煙に還る
マキノゆり
煙に還る
人は年を取ると、味覚や嗅覚が鈍くなるらしい。
昔祖母に、嫌いだった豆ごはんが食べられるようになったと自慢した時、「あなたも年を取ったのねぇ」と笑いながら言われたのを思い出した。
今年の夏、
祖母の住んでいた家は、昔ながらの瓦葺きの小さな日本家屋である。戦後、夫を亡くした祖母は女手一つで物売りや小料理店を営み、二人の子を育て上げた。若い頃、京都の商家に住み込みで手伝いをしていたこともあり、どことなく立ち居振る舞いがすっきりしている人だった。
「
おやつを貰うついでに近所の商店にお使いを頼まれると、必ず今は無き五百円札(!)や千円札を握らせてくれた。そして、その時お使いで必ず頼まれたのが、煙草だった。
「
「うん、書類はまとめた。バスタオルとか布はこっちにまとめたから」
汗をタオルで拭きながら、
「ばあちゃんが入院していた時から
今日は、四十九日も終えた最初の土日。諸々の手続きと併せて祖母の家の片付けである。昨日までは従姉妹たちも来ていたが、今日は交代で
「ばあちゃんが使っていた物で、欲しいのがあったら言ってくれ。形見分けするから」
「
母が、
「私もいいんですか? なりちゃん達は貰ったのかな?」
「あの子達は、着物を選んだわ。学校で着付けの練習に使うんだって。そっちはあまり興味無いようだったから」
要らないなら処分するから好きに取っていいわ、と母はタオルで汗を拭った。
祖母は入院する前に、自分で身の回りの整理を始めていたそうだ。価値のある貴金属は親族で身の回りを世話していた姪達に譲り、家と土地は伯父夫婦が、娘である母には生前に現金を分割して渡すなど、後々揉めないようによく考えていたのが判る。
「ばあちゃんは、この年齢にしては本当にしっかりしてた」
とは、
「あ、この腕時計可愛いですね」
小さな細長い六角形の時計盤に、黒い皮のベルトが付いている。確かに祖母が使っていた時計だ。小学生の頃授業参観に来てくれた時に見た覚えがある。年月が経ちボロボロになっているが、新しいベルトに付け替えれば使えそうだ。
「動かないね。電池が切れているのかな」
「いや、これは手巻き式だよ。貸してみて」
良明が時計のつまみをキリキリと巻くと、微かな音を刻みながら秒針が動き出した。小さいながらも機械という感じが好きで、よく祖母にお願いしてねじを巻かせてもらったものだ。
「懐かしいなぁ。これ、俺も好きだったな」
「
「そうは言っても、女物だし。でも彩、これ修理したら使う?」
「もちろん!」
手のひらにすっぽりと収まる腕時計は、所々錆びているが、耳に当てると確かに時を刻む音が聴こえてきて、腕時計をし日傘を差した着物姿の祖母の姿が瞼の裏に浮かび上がってきた。
戦争の時代は、誰もが大なり小なり苦しい貧しい思いをした時代だっただろう。祖母は当初は小売りや小料理やで生計を立てていたが、客との関係上掛け売りも多く、収入が安定しなかった。そのうち小学校の給食センターの働き口が見つかったので、自営はすっぱり辞めて調理員として働くようになった。
安定した収入を得てからは堅実に生活し、伯父を大学まで出すなどある程度貯金もあった。必要最小限の指輪や時計を大事に使い、その後定年退職してからは、その貯金を元に家を建てたのである。
「身の丈で生活する人だったけど、使うところには思い切って使ってたわよね」
「ああ。人に物を頼む時は、感謝ももちろんするけど金払いの良い人だったから、身内からもとても頼られてたな」
母と伯父の会話を聞きながら、祖母のことを思い出す。そう、
仏壇を振り返ると、真新しい位牌が艶々と黒く輝いていた。
時計が午後の六時近くなり、家の中に差し込む日差しもだいぶ低くなって来た頃、奥の四畳半から伯父が
「これ、
「煙草!」
「これ珍しかったから、覚えてるよ。新婚旅行で沖縄に行った時だろう? うちで煙草吸うのはばあちゃんくらいだったから、こんなに余ってしまったんだな」
紙袋の中に、紫のパッケージの煙草が四~五箱残っている。今は販売終了したVioletだ。そう、沖縄限定の銘柄だったから、話のネタにと買ってみたのだ。祖母は普段でもpieceを二日で十本程度は吸う人だったので、同じくらいのきつさのものを選んだのだが、まだ残っていたとは思わなかった。
「俺も一箱貰ったけど、その頃丁度禁煙したからこんなに残ってしまったかもな。もう古くて吸えねえな」
「もう何年か前に販売終わっていたはずだよ。勿体ないことした」
「大事に持ってても、お宝にもならんなあ」
「伯父さん、いいよ、俺が家で処分する」
「そうか」
「
歩いて五分の角にある小さな煙草屋は、店を構えてかれこれ四十年くらい経つそうだ。良明が小学生の頃は、祖母と同年代くらいの女性が店番をしていた。今はどうなっているのだろう。祖母と同年代くらいだったから、すでに代替わりしてるのかもしれない。
「こんばんわ。piece一箱貰えますか」
「ああ、いらっしゃい。……あなた、
「ええ。お久しぶりです。こっちは甥っ子」
「ほお。何となく
「今日は法事でしたか?」
「いや、金曜に四十九日を終わりまして。昨日今日は身内で家の整理なんです」
「そうでしたか。慌ただしいねぇ。貞さんとはもう長らく会ってなかったが、寂しいですね」
店主が差し出したpieceと引き換えに代金を渡すと、
「ばあちゃんは、煙草をよく吸っていたからな。お前のお土産でちょうど思い出したよ」
「煙草屋の人、変わってるよね?」
「ああ、確か息子さんだったはずだ。あちらは10年くらい前かな」
周囲はもう暗くなって来ている。夕闇の中で行き交う人々の様子はわかるものの、表情はぼんやりとしていてはっきりしない。今なら幽霊が混じっていてもわからないなぁ、と
夕闇の中に明かりの点いた祖母の家が暗がりに浮かび上がってきた。玄関に入ると台所では
「どこ行ってたの」
エプロンに手を拭きながら、母が声をかけてきた。
「もうすぐ出来るから、仏間の
「判った」
「さあさあ、配るの手伝って!」
暖かい食事の香りと賑やかでかしましい母達の声にせかされ、慌てて
食事が終わり、片付けもあらかた済むと、時間はもう夜の九時だ。
「
「今からばあちゃんにお供えしようと思ってな。
「伯父さん吸うの? 禁煙したんじゃないの?」
「ああ、俺はもう辞めたからな。
父を見ると、そうしな、と頷く。ちなみに父も禁煙している。
「
「いや、この子は酒や煙草にあまり執着が無くてね」
へえ、とこちらを見る伯父達の視線を感じながら、
煙草を箱から引き出して、トントンと軽く机に叩いてから火を点けるのは祖母の癖だった。
おじいちゃんがこうしてたからね。特に意味は無いよ。
そう言いながら祖母は、品の良い横顔に煙草をくわえて火を点けた。大きく吸い込み、ふぅーっと唇をすぼめて中空に長く流れる煙は、夕方の日差しを受けてやがて天空の雲のように消えた。
実は中学一年生の頃、
そう言ってから、諭すように吸い方を教えてくれた。
煙草なんて大して恰好良く無いものさ。不味いだろう?
咳き込む
仏壇の前には残りのpieceの箱と、火を点けた煙草を祖母愛用の灰皿に置き、
「母さん、今日は
その声に合わせて大きく吸い込む。祖母と一緒に吸った時は美味しくも感じなかったのに不思議だ。祖母と吸った時、むせて咳き込みながら何でこんなの吸うの、と聞いたことがある。
そりゃ、そうね。
そう言って、祖母は声を上げて笑った。部屋に差し込む夕方の日差しの中で笑う祖母は、何か壊れてしまいそうで怖かった。
そう
「あれ、
よしよし、と言わんばかりに父と伯父に背中をさすられ、頷きながら、咳き込みながら、
煙に還る マキノゆり @gigingarm
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます