納得はしていない
惣山沙樹
納得はしていない
僕が五歳くらいの時までは兄がいたような気がするのだけど、ある日を境に家からいなくなっていた。
夏は一緒に蝉を捕りに出かけ、冬は二人で雪玉を転がし。背丈は僕よりずいぶん高かったから、五歳は離れていたと思うのだ。目が細く、身体も細かった僕の兄。
気になって両親に「兄ちゃんは」と聞くと「ヒロくんには最初からお兄ちゃんなんていないよ」と返されるばかりで、次第に自分の記憶のほうがおかしかったのかと思うようになり、考えることが少なくなっていった。
そんな兄のことを思い出したのは、大学生になり一人暮らしを始め、その部屋で男何人かで飲んでいた時だ。夏休みだしこわい話でもしようか、と順番に語ることになり、ネタを持ち合わせていなかった僕は、特にこわいことでもないかもしれないけれど、と前置きした上で兄の話をしてみたのだ。
「それってヒロのイマジナリーフレンドじゃねぇの」
誰かが言った。その言葉なら僕も知っていた。子供が作ることがある空想上の友達だ。
「ああ、うん、そうかもね……でも、どんどん思い出してきた。兄ちゃんはさ、珍しい石が好きで、どこからか拾ってきてはクッキーの缶に入れて集めてた」
「設定こってるなぁ」
「子供って不思議だよね」
それからだ。歯磨きをしている時やシャワーを浴びている時、兄との思い出がふつふつとよみがえってきた。
僕に付き合って田舎を駆け回っていたはずなのに、兄の肌は白いままで、風呂場で腕を重ねて「本当に兄ちゃんは白いね」などと比べたこと。
飼っていたハムスターが死んで、小さな木箱にひまわりの種と花を敷き詰めて、実家の庭の隅にひっそりと埋めたこと。泣きじゃくる僕の背中をさすってくれたこと。
まだまだあるが、花火の記憶まで出てきた時だ。大人になった兄が夜に僕の部屋を訪ねてきた。
「よう、ヒロ。久しぶり」
髪は金髪で肩につく長さまであり、派手なロックバンドのTシャツを着ていて、ピアスもいくつも開いていたが、笑った時の目の感じですぐに兄だとわかった。
「兄ちゃん……兄ちゃん、どこ行ってたの」
兄はそれには答えてくれず、大きなビニール袋を僕の目の前にかざしてきた。
「花火しよう!」
今時、都会で花火ができるところなど限られている。兄が選んだのは遊具のないベンチだけの公園だった。特に看板も何もないがきっと花火は禁止だ、それなのに兄はバケツも用意せずにライターで火をつけようとするのだ。
「兄ちゃん、花火終わった後どうするの……」
「ペットボトルの水は持ってきたから。それかければいい。あの日もそうしたろ?」
そう。あの日、実家で花火をした翌朝、兄は居なくなったのである。
聞きたいことは山ほどあった。なぜ消えたのか。なぜ戻ってきたのか。
本当に兄は兄なのか。
「ほら、ヒロも」
手持ち花火をするのはあの日以来。景気よく閃光がほとばしる様を見ていると、段々僕は童心に帰ってきた。
兄に手渡されるまま、次々と花火をした。しゃがんで、見つめて、息を飲んで。終わった頃には喉はカラカラ、残っていた水を僕は一気に飲み干した。
「ねえ、兄ちゃん……」
帰り道、僕はきゅっと兄の手を握った。少し汗ばんでいて温かい。生きている人間の感触に違いない、兄は確かにここにいる。
「これからは一緒にいてくれる?」
それが、僕が絞り出せた言葉だった。他のことなら、ゆっくり聞けばいいからと思ってそういう言葉を選んだのである。
「ああ、いいよ。ヒロの名前くれたらな」
「名前……?」
それを言われて、僕は兄の名前を知らないことに気付いた。そして、兄との思い出の中では、両親の姿はなく、決まって兄と二人だけのことしか覚えていないことにも。兄ちゃん、と呼べば応えてくれるから、僕は兄の名前を必要としていなかったのだ。
「なぁ、いいだろ。頼むよヒロ」
「いい、けど……」
すると、兄の口の端がニタリと上がり、僕の気は遠くなった。
それから、僕は
お腹は空かない。眠くもならない。僕の声は他人には届かず物にも触れない。「ヒロ」になった兄を観察するだけの存在になった。
ただ、兄は僕のことをしっかり覚えているらしい。そうでないと観察すらできないのだとなんとなくわかってきた。
兄は一人になった時、ベランダでタバコを吸いながら僕の目を覗き込んでくる。兄と一緒にいたいと言ったのは確かに僕だけど、こういうことになるのならきちんと説明してほしかった。
「いや、それだときっと名前くれないと思ったからさぁ……」
なんだよそれ。騙したも同然だろ。
「血が繋がってる男じゃないとダメだったんだよ。だからさ、悪いな」
もういいよ。一度渡した名前は取り返せないんだろうなってわかってるし。
「兄ちゃんはお前のこと、一日だって忘れないから。それでいいだろ?」
兄の長髪がぬるい風にたなびき、タバコの灰が舞った。
納得はしていない 惣山沙樹 @saki-souyama
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