第19話:陰影
青墨の夜空に、満月が冷たい光を投げかけていた。高台に佇む一人の影。それは夜鴉だった。彼の瞳は遠く楊家の宿舎を見つめ、心中には激しい葛藤が渦巻いていた。
「あの少女の目...」
夜鴉の脳裏に、琳華との一瞬の戦いが蘇る。彼女の凛とした佇まい、果敢に立ち向かってくる姿。それは、彼がこれまで葬り去ってきた多くの大人たちとは全く異なるものだった。
夜鴉は黒い装束の袖をまくり、左腕の傷跡に目をやった。琳華との戦いで負った傷だ。軽いあざではあったが、彼の心には深く刻まれていた。
「私は...何のために...」
囁くような言葉が、夜風に溶けていく。
一方、総督府では趙安が執務室で夜鴉の帰還を待っていた。青白い月光が窓から差し込み、彼の老いた顔に不気味な陰影を作っている。
そこに、まるで影から現れたかのように、夜鴉が姿を現した。
「趙総督、申し訳ありません。任務は...失敗しました」
夜鴉の声には、珍しく迷いが感じられた。
趙安は静かに目を閉じ、深いため息をついた。しかし、その表情には怒りではなく、むしろ深い思慮の色が浮かんでいた。
「君が失敗するということは、相手がただ者ではないということだ。仕方あるまい」
趙安はゆっくりと立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
「しかし、これからが正念場だ。再び楊家の下へ赴き動きを徹底的に監視せよ。彼らの弱点を見つけ出すのだ」
夜鴉は無言で頷いた。しかし、その心には今まで感じたことのない感情が芽生えていた。それは任務への疑問であり、同時に楊家への興味でもあった。
趙安は机に向かい、筆を走らせ始めた。
「張元豪、馮灼、許貞、劉正定...」
彼は側近に伝令を託した。政治、財務、経済、司法のトップたちを集める必要があった。
趙安の執務室には、呼び出された幹部たちが次々と姿を現した。張元豪副総督は常に笑みを浮かべているが、その目は冷たく光っている。馮灼戸部尚書は神経質そうに指を組み合わせ、落ち着きなく椅子に座った。商工会議所長の許貞は豪奢な衣装に身を包み、自信に満ちた様子で入室してきた。最後に入ってきた劉正定は、青黒い着物をまとい、眼鏡の奥の鋭い眼光で部屋中を見渡した。
趙安は重々しく立ち上がり、窓際に歩み寄った。月光が彼の老いた顔に不気味な陰影を作る。
「諸君」趙安が振り返り、低い声で口を開いた。「事態は思わぬ方向に動き始めた。楊家の対応次第では、我々の立場が危うくなる可能性もある」
趙安が状況を説明し終えると、許貞が豪快な笑い声を上げた。その声には明らかな皮肉が込められていた。
「おや、総督。あなたの自慢の影が失敗したとは珍しい。さては年貢の納め時かな?」
許貞は金の指輪をはめた太い指で自身の腹を叩きながら言った。その目は笑っていたが、鋭い光を宿していた。
趙安は眉をひそめたが、表情を変えずに許貞を見つめ返した。
「許貞、今は冗談を言っている場合ではない。我々全員が危機に瀕しているのだ」
許貞は肩をすくめ、なおも余裕の表情を崩さなかった。
「まあまあ、そう肩肘張らずとも。私が申し上げたいのは」彼は再び大きな手振りで言った。「心配することはないということです。金の力で解決できない問題などないのです。彼らの弱みを買収すればいい」
趙安は深いため息をつき、彼は眼を細め、許貞を見つめ直した。
「確かに、金は有効な武器だ。だが、楊家相手では買収は通用しない。より巧妙な策が必要だ」
許貞は不満そうに、椅子に深く腰を沈めた。ただ、その表情には、自分の発言が議論の口火を切ったことへの誇らしさが見えた。
張元豪が軽く咳払いをし、優雅に言葉を紡ぎ始めた。
「総督、我々にはまだ十分な時間があります。楊家が動く前に、先手を打つべきではないでしょうか」
馮灼は落ち着きなく椅子の背もたれに寄りかかり、震える声で言った。
「しかし、楊家は中央とのつながりが強い。軽率な行動は避けるべきです」
劉正定は眼鏡を光らせながら、冷静に発言した。
「法的な観点から言えば、我々にはまだ多くの選択肢がございます」彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の中央に歩み寄った。「楊家の行動を制限する口実はいくらでも作れます。例えば...」
趙安は手を上げて劉正定の言葉を遮った。「具体的な策は後ほど詰めよう。今は情報収集が最優先だ」
彼は机に向かい、引き出しから一枚の地図を取り出した。青墨の詳細な街路図だ。趙安は地図を広げ、指でいくつかの場所を指し示した。
「張元豪、お前は楊家の宿舎周辺の警備を強化しろ。黄鉄山にも警戒させるよう伝えろ。馮灼、彼らの資金の動きを追え。許貞、商人たちの情報網を使って楊家の噂を集めろ。場合によっては楊家の悪評をでっちあげて広めるように」
趙安は最後に劉正定を見つめ、
「そして劉正定、お前は楊家に対抗できる法的根拠を探れ。何か使えるものがあるはずだ」
幹部たちは厳かに頷き、それぞれの役割を確認した。部屋の空気は緊張感に満ちていた。
趙安は再び窓際に立ち、月明かりに照らされた青墨の街並みを見下ろした。その目には、権力への強い執着と、楊家への警戒心が宿っていた。
「諸君、我々の治世を脅かす者は誰であろうと、決して許さん。こちらの動きが悉く悪手になっているが、ここは我らの街、青墨だ。楊家といえども旅先ではうまく立ち回れまい。我々が一枚岩となって立ち向かえば、楊家にも必ず勝利できよう」
趙安の言葉に、幹部たちは静かに、しかし力強く頷いた。彼らの目には、権力を守り抜く決意が燃えていた。
会議が終わり、幹部たちが次々と部屋を後にした。扉が静かに閉まり、趙安は再び窓辺に立ち、月明かりに照らされた青墨の街並みを見つめていた。
しばらくすると、部屋の隅にある重厚な衝立の陰から、一人の人物がそっと姿を現した。その人物は慎重に趙安に近づき、低い声で話し始めた。
「趙総督、申し訳ございません。私の提案が状況を悪化させてしまったようで...」
その声には深い後悔の色が滲んでいた。趙安はゆっくりと振り返り、月光に照らされた相手の顔を見つめた。
「気にするな」趙安は穏やかな口調で答えた。その声には、長年の付き合いから生まれた信頼が感じられた。「誰にだって失敗はある。お前の提案は魅力的だった。それに、最終的な決定したのは私だ」
趙安は相手の肩に手を置き、優しく微笑んだ。
「ここをなんとか乗り切り、我らの最終目的、玄興の廃位を達成させねばならない」
その人物は、趙安の言葉に少し安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございます、総督。これからは更に慎重に、そして効果的に行動いたします」
趙安は頷き、再び窓の方を向いた。
「良い。だが、焦ってはならんぞ。楊家の弱点を見つけ出し、確実に打撃を与えねばならん」
二人の影が月明かりに長く伸び、まるで青墨の街全体を覆い尽くすかのようだった。陰謀の種は既に蒔かれ、今や静かに、しかし確実に芽吹こうとしていた。
一方、楊家の宿舎では、重苦しい空気が漂っていた。琳華のベッドを囲むように家族が集まり、今後の方針を話し合っていた。
琳華は青白い顔で眠っている。その額には汗が滲み、時折痛みに顔をしかめる。鳳来は姉の手を握りしめ、必死に涙をこらえていた。
「琳華の容態が安定するまで、我々はここに留まらざるを得ない」
蒼来が静かに切り出した。その声には怒りと悲しみが混ざっていた。
「この機会に青墨の実態を探ることもできるはずです」
鳳来が真剣な表情で言った。
楊雲雷は孫たちの様子を見つめながら、深く考え込んでいる。
琳華の傷は深く、回復には時間がかかる。しかし、この逆境を乗り越え、青墨の闇を暴くという決意が、楊家の面々の心に芽生えていた。
夜が更けていく中、夜鴉は再び楊家の宿舎の近くを訪れていた。彼は屋根の上に立ち、窓から漏れる灯りを見つめていた。
(あの少女は...無事なのだろうか)
思わず浮かんだその思いに、夜鴉は自分でも驚いた。今までにない感情が彼の心を揺さぶる。任務への疑問、そして楊家への興味。彼の中で、何かが変わり始めていた。
月光に照らされた青墨の街並みを背に、夜鴉の姿が影のように溶けていった。この夜を境に、彼の運命も、そして青墨の未来も、大きく動き始めようとしていた。
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