最終回
ばきゅ、ばきゅ、ばきゅ、ばきゅ。
規則的に鳴る音を聞いていると、だんだんと意識が遠のいてゆく。ぱららぱららとラッパのように高らかに響く、バイタルモニターのアラーム。
「アドレナリン入れます」
「心拍確認します。エーシスです。心臓マッサージ再開してください」
「天道さん頑張って!」
先輩医師や看護師さんたちの冷静な声を聞きながら、私は何もできずただ部屋の隅に立っていた。冷や汗が流れる。雑貨屋の紙袋の取っ手が手に食い込む。
ダメだ。私には何もできない。何の役にも立たない。経験がないとか、知識が足りないとか、これから克服できるような理由じゃない。
私には人の命は背負えない。
「光ちゃん、何ぼんやりしてるの」
耳元で声がする。頬に誰かの柔らかな息が当たる。気が付くと、私はさんさんと夏の陽が降り注ぐ坂道の途中に立っていた。ついさっきまで白衣を着ていたはずなのに、いつの間にか黒いワンピースに着替えている。額に流れる汗を手の甲でぬぐった。右手に提げた紙袋には、桜の香がする線香とマッチ箱、そして誕生日プレゼントとして買ったブックカバーが入っている。
「行こうか、お墓参りに」
後ろにいた女が、くるりと身をひるがえして正面に立つ。黒づくめの服装、頭に揺れるアカクラゲのかんざし。
「コトリさん、病院から出て良いんですか?」
「僕は、この前退院したから大丈夫」
そうだったけ、と違和感を覚えたけれど、彼女は現にここにいる。暑さのせいであまり頭が回らない。細かいことは気にせず、取りあえず歩き始める。
二人並んで、ゆっくりと坂を下りてゆく。坂の先には、青くキラキラと輝く海がある。「氷」と書かれたのぼりの上がった定食屋の前を通り過ぎ、民家の窓から漏れだすオリンピックの実況の音を聞き、誰もいないのにブランコだけが揺れている公園を越えて、堤防に作られた階段から白い砂浜へと下りる。足が砂に沈んで歩きにくい。コトリさんが私の腕を掴んだ。支え合いながら、なんとか波打ち際へと向かう。
私たちは、足の先を海水に浸しながらしゃがみ込んだ。寄せる波がひやりとして、くすぐったい。砂の上に置いた紙袋からコトリさんが勝手に線香を取り出し、マッチをする。
「火を付けるの苦手なんだよね」
そう言いながらも、たった一本のマッチで束をまんべんなく火であぶって、砂の上に一気に差した。煙が高い空に向かって立ち上り、甘い香りが広がる。
「あの、コトリさん」
「どうしたの」
「私たち、誰のお墓参りに来たんでしたっけ」
「お誕生日プレゼント、持って来たんだろ」
紙袋から新品のブックカバーを取り出す。「はづき」という名前と、雲間に浮かぶ満月をかたどった刺繍をお店で入れてもらった。
「これは、本好きの友だちにあげるものです。この前相談したじゃないですか」
「そっか」
コトリさんが私から視線を外した。遠い水平線の向こうを見るような目をしている。寂しげな表情だと思った。
「はづきちゃんって、どんな子なの」
彼女の低い声に胸がざわりとしたけれど、明るい声を出す。
「私、本が好きで、小学生の頃から休み時間はずっと図書室にいたんです。はづきも同じで、いつもいる私が気になって声をかけてくれて。本の好みも似てたし、気が合って、休み時間だけじゃなくて放課後も一緒に過ごしてました。私が中高一貫校を受験するって言ったらはづきも受けるって言って。二人とも合格して一緒に……あれ」
はた、と気付く。それから私たち、どうなったんだっけ。制服を着たはづきの姿が、どうしても頭に浮かばない。どうして。小学校の図書室で一緒に読んだ本の表紙はいくらでも思い出せるのに、突然地面に現れた割れ目のように何かが断絶しているのを感じる。
白い煙が、潮風に飛ばされて私の方に流れてくる。目に染みて、つうっと涙が流れた。その生ぬるい液体に指先で触れて、もしかして私は悲しいから泣いているのかもしれないと思った。
「急病だったらしいね」
ぽつり、とコトリさんが呟いた。
「僕もそのころ、君と同じ街に住んでたからさ。近所の人の噂で聞いたんだ。しばらく入院してたみたいだけど、って」
「思い出せないです」
「君は前に話してくれたよ。はづきちゃんのような子どもを助けるために医師になったって」
「そんなこと……」
頭を抱えた私の背中を、コトリさんがぽんぽんと叩いてくれる。
「仕方ない。ここは夢と現実の狭間の世界、羽化したクラゲが作り出す幻想の世界だから。君は全然気付いてなかったね。ねえ、いつクラゲが羽化したか分かる?」
「コトリさんと出会ったときからですか」
「スマホのスケジュールではづきちゃんの誕生日を確認したとき」
コトリさんが微笑む。
「はづきちゃんはずっと、君の肩の上で見守ってくれてたんだよ。さて、線香も燃え尽きたし、行こうか」
彼女が立ち上がり、私に手を差しのべてくれる。取ったその手は、とても冷たかった。
いつの間にか、私は小学生の頃住んでいた街の中を歩いていた。一歩先を行くコトリさんは、迷いのない足取りでどんどん進んでゆく。駅に向かっているんだ、と気付いた。店のシャッターのほとんどが上がっているのに人の気配のない商店街を抜けて、観光ポスターが並ぶ階段を上る。不思議と、息は全く跳ねなかった。角を曲がったとき、目の前にぱっと光が広がった。海の欠片が、そこにはあった。幼い頃何度も見た水槽に、私たちは駆け寄る。
ガラスの表面に空いた右手で触れて、コトリさんは魚を追っているのかきょろきょろと視線を泳がせた。私も、水槽をのぞく。ゆらゆらと揺れる光の波が、とても美しかった。
「僕はこれから、海の底に行く。この子も、一緒に。寂しがらないでね、必ず、また会えるからさ」
彼女の瞳孔と虹彩の区別が付かないほど真っ黒な目が、私を見る。
「コトリさん。私たち、ずっと昔に会ったことがありましたっけ」
彼女は、へにゃりと笑った。
「どうだったっけね」
医局の窓を開けると、湿った熱い風が部屋の中に吹き込んできた。私はしばらく、その風を浴びていた。まるで、海の底を流れる海流のようだと思った。
「舞浜先生、今日はもう帰って良いよ。昨日大変だったから」
振り返ると、田中先生が熱帯魚に餌をやりながら私の方を見ていた。ひどく疲れた顔をしていた。多分、私も同じだろう。
「大丈夫です」
「いや、休むべきだよ。医者も人間だから、さ」
私は深く深く息を吸い込み、吐いた。空気と一緒に、何かを失ったような気がした。けれどそれは、これから生きてゆくために必要なことだと思った。
私はこれからもきっと、人の命は背負えない。背負えないということを分かって、医師を続けてゆこうと思う。
あの人は今頃、海の底についただろうか。
窓を、閉めた。光が、落ちた。
彼女がくらげをすくうとき 紫陽花 雨希 @6pp1e
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