第5話 文字の勉強

 昼食を終えてからベルはサイラスたちと合流したが、アンは午前中の勉強のキリがよくなかったので、図書館に戻ることにした。

 魔王による魔法で中庭に小川ができた日、同時に、紙や鋏などの工作道具が入った机が図書館に増設されていたのだが、クレヨン、という脂を使った絵具による本の汚損が激しかったため、今は更なる増築により、工作室が作られている。

 そのため、工作がしたい子は工作室で遊ぶようになったので、今では図書館に居るのは、本を読みたい子や勉強をしたい子だけだ。

 隅の方には絨毯が敷かれていて、何人かの年長の子が、小さい子たちに本を読み聞かせてやってはいたが、それ以外は静かなものだ。

 本棚の影では、アンよりも少し年上らしい、貴族の子が難しそうな本を読んでいる姿が見える。

 アンは彼らの邪魔にならないように、午前中、ベルに読み方を教わっていた本を手に、図書館の奥へと向かった。

 図書館の奥には、窓に面して細長いテーブルと丸い椅子が並んでいて、そこは勉強をするのにちょうど良かった。

 どうやら、魔王城の外壁にあたる部分らしく、窓の外には空が広がっている。日によっては、窓の下が雲海となっている時もあって、そのたびに「ここは空に浮かぶ魔王城なのだな」と感心した。

 アンは一人なのもあって、そっと、窓のガラスに触れた。

 つめたい。

 こんなにも大きくて、一枚の、歪みも気泡もない透明なガラスは、見たこともなかった。

 一体、どれだけ高価なのだろうと考える。

 奴隷商人だったアンの父も、小さなガラスの瓶を持ってはいたが、それはもっと濁った緑色をしていた。


「みっともない」


 突然、冷たく吐き捨てるような言葉を投げ掛けられて、アンは硬直した。

 声がした方を向くと、蜂蜜色の髪の少年、エリックが居た。

 サイラスと喧嘩をした、いつもひとりぼっちのエリックだ。


「珍しいものを見るとベタベタ触るのは、庶民の癖なのか?」


 馬鹿にしたように言われて、アンは自分が恥ずかしくなった。

 確かに、エリックの言う通りだ。よくよく見ると、アンが触ったところに、白く指紋が付いている。曇りひとつなかった窓に無遠慮に触って汚したことを、アンは恥じた。

 あの日の喧嘩からずっと、エリックとサイラスは仲が悪い。とはいっても、食事抜きの罰を受けるのは嫌なので、サイラスから突っ掛かるようなことはない。エリックの方も、サイラスと顔を合わせても特に何も言わないが、彼らは廊下ですれ違う時なども、お互いに相手をものすごい顔で睨み付けるのだ。

 エリックはサイラスと仲が良いアンやベルにも同じ対応だった。直接言葉を掛けることはないが、鋭い目で睨み付けてくる。

 そういう時に、ベルは「なんだい、感じ悪いね」と言うぐらいなのだが、アンは正直、エリックが怖かった。

 高圧的で、明らかに誰かを支配する階層の人間特有の雰囲気がエリックにはあったからだ。

 立ち居振る舞いがしっかりして、洗練されていることから、見ただけで、恐らくはどこかの国の高位貴族の子息であると知れた。奴隷のアンでもわかるぐらいなので、他の、庶民の子や貴族の子なら尚更だった。

 最初の頃は、貴族の子供たちが何人かエリックに声を掛けてはいたようだが、エリックはその全員に対して、酷い言葉を投げ掛けて追い返してしまったのだという。

 加えて、魔王を侮辱する発言が最も多いのも、エリックだった。


「自分の親を殺されておきながら、悪逆の魔王の機嫌を伺うなんて、どうかしてる」


 エリックの言い分としては、そういうことらしかった。

 彼は魔王に対する嫌悪を隠そうともしなかったし、ことあるごとに魔王を憎んでいるような発言もしていた。むしろ、誰よりも魔王に反発しているのがエリックだったので、彼の暴言によって、魔王に対する侮辱は罪として罰せられない、と判明した面もある程だ。

 三食おやつにお風呂と清潔な服と娯楽を提供してくれる魔王のことが、子供達の大半はもう好きになっていた。

 そもそも、ここに居る子供は魔王による粛清で親や保護者を失った子供だったので、死んだ親や保護者は、大抵の場合ろくでなしだったのだ。だから、特に奴隷の子や賎民の子、庶民の子などは、魔王のことを悪く言うエリックのことを「お高くとまってる」と嫌っていた。

 元は下級貴族で、両親が領民に対して重税を課した罪で処刑された少年少女も何人かは居たが、彼らは「確かに、魔王に対して複雑な気持ちはあるけど、それは両親の罪を考えると仕方のないことだとも思っているよ」と感じていることが多いようだった。

 話を聞くと、最初こそ両親を殺した魔王をひたすら怨みはしたが、同じところに暮らす奴隷や賎民や庶民の暮らしの実情を知るうちに、考えが変わっていったのだという。

 確かに、両親が好きだったのなら、複雑な気持ちになるだろう。

 アンだって、もし、もしも母が魔王に殺されていたのなら、魔王を憎んでいたかも知れない。

 アンは父のことは恐怖していて、嫌悪もしていたし、家族とも感じていなかった。けれど、自分に対してひたすら冷たくするばかりであっても、同じ奴隷小屋の隅で暮らしていた母のことは、好きだった。

 母を殺されていたら、と考えると、魔王を憎むエリックの気持ちが少し、わかるような気がした。

 

「ご、ごめんなさい」

「謝る必要はない。生まれによるお前の下賤さが変わる訳じゃないからな」


 フン、とエリックは鼻を鳴らして、アンを避けるようにして一番奥の席に座った。


「あの、エリック……? どうして、他の子とお話ししないの?」

「お前には関係がない」

「ごめんなさい」

「だから、謝る必要はない」


 苛立ったような、それでいて呆れたような物言いだが、アンはエリックの言葉に、侮蔑がないことに気が付いた。

 本気で謝る必要がないと思っているし、同時に、話し掛けられることに対して煩わしさを感じているのだろう。


「その、他に、貴族の子たちだって居るのに、どうしてかなって」

「奴らとは話すことは何もない。両親の仇を取ろうともしないクズどもだ。貴族の責務は領土と国土を守ること。それらを侵す魔王に擦り寄るのが気に入らない」


 感覚として、アンにはエリックの言っていることが今ひとつ、よく分からなかった。

 アンは奴隷なので、自分の待遇や、自分のいる環境が良くなればそれで良いのだけれど、貴族は違うのかも知れない。

 貴族、というか、エリックにとっては。


「ハァ。身分の低い下賤の者たちが、より強いものに傅くのは仕方ない。だから、お前たちが魔王に媚を売って生き残ろうとするのは当然だ。まあ、見ていて心底、軽蔑はするが……調子に乗って、字の勉強をしたところで無意味だ。庶民が貴族になることはない。庶民に教育なんて必要ないんだ。お前も農民なら農民らしく、税のことだけ考えていればいいんだ」


 どうやら、エリックには庶民と奴隷と賎民の区別が、見ただけでは付かないようだ。

 普通、庶民や賎民や奴隷なら、相手の姿や発言などで、なんとなく、身分の区別が付くものだ。これは裕福な大商人でもそうだし、市井に降りることが多い地方領主などの下級貴族でも同じだ。

 けれど、エリックには貴族か否かの判断しか出来ないようなので、もしかすると、この態度といい、かなりの高位貴族なのかも知れない。

 位が高い貴族は、それこそ、庶民と喋ったりしないというから。

 アンは、自分が農民の娘に見られたことが、少しだけ嬉しかった。

 確かに、場合によっては奴隷よりも農民の方が厳しい生活を送ることもよくある話だけれど、それでも、奴隷と違って、農民は道具ではなく人間だ。蔑まれることも、持ち主の気分で殺されることもない。何より、税を納めさえすれば、自由が保障されている。家の跡継ぎでさえなければ、才能のある者は独立して何か別な職業に就くことも許されているのだ。


「ううん。私は奴隷なの。だから、戻った時に、少しでも良い条件で働けるようにするには、字が読めるようになっていた方がいいの」


 エリックは大きく目を見開いて、まじまじとアンを見た。深く息を吸ってから、静かに「そうか」とだけ言って、黙って本に目を落とした。


「ええと、エリック、ここに居ても良い? 離れて座るから」

「別に、僕の許可はいらない」

「ありがとう」


 しばらくの間、アンは黙って、絵本を捲りながら、紙に単語の書き取りをした。ベルが教えてくれたところをなぞるが、やはり途中で分からなくて止まるところがある。


「なんで、奴隷だと字が書ける方がいいんだ?」


 アンの手が止まったのを見ていたのだろう。

 意外にも、エリックの方から声を掛けてきた。


「読み書きや計算ができない普通の奴隷は、運が悪いと、死ぬまで休まず働かされることもあるの。でも、字が読めたり、計算ができる奴隷は、商人の遣いが出来るから、大切にされるし、良い主人に買われたら、自分を買い戻すことも出来るかも知れないの」

「お前、どうして奴隷になったんだ」

「私の母が、奴隷だったから。生まれた時から奴隷なの」

「……金の髪だから、奴隷だと思わなかった」

「うん。金髪は珍しいって、よく言われる。高値が付くって」


 沈黙が降りた。

 エリックは何かを考え込んでいるようだったが、喋る気配がないので、アンは自分の勉強を続けることにした。


「……見せてみろ」


 驚いたことに、エリックは単語の読み方をアンに教えてくれた。ありがとうとお礼を言っても、フン、と鼻を鳴らすばかりで返事もしなかったが、どうやら悪い子ではなさそうだ、とアンは思った。


「お、珍しい顔だね」


 しばらくすると、ベルがアンを迎えにやって来た。

 すると、エリックは嫌そうな顔をして、黙って離れていった。元いた隅の席に座り直して、ベルを完全に無視している。


「エリックに読み方を教えて貰ったの」

「へぇ。そうなんだ。で、どうしてあの態度なんだい?」

「さぁ……?」

「変な奴だねぇ」


 いつの間にか、結構な時間が経っていたらしい。

 ベルと中庭に移動して木陰でお喋りしていると、すぐにおやつの時間を告げる鐘が鳴った。

 食堂に行って、サイラス達とも合流し、おやつのにんじんケーキを食べながら周囲を見回してみるが、エリックの姿はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔王による魔王のための支配 ザクロ925番 @zakuro925

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ