第23話:初志

灰色の雲が青墨の街を覆い、冷たい雨が石畳を打つ音が響いていた。符鵬は窓から外を見つめ、自らの姿が映る窓ガラスに目を向けた。そこに映る顔は、かつての情熱に満ちた改革派の青年の面影はなく、疲れと後悔に満ちた中年の官僚の顔だった。深い皺が刻まれた額、やつれた頬、そして力なく垂れ下がった口角。彼は深いため息をつき、自分の手を見つめた。その手は今や、民衆の期待を裏切る腐敗した行為で汚れていた。


符鵬は目を閉じ、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡るのを感じた。若かりし頃、彼は青墨の中流階級の家庭に生まれ、正義と改革への情熱に燃えていた。学問に励み、昼夜を問わず書物を読みふけった日々。科挙の試験場で、緊張と希望に満ちた表情で筆を走らせた瞬間。見事合格を果たし、家族や友人たちと喜び合った光景。


20代で地方官僚として赴任した時の誇らしさと決意。清廉な姿勢で民衆のために働き、その姿に多くの人々が希望を見出した日々。夜遅くまで政策を考え、朝早くから民衆の声を聞いて回った日々。30代で青墨に戻り、改革派の政治家として名を馳せた頃。演説で聴衆を魅了し、仲間たちと熱い議論を交わした日々。


しかし、40代で総督府の高官となった頃から、少しずつ変化が始まった。権力と富の誘惑、妥協の積み重ね、そして現実の壁。最初は小さな譲歩から始まり、やがてそれが習慣となり、いつしか彼は、かつての理想を裏切り、腐敗した体制の一部となっていた。


符鵬は苦渋の表情を浮かべ、額にしわを寄せた。彼は紺色の官服の襟元を正し、深呼吸をした。刺繍された金糸が雨の中でかすかに光る。今日は青墨学府へ向かう日だった。


馬車が石畳を走る振動に身を任せながら、符鵬は甥の符陽のことを考えていた。陽は今、青墨学府で学んでいる。自分とは違う道を歩もうとしている甥の姿に、符鵬は複雑な思いを抱いていた。


「陽よ、お前は私のような過ちを繰り返さないでくれ」と、符鵬は心の中でつぶやいた。


馬車が青墨学府の正門に到着すると、符鵬は深く息を吸い、下車した。雨に濡れた石畳を慎重に歩く彼の姿は、かつての威厳ある歩みとは程遠いものだった。今日、彼は青墨学府の学府長、林徐明との会談のためにここを訪れていた。


表向きの理由は、総督府と学府の連携強化に関する協議だった。青墨の発展には優秀な人材の育成が不可欠であり、学府と総督府が協力して新たな奨学金制度を設立する計画を討議するためだと、符鵬は部下たちに説明していた。


しかし、その胸の内には別の思惑が渦巻いていた。近年、学府内で高まる改革派の動きを抑制し、総督府に批判的な声を押さえ込むこと。そして学府長が総督府に忠誠を誓っているかを確認するためだった。


符鵬は学府の中庭に足を踏み入れた。彼の目に飛び込んできたのは、学府の壁に貼られた数々の張り紙だった。


「総督府の腐敗を糾弾する!」「正義を取り戻せ!」そして、彼の心を最も痛めたのは、「符鵬:腐敗政治家の代名詞」と書かれた張り紙だった。


符鵬は顔をしかめ、足を進めた。学生たちの視線が、まるで有形の重さを持つかのように彼にのしかかってくる。その中に、甥の符陽の姿を見つけた瞬間、符鵬の心臓が痛むように締め付けられた。


符陽は叔父の姿を見て、複雑な思いに駆られた。かつては改革派のヒーローとして崇拝していた叔父が、今や腐敗の象徴となっている。学府の外では今でも叔父を改革派だと思い込んでいる民衆もいるが、符陽には真実が分かっていた。


彼は自分が地下で学生たちと共に総督府の腐敗を正すために活動していることを、誇りに思っていた。そんな符鵬を睨みつける符陽の元に、同級生の一人が急ぎ足で近づいてきた。雨に濡れた髪を手で掻き上げながら、息を切らして告げた。


「符陽、魏博文教授の助手が君に会いたがっているぞ」


符陽は眉をひそめた。彼の着ていた青い麻の学生服が雨で少し濡れ、体に張り付いていた。文学を専攻している自分が、なぜ歴史学の魏博文教授の関係者に呼ばれるのだろうか。不審に思いながらも、彼は足を向けた。


魏博文教授が管理する書庫への道すがら、符陽は奇妙な一団とすれ違った。年配の儒者風の男性、護衛のような二人、そして青墨の警備兵たち。符陽は彼らが誰なのか知らなかったが、学府の雰囲気にそぐわない存在感を放っていることに気づいた。特に警備兵の存在に、彼は怒りを覚えた。厳めしい表情で、黒い制服に身を包んだ彼らの姿は、学問の自由を象徴するはずの学府にそぐわなかった。


「自由であるはずの学府に、なぜ警備兵がいるんだ」と、符陽は歯軋りした。


ようやく書庫に到着すると、魏博文教授の助手が彼を待っていた。痩せた体つきの助手は、古びた灰色の長衣を身にまとい、鷲鼻の上にかけた老眼鏡越しに符陽を見つめた。助手は周囲を警戒するように見回してから、小声で符陽に告げた。


「君が改革派の活動をしているなら、ここに行ってみるといい。ちなみに、地図の内容を頭に入れたらこれは焼き捨ててくれ」


そう言って、助手は符陽に一枚の紙切れを手渡した。それは薄い竹紙で、その上には「葉家」という文字と、簡素な地図が描かれていた。


符陽は一体何のことなのか理解できなかったが、突き出された紙切れを受け取った。助手の口ぶりからして、この地図の場所に行けば改革に新しい風が吹くような予感がした。符陽は覚悟を決め葉家へと向かう準備を始めた。雨の中、彼の目は未来を見ていた。


青墨の街を覆う灰色の空から雨粒が絶え間なく降り注ぐ。周紅梅は紅梅閣の二階にある自室の窓辺に立っていた。彼女の細い指が、曇った窓ガラスに触れる。そこに映る自身の姿に、周紅梅は複雑な表情を浮かべた。かつての純真な少女の面影は消え、今や計算高く冷徹な女性の顔がそこにあった。


周紅梅は深いため息をつき、自分の手を見つめた。その手は今や、数え切れないほどの人々の人生を左右する悪事で汚れていた。彼女は目を閉じ、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡るのを感じた。


貧しい家庭に生まれたが素晴らしい未来を夢見ていた少女時代、貧しさから10歳で人身売買の被害に遭い、その後は青楼での苛酷な生活、日々の辛さに耐えながら生き抜いた時間。持ち前の聡明さと美貌で頭角を現し、25歳で「紅梅閣」の女主人となった瞬間。権力者たちとの駆け引き、彼らの秘密を握ることで築き上げた自身の地位。


そして今、32歳。青墨の闇社会で重要な地位を占める彼女の姿があった。艶やかな深紅の絹の衣装に身を包み、高価な翡翠の首飾りを身につけた周紅梅。しかし、その目元には深い憂いの色が宿っていた。


「私はどこまで堕ちれば、満足できるのだろうか」と、周紅梅は呟いた。その声は、雨音にかき消されてしまった。


彼女の心の奥底では、かつての純真な自分が今もなお生きていた。人身売買の被害者でありながら、今や自らもその仕組みの一部となっている現実。権力者たちの秘密を握り、富と影響力を手に入れたものの、悪事に手を染めるたびに、心の中の純白の少女は引き裂かれていた。


周紅梅は窓を開け、冷たい雨を顔に受けた。雨粒が彼女の頬を伝い落ちる。それは涙のようでもあった。


「このままでいいのだろうか」と、彼女は自問する。青墨の闇から抜け出し、新しい人生を始める勇気はあるだろうか。しかし、その一方で、これまで築き上げてきたものを手放す恐怖も彼女の心を締め付けた。


雨脚が強まる中、周紅梅の心は激しく揺れ動いていた。彼女の前には、未知の未来への一歩を踏み出すか、現状に留まるかの選択が迫っていた。紅梅閣の華やかな部屋に立つ彼女の姿は、まるで嵐の中に佇む一輪の花のようだった。


盧燕は葉家の軒下に身を寄せていた。彼女の鋭い眼差しは、雨粒を通して遠くに煌めく紅梅閣に向けられていた。濡れた黒髪を手で拭いながら、彼女は馬刃から聞いた情報を思い返していた。馬刃に周紅梅の名前を伝えた途端、その所在は判明した。


青楼「紅梅閣」の女主人であり、青墨の闇社会で影響力を持つ周紅梅。32歳にして既に様々な噂が飛び交う存在となった彼女の名は、街の隅々まで知れ渡っていた。権力者たちとの繋がりが深いとされる人物。


盧燕は深い溜息をつき、自分の手を見つめた。その手は、常に正義のために振るってきた力の象徴だった。失意の中で嵐峡に帰ってきてから民衆のためにその力を振るい、今も社会の腐敗と戦い続けている。盧燕は目を閉じ、周紅梅についての断片的な情報を整理した。


盧燕は眉をひそめ、目を開いた。周紅梅の存在は、彼女の正義感を刺激すると同時に、重要な情報源となる可能性も秘めていた。


「あの女から情報を引き出すには、どうすればいいのだろうか」と、盧燕は思案した。


周紅梅の立場と影響力は、盧燕にとって両刃の剣だった。敵として立ち向かうべき存在であると同時に、青墨の闇を暴くための鍵を握っているかもしれない。盧燕は、自らの正義感と情報収集の必要性の間で揺れ動いていた。


「直接対決は避けるべきか。それとも、別の接近方法があるのか」と、盧燕は呟いた。その声は、雨音に紛れて消えていった。


盧燕の心の中で、正義への情熱と冷静な判断力が拮抗していた。彼女は短く刈り上げた髪を撫で上げ、深く息を吐いた。雨に濡れた青い麻の服が体に張り付き、寒さを感じさせたが、盧燕の目は熱く燃えていた。


周紅梅から情報を得るための最良の方法を模索しながら、自らの信念を貫く意思が目に宿っていた。盧燕は軽く体を揺すり、雨粒を払い落とした。


「まずは様子を探るべきだな」と、盧燕は決意を固めた。彼女は身に着けていた男装の衣装を整え、紅梅閣へ向かうことを決意し、深呼吸した。


その瞬間、遠くから足音が聞こえてきた。盧燕は素早く身を隠し、音の主を確かめようとした。人影が、雨の中をゆっくりと近づいてくる。


やがて、その姿が徐々に明らかになる。蓑笠を身につけた人物で、顔は判別できない。その人影はまっすぐ盧燕の方に向かって歩き、ふと立ち止まると、周囲を見回し始めた。盧燕は物陰から様子を伺い警戒を強めた。


(総督府のものか...)


その人物は周辺にある家々の門前まで行き、門楼にある横木(この時代の表札)を確認していた。そして葉家の門前でふと立ち止まった。盧燕は静かに腰の短剣に手を伸ばす。そして、相手の死角から近づき声をかけた。


「こんな夜更けに、なんのようだ?」


声をかけられた人物は驚いて振り返った。盧燕の姿を認めると、雨帽をとり安堵の表情を浮かべた。


「あなたは...盧燕さん?なぜここに?」


その人物は符陽だった。彼の声は震えている。


盧燕は驚きながらも、ゆっくりと答えた。


「それはこちらの台詞だ。お前こそ、なぜここにいる?」


雨は依然として青墨の街を包み、そして青墨の街は人々の想いを包み込んでいた。

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