第二章 瞳

燃えていた。

燃え盛る炎に焼かれていた。

全身が熱い。

こんなとき、助けを求めていた人の名が今に限って思い浮かばない。

遠くに誰かがいた。

必死に手を伸ばす。


————助けて。


誰か。






稲葉は歌詞の思い出せない子守唄を口ずさんだ。

確か、姉がよく歌っていたはずだ。もう、あまり思い出せないが、音程と拍子だけはかろうじて覚えている。子守唄なのになぜこんなに暗い音程なのか不思議に思ったものだった。

傍で、寝息を立てる少年を見た。いや、少年の格好の巫女というべきかもしれない。怪我による熱が高かった。回復には時間がかかるかもしれない。こちらとしては一刻も早く味方の多い土地へ行きたかったが、しばらくは無理だろう。

熱をさます薬草を用意していたときだ。うめき声がきこえた。


「————う……や…め………たす……け……」


聞き慣れない高い声に、傍を見る。再びうめき声がした。

うなされているようなら起こしてやった方がいいかもしれない。


「おい」


声をかける。起きない。


「………たすけ………」

「おい」


怪我人の肩を揺さぶった。固く閉じられた瞼は、ようやくうっすらと開いた。発熱しているせいか黒々とした瞳は潤んでいる。


「誰…………?」

「開口一番それか。緋石姫」


途端、なぜか怪我人から大量の殺気が放出された。飛び起きようとしたらしいが背中の傷が痛んだようで、稲葉の顔に殺気を帯びた人差し指を突きつけるだけにとどめられた。


「いいか?俺は緋刃だ。二度と緋石姫などと呼ぶな!」

「なぜ。おまえは正真正銘緋石姫だろう」

「俺は、女じゃない」


稲葉は眉を顰めた。


「なぜ偽る。おまえは女だ」


はっと開きかけた口を閉じた緋刃は自分の身体を抱きしめてキッと睨みつけてきた。


「触ったな」

「触らずにどうやって怪我の手当てをするんだ」


口をつぐんだ緋刃に自己紹介をする。


「俺は稲葉という者だ。歳は17だ。緋色の旗に属する」

「知ってる。あんたの鬼の面、綺麗な朱塗りだから。それに、顔立ちも、俺と少し似ている」


稲葉は美丈夫だった。

すっきりとした切れ長の瞳に、鼻筋も通っている。何より背が高く、引き締まった身体には無駄がなかった。黒い髪は長く、高い位置で結っている。緋刃の住んでいたシダ村の男はみんな髪を短く切っていたため緋刃にとっては珍しかった。村の者とははっきり違う雰囲気を纏ったこの男が、緋色の旗のひとりだというのは納得がいく。


「それよりあんた。俺をどうする気だ。俺は、今まで自分たちが緋色の旗に関係してるなんて知らなかった。それに、自分が緋石姫だ、とかいうのはきっと間違いだ。俺は何も知らない」

「知らない、じゃなくて隠されていたんだ。葵は全て知っていた。あの夜赤子だったおまえを連れて逃げたのは葵だからな。おまえは本当に前の緋石姫様に姿形がそっくりだよ。生き写しだ。見間違えやしない」


緋刃は俯いた。本当に自分が緋石姫だというのなら、兄が長年緋刃を男として育て、緋色の旗を嫌い続けたことの理由がわかる。


「どうして兄さんは俺を連れて逃げたの。どうして俺は緋石姫なんだ。どうして…それじゃあ俺の両親は……?」

「おまえの母親は前緋石姫だった」

「生きてるのか?」

「いや。死んだ。約14年前のことだ。緋色の旗内の勢力争いでな。彼女は戦ったが殺された。それで葵はおまえを連れて里を出たんだ。おまえが15になる前に、こちらに必ず引き渡すと誓ってな。だが奴は守らなかった。緋石姫を男として育て、我々の手の届きにくい朝廷軍の勢力の強い村で生活するとはな。大した度胸だ」

「でも、あんたは来た………」


葵は、きっと朝廷軍の傘下のあの村なら見つからないと思ったのだ。それから周到に緋刃を小さな頃から男として育てた。緋刃は髪を伸ばしたことがなかった。口調は荒っぽかったし、おままごとや人形で遊んだこともない。女なのに男の振りをするのにはそろそろ限界があった。

自分はどうなるのだろう、と緋刃は考える。稲葉は「迎えに来た」と言っていた。どうやら、自分が緋色の旗の巫女である緋石姫ならしい、というのは確かなことのようだった。それでも、ずっと蒼の国の者として育ってきた緋刃にとって、すぐに受け入れろというのは無理があった。ただ漠然と、喧嘩別れをしてしまった兄を思い浮かべる。知らない土地の人間とふたりきりでは心細かった。


「兄さんのところに返せ。おまえだってやっていることは朝廷軍の奴らと同じじゃないか。俺を兄さんのところから攫っただけだ」

「その通りだ。俺はおまえを攫った。だが、朝廷軍に連れて行かれていた方がよかったとおまえは言うのか?」


緋刃は、あの男たちの目を思い出した。


「……………嫌だ。朝廷軍は、嫌いだ………。俺を見る目が、濁ってた…………」

「それがわかるならいいんだ。俺たちの姫が、あんな奴らに囚われて生きていけるはずがない」


その通りだ、と思った。それでも兄に会いたかった。


「じきわかる。葵は間違っていた」

「兄さんを悪く言うな」


稲葉は、静かに緋刃を見下ろしていた。だが、その目は緋刃自身を見ていた。青みがかった綺麗な瞳だった。


「…緋石姫って、いったいなんなの…?巫女、とか聞いたけど」

「正確には戦巫女だ。俺たち緋色の旗の総大将でもある。緋石姫は強い。おまえは、緋石姫の家系に生まれたんだ。それで、ゆくゆくはおまえの母親からその役目を引き継ぐ予定だった……が、14年前亡くなられたため、今の緋石姫はおまえ、ということになる」

「それで……おまえたちは俺に何を求める」


稲葉は少し黙ってから答えた。


「緋色の旗として戦ってくれ。俺たちの里へ、来て欲しい」


それは簡潔な答えだった。


「嫌だ。俺は緋刃だ。緋石姫なんかに、なるもんか」


稲葉の瞳は揺らがなかった。


「では、攫っていく。それだけだ」


それでも優しい手付きで稲葉は緋刃の額の上に冷たい手拭いを置く。


「傷が深い。しばらく安静にしておけ。逃げ出そうなどと思うなよ」


とろとろと眠気が襲ってくる。こいつの前で眠ってなるものか、と思ったが睡魔に勝てなかった。

しばらくして緋刃は眠りに落ちた。子守唄がどこかでずっときこえていた。








葵は立て付けの悪い戸を閉めた。

妹と長年暮らした思い出の家。けれど妹が攫われた今、葵がここにいる意味はなかった。葵にとっての意味は緋刃であり、葵が生きる理由は緋刃でしかなかったのだ。


「葵」


声がして振り返ると、隣の家の少年————カイが立っていた。昔、緋刃を虐めていた者のひとりだったが、今ではそれもなくなっていた。


「緋刃は?あんた、どこ行くんだ。家を回って緋石姫とかいうのを探してた朝廷軍の奴らが、皆殺しにされた。みんな、緋色の旗の鬼の仕業だって騒いでる。緋刃はどこだ。どうして、女は誰ひとり緋石姫じゃなかったのに、男の緋刃が消えてるんだよ。おかしいだろ」


葵は答えあぐねた。真実を語ることはできなかった。


「ごめんな、カイ」

「あんたら緋色の旗なんだろ」


カイは、真っ直ぐに葵の目を見て言った。


「緋刃は納得して鬼についていったのか」

「……………わからない」

「あんたは取り戻しに行くのか」


葵はゆっくり頷いた。


「俺も行く、緋刃を迎えに。あいつはずっと、俺たちの村で暮らしてきたんだ。そう簡単にその事実を変えられてたまるかよ。あいつは根っから蒼の人間だ」


そうしてふたりは歩き出した。

向かう先には、朝廷軍の陣営があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

緋石の鬼 黒川橘佳 @kikka59

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る