煙に還る

マキノゆり

煙に還る

 人は年を取ると、味覚や嗅覚が鈍くなるらしい。

 昔祖母に、嫌いだった豆ごはんが食べられるようになったと自慢した時、「あなたも年を取ったのねぇ」と笑いながら言われたのを思い出した。良明よしあきは、額の汗をぬぐいながら壁の柱時計を見上げた。時間は午後四時。あと一時間は頑張れるだろうか。


 今年の夏、良明よしあきの母方の祖母さだが九十を超える齢で亡くなった。七夕の夕方だった。偶然にも妻の祖父と同じ日で、良明は妻の彩と一緒に妻方の実家に向かっていたのだが、駅から電話で親戚には法事に出られないことを謝り、そのままとんぼ返りした。その後は実家の両親も含め、納骨から告別式、初七日が終わるまで目の回るような忙しさだった。

 祖母の住んでいた家は、昔ながらの瓦葺きの小さな日本家屋である。戦後、夫を亡くした祖母は女手一つで物売りや小料理店を営み、二人の子を育て上げた。若い頃、京都の商家に住み込みで手伝いをしていたこともあり、どことなく立ち居振る舞いがすっきりしている人だった。良明よしあきの実家は祖母の家と近く、子供の足でも十五分くらいで着く場所だったので、よく学校帰りにおやつをねだりに祖母の家まで行ったものだ。

 「良明よしあき、ちゃんと勉強もして、いい学校へ行きなさい。お家の事も手伝いなさいよ」

 おやつを貰うついでに近所の商店にお使いを頼まれると、必ず今は無き五百円札(!)や千円札を握らせてくれた。そして、その時お使いで必ず頼まれたのが、煙草だった。


 「良明よしあき、そっちは片付いたか?」

 「うん、書類はまとめた。バスタオルとか布はこっちにまとめたから」

 汗をタオルで拭きながら、良明よしあきの父が入ってきた。その向こうで台所の食器を片付けている母親と妻のあや、伯父の善朗よしろうの姿が見える。

 「ばあちゃんが入院していた時から善郎よしろうが整理してたから、片付けもそこまで大変ではないな」

 今日は、四十九日も終えた最初の土日。諸々の手続きと併せて祖母の家の片付けである。昨日までは従姉妹たちも来ていたが、今日は交代で良明よしあきの両親とあやも一緒に手伝うことになっていた。

 「ばあちゃんが使っていた物で、欲しいのがあったら言ってくれ。形見分けするから」

 善郎よしろうがそう言い、隣の仏間にポツンと置かれた漆塗りのお盆を指さした。本物の木に赤い漆が塗られたお盆は良明よしあきが幼い頃から見慣れたもので、その上に小さな時計やらネックレスやら細々と置かれている。

 「あやちゃんも気になるのがあれば言ってね」

 母が、良明よしあきの妻のあやに声をかけた。彼女も三年前の結婚式で祖母に会っている。

 「私もいいんですか? なりちゃん達は貰ったのかな?」

 「あの子達は、着物を選んだわ。学校で着付けの練習に使うんだって。そっちはあまり興味無いようだったから」

 要らないなら処分するから好きに取っていいわ、と母はタオルで汗を拭った。


 祖母は入院する前に、自分で身の回りの整理を始めていたそうだ。価値のある貴金属は親族で身の回りを世話していた姪達に譲り、家と土地は伯父夫婦が、娘である母には生前に現金を分割して渡すなど、後々揉めないようによく考えていたのが判る。

 「ばあちゃんは、この年齢にしては本当にしっかりしてた」

とは、良明よしあきと同じく祖母のお使い担当だった父の弁だ。良明よしあきの父は、祖母の通院の付き添い担当だったが、その都度諭吉さんを頂いていたらしい。お母さんは聞いてなかったわよ、と後で知った母があきれていた。

 「あ、この腕時計可愛いですね」

 あやの弾んだ声に振り向くと、見覚えのある女性用の小さな腕時計が目に飛び込んできた。

 小さな細長い六角形の時計盤に、黒い皮のベルトが付いている。確かに祖母が使っていた時計だ。小学生の頃授業参観に来てくれた時に見た覚えがある。年月が経ちボロボロになっているが、新しいベルトに付け替えれば使えそうだ。

 「動かないね。電池が切れているのかな」

 「いや、これは手巻き式だよ。貸してみて」

 良明が時計のつまみをキリキリと巻くと、微かな音を刻みながら秒針が動き出した。小さいながらも機械という感じが好きで、よく祖母にお願いしてねじを巻かせてもらったものだ。

 「懐かしいなぁ。これ、俺も好きだったな」

 「良明よしあきさん、貴方が貰ったら?」

 「そうは言っても、女物だし。でも彩、これ修理したら使う?」

 「もちろん!」

 手のひらにすっぽりと収まる腕時計は、所々錆びているが、耳に当てると確かに時を刻む音が聴こえてきて、腕時計をし日傘を差した着物姿の祖母の姿が瞼の裏に浮かび上がってきた。

 戦争の時代は、誰もが大なり小なり苦しい貧しい思いをした時代だっただろう。祖母は当初は小売りや小料理やで生計を立てていたが、客との関係上掛け売りも多く、収入が安定しなかった。そのうち小学校の給食センターの働き口が見つかったので、自営はすっぱり辞めて調理員として働くようになった。

 安定した収入を得てからは堅実に生活し、伯父を大学まで出すなどある程度貯金もあった。必要最小限の指輪や時計を大事に使い、その後定年退職してからは、その貯金を元に家を建てたのである。

 「身の丈で生活する人だったけど、使うところには思い切って使ってたわよね」

 「ああ。人に物を頼む時は、感謝ももちろんするけど金払いの良い人だったから、身内からもとても頼られてたな」

 母と伯父の会話を聞きながら、祖母のことを思い出す。そう、良明よしあきが祖母の家に遊びに行った時もよく色んな人が訪ねて来ていて、話し込んでた。客が帰ると、祖母は必ず煙草を出して一服していた。紫煙の香りと夕方の日差しが差し込む畳間で、小さな庭を眺めている祖母の姿が、部屋の中に浮かんでくるようだった。

 仏壇を振り返ると、真新しい位牌が艶々と黒く輝いていた。


 時計が午後の六時近くなり、家の中に差し込む日差しもだいぶ低くなって来た頃、奥の四畳半から伯父が良明よしあきを呼ぶ声が聞こえた。

 「これ、良明よしあきがばあちゃんに買ったものじゃないか?」

 善郎よしろうが、手に何か紙袋を持っている。覗き込んで良明よしあきは驚いて声をあげた。

 「煙草!」

 「これ珍しかったから、覚えてるよ。新婚旅行で沖縄に行った時だろう? うちで煙草吸うのはばあちゃんくらいだったから、こんなに余ってしまったんだな」

 紙袋の中に、紫のパッケージの煙草が四~五箱残っている。今は販売終了したVioletだ。そう、沖縄限定の銘柄だったから、話のネタにと買ってみたのだ。祖母は普段でもpieceを二日で十本程度は吸う人だったので、同じくらいのきつさのものを選んだのだが、まだ残っていたとは思わなかった。

 「俺も一箱貰ったけど、その頃丁度禁煙したからこんなに残ってしまったかもな。もう古くて吸えねえな」

 「もう何年か前に販売終わっていたはずだよ。勿体ないことした」

 「大事に持ってても、お宝にもならんなあ」

 「伯父さん、いいよ、俺が家で処分する」

 「そうか」

 善朗よしろうは頷いて、そこから少し何か考え込んでいた。

良明よしあき。ちょっとそこまで買い物に行こうか」


 歩いて五分の角にある小さな煙草屋は、店を構えてかれこれ四十年くらい経つそうだ。良明が小学生の頃は、祖母と同年代くらいの女性が店番をしていた。今はどうなっているのだろう。祖母と同年代くらいだったから、すでに代替わりしてるのかもしれない。

 「こんばんわ。piece一箱貰えますか」

 善郎よしろうが店のカウンター越しに座る店主に声をかけた。夏の夜の入りの濃い影で縁取られた人影が、もぞ、と顔をあげた。

 「ああ、いらっしゃい。……あなた、さださんとこの息子さん?」

 「ええ。お久しぶりです。こっちは甥っ子」

 「ほお。何となくさださんの面影があるねぇ」

 善郎よしろうより少しばかり年上だろうか。初老の男性が二人に軽く会釈した。

 「今日は法事でしたか?」

 「いや、金曜に四十九日を終わりまして。昨日今日は身内で家の整理なんです」

 「そうでしたか。慌ただしいねぇ。貞さんとはもう長らく会ってなかったが、寂しいですね」

 店主が差し出したpieceと引き換えに代金を渡すと、善郎よしろう良明よしあきは暗くなり始めた道を戻った。

 「ばあちゃんは、煙草をよく吸っていたからな。お前のお土産でちょうど思い出したよ」

 「煙草屋の人、変わってるよね?」

 「ああ、確か息子さんだったはずだ。あちらは10年くらい前かな」

 周囲はもう暗くなって来ている。夕闇の中で行き交う人々の様子はわかるものの、表情はぼんやりとしていてはっきりしない。今なら幽霊が混じっていてもわからないなぁ、と良明よしあきはぼんやり考えていた。


 夕闇の中に明かりの点いた祖母の家が暗がりに浮かび上がってきた。玄関に入ると台所では良明よしあきの母とあや、遅れて来た伯母が慌ただしく夕食の準備をしていた。

 「どこ行ってたの」

 エプロンに手を拭きながら、母が声をかけてきた。

 「もうすぐ出来るから、仏間のふすま外して、机並べて」

 「判った」

 善郎よしろう良明よしあき、そして良明よしあきの父とで仏間のふすまを外し、全員で夕食を囲めるよう長い座卓を二つ並べる。座布団を人数分置けば十人くらいは入るだろう。

 「さあさあ、配るの手伝って!」

 暖かい食事の香りと賑やかでかしましい母達の声にせかされ、慌てて良明よしあきたちも台所と居間を、食事の準備で行き来した。大皿や箸置きなどを運ぶうち、まだ祖母が生きているかのような感覚になる。何となく胸の奥に風が吹くような、ここと違うどこかに自分が居るような気がして、良明は自分の席に座り込み、ぼうっと仏壇を眺めていた。


 食事が終わり、片付けもあらかた済むと、時間はもう夜の九時だ。

 良明よしあきあやも、明日は仕事だ。午前中休みを取っているが、もうそろそろ帰らないといけない。

 「良明よしあき、ちょっとおいで」

 善郎よしろう良明よしあきに仏壇の前から声をかけてきた。側には父も座っている。側に行くと、善郎よしろうは手に先ほどの煙草屋で買ったpieceを持っていた。

 「今からばあちゃんにお供えしようと思ってな。相伴しょうばんしなさい」

 「伯父さん吸うの? 禁煙したんじゃないの?」

 「ああ、俺はもう辞めたからな。良明よしあき、お前がばあちゃんと吸いなさい」

 父を見ると、そうしな、と頷く。ちなみに父も禁煙している。

 良明よしあきも煙草は吸うが、肺の奥まで吸うのが苦手で、そこまで好きな方ではない。

 「良明よしあきは中学校とか高校の時、隠れて吸わなかったか」

 「いや、この子は酒や煙草にあまり執着が無くてね」

 へえ、とこちらを見る伯父達の視線を感じながら、良明よしあきは煙草をくわえて火を点けた。

 煙草を箱から引き出して、トントンと軽く机に叩いてから火を点けるのは祖母の癖だった。


 おじいちゃんがこうしてたからね。特に意味は無いよ。


 そう言いながら祖母は、品の良い横顔に煙草をくわえて火を点けた。大きく吸い込み、ふぅーっと唇をすぼめて中空に長く流れる煙は、夕方の日差しを受けてやがて天空の雲のように消えた。

 実は中学一年生の頃、良明よしあきは祖母の煙草を一本くすねたことがある。でも吸う場所が探せなくて、結局家のごみ箱に捨ててしまったのだが、その何日か後に祖母の家へ寄った時、祖母が改まった顔で良明よしあきに煙草の吸い方を教えてくれたのだ。


 良明よしあき、前来た時煙草もらってっただろう。吸ったのかい? 


 そう言ってから、諭すように吸い方を教えてくれた。


 煙草なんて大して恰好良く無いものさ。不味いだろう?


 咳き込む良明よしあきの背中をさすりながら、祖母は笑っていた。良明よしあきの様子から、煙草をくすねたのを知っていたのだろう。普通は諭すと思うが、なぜ勧めたのかはよく判らない。だが、その日以来成人するまで、良明よしあきは煙草に手を出すことはしなかった。

 仏壇の前には残りのpieceの箱と、火を点けた煙草を祖母愛用の灰皿に置き、善郎よしろうと父が手を合わせた。

 「母さん、今日は良明よしあきが一緒に相伴しょうばんするよ」

 その声に合わせて大きく吸い込む。祖母と一緒に吸った時は美味しくも感じなかったのに不思議だ。祖母と吸った時、むせて咳き込みながら何でこんなの吸うの、と聞いたことがある。


 そりゃ、そうね。


 そう言って、祖母は声を上げて笑った。部屋に差し込む夕方の日差しの中で笑う祖母は、何か壊れてしまいそうで怖かった。


 気付きつけさ、気付きつけ。吸っても別においしくないけど、おじいちゃんも吸ってたからね。


 そうつぶやいて、祖母は大きく煙草を吸い込んだ。ふうっとたなびく白い煙が、くるりくるりと渦巻きながら天に登ってい様子を、良明よしあきは面白いなぁと見ていた。輪っか作れる?と聞いて、その時祖母は何と言っただろうか。馬鹿だねぇとでも言って笑ってくれただろうか。

 「あれ、良明よしあき、泣いているのか」

 よしよし、と言わんばかりに父と伯父に背中をさすられ、頷きながら、咳き込みながら、良明よしあきは何度も何度も嗚咽を堪えていた。



 

 

 

 

 



 


 

 


 

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