アイリスとオレンジ そしてレモン

菊池昭仁

第1話

 お盆を過ぎても蝉しぐれの残暑は続いていた。

 宇都宮のオリオン通りはかつての賑わいも忘れ、夏祭りの後のような寂しげな気怠さが漂っていた。

 「氷」と書かれた色褪せた旗が、アーケードの中に点在していた。



 「暑いわねー、ちょっとお茶しない?」


 僕と晴子は角のカフェレストランに入った。



 「私はアイスティー、功介はアイスコーヒーだよね?

 すみませーん、注文してもいいですか?」


 晴子はウエイターを呼んだ。

 安西晴子34歳。彼女は職場の先輩社員で僕より2歳年上だった。

 晴子といると僕は何もしなくていい。

 すべて晴子がリードしてくれるからだ。

 それは時に、弟を労わる姉のようでもあった。

 僕はそんな晴子にいつも甘えていた。


 晴子と僕はホテルでの愛の交流を終え、宛もなく街へ出て来た。

 もちろんベッドでの行為も晴子がイニシアチブを握っていた。

 昼間の真剣にパソコンに向かう彼女からは想像も出来ない、まるでその最中は別人の娼婦のようだった。



 「そうよそう、そのまま続けて、あうっ、ダメ、ごめんなさい、先に・・・」


 そんな晴子が僕は愛おしかった。


 色っぽくアイスティーのストローを咥えて晴子が言った。


 「金曜日の日、太田部長とやり合っていたけどあれはダメよ。

 功介が正しいのはみんな分かっているわ、でもね? 太田さんには太田さんの部長としての面子めんつがあるの。ああ言わざるを得ないのよ。少しは大人の対応をしなさい」


 「でもさあ、頭にくるんだよ、自分のミスなのに俺のせいみたいに言いやがって、あのハゲオヤジ」

 「いいじゃないのそんなのどうでも。陰で舌出していればいいんだから。

 あなたには出世してもらいたいんだから」


 その後に「私たちの将来のために」という言葉が続くはずだが、いつも晴子はその先を言わない。

 年齢的なこともあり、彼女は結婚願望がとても強かった。

 しかし晴子は「結婚」という具体的な言葉を口にすることはなかった。


 その時、ラインが入った。

 晴子には少し見えない角度で、僕はロックを解除した。


     

     今、何してるの?

     ヒマしているからゴハンにつれてって


     なんだかとってもムラムラするの

     かまってかまって



 茜からだった。

 彼女は部署は違うが同じ会社の同僚だった。


 金沢茜、28歳。

 彼女は僕の妹のような存在だった。

 我儘で自由奔放で気まぐれ、いつもアイドルのように明るく活発な子だった。

 僕はこのふたりを天秤にかけたまま、結論を出せずに今もダラダラと思わせぶりに付き合っていた。

 僕は最低の男だった。



 「誰から?」

 「親からだよ、今度いつ帰ってくるんだってさ」

 「そう」


 私は携帯をこっそりとサイレント・モードに切り替えた。

 晴子は賢い女だ、それが別の女だということは分かっていても、それを問い詰めたりはしない。

 彼女はそんな大人の女だった。


 僕はポール・ゴーガンが好きだった。

 タヒチの原色の絵は有名だが僕は寧ろ、彼がパリにいた頃の自分の作品に悩み続けていた頃に描いていた静物画を好んでいた。

 その頃の静物画はどことなく当時一緒に絵を描いていたセザンヌの影響もあり、画風はとてもよく似ている。

 私はその中でも『青いアイリスとオレンジとレモン』に惹かれていた。

 清楚に輝くアイリスが晴子で、色鮮やかなオレンジは茜、それに戸惑い悩むようにはみ出しかけているのが僕というレモンのように思えた。

 株式の世界で成功し、恵まれた環境の中で絵を描いていたゴーガン。

 家族からも友人からも見放され、南の島で彼は貧困と病の中で絵を描き続け、人生を終えた。

 私はそんなゴーガンに憧れていたのかもしれない。 


 

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アイリスとオレンジ そしてレモン 菊池昭仁 @landfall0810

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