が満ちていた。

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