第20話:禁錮
朝靄が立ち込める青墨の街。楊家の宿舎を包む静寂を、突如として響き渡る騒々しい足音が破った。
「何事だ?」
蒼来が窓から顔を出すと、青墨警備兵の一団が宿舎を取り囲んでいるのが見えた。その数はゆうに百を超えていた。銀色の甲冑に身を包んだ兵士たちは、まるで鉄の壁のように宿舎を包囲していた。彼らの息は白い霧となって立ち昇り、その姿はさらに不気味さを増していた。
「楊蒼来殿。ご安心ください。昨晩の襲撃事件を受け、お客人の安全を守るためにまいりました」
青墨警備隊長と思しき男が、にやりと笑みを浮かべながら言った。彼は他の兵士たちよりも一際豪華な装飾が施された甲冑を身につけ、腰には鮮やかな緋色の帯を巻いていた。だが、その目は笑っていなかった。むしろ、冷たい光を湛えていた。
蒼来は眉をひそめ、警戒心を露わにしながら尋ねた。彼の手は無意識のうちに、腰に下げた刀の柄に触れていた。
「襲撃事件だと?我々は誰にもそのような襲撃があったことを伝えていないが、どこからその情報を得たのだ?」
警備隊長は静かに答える。その声音には、わずかながら嘲りの色が混じっていた。
「そういう報告があったとだけ申し上げておきます。詳細については守秘義務がございますので、お答えできかねます」
蒼来はその言葉に不信感を募らせたが、ここで追及しても得るものはないと判断した。彼の表情は硬く、目は警備隊長の一挙手一投足を逃さぬよう注視していた。
「そうか。では、我々の安全のために来たというわけだな」
「その通りでございます」警備隊長は頷いた。その動作は、まるで操り人形のように不自然だった。「今後は、宿舎の出入りを名簿で管理させていただきます。外出の際も、我々が同行させていただきますので」
王剛は顔を真っ赤にして怒鳴った。彼の筋骨隆々とした体が怒りに震え、その声は朝の静寂を破るほどの大きさだった。
「何の権利があって我々の行動を制限する!」
警備隊長は平然とした態度で返した。その冷淡な態度は、さらに王剛の怒りを煽るものだった。
「貴賓の安全を守るためです。我々には青墨の治安を守る責務がございます」
蒼来は静かに頷き、「わかった。そうさせてもらおう」と言った。彼の声は落ち着いていたが、その目には鋭い光が宿っていた。
警備隊長はにやりと笑うと、楊家に背を向け警備を続けた。その背中からは、勝ち誇ったような雰囲気が漂っていた。
蒼来はこれ以上の会話はできないことを悟り、宿舎の奥に下がる。彼の歩みは重く、肩には見えない重圧が乗っているかのようだった。王剛は蒼来を追いかけた。その足取りは荒々しく、床を踏みしめる音が響き渡った。
「蒼来様!あれでは、まるで我々が犯人だと自ら告白しているようなものではありませんか!」
王剛の声は怒りに震えていた。その目には、憤怒の炎が燃えていた。彼の拳は強く握りしめられ、その筋肉は青筋が浮き出るほどに緊張していた。
蒼来は深いため息をつくと、低い声で答えた。彼の表情には疲労の色が濃く現れていた。
「わかっているさ、王剛。だが、これは明らかに総督からの警告だ。下手な動きはするなということだろう」
蒼来の冷静な分析に、王剛は歯を食いしばった。その表情には、怒りと共に無力感が滲んでいた。彼の目は地面に向けられ、拳は更に強く握りしめられた。
「しかし、このまま...」
「ああ、もちろんこのまま黙っているつもりはない」蒼来は王剛の肩に手を置いた。その手には、王剛を落ち着かせようとする意図が込められていた。「だが、今は敵の動きを見極める時だ。焦ってはならん」
王剛の表情にはありありと不満が現れていた。彼の目は蒼来を見上げ、その中には複雑な感情が渦巻いていた。
昼時を告げる鐘の音が街に響き渡る頃、宿舎の門前で小さな騒ぎが起こった。
「お届け物でございます!青墨名物の墨魚炒飯を…」
若い配達人の声が聞こえてきた。その声には、わずかながら緊張の色が混じっていた。警備兵たちが慌てて彼を取り囲む。彼らの動きは素早く、まるで獲物を狙う猛獣のようだった。
「待て!誰だ、お前は?」
「は、はい!
配達人は身を縮こまらせながら答えた。その姿は、まるで小動物のように震えていた。警備兵たちは互いに顔を見合わせ、困惑した様子を見せた。
騒ぎを聞きつけて蒼来が表に出てくると、彼は何かを感じ取り、静かに言った。その目には、鋭い洞察力が宿っていた。
「入れてやれ」
蒼来の一声で、警備兵たちは渋々道を開けた。彼らの表情には、明らかな不満の色が浮かんでいた。
名簿に名前を書き宿舎に入ってきた配達人は、周囲を確認すると素早く頭巾を脱いだ。その動作は、まるで長年の訓練を積んだ者のように滑らかだった。そこに現れたのは…
「盧燕!?」
蒼来が小さな声で驚きの声を上げた。彼の目は大きく見開かれ、その表情には驚きと共に安堵の色が浮かんでいた。
盧燕は素早く状況を察したようだ。彼女の目は鋭く周囲を見回し、その姿勢は常に警戒を怠らないものだった。彼女は低い声で蒼来たちに向かって言った。
「実は今朝、宿舎を訪れたのですが、警備兵に囲まれていて入れそうになかったのです。そこで、この姿で参りました。葉暖陽というのは、現在宿泊している先の、父の知り合いの息子の名前をお借りしたのです」
蒼来は納得したように頷いた。彼の洞察力が、この危機的状況下でも冴えわたっていることが窺える。彼の目には、盧燕の機転に対する称賛の色が浮かんでいた。
「よくぞ来てくれた、盧燕。我々には今、外の目と耳が必要なのだ」
その時、奥の部屋から顧明智が現れた。彼の服装は乱れ、目の下には疲労の色が濃く現れていた。その表情は暗く沈んでいた。
「琳華様の容体が危険な状態です。熱が下がらず、呼吸も浅くなっています。このままでは...」
顧明智の言葉が途切れた。その声には、深い絶望の色が滲んでいた。部屋の空気が一瞬で凍りついたかのようだった。
蒼来は深く息を吐き、重々しい声で説明を始めた。彼の表情には、これから話す内容の重大さが現れていた。
「盧燕、事情を説明しよう。昨夜、我々の宿舎が何者かに襲撃された。たまたま居合わせた琳華が襲われ、深手を負ったのだ。襲撃者は素早く逃げおおせた」
王剛が歯を食いしばりながら続けた。彼の目には怒りの炎が燃え盛り、その声は憎しみに満ちていた。
「卑怯な奴らめ...琳華様は意識を失ったまま、熱が下がらないのです」
「青墨の医者に診せることは危険すぎる」蒼来が続けた。彼の声は低く、慎重だった。「我々の立場を考えれば、この事態を公にすることもできない。そのため、今は楊家の者だけで対処している」
顧明智が頷きながら付け加えた。彼の表情には深い憂いが刻まれていた。
「
盧燕の表情が一変した。彼女の目に怒りの炎が宿り、拳を強く握りしめた。その指の爪が、ほとんど掌に食い込みそうなほどだった。彼女の体全体が緊張し、まるで今にも飛び出しそうな勢いだった。
「許せない...」盧燕の声は低く、震えていた。「誰がこんな...琳華様を...」
彼女の体が微かに震え始めた。それは怒りと悲しみ、そして無力感が入り混じった複雑な感情の表れだった。盧燕の目には涙が浮かんでいたが、それは決して落ちることはなかった。代わりに、その瞳には強い決意の光が宿っていた。
蒼来は彼女の肩に手を置いた。その手には、盧燕を落ち着かせようとする温かみが感じられた。
「我々も同じ思いだ。だが、今は冷静に行動しなければならない」
「わかりました」盧燕は深く息を吐いた。その息には、これから自分が取るべき行動への覚悟が含まれていた。彼女の姿勢は徐々に落ち着きを取り戻し、その目には冷静さが戻ってきた。「私に何ができるでしょうか?」
蒼来は深く考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。彼の目は遠くを見つめ、その中には複雑な思考が渦巻いているのが見て取れた。
「盧燕。君には重要な役目を任せたい。我々の外との連絡役として、そして青墨の内情を探ってほしい」
「承知いたしました。かねてより総督と繋がりがあると噂されている許貞について、調査してみましょう。彼の弱みを探れるかもしれません」
盧燕の声には決意が満ちていた。その目は鋭く、まるで獲物を狙う猛禽類のようだった。
蒼来は頷いた。彼の表情には、盧燕への信頼と同時に心配の色も浮かんでいた。
「頼むぞ、盧燕。だが、くれぐれも無理はするな。危険を感じたらすぐに身を引くんだ」
蒼来との会話を終えた盧燕は、宿舎を出る前に立ち止まった。彼女の目には迷いの色が浮かび、その手は無意識のうちに胸元を握りしめていた。
「蒼来様」盧燕は静かに、しかし決意を秘めた声で言った。「琳華様のお部屋へ…一度だけ寄らせていただいてもよろしいでしょうか」
蒼来は一瞬躊躇したが、盧燕の真摯な眼差しに心を動かされ、静かに頷いた。「わかった。だが、長居はするなよ」
盧燕は感謝の意を込めて軽く頭を下げ、静かに琳華の部屋へと向かった。廊下を歩く盧燕の足取りは重く、その表情には深い憂いの色が浮かんでいた。
琳華の部屋の前に立つと、盧燕は深く息を吸い、そっとドアを開けた。部屋の中は薄暗く、漂う薬草の香りが鼻をついた。
琳華は蒼白な顔で布団の中に横たわっていた。その呼吸は浅く、額には汗が滲んでいる。盧燕は琳華の傍らにそっと膝をつき、震える手で琳華の手を握った。
「琳華様…」盧燕の声は掠れ、目には涙が浮かんでいた。「どうか…どうかお目覚めください」
琳華の手は熱く、その熱が盧燕の手を通じて伝わってきた。盧燕は琳華の苦しむ姿に胸を締め付けられる思いだった。
「私が…必ず貴方の仇を討ちます。ですから…」盧燕の声が震えた。「ですから、どうか諦めないでください」
盧燕は静かに立ち上がり、琳華の額に軽くキスをした。その瞬間、琳華の眉が僅かに動いたように見えた。盧燕は驚いて琳華の顔を覗き込んだが、琳華の目は閉じたままだった。
「きっと…きっと戻ってきます」
盧燕は小さく呟いた。その声には強い決意が込められていた。
盧燕は最後に琳華を見つめ、静かに部屋を出た。ドアを閉める際、彼女の目には燃えるような決意の色が宿っていた。その姿は、まるで戦場に向かう武者のようだった。
蒼来が廊下で待っていた。盧燕は深く頭を下げ、「ありがとうございました」と静かに言った。
蒼来は無言で頷き、盧燕は軽く会釈すると、再び配達人の姿に戻り、宿舎を後にしようとした。
しかし、その時、突然背後から声がかけられた。
「盧燕、待ちなさい」
振り返ると、そこには楊雲雷の姿があった。その眼差しは厳しくも温かく、盧燕を見つめていた。盧燕は一瞬たじろいだが、すぐに姿勢を正した。
「雲雷様」
盧燕は恭しく頭を下げた。
雲雷は周囲を確認し、誰もいないことを確かめると、低い声で話し始めた。
「今後、楊家の者が君に接触する可能性がある。その時は、この印をもって相手が楊家のものだと確かめるように」
そう言って、雲雷は小さな木製の印章を盧燕に渡した。それは蒼龍の紋章が刻まれた、拇指ほどの大きさの印だった。
「これがあれば、楊家の者だと確認できる。くれぐれも慎重に行動するように」
盧燕は静かに頷き、印章を大切そうに懐に納めた。彼女の目には、決意と共に感謝の色が浮かんでいた。
「心得ました、雲雷様。この命に代えても、必ず任務を果たしてみせます」
雲雷は盧燕の肩に手を置いた。その手には、盧燕を気遣う温かみが感じられた。
「無理はするな。君の命が一番大切だ。わかったか?」
「はい」
盧燕は力強く答えた。
盧燕は再び深々と頭を下げ、今度こそ宿舎を後にした。彼女の動きは素早く、まるで影のように静かだった。
盧燕は慎重に街を歩き、人目を避けながら葉家に戻った。彼女の目は絶えず周囲を観察し、その歩みは軽やかで、まるで街の喧噪に溶け込むかのようだった。葉家の門をくぐると、彼女は深い息をついた。その息には、緊張から解放された安堵の色が混じっていた。
「盧燕!無事だったか」
「楊家の方々は無事でした。ですが、琳華様が重傷を負われているそうです」
盧燕の声は低く、その中には抑えきれない怒りと悲しみが混じっていた。葉和平の表情が曇った。彼の目は一瞬閉じられ、深いため息が漏れた。
「そうか...それで、これからどうするつもりだ?」
葉和平の声には、すでに答えを予測しているかのような諦めの色が混じっていた。盧燕は決意に満ちた表情で答えた。彼女の目は燃えるように輝き、その姿勢は挑戦的だった。
「許貞の弱みを探ります。彼の黒い噂を裏付ける証拠があれば...」
「待て!」葉和平が声を荒げた。その声は部屋中に響き渡り、盧燕を一瞬たじろがせた。「許貞か...奴には黒い噂が絶えない。深入りして、お前の身に何かあっては、盧天佑に顔向けできんぞ」
葉和平の顔には深い憂慮の色が浮かび、その目は盧燕を真っ直ぐに見つめていた。盧燕の目に怒りの炎が燃え上がった。彼女の声は震えていた。その体は緊張で硬直し、拳は強く握りしめられていた。
「和平さん!どうして分からないのですか?琳華様が...琳華様があんな目に遭ったのに、このまま黙っていろというのですか?!」
盧燕の声は感情に溢れ、その目には涙が光っていた。葉和平は盧燕の激しい感情に驚いた様子だったが、なおも諭そうとした。彼の声は柔らかく、慈愛に満ちていた。
「盧燕、落ち着け。お前の気持ちは分かるが...」
「分かるはずがありません!」盧燕は叫んだ。涙が頬を伝い落ちる。その声は悲痛で、部屋中に響き渡った。「琳華様は私を信頼してくれた。私を...私を尊敬すると言ってくれた数少ない人なのです。その琳華様が今、生死の境をさまよっているのに...」
盧燕の声が途切れ、彼女は両手で顔を覆った。その肩は激しく震え、抑えきれない感情が溢れ出ていた。しかし、すぐに顔を上げ、決意に満ちた眼差しで葉和平を見つめた。その目には、もはや涙はなく、強い決意の光だけが宿っていた。
「和平さん、私には行かねばならない理由があるのです。琳華様のため、そして...私自身のためにも」
葉和平は深いため息をついた。彼の表情には、盧燕への深い愛情と、避けられない運命への諦めが混じっていた。盧燕の決意の強さに、もはや何も言えないことを悟ったようだ。
「わかった。だが、くれぐれも慎重にな。許貞の力は侮れんぞ」
葉和平の声には、深い心配と同時に、盧燕への信頼も込められていた。盧燕は静かに頷いた。その目には、復讐を誓う強い決意の色が宿っていた。同時に、和平への感謝の思いも浮かんでいた。
盧燕は部屋を出る前に、もう一度葉和平を振り返った。その目には複雑な感情が交錯していた。感謝と決意、そして僅かな不安が入り混じっているようだった。
「和平さん、ありがとうございます。必ず...必ず無事に戻ってきます」
そう言い残すと、盧燕は足早に部屋を出て行った。その後ろ姿は、まるで運命に立ち向かう戦士のように凛々しく、同時に哀しげでもあった。葉和平は長い間、盧燕の去った方向を見つめていた。その目には、深い懸念と、盧燕への信頼が混ざり合っていた。
「気をつけろよ、盧燕...」葉和平は小さくつぶやいた。その言葉は、誰にも聞こえることのない祈りのようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます