あやめも知らぬ恋

ラー油

文目の知らぬ恋

 紅葉がチラチラと降り始め、夏の暑さを残した秋。パタパタと下敷きで涼むみんなの音が教室に音楽を奏でていた。みんなの額には、汗がキラリと宝石のように輝く。


 窓際に座っている私は窓から入り込む心地の良い風を肌に受けながら、斜め右に座っているトウコを見ていた。


 トウコはみんなと違って、下敷きはあおらずに先生の板書をノートに書き写していた。トウコの光る汗がうなじを伝って背中に入っていく。私は板書もせずにただボケっとそれを見ていた。


 相も変わらず綺麗な黒髪だな。トウコの髪の毛はいつもツルツルとしていて、ボブ髪が良く似合う。ボブ髪を強調させるようにセーラー服は映えていて、私のセーラー服とは違っているようにすら見えていた。


 少しすると私の熱烈な視線にトウコが気付いたのか、チラリとこちら側に視線を移す。私はバレたと思い、何事も無かったかのように黒板の方を向き、授業を受ける。


「ねえ、さっき見てたでしょ?」


 授業が終わると熱烈に見られていたトウコがやってきた。問い詰められた私は日本語が分からないと適当なごまかしをする。


「じゃあ、なんで今私と受け答えできているの」


 トウコは口角を上げ、少しだけ笑う。


「これって、もしかして超能力……?」


「なわけ、無いでしょ。文目、ちゃんと黒板写した?」


「もちのろんよ。トウコのノートを借りることは無いよ」


 私はしょっちゅうボケっとしていて、授業ノートを取るのを忘れることが多い。そのため、トウコに借りることが多かった。その度、トウコは嫌な顔せずに「いいよ」とノートを写させてくれた。


 私なら自業自得でお前のせいだから知らない、と貸さないかもしれないのにトウコは普通に貸してくれる。だから、トウコはクラスのみんなから慕われていて、人気者だった。これはいい意味で。


 私もトウコの優しさを貰う度に、心がふわふわと優しく包まれてた。赤ん坊の頃に母親に抱かれていた時のような安心感がある。


「それ言ったの何回目?」


「両手足の指じゃ数え切れないね」


 手の指をワキワキと動かす私にトウコは「ほらね」と返す。そうやって、トウコと何気ない会話をしていたら、次の授業の開始チャイムが鳴る。トウコは「ちゃんとノート取りなよ」と言い残して席に戻った。


 私はノートを取りなよと言われたのに、またジッとトウコを見ていた。カッカッ、と黒板に文字を刻むチョークの音が、耳の左から右へと通過していく。トウコは真面目だからノートと黒板を交互に見ていた。すると、パッとトウコがこっちを見て口をパクパクと動かす。声は出ていないからなんと言ってるかは分からないが、口の動き的には『ノート』と言っているような気がした。『真面目』と私も声を出さずに口だけ動かして返事をする。


 すると、それに腹を立てたのかは分からないが、トウコは持っていたペンをこちらに投げる素振りをする。私は咄嗟に下敷きて顔を隠し、それを防いだかのようにみせる。トウコはぷいっと前を向いてしまい、またノートを取り始めた。私もノートを取ろうかと思ったが、突然の睡魔に勝てずにすやすやと眠ってしまった。


「……あ……や…め。起きて、お昼の時間だよ」


 私はトウコの声で目が覚める。腕には髪の毛の後が付いていた。授業はとっくの前に終わっていて、クラスのみんなはお昼ご飯を食べる準備をしていた。


「もうそんな時間? 早いね」


「文目がすやすや寝てるからだよ。ノート取ってないんでしょ? ほら、これ」


 トウコは手に持っていたノートを机の上に置く。それは睡眠を取ったことによって、一切合切書いていなかった授業のノートだった。


「まだ私貸してって言ってないよ」


「まだってことは、どうせ言ってくるでしょ」


「あちゃあ、バレましたか」


「ちゃんと真面目に授業受けなよ。あ、藤崎さん席借りるね」


 トウコはぶつくさと文句を言いながら、私の前の席に座る。向かい合うように座った私とトウコはお弁当を食べ始める。


 今日のお弁当はトマト、きんぴらごぼう、アスパラガスを豚バラで巻いた物だった。私はサラッと、トマトを箸で取りトウコのお弁当の中に入れる。それに気付いたトウコが「あ、嫌いだからって入れないでよ」と入れられたトマトを見ながら言う。


「え〜美味しくないじゃん、トマト。お肌サラサラになるから食べなよ」


「お肌サラサラになるのは嬉しいけど、文目も食べた方がいいんじゃない?」


「私のお肌がカサカサだと言いたいの?」


「……さあ?どうかな」


 実際、トウコはトマトの美容効果なんていらないほどに肌はすべすべで羨ましいぐらいだった。トウコは文句を言いながらもトマトを食べてくれる。


 私はトウコのこういう所がたまらなく好きだった。文句を垂れながらも結局は相手のしてほしいことを受け入れてしまう底なしの優しさ。これに甘えてしまっている自分がいることは分かっている。けれど、ついつい甘えてしまう私がいる。トウコはパクパクとお弁当をつまんでいく。教室はガヤガヤとしている。


「次の授業なんだっけ?」


「数学じゃなかったかな?」


「え〜数学? ノート取るの面倒くさ」


「数学じゃなくても取らないくせに何言ってんだが」


 トウコはお弁当を食べながら小言を言う。


「いやいや、そんなことないですって奥さん」


「さっきの授業ノート取った?」


「睡眠学習で」


 トウコは「それができてるなら今頃学年一位だね」と嫌味まじりに言ってくる。基本的には温和で優しいトウコだけど、こうやって仲がいい人には刺がある言葉を放つことがある。私はそれが堪らなく嬉しくて、友達という形を認識出来る。


 トウコとこうして無駄な喋りをしている時間が好きだ。中身も生産性も無いけど、ただ一緒にいられている。これだけでダイヤモンド並みの価値がある。いや、ダイヤモンド以上かもしれない。小鳥が空を自由に飛ぶように、私はこの時間が自由で好きだった。


「あ、トウコー!ちょっと来て!」


 教室の廊下側の窓を開けて叫ぶ女子高生。トウコは「ごめん、ちょっと行ってくる」と食べていたお弁当を机の上に置く。私は一人ぽつんと取り残される。トウコの背中が見えなくなって、私はつまらなくなった。


 窓から入るそよ風が私をバカにしているような気がする。いや、そんなことは無いんだろうけど、そう感じるぐらいに何故か心はムカムカとしている。トウコがどこかへ行ってしまっての苛立ちなのか。つまらないことへの苛立ちなのか。私には分からなかった。


 二人でいる時には気にならなかった教室のガヤガヤがうるさく聞こえて。私はこの時間が早く終わってしまえばいいのにと思う。


 無駄に長く感じられる時間。永遠の時をさまよっているような。そんなことは無いのだけど、感覚は鈍くノロノロと亀のようで。時計をチラチラとみながら、お弁当にも手を付けずにトウコを待つ。


 呼ばれてから十分。額を汗で濡らしたトウコが帰ってきた。ゼェハァ、と息を切らしていて肩は空気を求めて上下に動いている。


「走ってきたの?」


「や、や、休み時間無くなるとお弁当食べられなくなるから」


 息が上手く整ってないせいで言葉が詰まり詰まりになっている。汗もかいている。


「文目はどうしたの。そんなムスッとした顔して」


 私はそう言われて窓を見る。反射して映る私は露骨に眉が上がって、口をすぼめていた。


 あれ、私いつの間にこんな顔を。


 自分でも意識してなかった。というか、意識の仕様がない。あのムカムカが心を通り越して顔に出てしまった。それは自分の思い通りにならないから怒る子供みたいで、私は無性に恥ずかしくなった。


「蚊が鬱陶しくて」


「虫除けスプレー使う?私持ってるよ」


「ひゅー、流石トウコ。貸して、貸して」


 いつものように振る舞うけど、どうしてあんな顔になって、どうしてあんな気持ちになったのだろう。


 トウコは自分の鞄から虫除けスプレーを貸してくれて、私は鬱陶しくも思っていない蚊の対策をする。ほんの少しだけ嫌な匂いが体を覆う。


「それでなんの用だったの?」


「ん?学級会の話だよ。ほら、私学級委員長じゃん」


「あ〜、めんどくさいやつね。私なら絶対やりたくない」


「でも、誰かがやらなきゃダメだから仕方ないよ」


 トウコは本当に優しい。学級委員長になったのも、クラスのみんなが手を挙げなくて、先生が困っていたからだった。誰かのために自分が、を率先して出来るトウコは心の底から尊敬できる。


 私の場合は、学級委員長なんてめんどくさいだけ。と思って手を挙げることなんて頭の隅にもない。誰かのために何かをやるにしても、仕方ないで割り切ることなんて到底無理だ。相当な理由がない限り、誰かのために自分を。なんてことは出来ない。


「トウコは凄いよね。そうやって、誰かのために何かができるの」


「文目も出来るよ」


「え〜、無理無理。学級会とかめんどくさいし。だって、あれでしょ? 修学旅行とかの役割決めとかを話し合うんでしょ?」


「そうだけど、チャチャッとやればなんてことないよ」


「そのチャチャッとが嫌なんだよね」


「ま〜、文目はめんどくさがり屋だからね」


「そうそう、私には向いてないのさ」


「あ、てか早くお弁当食べないと昼休み終わっちゃう」


「あ、ホントじゃん。急げ、急げ」


 私とトウコは急いでお弁当を口に放り込む。色々な味が口の中に広がる。昼休みが終わる五分前にお弁当を食べ終えて、鞄の中に片付ける。トウコと私は無理やり詰め込んだせいかお腹が少しだけ苦しかった。


「間に合ったあ」


「文目は私が先生に呼ばれている時に食べてたら良かったのに」


「え〜、一人で食べるの楽しくないだもん」


「何それ」


 何それ、と言われても私にも分からない。本当になんなんだろ。教えて欲しい。


 この名称不明の感情に完璧な答えをくれる人はいないのだろうか。きっと、学校の先生に聞いてもこの答えは貰えない。誰に聞けば、誰に縋れば良いのだろうか。


 窓に映るトウコは太陽と踊るようにクスクスと笑っている。髪が、目が、口が、全てがこの世界を映えさせる。


 胸の奥が熱い。この熱さは外の気温のせいじゃない。また分からない感情が、分からない熱が体を襲う。


 ひとつ息を吐くたび、胸が鳴る。また、ひとつ、ひとつと。あぁ、心臓がうるさい。熱で頭が沸騰しそうだ。


「おーい、文目。ぼーっとしてどうした?」


「あ、いや暑くて頭が沸騰しかけてた」


「熱中症?水飲む?」


「ううん、大丈夫。私の体は無駄に頑丈だからね」


「そんなこと言って倒れないでよ」


 トウコは出しかけた水を引っ込める。私の体はまだ熱を纏っている。冷えきらない熱が、外の暑さが、私の傍に寄り添う。


 チャイムが鳴って、トウコは自分の席に帰った。言葉にならない感情を抱えたまま、時間は進む。


 時計の針が鮮明に聞こえる。お弁当を食べる前までは気にもならなかったはずなのに。今は下敷きの扇ぐ音よりも、時計の針の音の方が大きく聞こえる。


 トウコは何一つ変わらない様子で授業を受けている。私だけが変わってしまっている。この世界で、この教室でいま私だけが変だ。


 分からない感情を分かろうとするために授業なんて身に入らない。元より身に入らないタイプなのに、より入らない。


「おーい、藤崎。お前どこ見てるんだ」


「えっ? あ、いえ外を」


「外ってお前。完全に青峰の方見てたじゃないか」


 私はトウコを見すぎるあまり、先生に呼ばれていることに気付いていなかった。苦しい言い訳をするけど、視線は完全にトウコに釘付けになっていて意味が無かった。


 私は人の言葉にも気が付けないほどに、トウコのことを見ていたと思うと恥ずかしくて顔から火が吹き出しそうになる。数秒前の自分を恨むけど、結局は自分が起こした行動なので恨むはいまの自分だった。


 幸いにも先生は軽い注意だけで済ませてくれた。


 私は一旦この感情は置いておいて、授業に集中することにした。また、さっきみたいなことが起こると恥ずかしくて死んでしまうからだ。


「文目、今日は一段と授業に集中してないじゃん。どうしたのさ」


 授業が終わって、五分の短い休み時間になるとトウコがこちらにやってきた。


「こんな暑さじゃ集中出来ないよ」


 本当は違う。トウコに抱いているこの感情が何か分からないから集中出来ない。でも、そんなこと言えない。言えるわけが無い。


 トウコはいつも通りで、おかしくなったのは私だけで。特別な感情、なのか。はたまた、なんなんだろう。


「トウコ〜、ちょっとトイレ行こう〜」


「あ、え。文目、ちょっと行ってくるね」


 トウコは友達に呼ばれてトイレに行ってしまった。また私はポツンと一人になってしまった。


 去ってしまった背中の面影を見続けるように、私は教室の扉を見ていた。私も着いていこうかな、と思ったけど呼ばれたのはトウコだったから行かないでいた。


 正直言えば、先に話していたのは私なのだから少しぐらい私を優先してくれてもいいじゃないか。どうして、後から呼んだ人の方を優先するんだろう。


 あ、ダメだ。こんな気持ち。醜い。誰かを恨んでもトウコは別に帰ってくるわけでもないし。それに、トウコは私の所有物じゃない。誰とどこへ行くかなんて勝手だし、決定権はもちろん本人にある。


 なのに、私はそれを決めつけるような考えを。どうして、こんな考えを持ってしまうんだろう。


「ねえ、好きな人にはさやっぱり自分の近くに居て欲しいし、自分だけを見ていて欲しいよね」


 クラスメイトの話し声が耳に入る。


 好きな人には近くに居て欲しい、自分だけを見ていて欲しい。まるで、今の私じゃないか。


 いや、でも私は別にとトウコのことが好きな訳では。友達として、良き友人として側にいて欲しい。そういった感情なはずだ。


 特別な感情、愛というものとは違う気が。


「文目、お待たせ〜。あ、てかさっきの授業ちゃんとノート取った?」


「あ、うん。先生に注意されたから流石に取ったよ」


「珍しい、明日槍でも降るんじゃないかな」


 トウコはまた私の心配をする。少し上がった口角がふにゃっとしていて天使みたいだ。肩の近くで揺れる髪が軽やかに。


 あ、隠しきれない。私、トウコの事が好きなんだ。


 そう気付いた瞬間、栓が外れたように身体中をぶわぁっと好きの感情が巡る。トウコの顔がとても眩しく見えて直視が出来ない。その真っ直ぐに私を見る瞳がいまはとても恥ずかしくて。


 私の知らない恋。私の知らなかった恋。


「大丈夫?」


「全然……大丈夫」


「授業始まるよ。ちゃんとノート取りなよ」


「あ、うん。分かってるよ」


 紅葉がチラチラと降り始め、夏の暑さを残した秋。私は初めて人に恋をしました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あやめも知らぬ恋 ラー油 @ra-yu482

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ