第24話:思惑

青墨の街を覆う雨粒が、細い路地を濡らしていく。雨音が石畳を打つ微かな音色が、闇夜の静寂を破る。湿った空気が肌を包み、雨に濡れた石塀から立ち上る土の香りが鼻をくすぐる。


この雨に煙る街並みの中、影のように建物の軒先に身を潜めた夜鴉の鋭い瞳が、遠くの一点を見据えていた。その視線の先には、葉家の軒先で符陽と話し込む盧燕の姿があった。


夜鴉は無意識のうちに息を殺し、身を固くして盧燕の一挙手一投足を逃すまいと目を凝らす。彼は黒い軽装束に身を包み、顔には薄い布を巻いて素性を隠していた。雨に濡れた布地が体にぴったりと張り付き、その引き締まった筋肉の輪郭を浮き彫りにしていた。彼女の警戒する仕草、周囲を確認する素早い目配せ、そして時折見せる決意に満ちた表情。それらすべてが、夜鴉の脳裏に焼き付けられていく。


「またか」と夜鴉は歯を食いしばり、心の中で呟いた。これで何度目だろう。盧燕が怪しげな行動を取るのは、もはや偶然とは言えないほど頻繁になっていた。


夜鴉の心の中で、不安と焦りが渦巻いていた。彼は額に浮かぶ冷や汗を拭いながら、これまで単独で任務をこなしてきた自信が揺らぐのを感じていた。今回ばかりは一人では手に負えない状況に直面していることを痛感し、両手を強く握りしめた。盧燕の動きを監視しつつ、その情報を趙安に報告する。この二つの任務を同時にこなすことの難しさに、夜鴉は歯噛みした。


「彼女の目的は明らかだ」


夜鴉は瞳を細め、冷静に状況を分析する。楊家宿舎への出入り、馬刃との接触、青墨監獄への侵入、そして紅梅閣に向ける意味深な眼差し。すべての行動が、盧燕が総督府に対抗する手段を模索していることを示していた。


夜鴉の表情に焦りが浮かび、額に深いしわを寄せる。趙安への報告のために盧燕から目を離せば、彼女の次の一手を見逃す可能性がある。かといって、このまま監視を続ければ、趙安への報告が遅れてしまう。


「盧燕から目を離さないことこそが、総督様への忠誠を示すことになる」


夜鴉は拳を固く握りしめ、心を決めた。長年の経験が、この判断が正しいと告げていた。


しかし、夜鴉はそれ以上の行動をとれないでいた。彼の頭の中で、楊琳華を負傷させたあの日の出来事が浮かび上がった。あの時の失敗が、今も彼の心に重くのしかかっている。


(これ以上失敗を積み重ねることはできない)


夜鴉は歯を食いしばった。盧燕の動きは明らかに明確だが、それでも盧燕が決定的な証拠を掴まない限り脅威ではない。彼女が総督府の不利になる証拠を掴むまでは監視し続けることが最適解だと判断していた。


(まずは監視だ)


夜鴉の目が、雨に煙る街並みの中の盧燕の姿を追う。彼女の短く刈り上げた髪が雨に濡れ、その姿は雨夜の情景に溶け込むように美しく、まるで一幅の水墨画のように映った。夜鴉は、自分の中に芽生えた奇妙な感情に戸惑いを覚え、思わず目を逸らした。


夜鴉は自分の心の揺らぎに困惑しながらも、プロフェッショナルとしての冷静さを取り戻そうと必死だった。


一方、総督府の執務室では、趙安が窓際に立ち、両手を背中で組みながら雨に煙る街を見下ろしていた。彼は高価な絹の長衣を身にまとい、その深い紫色は権力と威厳を象徴していた。胸元には総督の地位を示す金の徽章が輝き、袖口には細やかな刺繍が施されていた。その表情には、深い思索の跡が刻まれ、眉間にしわを寄せていた。


「張元豪と許貞め…」


趙安は低く唸り、窓ガラスに映る自身の姿を見つめた。彼らが新たな事業を画策していることは、すでに把握していた。その内容も、ほぼ見当がついていた。


「夢幻香か」


趙安は冷笑を浮かべ、唇を歪めた。南方の港で近年活発に取引されているこの薬の寡占販売権を狙っているのだろう。しかし、趙安の目には、それが単なる麻薬に過ぎないことは明らかだった。


趙安は腕を組み、窓際から執務机へと歩みながら思考を巡らせる。その足取りは重々しく、まるで青墨の運命そのものを背負っているかのようだった。


「やがて禁止されるだろうな。闇市場での取引なら別だが、為政者が手を染めるべきではない」


彼は冷静に判断し、机に置かれた書類に目を走らせた。その目には、計算高さと同時に、ある種の疲れも浮かんでいた。


「過度の腐敗は身を滅ぼす。青墨での商売は見逃す代わりに利益を吸い上げ、監視を怠らなければいい」


趙安の口元に、冷たい微笑みが浮かんだ。彼は机の上の茶碗を手に取り、一口啜った。湯気が立ち上る茶の香りが、執務室に漂う。


「張元豪め、地位を得ただけの愚民が」


彼は心の中で副総督を嘲笑した。その表情には、権力者特有の傲慢さと、部下の無能さへの苛立ちが混在していた。


「彼らを管理し、導くのが為政者としての務めだ」


その時、執務室のドアがノックされた。趙安は茶碗を置き、姿勢を正した。入ってきたのは、翠玉朝中央政府からの使者だった。


「総督閣下」使者は深々と頭を下げ、両手を前で組んだ。「玄明親王様が、練兵のため玉京から軍を率いて紅灯市に向かわれているとの情報が入りました。紅灯市を訪れる前に青墨にも寄られるでしょう」


趙安の目が鋭く光り、背筋を伸ばした。これは予想外の展開だった。彼の心の中で、様々な思惑が交錯する。


(玄明親王か…彼の来訪は吉と出るか凶と出るか)


使者は顔を上げ、続けた。


「私めが、玄明親王様に近づくための仲介役を務めさせていただきます」


趙安は一瞬考えた後、頷いた。彼は立ち上がり、使者に向かって歩み寄った。その歩みには、決意と同時に慎重さも感じられた。


「ありがたい申し出だ。ぜひ頼みたい」


使者が退室すると、趙安は再び窓の外を見つめた。雨で広がる街の灯りが、まるで星座のように広がっている。その中のどこかで、盧燕と符陽が出会っていた。


(玄明親王の来訪か…これは機会にもなりうるし、危機にもなりうる)


趙安は深く息を吐き、今後の展開を慎重に考え始めた。


青墨西市。以前、符陽が暴漢に襲われていたところを盧燕が助けたことがきっかけで、二人の間には浅からぬ縁ができていた。雨の中、二人は軒先に身を寄せ合うように立っていた。雨粒が軒先から滴り落ち、二人の足元で小さな水たまりを作っている。


「総督府の腐敗を一掃するため、学生運動を起こしているんです」


符陽は両手を激しく動かしながら熱っぽく語った。その目には、若者特有の正義感と情熱が宿っていた。頬は興奮で赤く染まり、息も荒い。


盧燕は静かに符陽の話に耳を傾けながら、内心では警戒心を解いていなかった。彼女は時折、周囲に目を配りながら、符陽の言葉に頷いていた。符陽から聞く情報は、どれも確たる証拠のないものばかり。学生らしい憶測に基づいた熱弁に過ぎなかった。


(彼の熱意は素晴らしいけど、このままでは危険すぎる)


盧燕は心の中で思いながら、符陽を品定めするように観察した。若さゆえの無謀さと、純粋な正義感が混在する彼の姿に、盧燕は複雑な思いを抱く。


(彼を利用すべきか、それとも守るべきか)


ただ、その行動は表に出さず表情は和らげ、声に温かみを込めて言った。


「あなたたちの志は素晴らしいわ。青墨の未来のために、私にできることがあれば協力させてください」


盧燕は符陽の肩に優しく手を置いた。その手には、符陽を励ます温かさと、彼を操ろうとする冷たさが同時に込められていた。符陽は嬉しそうに頷き、その目は輝いていた。


「本当ですか?ありがとうございます!」


盧燕は一瞬躊躇し、唇を噛んだ後、決意を固めた。彼女の心の中で、様々な思いが交錯する。


(彼を巻き込むべきじゃない。でも、この機会を逃すわけにはいかない)


「実は、あなたたちの活動を支援できる人がいるかもしれません。有益な情報を提供してくれる可能性があります」


符陽の目が更に輝き、身を乗り出した。その姿に、盧燕は一瞬、罪悪感を覚える。


「本当ですか?それは心強いです!」


盧燕は微笑みを浮かべながら、内心では冷静に計算していた。馬刃を通じて学生たちの動きをコントロールすれば、自分たちに有利な展開が期待できる。


(ごめんなさい、符陽。あなたを利用するわ)


別れ際、盧燕は符陽の両肩に手を置いて熱を込めて言う。


「あなたたちの活動は、きっと青墨の未来を作るわ」


その言葉には、励ましと警告が同時に込められていた。


符陽が去った後、盧燕は深く息を吐き、肩を落とした。彼女の表情が一瞬で変わり、決意に満ちた眼差しで前を見据えた。そして、雨帽を被ると足早に紅梅閣へと向かい始めた。


盧燕の後ろ姿を、雨が優しく包み込んでいた。そして、その影のように寄り添うように、夜鴉の姿があった。夜鴉は建物の陰に身を隠しながら、盧燕の後を追った。二人の間には、わずかな距離しかなかったが、その間には計り知れない思惑と緊張が渦巻いていた。雨の音が、二人の足音を巧みに隠していた。


雨脚が強まる中、盧燕は紅梅閣の近くまで辿り着くと、彼女の歩みは突如として止まる。周囲を警戒するように素早く視線を巡らせると、人目につかない路地裏へと身を滑り込ませた。


盧燕の後を追う夜鴉の動きは、まるで影のように滑らかだった。雨音に紛れて、彼は息を殺し、一歩一歩慎重に前進する。路地の奥まったところで、盧燕は立ち止まった。そこには、ぼろぼろの衣服の上に簑衣を身にまとった老人が佇んでいた。


夜鴉は息を潜め、二人の会話に耳を傾けた。彼の鼓動が高鳴り、雨音にかき消されないよう必死に聴覚を研ぎ澄ます。


「馬刃さん、」盧燕は小声で呼びかけた。その声には緊張が滲んでいた。「準備はできましたか?」


老人――馬刃は、ゆっくりと頷いた。その動作には、長年の経験に裏打ちされた確かな自信が感じられた。


「ああ、すべて整っている。紅梅閣の裏手にある従業員用の出入り口を使え。今夜の当直は我々の味方だ」


馬刃の声は低く、しかし確かな響きを持っていた。その言葉に、盧燕の表情が僅かに緩んだ。


「ありがとうございます」盧燕は深々と頭を下げた。「周紅梅との接触は?」


「難しいだろうが、不可能ではない」馬刃は慎重に言葉を選んだ。その瞳には、警戒の色が浮かんでいた。「彼女の部屋は二階の最奥にある。だが、油断するな。周紅梅は鋭い女だ」


盧燕は深く頷いた。その表情には、決意と不安が入り混じっていた。「わかりました。では、計画通り進めます」


会話を終えた二人は、それぞれ別々の方向へと姿を消した。夜鴉は雨に濡れた髪を掻き上げながら、この新たな展開に思いを巡らせた。


(紅梅閣への潜入か。まさか周紅梅と接触する気か)


夜鴉は盧燕の後を追いながら、次の一手を考えていた。紅梅閣は青墨の闇社会の中心地の一つ。そこで何が起こるのか、見逃すわけにはいかない。場合によっては対処しなくてはならない。


雨の音に紛れて、夜鴉は静かに盧燕の後を追った。紅梅閣へと向かう二人の姿は、雨に煙る街の闇に溶け込んでいった。


馬刃との短い会話を終えた盧燕は、雨の中を紅梅閣へと足を進める。その足取りは確かだが、ふと先ほどのことが脳裏に浮かんだ。


(符陽のことを伝えるべきだろうか…)


一瞬、足を止めかけた盧燕だったが、すぐに首を横に振った。冷たい雨粒が彼女の頬を打つ。


(いや、今はその時ではない。まずは目の前の任務に集中しなければ)


彼女は深呼吸し、紅梅閣の裏手へと回り込んだ。馬刃の言葉通り、そこには小さな従業員用の出入り口があった。盧燕は周囲を警戒しながら、そっとドアノブに手をかけた。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。


予想通り、ドアは軽く開いた。盧燕は素早く中に滑り込み、暗闇に目を慣らした。湿った空気と香水の匂いが鼻をつく。紅梅閣の一階は客の笑い声や楽器の音で満ちており、盧燕の存在をかき消してくれた。


(ここまでは順調ね)


盧燕は外套と雨帽をドアの近くに隠すと、乾いた手巾を胸元から取り出し、主だったところの雨を拭き取る。その後、静かに廊下を進む。従業員の気配に敏感に反応しながら、時折物陰に身を隠す。心臓の鼓動が耳に響く中、二階への階段を見つけると、慎重に一歩ずつ上っていった。


二階の廊下は華やかな装飾で彩られていたが、盧燕の目的はその先にあった。馬刃の情報通り、最奥の部屋が周紅梅のものだろう。明らかに他とは違うドアが突き当たりに見てとれた。


突然、近づいてくる足音に盧燕は身を固くした。咄嗟に隣の部屋のドアを開け、中に滑り込む。心臓が高鳴る中、足音が通り過ぎるのを待った。自分の息遣いが大きく聞こえる。


(危なかった…)


紅梅閣の二階は男女の悲鳴ともつかない声と、体臭をかき消すためのよりきつい香水の匂いで溢れている。これらも盧燕の存在をかき消す味方となっていた。


再び廊下に出た盧燕は、目的の部屋へと近づいた。突き当たりの、おそらく周紅梅の部屋のドアの前で立ち止まり、耳を澄ます。中から物音は聞こえない。


盧燕は深く息を吸い、決意を固めた。そっとドアノブを回し、部屋の中へと足を踏み入れた。


暗闇の中、豪華な調度品が目に入る。そして、部屋の奥には一人の女性の姿が…。


「誰?」


女性が盧燕に振り向き尋ねた。その声には警戒と同時に、奇妙な落ち着きが感じられた。


盧燕は一瞬硬直したが、すぐに心を落ち着かせた。彼女は背筋を伸ばし、毅然とした態度で言葉を発した。


「失礼します、周様。梁白義からあなたを探すよう言われ、お伺いしました。重要な話があります。お時間をいただけませんか?」


周紅梅は盧燕をじっと見つめ、大きくため息をつくと、ゆっくりと頷いた。その目には、疲れと諦め、そして僅かな希望の光が混在していた。


「いいわ。話を聞かせてもらいましょう」


周紅梅の言葉に、盧燕は内心で安堵の息をついた。

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