第22話:潜入
夜明け前の青墨の街は、まだ薄暗い闇に包まれていた。空気は冷たく、霧が立ち込めている。その中を、一人の商人らしき男が青墨監獄へと向かっていた。
男の名は馬刃。その正体は楊家の隠密であり、今回の潜入作戦の立役者だった。彼は高級な絹の長衣を身にまとい、金糸で縁取られた深緑色の上着が威厳を漂わせている。手には豪華な朱塗りの木箱を抱え、腰には象牙の装飾が施された扇子を差している。その姿は、まるで贈賄にやってきた裕福な商人そのものだった。
馬刃は監獄の正門に近づくと、にこやかな笑みを浮かべて声をかけた。腰を軽く曲げ、親しげな態度で言葉を紡ぐ。
「おや、こんな早朝から大変ですな。さぞかし寒いでしょう」
門番の看守は眠そうな目をこすりながら、馬刃を上から下まで値踏みするように見た。彼らは粗末な灰色の制服を着ており、その襟元には青墨監獄の紋章が刺繍されている。
「何の用だ?」
「ここにいる知人に、ちょっとしたものを届けに来ましてな」
馬刃は意味ありげに木箱を軽く持ち上げた。中から金属の響く音が聞こえる。彼は片目をつぶり、声を潜めて続けた。
「もちろん、あなた方にも気持ちばかりのものを用意してきましたよ」
看守たちの目が光った。彼らは互いに顔を見合わせると、にやりと笑った。
「まあ、話だけでも聞こうじゃないか」
馬刃は内心で冷笑を浮かべた。趙安総督をはじめとする青墨の権力者たちが作り上げた贈賄文化のおかげで、こうして簡単に看守たちの心を掴むことができるのだ。彼らの腐敗が、今や馬刃たちの行動を助けているという皮肉。
馬刃が看守たちの注意を引きつけている間、一人の小柄な影が素早く塀を乗り越え、監獄の中へと忍び込んでいった。それは盧燕だった。彼女は黒い装束に身を包み、まるで夜の闇に溶け込むかのように静かに動いていく。足音を立てぬよう、つま先立ちで慎重に歩を進める。
一方、楊家の宿舎では、楊鳳来が姉の楊琳華の病室で、彼女の寝顔を見つめていた。琳華の顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいる。鳳来は小さな手で姉の手を握りしめながら、自問自答を繰り返していた。彼は白の寝巻きを着ており、その襟元には楊家の家紋が刺繍されている。
「僕に何ができるだろう...」鳳来は歯を噛みしめた。彼の幼い顔には、年齢不相応な思慮深さが浮かんでいる。「このまま何もせずにいるわけにはいかない」
彼は決意を固めると、静かに立ち上がった。小さな足で床を踏みしめ、姉に最後の一瞥を向ける。
「顧先生に相談してみよう」
監獄内部では、盧燕が慎重に歩を進めていた。彼女は壁に身を寄せ、周囲を警戒しながら目的の人物を探していた。鄭剛から聞いていた特徴を頭に思い浮かべる。
「左頬に大きな紫のあざがある男...」
そして、ようやく彼女は目的の人物を見つけた。独房の隅に座り込んでいる男。まさに鄭剛の説明通りの特徴を持っている。男は灰色の囚人服を着ており、その服は体に合わないほど大きく、痩せこけた体を強調していた。
盧燕は周囲を確認し、誰もいないことを確かめると、その独房に近づいた。彼女は小声で、しかし明確に問いかけた。
「あなたが梁白義さんですか?」
男は驚いて顔を上げた。長年の投獄生活で青白くなった顔に、突然の訪問者への警戒心が浮かんでいる。左頬の大きな紫のあざが、薄暗い独房の中でも際立っている。
「誰だ?どうして私の名を?」
「私はあなたに話を聞きたくてここまで来ました」
盧燕は素早く身を乗り出して説明を始めた。
「許貞の人身売買について、何か知っていることはありませんか?」
梁は躊躇した後、小さな声で答えた。彼の目は周囲を警戒しながら、時折盧燕の顔を見上げる。
「今となっては告発できる証拠はないだろう。だが、ある人物を探し当てれば可能性はある」
「誰です?その人物とは」
盧燕はさらに身を乗り出した。彼女の目は真剣さに満ちている。
その時、突然廊下に足音が響いた。見回りの看守が近づいてきたのだ。
盧燕は咄嗟に身を翻し、近くの物陰に隠れた。彼女の心臓が高鳴る。見つかれば、ここまでの努力が水の泡だ。彼女は息を殺し、看守が通り過ぎるのを待った。
楊家の宿舎では、鳳来が顧明智を探し出していた。顧明智はいつも通りの青い絹の長衣を着て、髪を整然と後ろで束ねている。
「先生、お話があります」
鳳来は小さな声で呼びかけた。
顧明智は鳳来の真剣な表情を見て、静かに頷いた。彼は優しく、しかし少し心配そうな目で鳳来を見つめる。
「どうしました、鳳来殿」
鳳来は深呼吸をしてから話し始めた。彼の小さな手は緊張で少し震えている。
「この状況を打開する方法はないでしょうか。私たちに何かできることは...」
顧明智は思慮深げな表情を浮かべた。彼は長い髭を撫でながら言葉を選ぶ。
「実は、私に一つ案があります。ただ...」彼は少し躊躇った後、続けた。「それほど確実な方法ではありませんが」
鳳来は真剣な眼差しで顧明智を見つめた。
「どんな案でも構いません。何か情報がつかめればいいのです」
顧明智は軽くため息をつき、諦めたように肩をすくめた。
「私には青墨学府にいる古い知り合いがおります。現在、彼は青墨で教鞭を取っているのですが...正直なところ、これくらいしか思いつきません」
鳳来の目に希望の光が宿った。
「それでも構いません。何もしないよりはましです」
監獄では、看守が去った後、盧燕が再び梁白義に近づいた。
「さっきの続きを」
彼女は急かすように言った。
梁は周囲を警戒しながら、小声で語り始めた。彼の声は震えている。
「
しかし、その言葉を最後まで聞く前に、再び足音が聞こえてきた。今度は複数の看守のようだ。
盧燕は歯噛みした。これ以上ここにいるのは危険すぎる。
「ありがとうございます。必ず真相を明らかにします」
彼女は梁に向かって小声で言うと、素早く身を翻し、来た道を戻っていった。
昼頃、楊家の宿舎では、突然の来訪者があった。それは変装した盧燕だった。彼女はいつもどおり、若い男性に扮しやってきた。彼女は大きな木製の盆に載せた料理を持って楊蒼来に近づいく。
「旦那様、お昼のお食事でございます」
盧燕は少し低めの声で言った。
蒼来は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに平静を取り戻した。
「ああ、ご苦労だった。そこに置いてくれ」
盧燕は従順にうなずき、盆を近くのテーブルに置いた。彼女はさりげなく蒼来の耳元で囁いた。
「料理の下に重要な情報があります」
そう言うと、彼女は深々と頭を下げ、足早に部屋を出ていった。
蒼来は盆に近づき、慎重に料理を持ち上げた。その下には、小さく折りたたまれた紙が隠されていた。彼はそれを素早くポケットに滑り込ませると、鳳来たちのもとへ向かった。
「重要な情報が入った」蒼来は低い声で言った。「お前たちにも聞いてもらいたい」
その頃、青墨の総督府では、張元豪副総督と許貞が密会していた。豪華な応接室で昼食を囲みながら、二人は静かに、しかし熱心に会話を交わしていた。張元豪は赤と金の刺繍が施された豪華な衣装を身にまとい、許貞は質素ながら上質な絹の服を着ていた。
張元豪は窓から外を見やりながら、低い声で言った。「楊家の動きが気になるな。蒼来が大人しくしていることを願うばかりだ」
許貞はうなずいた。彼の丸い顔には狡猾な笑みが浮かんでいた。
「確かに。だが、我々の計画は既に動き出している。今さら止められはしない」
「そうだな」
張元豪は許貞に向き直った。彼の目は野心に満ちている。
「我々の新事業は、必ず成功する。そして青墨の...いや、翠玉朝の経済をも我々が牛耳ることになるのだ」
二人は意味ありげな視線を交わし、静かに杯を合わせた。青墨の空は徐々に灰色に変わり、ポツポツと雨が降り始めた。
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