第21話:接触

青墨の西市は、人々の喧噪と活気に満ちていた。盧燕は、葉家を出るや否や、この雑踏に身を投じた。彼女は粗末な灰色の布服を纏い、頭には薄汚れた頭巾を被っていた。その姿は、一見すると街の雑多な人々に紛れる平凡な女性のようだった。しかし、その柳眉には僅かな緊張の色が宿り、鋭い眼差しで周囲を警戒している。


(許貞の弱みを見つけるんだ)


その思いを胸に秘め、盧燕は軽やかな足取りで商店を巡り始めた。華やかな絹織物や煌びやかな宝飾品を品定めする振りをしながら、彼女の耳は周囲の会話に注意を向けていた。その澄んだ瞳には、情報を探り当てようとする鋭い光が宿っていた。


ふと、背後に人の気配を感じる。盧燕の肩が一瞬こわばり、全身の神経が研ぎ澄まされた。振り返ると、そこには薄汚れた灰色の襤褸を纏った浮浪者が立っていた。その濁った瞳が盧燕を捉え、よろめきながら近づいてくる。盧燕の心臓が早鐘を打ち始めた。


(危険かもしれない)


盧燕は警戒心を強め、人混みに紛れて身を隠した。彼女の呼吸は浅く速くなり、冷や汗が背中を伝う。路地を抜け、人気のない裏通りへと足を向ける。暗がりに差し掛かったその時、再び同じ浮浪者の姿が目に入った。盧燕の瞳が見開かれ、全身の筋肉が一気に緊張する。


(まさか…総督府の手の者か!)


盧燕は躊躇なく腰に忍ばせた短剣に手をかけた。その指先は微かに震えていたが、眼差しには決然とした覚悟が宿っていた。しかし、浮浪者はゆっくりと懐から木製の印を取り出す。それは見覚えのある形をしていた。盧燕の目が驚きで大きく開かれる。


「楊家の…」


浮浪者は静かに頷き、「馬刃だ」と低い声で名乗った。盧燕が持参していた印と合わせると、それは見事にぴったりと噛み合う。緊張が解けた瞬間、盧燕はほっと息をつき、肩の力が抜けていくのを感じた。その表情には安堵の色が広がっていた。


馬刃は長年、青墨で諜報活動を行ってきた楊家の隠者だった。その存在を知る者は、楊家の中でもごくわずかであり、彼の真の姿を知る者はさらに少なかった。現在は浮浪者に扮し、街の隅々まで目を光らせている。その風貌からは想像もつかない鋭い眼光が、盧燕を見つめていた。


馬刃の姿は、一見すると本物の浮浪者そのものだった。灰色の襤褸は所々に継ぎ当てがされ、長年の風雨に晒されたかのような風合いを醸し出している。髪は乱れ、顔には幾筋もの皺が刻まれていた。しかし、その目は鋭く、長年の諜報活動で培った洞察力を秘めていた。


「普段は楊家と接触しないようにしているんだが、今朝からの様子がおかしいと思ってな」


馬刃は髭面を撫でながら説明した。その声音には、長年の経験に裏打ちされた冷静さが感じられた。


「君が内部に入ったのを見て、声をかけずにはいられなかったよ」


盧燕は馬刃の洞察力に感心しつつ、状況を説明した。琳華への襲撃、楊家への監視強化、そして許貞の調査について。彼女の言葉には急ぎの色が混じり、時折周囲を警戒するような仕草を見せた。


馬刃は眉をひそめ、「許貞か…奴の悪事は相当根が深いぞ」と呟いた。その表情には、長年の諜報活動で培った洞察力が滲んでいた。「人身売買の噂もあるが、証拠をつかむのは難しいだろう」


馬刃の言葉には重みがあった。彼は数十年もの間、青墨の闇の中で情報を集め、楊家のために働いてきた。その間、彼は何度も命の危険にさらされながらも、決して姿を現すことなく、影から楊家を支え続けてきたのだ。


夕暮れ時、青墨の街に新たな人影が現れた。嵐峡の守備隊長、鄭剛である。彼は褐色の革製の胴着に、黒い布製のズボンを身につけていた。腰には長剣が下がり、その姿からは武人としての威厳が感じられた。彼の精悍な顔には疲労の色が滲んでいたが、瞳には鋭い光が宿っていた。その姿には、明らかに長旅の疲れが感じられた。


鄭剛は馬から降り、総督府へと足を向けた。その体には山賊との戦いの痕跡が残っており、衣服の裾には嵐峡の土埃が付着していた。彼の歩みは重く、しかし確かなものだった。


「山賊たちの名簿はすでに作成しており、今後彼らの行動を管理する予定です」


総督府の役人に簡潔に報告を済ませた鄭剛は、次の目的地である楊家の宿舎へと向かった。彼の心には、楊家との対話を通じて嵐峡の今後について相談したいという思いがあった。その表情には、期待と不安が入り混じっていた。


しかし、楊家の宿舎に到着した鄭剛を待っていたのは、予想外の光景だった。宿舎の周囲には青墨の警備兵が厳重に配置されており、物々しい雰囲気が漂っていた。警備兵たちは青墨の軍服を着用し、槍や刀を手に持っていた。鄭剛の眉間に深いしわが寄る。


鄭剛が宿舎に近づくと、一人の警備隊長が厳しい表情で彼を制止した。警備隊長は光沢のある黒い革の胴着に、金色の飾りが施された帽子を被っていた。鄭剛の身分を確認すると緊張感した面持ちで答える。


「申し訳ありませんが、現在楊家との面会は許可されておりません」


警備隊長の声には微かな緊張が混じっていた。鄭剛は眉をひそめ、理由を尋ねようとしたが、警備隊長は頑なに口を閉ざしたまま、ただ首を横に振るばかりだった。その態度には、上からの厳しい命令を受けていることが窺えた。


「楊家と接触させたくないのか…」


鄭剛は心中で呟いた。彼は一瞬だけ宿舎の窓を見上げ、そこに楊蒼来の姿を捉えた気がした。しかし確認する間もなく、警備兵に促されるようにその場を離れざるを得なかった。鄭剛の背中には、無力感と共に何かを察知した緊張感が走っていた。


鄭剛が去った後、宿舎の中では楊蒼来が窓辺に立ち、遠ざかる鄭剛の背中を見つめていた。蒼来は深紅の上着に黒い袴を身につけ、その姿には楊家の威厳が漂っていた。彼の表情には複雑な思いが浮かんでいた。眉間にはしわが寄り、唇は固く結ばれていた。


「鄭剛が来ていたか…」蒼来は静かに呟いた。彼はこの予期せぬ訪問者が、現状を少しでも改善する可能性がないか思案していた。


翌日、いつものように食事の配達を装って訪れた盧燕に、蒼来は新たな指示を与える。彼の声には、普段の冷静さの中に微かな焦りが混じっていた。


「盧燕、鄭剛がこの青墨に来ていた。彼と接触してくれないか」蒼来の声には切迫感が滲んでいた。彼の指先が無意識に机の端を叩いている。「彼から何か情報が引き出せるかもしれない」


盧燕は蒼来の言葉の重みを感じ取り、静かに頷いた。彼女の瞳には強い決意と、その表情には、任務を全うしようとする強い意志が感じられた。


「承知しました。必ず鄭剛と接触し、有用な情報を得てみせます」


盧燕の返答に、蒼来は安堵の表情を浮かべた。彼の肩の力が少し抜け、微かな希望の光が瞳に宿った。彼女が立ち去る姿を見送りながら、蒼来は心の中で祈るような思いを抱いていた。その背中には、楊家の未来がかかっているという重圧が感じられた。


夕暮れ時、青墨の街を覆う橙色の光の中、盧燕は慎重に動いていた。彼女は男装をしており、濃紺の長衣に身を包み、頭には黒い布帽を被っていた。その姿は、一見すると街を歩く若い男性のようだった。約束の場所に到着すると、そこには見覚えのない中年男性の姿があった。しかし、その鋭い眼光を見て、盧燕は即座に馬刃だと悟った。


馬刃は見事な変装を施していた。灰色の上質な長衣に身を包み、髪は清潔に整えられ、顔も綺麗に剃られていた。その姿は、まるで成功した商人のようだった。盧燕が近づくと、馬刃は小声で言った。


「準備はできている。これなら、親子の商人として怪しまれることはないだろう」


盧燕は驚きの表情を隠せなかった。


「見事な変装です」


「長年の経験さ」馬刃は微笑んだ。「さて、行きましょうか」


二人は並んで歩き始めた。その姿は、まるで父と息子の商人のような自然な雰囲気を醸し出していた。


信頼できる筋から情報を得つつ、二人はようやく鄭剛の宿を突き止めていた。人目を避けながら近づく盧燕の動きは猫のように軽やかで、馬刃もまた年齢を感じさせない俊敏さで動いていた。


鄭剛の宿は、青墨の中心からはやや離れた、商人たちが頻繁に利用する質素な旅籠だった。盧燕は軽やかに屋根を伝い、その姿は影絵のように優雅だった。馬刃は物陰に身を隠しながら、鋭い目付きで周囲を警戒している。その経験豊富な態度からは、長年の諜報活動で培われた技術が窺えた。


「鄭剛、話がある」


盧燕は窓から小声で呼びかけた。その声には緊張が感じられた。


驚いた様子の鄭剛が振り返ると、盧燕は素早く部屋に滑り込んだ。その動きは風のように軽やかで、鄭剛は一瞬、目を疑った。馬刃も続いて入室し、三人は密やかな会話を始めた。部屋の空気は一気にはりつめる。


鄭剛は寝間着姿だったが、その体には常に緊張感が漂っていた。盧燕から事情を説明されると鄭剛の表情は硬く、言葉を選びながら話し始めた。その目には、過去の出来事を思い出す苦痛の色が浮かんでいた。


「実は、かつて李風が張副総督を摘発しようとしたことがあったんだ」


盧燕と馬刃は息を呑んで聞き入った。


「かつて李風が冤罪にかけられたのを盧燕は知っていると思うが、それが張副総督の件だ。私はその時、李風に協力せず見捨ててしまった。彼は人身売買の証人を確保していたのだが、裁判では偽証だと結論づけられてしまったんだ」


鄭剛の目には後悔の色が浮かんでいた。その拳は無意識のうちに強く握りしめられ、声には怒りの色が混じっていた。


「その証人は今も投獄されているはずだ。生きていればだが」


「当時の、李風の調査文書は残っているのか?」


馬刃が尋ねた。薄暗い部屋の中で、彼の目だけが鋭く光っていた。


「青墨のどこかに隠しているらしい。だが、その場所は李風しか知らない。嵐峡に帰ったら李風に確認してみよう」


鄭剛は疲れた様子で髪をかき上げた。


盧燕と馬刃は顔を見合わせた。この情報は、彼らの調査に新たな展開をもたらす可能性がある。二人の目には、光が宿っていた。盧燕の濃紺の長衣が月明かりに照らされ、一瞬銀色に輝いた。


「李風は大丈夫?」


盧燕が鄭剛に尋ねる。彼女の声には、かすかな心配の色が混じっていた。


鄭剛は深く息を吐き、答えた。


「李風が生きていると張副総督にばれると都合が悪いと考え、今彼は黒風と名前を偽っている」


その言葉を聞いて盧燕は安堵の表情を浮かべた。彼女の肩の力が少し抜けるのが見えた。


「監獄に収容されている証人に接触できれば…」


盧燕が呟いた。その声には、新たな可能性への期待が込められていた。彼女の指が無意識のうちに、腰に下げた短剣の柄を撫でていた。


馬刃は静かに頷いた。


「何か重要な情報が得られるかもしれない」


彼の声には、長年の経験に基づく慎重さが感じられた。その目には、これから直面するであろう危険への覚悟が宿っていた。


二人は鄭剛に感謝の意を表し、素早く宿を後にした。夜の帳が降りる青墨の街で、盧燕と馬刃は新たな計画を練り始めた。その姿には、次の目的が明確になったことの自信が現れていた。


監獄に潜入し、証人と接触する。それは危険な賭けだったが、許貞の悪事を暴く唯一の手がかりかもしれない。


盧燕は夜空を見上げた。半月が雲間から顔を覗かせ、まるで彼女たちの行動を見守るかのようだった。その澄んだ瞳には、未来への希望と不安が交錯していた。


「準備するわ」


盧燕は決意を込めて言った。その声には、微かな震えが混じっている。

馬刃が静かに答える。彼の皺だらけの顔が月明かりに照らされ強いコントラストを描いている。


「監獄に忍び込むのは私に任せてもらいたい。一計がある」


二人の影は、青墨の闇に溶け込むように消えていった。街の喧噪が遠のく中、彼らの足音だけが静かに響く。盧燕の胸の内には、興奮と不安が渦巻いていた。


翌日の夜明け前、盧燕は宿の一室で目を覚ました。窓から差し込む薄明かりに、彼女の思いつめた表情が浮かび上がる。彼女は簡素な木製のベッドから起き上がり、窓際に立った。薄い麻の寝巻きが朝の冷気に揺れる。


一方、楊家の宿舎では、楊蒼来が早朝から起きだしていた。彼の瞳には、昨夜眠れなかった痕跡が残っている。蒼来は豪華な絹の寝巻きを着たまま窓辺に立ち、朝もやに包まれた青墨の街並みを眺めながら、深い溜息をついた。


「琳華、どうか早く回復してくれ」


蒼来の呟きには、姪を案じる叔父としての愛情と、この危機的状況を打開できない自身への苛立ちが混じっていた。そんな彼の背後で、小さな物音が聞こえた。


振り返ると、そこには楊鳳来の小さな姿があった。


「どうした鳳来」


「叔父上、私にも何かできないか考えておりました」


「鳳来、お前にはまだ早いよ。だが、お前の気持ちはよくわかった」


蒼来がそう声をかけると鳳来は一礼して去っていく。


一方、青墨の監獄では、囚人たちが朝食の準備に追われていた。その中に、一人の痩せこけた男がいた。彼は粗末な囚人服を身にまとい、その姿はまるで幽霊のようだった。彼の目は虚ろで、長年の投獄生活で希望を失ったかのようだった。


しかし、その男の耳に「許貞」の名が聞こえた時、彼の瞳に一瞬、光が戻った。それは、かつて自分が証言しようとした真実への執着なのか、それとも恐怖の反応なのか。その一瞬の変化は、誰にも気づかれることなく消えていった。


街の喧噪が徐々に大きくなる中、青墨の一日が始まろうとしている。しかし、この街の闇は、まだまだ深く、容易には晴れそうにない。

馬刃の監獄潜入計画、楊家の苦境、そして囚われの証人。これらの糸が絡み合い、やがて大きな渦を巻き起こすことになるとは、誰も予想だにしていなかった。

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