第一章 鬼

「っ…………」


激しい動悸がして飛び起きた。

パチパチと何かが燃える音がしたから、まだあの赤い世界の中にいるのかと思って辺りを見回したが、そこは見慣れた家だった。見慣れた光景。嗅ぎ慣れた匂い。


「おはよう緋刃。悪い夢でも見たか?」


かまどで火を焚いていた背中が振り返った。

聞き慣れた兄、葵の声を聞いて緋刃は安心した。


紅い夢に喰われそうになった。小さい頃からそうだ。美しいはずのその夢は、いつも緋刃を脅かした。もうすぐ14を迎えるというのに夢は鮮明さを増すばかりだ。もっと小さかった頃は、夢を見ると大声で泣き喚いて葵にしがみついたものだが、こんな大きくなってそうするのは恥ずかしかった。


「兄さん、俺もすぐ手伝うよ」


裸足のまま土間を降りようとすると止められた。


「着替えてからな」

「はいはい」


おとなしく寝巻きを脱ぎながら緋刃は違和感を感じて葵に聞いた。


「なあ、さっきからなんだか外が騒がしくないか?」


さっきから武具の立てるガチャガチャという音がひっきりなしに聞こえる。男たちの声も、いつもより緊迫している気がする。

それであの夢を見たのかもしれない、と緋刃は思った。なんとなく胸がざわめく。


「緋色の旗の奴らの巫女だか姫だかがこの村に隠されているらしい。朝廷軍がやっきになって探し回ってるって。俺たちには関係のない話だ」


振り向いて、葵がにこりと緋刃を安心させるように笑った。

だが、それが逆に胸のざわめきを増長させるのはなぜだ。


「葵兄さん」


思わず呼びかけた。葵は柔らかい笑みを浮かべて答えた。


「どうした?」

「なんでもない」


着替え終えて、朝食の準備を手伝うために兄に駆け寄った。




朝廷軍の支配下にある国、蒼に生まれた。

生まれた、と言っていいのかはわからない。とにかく物心ついたときには蒼の「シダ村」に住んでいた。

親はいない。

小さい頃から兄と2人きりだった。寂しいと思ったことはない。親というもの知らない。初めから知らないのだから寂しさはない。何より、緋刃には優しい兄がいた。

自分たちが異質だと気づいたのは7つになった頃だろうか。よく緋刃は虐められた。外を歩くと取り囲まれた。いつからか、自分を虐める相手は力でねじ伏せるようになっていった。やられっぱなしは性に合わなかったのだろう。やろうと思えばどれだけでも戦えることに気がついた。強くなればいじめっ子たちも多少は静かになった。彼らの輪に入ればよかったのかもしれないが、緋刃にそれは出来なかった。出来ない理由があった。だから、緋刃も葵もずっと異質なままだった。


強く成長した緋刃はもうすぐ15を迎える。

そろそろもう、こうやって生活するのも無理があるのではないか。俺だってそろそろ————————。


「緋刃」

「ん?何?」

「いや……何を考えていた?」

「あ、あー。緋色の旗のことを」


朝餉の最中に考えごとをしていたのを慌てて誤魔化した。この生活に無理があるだなんて考えてたなんて言ったら、きっと葵は烈火の如く怒る。


「緋色の旗な………」




もともと、この蒼の国は何百もの小さな国に分かれていた。それを統治し、大国にしたのが3代前の帝だった。だが、唯一従わない国があった。名前すらないようなその小国だけが、朝廷軍の弾圧に抵抗したのである。蒼の端に位置するその国は何年にも渡って抵抗を続け、今現在ですら統治下に置かれてはいない。緋色の旗とは朝廷軍に仇なすその小国の一族の掲げる旗のことだ。血のような緋色の布に金の日の丸を描いた美しい軍旗だという。正義を象徴するその旗は、いつしか彼らの呼び名となっていた。緋色の旗に与する者は、額に真紅のはちまきを巻いているという……。

蒼の果てにある国だということと、彼らがあまりにも強かったがために、蒼の帝は半ば彼らを従えることを諦めている、と緋刃は聞いたのだが。それがどうして、今更彼らの巫女など探しに来たというのだろう。




「朝廷軍に逆らおうとは、つくづく馬鹿な奴らだ」


葵は呆れたように言った。


「そうかな。俺はちょっと、憧れるけど」


そう言った瞬間緋刃は慌てて口をつぐんだ。この話題はしばしば葵の逆鱗に触れるということをうっかり忘れていた。


「緋刃!」


案の定葵は険しい目つきでこちらを見た。


「奴らは鬼だ。おまえはわかってない。緋色の旗の異質さが。朝廷の強大さも知らないで、俺たちの生活を乱すやつらだ。さっさと降ってしまえばいいものを」


異質だなんて、俺たちと同じじゃないか、と言いたいのを堪える。

兄は緋色の旗が嫌いだった。普段は優しい兄も、緋刃が緋色の旗に味方するようなことを言うと怒る。それがなぜかもわからず、緋刃は苛立った。


「どうしてそんなこと言うんだ。逆らうのは悪いことか。誰かが逆らわないとわからないことはある。例えば俺たちは重税に苦しめられてる。朝廷は強大だから、俺たちの実態に目もくれない。ちっぽけな蟻の集まりが、どうなろうが興味がないんだ」

「緋刃。仮にも朝廷の恩恵を受けて俺たちは暮らしている。口に気をつけろ」


そのときだ。隣の家の方から甲高い悲鳴が聞こえた。


「違います!娘は、帝に忠誠を誓っております!娘は、逆賊の姫などでは————!」


葵が初めて動揺したように立ち上がりかけた。緋刃は、唇の端を歪める。


「ほらな。いつだって俺たちの生活を乱すのは朝廷軍だ」


緋刃は、箸を置いて立ち上がった。葵が眉をひそめる。


「緋刃?どこへ行く」


答えない。むしゃくしゃしたら、家の外へ行くしかなかった。


「緋刃」


肩を強い力で掴まれる。緋刃はそっと振り払った。


「兄さん独りにさせて」


草履を引っ掛けて外へ飛び出した。


「待て、緋刃!外には朝廷軍が……!」


その声を後に、家を出た。




雨が降ってきた。

小さな雨が、大粒の雨に変わって降り注ぐ。

緋刃は全身濡れたまま道の途中に立っていた。

なんでこうなのだろう。昔から兄の言動にはおかしいところがあった。緋色の旗を酷く嫌い、緋刃に普通の生き方を許してくれない。それが緋刃のためだと言うが本当にそうだろうか。普通に生きていたら、別の道がきっとあったのに。だけれど今更そう思ったところで仕方がなかった。14年間そうやって生きてきた緋刃には、もう別の生き方なんてわからない。

降り注ぐ雨は満遍なく大地を襲う。

災害をもたらす災厄も、分け隔てがないならきっと正義だ。

雨は、どこまでも澄んで美しいと思った。





男は苛立っていた。

目的の少女がいつまで経っても見つからないからだ。

————待った。俺たちは。十分過ぎるほど。その間で状況は変わった。もう悠長に待ってやるときが、自分たちにはない。少女が朝廷軍の魔手に捕まれば、男たちに勝ち目はなかった。

しかし、勝敗をかけたその少女が、見つからないのである。

————埒が開かない。彼奴の言葉なんぞ信じるからだ。

少女が15になる前には、こちらに引き渡すという取り決めは守られなかった。それはそうか。少女の兄は男たちを嫌っていた。少女には、自分たちの大義も戦う意義もきっと教えられてはいまい。そも、自分が特別な存在だとも知らないのかもしれない。


「っくそ……どこに……」


それでも諦めずに、雨の中を男は歩いた。

彼らの希望を求めて。





ガチャガチャと嫌な音がして振り返った緋刃の目に映ったのは武装した男たちの集団だった。


「そこで何をしている。小僧」


威圧感のある声で呼ばれる。うなじにちりりと嫌なものを感じた。朝廷軍。自分たちを支配する者たち。緋刃は何も悪いことはしていないのだから怯える必要などないのに、逃げろと本能が言う。すぐさま跪くべきだったのに、そうと気づいたときには遅かった。


「おい。貴様、ここらの者ではないな。顔立ちが違う」


慌てて顔を伏せる。そうだ。緋刃たちが長年に渡って除け者にされてきた理由はそこにあった。


「顔を上げてみせよ」


馬を降りて、男たちが近づいてくる。

確信があるのだ。その証拠に、男のうちのひとりが縄を手に持っていた。怖気が走った。緋刃は自分の出自は知らなかった。だが、今なんとなく理解した。自分は、逆賊である緋色の旗に与する者と、きっと同じ顔立ちなのだ。


「緋色の旗の者か。其方が緋石姫か」


やけに優しく、男のうちのひとりが問いかける。


「違う。俺は男だ。緋石姫なんて知らない」

「悪いことは言わない、巫女姫よ。朝廷軍に降れ。其方は蒼の国の者として育てられたときいている。それなら我々の味方になってもよいとは思わないか」

「なんのことだ。俺は知らない。女じゃない」

「この村の女はひとり残らず調べた。緋石姫はその中にいなかった。ならば、男の中に紛れていると考えるしかなかろう」


じわじわと男たちが迫って、その輪を縮めてくる。緋刃は逃げ場を探すように地面を見回すが、無駄だった。


「女でないなら脱いでみせよ」

「俺は知らない!それに、俺が緋石姫でもそうじゃなくてもおまえらに従うつもりはない!」


完全に油断している目の前の男を思いっきり蹴り付けた。そのまま勢いに乗って、縄を持っていた男を殴りつける。

隣の家の娘の絹を裂くような悲鳴を思い出した。

彼女がどんな扱いを受けたのかはわからない。だが、この男たちが碌な者ではないことだけはわかる。朝廷軍に付き従ってはならないと、緋刃は強く感じていた。

だが、多勢に無勢とはまさにこのことで、まともな得物なしにひとりで全員倒すのは難しかった。

————ならば、武器を奪うまでだ。

緋刃を生け取りにするつもりだろうか、男たちは刀を抜かない。それが幸いした。取っ組みあった隙に、相手の男から刀を奪う。切先を向けると、さすがの朝廷軍の男たちも、怯む。


「悪いが俺は緋石姫じゃない。そこを退け」

「こちらには確証がある。自ら降らないというなら無理矢理にでも連れて行く」


男たちが動いた。と同時に緋刃は宙に舞う。蜻蛉返りをうって間合いをとった。だが、そんなもの時間稼ぎにすぎなかった。男たちは数が多い。どれだけ捌いても無駄だった。

背後からの攻撃を、避けきれなかった。

背中を斬られる。痛いというよりも熱かった。衝撃に膝をつく。頭上に影がさした。


「姫。参りましょう。帝の元へ————」


連れて行かれてはならないとわかっていた。男たちの目は、緋刃を見ているようで見てはいなかった。だんだん頭が朦朧としてくる。地面に、赤い血が点々と落ちた。

肩に手を置かれる。触るな、と言いたかったのに言えなかった。と、急にその手が離れる。誰かに振り払われたように。


「さっさと立て。この愚図」


はっとして顔を上げた先に、大きな背中があった。


「あ……」


————兄さん?


兄ではなかった。




ブン、と刀が振り下ろされる音。

僅かの揺らぎもなく、影のような人物が動く。

緋刃が、あっと思った瞬間、刃が一閃した。


「ぐぅっ………」


男が鈍く光る刃に斬り伏せられていた。


「あ…んた、……誰………?」


助けてくれた何者かに問うと、刀の血を拭ったその人が、ゆっくり振り返る。

ふっさりとした白い髪。髪が包むのは、恐ろしい形相をした鬼の面だった。


「迎えに来た。緋石姫」


低い声は男のものだろう。

緊張が途切れた。

————もう無理………。

緋刃の身体がくずおれた。





男は、気を失った緋石姫を抱えて歩いていた。

————思っていたよりも幼い。

線の細い身体を見下ろした思う。

大雨でけぶった景色にふと気配を感じた。


「葵か」


霧の中には思った通り葵が立っていた。


「緋刃を……返せ……」

「待ってやったろう。俺たちは。最大の譲歩だったのだ。これ以上は待てぬ」


男は一歩踏み出す。


「待てっ!行くな、緋刃!」


葵が追ってきたが構わず振り払う。


「緋刃駄目だ!女になっては駄目だ!」


血を吐くような叫びは緋刃には届かず、ただ霧の中に虚しく反響するだけだった。


————こうするしかない。


朝廷軍に緋石姫を渡すわけには、死んでもいかなかった。

葵はこの少女を戦乱から無関係な場所で育てたかったに違いない。緋石姫のさがを考えればそう思うのは当然だ。だが代わりはいない。


生きているだけましだと思え。

朝廷軍の手に渡っていたら、どんな扱いを受けたかはわからない。逆賊の姫など利用する以外に価値はないはずだ。


この少女にとっての幸せを奪い、俺たちは長い地獄を終わらせる。

そのために男は何年も少女を探し、戦ってきたのだから。



男は、少女を抱え直すと、脇目もふらずに歩きだす。



男の名を、稲葉という。









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