第2話 安静と試験の狭間

真っ暗な部屋の中で空気はひんやりしている。外は初夏で蒸し暑いがこの部屋は空調が効いているようである。手足を動かそうとすると動かなかった。どうやら拘束されているようだ。少し体を動かしてみると体に激痛が走った。「うっ!」。思わず声が出るのであった。この痛みはなんだ? ここはどこなんだ? と思うのであった。部屋の外からは手をたたく音がする。声をかけてみるが、返事はない。その時に、一人の女性がやってきた。服装は暗くて、よく見えないがその女性は「薬を飲んでください」と言う。橘は言われるがまま薬を飲まされるのであった。その後その女性は点滴を用意し始めて橘の腕に点滴の針を刺したのであった。一体何があったんだ? 思い出そうとしても断片的なことしか思い出せないのであった。自分は助かったのか? ゆっくりと記憶を整理しようとする。心には安堵感があった。自分は間違いなく命を落としかけていた。あれはいったい何だったんだ? 体の自由が利かなくなった……。あんな恐怖は今まで感じたことはなかった。体は動かせないが横になっているだけで心が安らぐ。安心な環境がここまで居心地のいいものだとは思わなかったのであった。部屋を見渡してみる。真っ暗で見えづらいがベッドの横には凸凹したスペースのようなものがある。座るためにあるのだろうか? 部屋の奥に目をやってみる。そこには壁が立っているがトイレがあった。壁で入口からは隠れているが部屋の中からは丸見えであった。しかし、今の自分には羞恥心などない。飲んだ薬は睡眠薬であろうか。意識が朦朧としてくる。今日は疲れた。段々と眠気が襲ってくる。今日はもう休もう。そう思ってゆっくりと目を閉じて意識がなくなっていくのであった。

目が覚める。部屋の中は真っ暗であった。朝なのか昼なのかもわからない。看護師さんが薬を持ってきて橘に飲ませ点滴を替え たりしていた。体を少しでも動かすと激痛が走ったのであった。橘は用を足したくなったため看護師さんにその旨を伝え拘束を解いてもらいトイレに向かおうとするが体が痛くて動かせなかったの であった。看護師さんがその様子を見て「あ~、ダメだ、ダメだ、尿瓶でしてくれ」と言ってきたのであった。橘は「いや、便の方なんです……」。「しょうがない」と看護師さんは言って、箱のようなものをもってきてベッドの上でそこに用を足すのであった。そして橘に紙パンツをはかせたのであった。普通の人であれば羞恥心で耐えられないであろうが今の橘にとってはそんなことどうでもよかったのであった。橘の意識はまだ少しぼーっとするがなんとか頭を働かせることが出来る。橘は理屈では考えられないような体験をした。あの出来事はなんだったんだろうか。事実として、言えるのは命は助かったことだ。自分が裸で歩き警察に捕まったのは6月⒓日だ。その日の出来事を一つずつ整理してみるのであった。まず体が燃えるように熱く感じたのはなんだったんだ? それと警察署での呼吸が出来なくなったり意識が消えそうになったのはなぜなんだ? そして頭の中に聞こえたあの声は……。橘は自分が何かの薬でも飲まされたのではないかと思ったのであった。しかし薬を飲まされた覚えはなかった。ガスか? いったい誰が何のために……。橘はその前日にあったことを考えやはり自分の命を狙ったのはアオギリという会社だろうと思ったのであった。自分ははめられたのか? やはりアオギリは反社会的勢力とつながりがあるのだろうと思ったのである。そして警察の対応。まずなぜ財布、携帯、眼鏡を自分から取り上げたんだろうか。裸で外を歩いたのは確かだが即所持品を押収するものであるのだろうか? 仮に所持品を押収するにしても財布、携帯はわかる。眼鏡まで取り上げる意図がわからない。そして警察署での対応だ。警察署に着いた際になぜあんなに大勢の警察官が出迎えたのか。喉が渇き水を要求したが水すらもくれないものなんだろうか。また警察署に現れたのは実際の父親とは違う偽の父親であった。次に「ポイントは呼吸」と言ったことだ。呼吸が出来なくなったとき確かにゆっくりと深呼吸をしたら呼吸が楽になった。そして意識が飛んだ。気づいたときには服を着て車の中。車の中にいた人は警察だと言っていたが本当に警察だろうか? 警察は自分の父親と顔見知りのようだった。なぜ父親が警察と顔見知りなのか? そして警察の人の服装だ。黒のスーツ……。まるで反社会的勢力の人だ。刑事なのであろうか? 警察官ではなく刑事が自分を病院までわざわざ連れて行くのであろうか? そして今あるこの体に走る激痛はいったい何なのだ? 飲まされてる薬、点滴はどんなものなのだ? 橘はひたすらに考えたが訳がわからないのであった。そんなことを考えているうちにまた看護師さんがやってきて、「これからちょっと移動しますよ」と言ってきた。車いすに乗せられて別室に連れていかれる。そこでレントゲンを撮ったのである。レントゲンを撮るときも体を動かさなければならず激痛が走ったのであった。自分の部屋に戻る際ベッドに寝ようと体勢を動かしたが、体勢を崩しさらに激痛が走った。それを見た看護師さんが「ダメだ! 怖すぎる。すぐに目の届く部屋に移動させるぞ」と言って部屋を移動することになったのであった。新しい部屋は日の光が差し込んでおり外は緑にあふれている。部屋もきれいであった。どうやらこの部屋はナースステーションに一番近いらしい。久しぶりに日の光を浴びて心が安らぐ。それから毎日ベッドの上で過ごし体の痛みが徐々に引いていったのであった。そして何度も6月12日に起きたことを考えていたが全くわからなかったのであった。そして病院に運ばれて1週間程たったある日、父親がやってきてクローン病の内科に行くことになったのである。そしてそこで大腸内視鏡検査を受けることになった。大腸内視鏡検査を受ける際には検査薬を飲み大腸をきれいにしてから受けるため1日かかったのであった。検査薬を飲んでいる間に父親が眼鏡を買ってきてくれたのであった。眼鏡は警察にとられたまま返ってくることはなかったのである。そこで検査結果を聞いたが医院長先生曰く、思ったよりひどくなかったとのことであった。薬は今入院している先生と相談して決めると言ったのであった。入院している病院の病室に戻りベッドに横になり点滴の針を刺される。何度も点滴の針を刺されているので点滴の針を刺している部分があざになっていたのであった。最初はただのあざだと思っていたがよく見ると8か∞の痕のように見える。偶然か? なんにせよ検査結果が悪くなくてよかったと思うのであった。その日の晩一人の白衣を来た男性がやってきた。「調子はどうですか?」と白衣の男性は尋ねた。橘は「体の痛みはだいぶなくなりました、僕の体はどうだったんですか?」と質問したのであった。すると白衣の男性は「統合失調症ですよ」と答えたのであった。橘は驚いた。この体の痛みは統合失調症だというのか? 統合失調症とは精神面の病気で妄想や幻覚、幻聴などの症状ではないのか? そんなことを思っていた。次の日なんとか自力で歩けるようになったのであった。体の痛みはほとんど抜けており部屋の外に出て少し歩いてみる。部屋の外には公衆電話が設置されている。他にも見てみる。テレビや本がおいてある。病棟自体は狭い。一通り見てみて自分の部屋に戻りベッドに座り込む。その時看護師さんと目が合ってうなずいてくる。しばらくしてから看護師さんから部屋を移動しますと言われたのであった。そして大きな病棟の部屋に案内され、ここがあなたのベッドですと言われたのであった。部屋は4人部屋であった。同室の人もいる。部屋から外の景色を見てみるとそこはごみ処理場であった。精神科なのに隣にごみ処理場があるなんて妙だなと思ったのであった。ベッドで少しゆっくりしてから少し出歩いてみる。廊下を通ると真ん中にデイルームがあり大勢の人がいるのであった。そしてみんな楽しそうに話したり、テレビを見たり、本を読んだり、絵を描いたりと様々であった。デイルームを通り過ぎるとまた廊下があり病室がたくさんある。そして廊下の間にまた通路があり奥には扉がある。その通路には碁盤や本、トレーニング器具などが置かれていた。橘はここにいる人たちは自分と似たような体験をして入院してきたのであろうかと思ったのであった。橘はデイルームの空いている席に座って周りをよく見てみる。みんな笑顔であった。精神科というのはみんな心が病んでおり暗いイメージであったがそれぞれ好きなことをし楽しんでいるようであった。廊下に目をやってみるとみんななぜか廊下を行ったり来たりと歩き回っているのであった。橘はいったい何をやってるんだ? と奇妙な感覚に襲われたのであった。そして夕方になり食事の時間になった。食事はデイルームでとるようだ。適当に空いている席に座ったのであった。橘はここ一週間食事をしていない。ずっと点滴であった。久々の食事とのことで楽しみにしていた。しかし橘は魚介類が苦手だった。病院での食事なので魚料理が出てくることが多いのであろうなと思っていた。夕食の時間は夕方の6時であった。みんなデイルームに集まってそれぞれ席に座った。橘が座っていると近くにいた人が「あっ、その席はいつも座ってる人がいるんですけど……」と言ってきた。橘は「あっそうなんですか。まぁ席なんてどこでもいいじゃないですか」と特に何も考えなかった。すると橘が座っている席の隣に一人の男性が座ってきたのであった。その男はあるロボットアニメのTシャツを着ていた。橘はここ一週間ほとんど誰とも話していなかった。また橘もそのロボットアニメが好きでありうれしくなり声をかけることにした。「そのロボットアニメ好きなんですか?」。男は「えぇ、好きですよ」と言ってきてそのロボットアニメの話で盛り上がった。男は田中大紀と名乗った。橘は久々の会話で楽しくなったのであった。田中が「このロボットアニメはアニメの概念を変えたんだよね。このロボットアニメが出てくるまではアニメといえば勧善懲悪で描かれてたんだけどこのロボットアニメは地球連邦とジオン公国と、双方の主張があってどちらが正義でどちらが悪かが明確じゃないんだよね。両方とも大義名分を持っていて戦争しているんだ」。確かにそうだと橘は感心したのであった。ふと橘は考えるのであった。正義とは何か? 悪とは何かと。色で例えるなら白か黒。そんなことをしていると食事が運ばれてきたのであった。食事は名前を呼ばれたら自分で取りに行くらしい。自分の名前が呼ばれたので「ハイ」と返事をし食事をとる。中身を見るとやはり魚料理であった。少し残念だったがとにかくお腹が空いているため、なんでもいいから食べたかった。とりあえず魚料理を食べてみる。すると驚くことにとてもおいしかったのである。橘は5分足らずですべて食べきってしまった。魚って意外とおいしいんだなと思うのであった。食事が終わるとそれを自分で片づけるようだ。食事を看護師さんのところに持っていく。周りを見てみるとみんな自分たちが食事をとった席をウェットティッシュで拭いている。橘もウェットティッシュをもらい自分のテーブルを拭いたのであった。テーブルは4人掛けであり一緒に座っていた人たちも食べ終わったようなので周りの人の分も拭いてあげることにした。食事が終わると部屋に戻り病院での過ごし方のマニュアルを読んでみるのであった。風呂は2日に一度で、消灯は午後10時のようだ。携帯電話は病院が保管しており午前中と午後のそれぞれ15分だけチェックして良く、通話などはだめのようだ。マニュアルにはスーパー救急南辰病院と書かれていた。この病院は南辰というのかと思ったのであった。橘はそのまま自室でゆっくり過ごし寝る前の薬をもらい眠ることにしたのであった。眠る直前にまた色々と考えた。自分は統合失調症なんかではない。自分が体験したことはすべて現実だ。今飲んでいる薬はいったい何なのだ? そしてあの体の痛みはなんなのだ? などと考えながら眠るのであった。翌日は朝早く目が覚めたのであった。デイルームには午前6時までは行ってはならずそれまで自室で過ごさなければならないらしい。6時になるまで自室で過ごし、その後デイルームに向かったのであった。デイルームには人はまばらであった。とりあえず橘はテレビの前の席に座りテレビの電源を入れた。いつも見ていた朝の情報番組を見てみる。橘はテレビが好きであったため久しぶりのテレビで少しうれしかった。6時半ごろになると他の人がテレビ体操を見たいと言ってきたためチャンネルを変えた。するとデイルームにいた人たちみんなが席を立ちテレビ体操をし始めたのである。みんな真面目に体操しているのであった。その光景を見た橘はすごいなと思うのであった。テレビ体操が終わりチャンネルを戻す。するとある芸能人が「X JAPAN最高!」と叫んでいたのであった。橘は偶然だなと思った。橘もX JAPANが好きであった。その後、朝食があり朝食が終わった後再びテレビを見ていた。ニュースをやっていたのであった。色々な情報が流れてくる。しばらく見ていると市役所職員が毎日5分早退していたのに定時で帰っているとの申請をしていた問題が報道された。その市役所というのが橘の実家のある市であった。橘は偶然だな……と思いニュースを見ていたのであった。ニュースの映像には橘の実家の近くにあるバス停の映像が流れていた。橘は驚いたのであった。自分の実家は田舎だ。そんなニュースに出ることなんて普通はまずありえない。これも偶然? 橘は取りあえずテレビを見続けたのであった。ふと視線を感じ後ろを見てみるとこちらをずっと見ている女性がいる。目が合った。なんだろうか? テレビを見たいのであろうかと思っているとその女性が橘の近くに寄ってきて「隣座っていいですか?」と聞いてきた。橘は「構いませんよ」と答えたのであった。そして女性が隣に座る。女性が「私、新野千鶴といいます」と自己紹介をしてきた。新野は40代後半くらいの年齢に見えた。橘も自分の名前を名乗ったのであった。新野は「テレビ好きなんですか?」と橘に聞いてきた。橘は「えぇ、とても好きです」と答えた。新野は「私、双極性障害なんですよ。友達と旅行に行ったんですけど体調を崩しちゃって入院することにしたんです。ついでに誰かいい人いないかな~って。いい人がいたらスカウトしようかなって。なんちゃって」。橘は、「そうなんですか大変ですね」と答えたのであった。スカウトとは何だろうか。この病院には何かありそうだと橘は思うのであった。橘と新野はテレビの話で盛り上がっていた。次第に話題は病気の話になり新野が「ここは病院です。しっかりと休みましょう!」と言ってきたのである。続けて「まず自分の唇を噛んでみて痛ければ本当の自分です」と言った。唇を噛む? 本当の自分? 何のことだ? 新野は「あなたはこの私が責任をもって立派にしてみせます!」と言ってきたのであった。橘は理解していないが「よろしくお願いします」と答えるのであった。そんなことを していると携帯をチェックできる時刻になりナースステーションに行ってみる。すると自分の携帯は病院に保管されていたのであった。警察に押収されたが戻ってきたのであろうか? しかし眼鏡が返されないのはなぜであろうと思うのであった。携帯をチェックすると松田からLINEが来ていたのであった。日付は6月12日、自分が警察に捕まり入院した日だ。「無理しないでゆっくり休んでください」「大丈夫ですか? 連絡ください」「心配なので家に向かいますね」と連絡が来ていた。あの日は会社には無断で欠勤したことになっている。入院していることは父親が松田に伝えていた。橘は松田と一度話さなければと思っていたのであった。一緒にいた新野が携帯に保存してある旅行に行った時の写真や娘の写真などを見せてくる。とりあえず橘は適当に話を合わせていたのであった。その日以降、新野と過ごす日々が多くなっていたのであった。何日か経ったある日テレビを見ていた。するとニュースで吉本興業の闇営業問題が報道されていたのであった。芸能界と反社会的勢力とのつながりについてコメンテーターやニュースキャスターが議論している。反社会的勢力……。自分も反社会的勢力絡みで入院している……。これも偶然か? 近くにいた田中に「僕が入院したのも反社会的勢力関係なんですよね」と言ったのであった。すると田中が「あー、そっち系ね」橘は「今いる会社が反社会的勢力とつながりがあって自分は地雷を踏んでしまったみたいで」といったのであった。田中は「そういう会社にはかかわらない方がいいよ」と忠告してきた。橘は「転職したいのはやまやまなんですけど自分なんかどの会社も相手にしてくれませんよ」と答えるのであった。ずっとテレビでは吉本興業の闇営業問題が大きく報道されている。隣には新野が座っている。橘は新野に「自分が入院したのも今テレビに流れているようなヤクザが関係してるんですよね」と言ったのであった。すると新野は「あら、そうなんですか。でもヤクザって東日本大震災の時に被災地でお金をばらまいたりもしたんですよ」と言ってきたのであった。橘は確かにそのような話をどこかで聞いたことがあるような気がしたのであった。ヤクザは悪なのだろうか? 正義とは、悪とは何だろうか。アオギリという会社も反社会的勢力とのつながりがありそうだがそれにも何か重要な意味があるのだろうか。会計士として会社を見てみれば会社なんてたたけば多少のほこりが出てくるのは当たり前である。そして法律のグレーゾーンをやることなんて日常茶飯事だ。それも悪なのであろうか? 橘の頭の中は色々な疑問でいっぱいであった。病院で何かしているわけではないが毎日考え事だらけで非常に疲れる。

ある日、テレビを見ていると衝撃的なニュースが流れてきたのであった。アニメ制作会社である京都アニメーションが放火された事件であった。放火……。橘が全裸で外を歩いたのも放火されたと思ったからである。これも偶然? 橘は次第に怖くなってきていた。自分の行動が世の中に影響を及ぼしている⁉ そんなまさか……。人を操ることなどできるのであろうか? そんなことは不可能だろう。だが橘が入院したのも常軌を逸した状況であったため自分が何かとんでもないことをしでかしてしまったんではないかと思うようになっていた。またこの時思い出していたのであった。新野が「唇を噛んで痛ければ本当の自分」と言っていたことを。人を操る技術なんて聞いたこともない。しかし橘は警察署でまさに誰かに操られているようになっていたことを思い出したのであった。橘はこの時から世界には何か得体の知れない絶対的な支配者がいるのではないかと思うようになっていた。

夕食のとき田中と会話していた。田中曰く橘が最初運ばれた病棟は保護室というらしい。保護室にはかなり重症な患者が運ばれるという。そして今いる病棟は大部屋というらしい。夕食の後、新野が一冊の本を持ってきたのであった。新野は「この本を読んでみてください」。と言ってきたのである。橘はとても本を読む気分ではなかったが本をザーッと読んでみる。本の内容はあるサプリについてのことであった。このサプリを飲むと体調がよくなった話や病気が治ったなどの話が書かれていた。一体これに何の意味があるのだ?と橘は思うのであった。全部きっちり読む気にはならなかったのですぐに読むのをやめたのであった。次の日の朝6時になったためデイルームに行くと新野が恰幅のいい男性と話していた。新野は橘に気づき恰幅のいい男性と一緒にこちらに向かってくる。「おはようございます」と橘は言ったのであった。そして新野と恰幅のいい男性もおはようございますと挨拶してきた。恰幅のいい男性は「古野間剛です。気軽にコノさんとでも呼んでいいよ」と言ってきた。新野はコノさんに「橘さんは逸材ですよ」といったのである。逸材とはどういったことだろうか? 橘は「逸材だなんてとんでもない」と答えたのであった。コノさんは「いや~、私は妻の策略にまんまとはまったよ! 今まで培ってきた営業ノウハウが全部パーだ!」と笑いながら言ってきた。コノさんは橘にコップ一杯分が入っているインスタントコーヒーをプレゼントした。「これでも飲んでよ」。橘は「ありがとうございます」とお礼を言った。コノさんは見た目で言うと紳士的な印象であった。妻の策略にはまったとはどういうことだろうか。コノさんも橘と同じに何か事件に巻き込まれたのであろうか。コノさんは橘に「主治医は何先生なんだい?」と聞いてきたのである。橘は自分の主治医が誰なのかまだ知らなかったのであった。入院してしばらくたったが自分の主治医が誰なのかわからない。そのためナースステーションに行き橘の主治医が誰なのか聞いてみると看護師さんに「橘さんは、中島先生ですね」と言われたのであった。入院してしばらくたつのに患者の様子を見に来ないとは本当に医者なのだろうかと思うのであった。新野とコノさんのところに戻り自分の主治医が中島先生であることを伝えると新野とコノさんの主治医も中島先生であることがわかった。話を聞くと、中島先生は南辰病院の副医院長であるらしい。橘は取りあえず中島先生が自分に起きたことについて何か知っていると思い看護師さんに中島先生に診察してもらうように頼んだのであった。看護師さんは「そのうち病棟に来ると思いますよ」と言った。日中は新野がファッション雑誌を持ってきて一緒に見ていた。新野は美容師をしているらしい。新野は「この服かわいくないですか?」「この子かわいくないですか?」「この中で誰が一番タイプですか?」などまるで学生のようなことを聞いてくるのであった。橘は「僕は女性とは縁がないんですよ」と答えた。すると新野は「それは今まで橘さんが出会った女の子に見る目がないんですよ。女の子ってわかるんですよ。本当に修羅場をくぐり抜けて頼りになる男性が誰なのかって。結婚相手って出会った瞬間にわかるんですよ。見た瞬間に私この人と結婚するんだって」と言ったのであった。警察署で確かに修羅場は経験した。そのことをまるで知っているかのように新野は橘に語るのであった。「橘さんにはこれからたくさんの女性が寄ってきますよ」といった。橘は半信半疑であった。新野はデイルームは騒がしいからナースステーションの前に移動しようと言ってきたのであった。橘はうなずきナースステーションの前まで移動した。ナースステーションには白衣を来た男が座ってPCを操作していた。表情はなぜかニヤニヤしている。新野が「あれが中島先生ですよ」と言ってきたのであった。この人が……。なんか常にニヤニヤし怪しい雰囲気を出している。中島先生はしばらくするとナースステーションを去ってどこかに行ってしまった。看護師さんに診察を依頼していたが患者を無視するなんて、なんてひどい先生なんだと橘は思うのであった。橘はお金に余裕がなくいつまでも入院しているわけにはいかない。早く退院しなければと焦っていた。そのため看護師さんに再度早く診察してもらうようにお願いしたのであった。新野はいったん部屋に戻りガラスのようなものでできた腕輪を持ってきて橘に渡した。「これ貸してあげます」と。その腕輪はとてもきれいであったがとてもじゃないが男がするものではない。「いや、いいですよ」と橘は断ったが新野は「持ってるだけでもいいですから」と言った。「でも、なくしたら大変ですし」。すると新野は「そうなったらそういう運命なんです」といったのであった。仕方なく橘は腕輪を借りることにしたのだった。橘と新野はデイルームでテレビを見ていた。そこにはバスケットボール選手の八村塁のことが報道されていた。新野は「塁君! 塁君! よく覚えておいてね」と言ってきたのであった。八村塁はニュースでよく報道されているのでよく知っていた。そうしていると看護師さんが橘のことを呼んだ。中島先生が呼んでいるとのことだ。橘は診察室まで向かったのであった。診察室に入ると中島先生がPCの前に座っていた。相変わらずニヤニヤしている。中島先生は「調子はどうですか?」と聞いてくる。橘は「体の痛みはとりあえずなくなりました、自分はどういった経緯で入院したんですか?」と質問した。すると中島先生はPCの画面を見ながら、「6月11日の夜、裸で外を歩いているところを警察に保護されて……」と話しだしたのである。橘は「ちょっと待って! 6月11日は午前中、仕事に行って夜はずっと家にいました!」。そう、橘が裸で外を歩いたのは6月12日の朝のことであった。橘の記憶している事実と病院が認識しているものが違っていたのである。すると中島先生は淡々と「じゃあ6月11日は仕事に行っていたと……」とカルテを書き換え始めたのであった。橘は何かおかしいと思い「あなたは本当に医者なんですか?」と聞いた。すると中島先生は「前にいた病院から連絡はちゃんと受けていますよ」と言った。橘は信じられず「だったら証拠を見せてください」と言ったのであった。そうすると中島先生は橘にPCの画面を見せたのである。そこにはぎりぎりなんとか読めるくらいのかなり汚い字で前の病院で処方されていた薬のことなどが書かれていた。橘は余計に怪しいと思い中島先生に「画面を上にスクロールしてください」とお願いした。中島先生が画面を上にスクロールさせる。すると名前を書く欄がありそこにはこう書かれていた「た〇ば〇つ〇さ」と。橘は混乱して「なんで名前の一部が〇になってるんですか⁉」と聞いた。そうすると中島先生は今までニヤニヤしていた表情から真面目な顔つきに変わったのであった。「それは病院でのルールなんですよ」と言った。橘は「そんなルール聞いたことがない!」と反論したのである。そして画面をよく見てみると職業欄を書く箇所がある。ギリギリ読めるくらいの汚い字でなんとか読んだ。そこには警備員と記載されているように見えた。「これなんて読むんですか!」「なんで職業が警備員なんですか⁉ おかしいじゃないですか!」。すると中島先生が慌てた様子で「私に警備員と読ませようとしたんですか⁉ あなたはさっきから何なんだ! 命を助けてあげたのにその態度はいったい何なんですか!」。その言葉を聞いて橘は何も言い返せなくなったのであった。自分は本当に命を落としかねないような状況に行き危ない橋を渡ったのだと。橘は「僕は普通に暮らしたいだけなんです……」と言ったのであった。中島先生は黙っていた。そうして診察室から出ると新野と看護師の婦長が大笑いしていたのであった。何かそんなにおかしなことでもあったのであろうか。婦長は「私の職業はただのパートのおばさんですから」と笑いながら新野と話していた。いったい何の話をしているのであろうか。それから新野と橘はデイルームに向かったのであった。椅子に座り新野が「世の中って不思議なことあるんですよ。私は旦那が渋谷でチーマーにボコボコに殴られたんですよ。それで黙っていられなくて後日、警察を連れて渋谷に行ったんです。それで警察を連れて渋谷を歩いて旦那をボコボコにした相手を次々に見つけだしたんですよ。しかもその中の一人が殺人事件の犯人だったんですよ」と語りだしたのであった。「10代の女の子が警察を引き連れて犯人を見つけ出すのってすごくないですか⁉」。橘は世の中には理屈では説明が出来ないことが起きることを理解し始めていたのであった。この世の中には何かあるのではないだろうか。それはなんなのか。神様? 運命? 人間? それがいったい何なのか想像がつかなかったのであった。夜、消灯時間になっても橘は眠れそうになかった。そこでデイルームに行ってみることにしたのであった。真っ暗だ。そこで一人椅子に座り色々と考えていると、一人の男性が現れたのであった。その男性は「涼しくてゆっくりとできる場所がありますよ」と言ってきたのであった。橘は男性に誘われるままついていった。そこは廊下の間にある通路だ。窓が少し開 いており風が吹き込んでくるのであった。虫の鳴く音が聞こえる。確かにここならゆっくりできそうだと思いその場所にしばらくいたのであった。通路には長椅子が置かれておりそこに腰掛けるのであった。世の中を支配しているのは何者なんだ? いったいどうやって支配しているんだ? 橘は病院内での出来事を整理してみる。なぜ新野は自分に固執するのであろうか。そしてテレビが何かを語りかけてくるような感覚。この病院では今、何かが行われている。そして自分は何かを試されている感じがしていたのであった。通路のあたりを見渡してみると、碁盤が置かれていた。そこには白の碁石が何個かきれいに並べられていた。白と黒。正義と悪。色々考えたが段々と眠くなり自室に戻るのであった。

翌朝、早く目が覚めた。時刻は午前5時。午前6時までは自室にいなければならず本当は禁止されているがデイルームに向かったのであった。一人椅子に座る。すると新野も起きてきて「おはようございます」と小さな声であいさつするのであった。今度はコノさんもやってきた。新野は「今の時間は朝早くうるさくするとまずいから筆談しましょう」と言って紙とペンを持ってくる。筆談が開始した。橘はお世辞にも字がきれいとは言えないのであった。手先がかなり不器用だ。とりあえず適当なことを書いてコノさんに渡したのであった。コノさんは橘からのメッセージを見た瞬間、困ったように笑ったのであった。コノさんから返事が来た。その文字は橘の文字と似ておりかなり読みづらい。新野の文字ははっきりしておりとても読みやすい。そうして午前6時になるまで筆談が続いたのであった。日中、橘は昨夜行った通路に向かった。通路に着くと長椅子に田中と何人かが座って話しているのであった。橘は外の空気を吸いたくなったため窓に向かって歩きだした。その時、男の叫ぶ声が聞こえたのであった。橘は何だ? と思った。いったん通路から引き返してみる。すると叫び声が消えたのであった。また通路に向かって歩きだす。するとまた叫び声が聞こえてくる。この叫び声は何なんだ? 通路を行ったり来たりしてみる。叫び声が段々と激しくなってくる。田中が橘に寄ってきてこう言った。「〝これ〟がどういうものか理解し始めて調子に乗り始めちゃった感じかな?」と話しかけてきた。〝これ〟とはなんだ? 続けて田中が「この叫び声は自分で言ってるのか、痛くて言ってるのか、命令されて言っているのかどれだと思う?」橘は「よくわかりません……」と答えたのであった。ふと通路に置かれている碁盤を見てみる。昨夜見たときは白の碁石しか並べられていなかったが、黒の碁石が何個か並べられていた。橘はこの碁盤に並べられている碁石が妙に気になったのであった。白と黒。これが意味するものは何なのか……。橘はデイルームに戻り田中が言っていた、〝これ〟とは何なのか考えていたのであった。自分は何か試されている……。〝これ〟とはいったい何なのだ? 橘はいてもたってもいられず新野に聞いた「自分は何すればいいんですか?」。新野は「今のままでいいと思いますよ。普段通りにしていれば大丈夫ですよ」と言ってきたのであった。橘はうすうす感じてはいたが自分は命の危機と引き換えに何か特別なものを手に入れてしまったのではないかと思うようになっていた。

橘は自分が何か特別なものを持ってしまったのだと思うようになり段々と周りの人間が信用できなくなっていた。その特別なものとは何なのかがわからなかった。新野が近づいてくるのも自分を利用しようとしているのではないかと疑うようになっていたのであった。中島先生は相変わらずニヤニヤして「調子はどうですか?」としか聞いてこない。そこでコノさんに話しかけてみることにしたのであった。「中島先生っていったい何者なんですか?」コノさんは「とてもいい先生だよ。ただ担当している患者が多すぎて一人一人に時間を多く割けないんだ。私は2度、中島先生に命を助けてもらってるよ」。コノさんも中島先生に命を助けてもらっているのだと初めて知ったのであった。その日の午後、新野が「OT出ましょうよ」と言ってきた。OTとは作業療法である。OTの内容はというと革細工を作ったり飲み物を飲みながら談笑したりピンポンをするといったものであった。橘は正直そんなことをやっている心の余裕はなかったが新野が「橘さんがOTに出ればみんな喜びますよ!」と言うので仕方なく出ることにしたのであった。革細工をやったが手先が不器用なので簡単な本に挟むしおりを作ったのであった。革細工が終わった後、新野が自分が作った小さな小物入れをくれた。新野は「私は自分で作った小物入れに50円玉を入れてるんですよ。5円の十倍ご縁がありますようにって」と言っていたので橘も、もらった小物入れに50円玉を入れてみることにしたのであった。その日以降たまにOTに出る日が続いたのであった。あるOTのプログラムで、グラウンド、というものがあり外にあるグラウンドに出て歩いたり走ったりと運動のできるプログラムであった。橘は入院してからほとんど外の空気を吸っていなかったためそのOTを楽しみにしていたのであった。そしてOTに参加しグラウンドに出て深呼吸をするが気持ちがいい。天気も晴れていた。橘は田中と歩きながら話すのであった。橘は「今の会社は反社会的勢力がかかわっているから転職も考えてるんですよね」と言ったのであった。田中は「その方がいいよ」と言ってきた。橘は「でも僕は転職回数が多くてなかなか書類選考通らないんですよね」と言った。すると田中は「転職も考え方によるんだよね。今までずっと同じ会社にいた人がいきなり転職するっていうのもおかしいと思われるよ」。橘はそのあたりのことはわかっていた。橘は聞いた。「転職理由はなんて言えばいいですかね」。すると田中は「仕事の途中で何か黒いものを見てしまって精神を病んでしまったと言えばいいんじゃないかな。あくまでも自分には責任はないことを強調するのがいいと思うよ」。橘はなるほどと思ったのであった。次に橘は「転職してもなかなか年収が上がらないんですよね」と言ったのであった。田中は「年収は転職エージェントに上げるだけ交渉させた方がいいよ。入社前のタイミングで年収を上げておかないと入った後はなかなか上げることが難しいからね」。橘は感心したのであった。田中は有名な外資系企業でシステムエンジニアとして働いていた。橘は転職する際にあまり年収のことを考えるのは悪いことだと思っていたがやはり生活するにはお金が必要であった。今度、転職するときは田中の意見を参考にしようと思ったのであった。

ある日、新野がまた本を持ってきたのであった。今度はカウンセリングの仕方に関する本であった。なぜ患者である自分がカウンセリングをする立場にならなければならないんだと考えた。ザーッと読んでみるが当たり前のようなことばかり書いてあるのですぐに読むのをやめたのであった。人と話すことに〝これ〟の意味があるのだろうか? そう思った橘は積極的にたくさんの人に声をかけ色々と話してみたのであった。悩みの話や趣味の話、子供の話など様々であった。ある日、新野が懐中時計を橘に貸してきた。新野は「この懐中時計壊れてるんですよね」と言ってきたのである。橘はなぜ壊れた懐中時計を渡されたのかはわからなかった。すると新野は「ナースステーションにある時計の時間も少しずれてるんですよね」と言ってきたのであった。橘は、自分が持っている電波時計と見比べてみた。確かに少しずれていたのであった。何か時間が〝これ〟に関係あるのだろうか。橘と新野は通路で話し込んでいた。話に夢中になり途中で時間が気になり新野から借りた懐中時計を見てみる。携帯電話をチェックする時間であったためナースステーションに向かうのであった。するとすでに携帯チェックの時間は過ぎていたのである。この懐中時計は本当に壊れてるんだなと橘は思った。こんなガラクタを自分に渡してきて何の意味があるのであろうかと考えたが意味がわからないでいた。ある日、新野が橘を呼びその他何人かを集めて「しりとりしましょう」と言ったのであった。橘はなぜ急にしりとりなんだと思った。新野は「ルールを決めましょう。10秒以内に答えられなければ負けです」。そうしてしりとりが始まったのであった。最初は新野から始まった。新野は「うま」といった。次は橘の番だ。橘は「まご」と答えた。次の人の番だが様子がおかしい。困ったように悩んでいたのであった。ごで始まる言葉なんていくらでもあるはずだ。新野がカウントダウンを始める。悩んだ挙句「ごま」と小さな声で言ったのであった。また別の人の番だ。だが次の人も悩んでいる。何か様子がおかしい。みんな回答に悩んでいるのであった。いくらでも答えはあるのにみんなすぐに答えず困った顔をしているのであった。それは何かに逆らえないような様子であった。何かに支配されている? 禁句でもあるのか? 橘はこのしりとりは続けるべきでないと理解したのであった。このゲームを終わらせるにはどうすればいいのか。それは自分が負ければいいのだと思ったのであった。だがどうやって。少し考えたが簡単であった。タイムアップになればいいだけであった。橘の番が回ってきた。橘は自分でカウントダウンをした。そして10秒が経過した。橘は「僕の負けです」と言った。すると新野が周りに「橘さんはこういう人なんです」と言ったのであった。橘は何だか疲れたため自室に戻った。自室に戻ると同室の年配の男性が立っていた。そして男性は両腕を挙げ腕を〇の形にし「丸! 言動、行動ともに、10点満点中10点だよ」と言ってきたのであった。橘はやはり〝これ〟とは何か自分を試しているものだと確信したのであった。人は何か絶対的なものに支配されている。そう確信したのであった。その晩、新野と話していた。橘は「新野さんはいつごろわかったんですか?」と尋ねた。新野は「私は、学生時代に〝気づきましたよ〟」と言ったのであった。そんなに若いころから知っていたなんてすごいなと橘は思ったのであった。新野は「〝これ〟に気づいてからはやりたい放題ですよ。電車の中で触りたい放題。セクハラし放題」と言ったのであった。橘は何でもありだな……と思ったのであった。すると新野が「勝ち組の世界へようこそ」と言ったのであった。新野は続けて「病院の中じゃ騒がしいから外出の許可が出たら二人だけで話しませんか?」と言ってきたのである。橘は新野が、何がしたいのか意図がわからず少し戸惑ったが「わかりました」と答えたのであった。新野は「そうしたら連絡先交換しませんか?」と言ってきた。橘は覚悟を決めたのだった。「わかりました」。そう言って橘と新野はいったん自室に戻ったのであった。そして二人は再び顔を合わせてお互いの連絡先を書いた紙を交換したのであった。橘は渡された紙を見てみる。新野から渡された紙はただの紙ではなかった。しっかりとした用紙に〝強運お守り〟〝芝大神宮〟と書かれそこに電話番号と住所が記載されていたのであった。その用紙に驚いたがうれしい気持ちになったのであった。そんなときコノさんがやってきたのである。すると新野は「それじゃあ、ちょっと私は席を外してコノさんに譲りますね」と言って去っていったのであった。コノさんが橘の隣に座ったのであった。コノさんは「いつまでもこんなところにいてもしょうがないから早く退院した方がいいよ」と言ってきたのである。橘は「そうですね。でも今の自分はまだわからないことだらけなんですよ」と言ったのであった。コノさんは「失礼だけど言わせてもらう。おい! 橘! 君はまだまだ若いんだ。まだまだ先は長いんだぞ。君はみんなの希望なんだ!」と言ってきたのであった。橘は自分が希望? 自分に何ができるというのだろうか。自分には何か特別なものがやはりあるのだろうかと思った。そのあとコノさんは去っていったのであった。そして橘も自室に戻り色々と考えたのである。勝ち組とは何だろうか。自分の好きなことをすること? 自分がやってきたことといえば仕事の他には、酒、たばこ、ギャンブル、風俗であった。その欲求を満たすこと? しかし自分は罪を犯してまでそんなことはしたくない。自分のやってきたことには金が必要であった。金を稼ぐこと。それが勝ち組なのだろうか。しかし橘は今、置かれている状況が楽しくなってきていたのであった。やはり自分には特別な何かがある。この先の人生が楽しみになってきていた。

橘は翌朝、通路にある碁盤を見ていた。白と黒の碁石が前見たときよりも増えて規則正しく並べられているのであった。白と黒。正義か悪か。正義とは何なのであろうか。悪とは何なのかと考えていたのであった。朝食が終わり隣に座っている田中に聞いてみることにした。「田中さんは、自分を色で例えるなら白と黒どっちですか?」。すると田中は少し考えて「グレーとしか言えない」と言ったのであった。やはり人間真っ白な人はいない。何かしら抱えているものだ。碁盤のことが気になったので新野に聞いてみることにしたのであった。「新野さんちょっとこっちきてもらえますか?」。新野は「え、何々? 怖い怖い!」と言って驚いた様子で橘の後についていき碁盤を見るのであった。「この碁盤に白と黒の碁石が並べられてますがいったいどんな意味があるんですか?」。そうすると新野は慌てた様子で側にいた男の子に「これどういう意味?」と問いかけるのであった。すると男の子は「田中さん対さっちゃん」と言ったのであった。さっちゃんとはよく田中と話している女性であった。一体どんな対決をしてるんだ? よくわからないがとりあえず橘は、そうですかと一言だけ言って立ち去ったのであった。その後ナースステーションの前の椅子に座ろうとしたところ長身の痩せた男性が座っていたのであった。見慣れない人だなと橘は思ったのであった。南辰病院は日々、入退院が多く人の出入りが激しいのであった。新しく入ってきた人であろうか。何となく気になった橘は長身の痩せた男性に話しかけたのであった。「初めまして、橘と申します。最近入院されたんですか?」。長身の痩せた男性は「あ、どうも。浦原祥平と申します。数日前に入院してきました」橘は先に入院したので先輩風を吹かせて「ここは病院なんでゆっくりしましょう」とアドバイスをしたのであった。浦原は「橘さんってすごいですね。自分が〝これ〟やったときは10日と持ちませんでしたよ」と言ったのであった。橘は驚いた。浦原も〝これ〟をやったことがあるのであった。続けて浦原は「橘さんはいつまで〝これ〟を続けるつもりですか?」と聞いてきたのであった。橘は少し考えて「行けるところまで行ってみたいです」と答えたのであった。浦原は「実は僕、お金ほとんど持ってないんです。仕事は日雇い派遣をしてて親にも見放されてるんです」と言ったのであった。橘は、お金がない苦しみを知っている。そして両親とも喧嘩して家を飛び出していて自分と重なる部分があったのであった。橘は「親とは連絡できるんですか?」と尋ねた。すると浦原は「はい、連絡は取れます」と答えたのであった。橘は「なら……まだ望みはある……」と言った。続けて「最終的に何かあったとき頼れるのは肉親だけですよ」と言ったのであった。浦原は「勇気を出して親に連絡取ってみようと思います」と答えたのであった。

橘はデイルームにいると看護師さんから診察室に来るように言われたのである。診察室に行くと中島先生がいたのであった。中島先生がニヤニヤしながら「そろそろ退院に向けて家族の同伴での外出を許可しようと思います。退院したら訪問看護を受けてもらいます」と言ったのであった。橘はうれしかった。ここ一か月外に出ていないのだ。外出したら新野と二人だけで会う約束もしている。しかし本当に新野と二人だけで会ってもいいのだろうかと思ったのであった。橘はもし自分が何か特別なものを持っていて、それを新野が利用しようとしているのではないかとも思っていたのであった。橘は「外出先でこの病院で出会った人と会ってもいいですか?」と中島先生に聞いたのであった。すると中島先生は慌てた様子で「それはダメ、ダメ!」と言ったのであった。なぜだろうか? やはり何かあるのだろうか。橘は続けて「退院したらお酒飲んでもいいですか?」と聞いた。すると中島先生は「お酒もダメ」と言ったのであった。橘はわかりましたと言って診察室を後にした。

橘は考えていた。本当に自分は特別な何かを持っているのだろうか? 橘は気になってしょうがなかったのであった。そこで確かめることにしたのである。通路に向かってみる。そこには長椅子に座りながら談笑する男女がいるのであった。橘は男女の間に座ったのであった。男性が「おう! どうした?」と聞いてきた。橘は思い出していた。新野が触りたい放題、セクハラし放題だと言っていたことを。自分もできるか試してみたのである。右隣に座っている女性の手を握ってみることにしたのであった。女性は「え、何々?」と言って手を握り返してきたのであった。その次に女性の腰を触ってみた。女性は「何? 何なの?」橘はゆっくりと手を女性の上半身の方に移動させたのであった。すると女性は「やだ! 怖い!」と言って立ち去ってしまったのであった。それを見ていた男性は唖然としていたのであった。橘は次に男性に触ってみることにしたのであった。男性は「な、なんだよ! 俺は空手やってるんだぞ!」と言って怒った様子で橘をつかんだ。そして橘をナースステーションまで引っ張っていったのであった。物凄い力であった。つかまれている箇所がとても痛い。橘はやはり自分には特別な力なんてないのだろうかと思ったのであった。しかし妙だ。連れ去られている途中、周りのみんなは笑顔であった。そして「大丈夫?」「今まで辛かったね」「よく頑張ったね」と様々な人から声をかけられたのであった。そして看護師さんも「はい、今まで辛かったわね、これ飲んで」と薬を飲まされるのであった。その言葉に橘は自然と涙が溢れたのであった。今まで訳がわからないことだらけで頭がパンクしそうであったのである。そして、大部屋にある個室へ移動することになったのであった。橘はそれからは個室で静かに過ごし眠りにつくのであった。翌日、朝食を終えると看護師さんがやってきたのであった。「橘さん部屋の移動です」と言って荷物を整理して部屋を移動することになったのであった。移動先になったのは保護室であった。



保護室に着くと一番奥の部屋に案内されたのであった。そして中に入ると部屋の扉を閉められ鍵をかけられてしまったのである。部屋はとてもじゃないが清潔とは言えなかった。部屋の真ん中にベッドがあるのであった。そして天井にはテレビが設置されているがリモコンが見当たらないのであった。ナースコールも見当たらない。部屋にはトイレが設置されているが便座がついていないのであった。トイレの近くに手を洗うような場所があるが蛇口が見当たらないのであった。トイレを流してみた。すると手を洗う場所からちょろちょろと少しだけ水が出てくるのであった。橘は、この部屋はまるで刑務所のようだと思うのであった。扉を開けようとしてみる。鍵がかかっていて開かないのであった。完全に閉じ込められてしまったようだ。とりあえずベッドに腰掛けるのであった。誰とも話す相手がいない。完全に孤独状態だ。大部屋ではたくさんの人と色々話せて楽しかったのであった。しばらくしてから中島先生がやってきたのである。ニヤニヤしながら「なぜあんなことしたのですか?」と聞いてきたのであった。橘は何と説明していいのかわからず仕方なく「ムラムラしたからです」と答えたのであった。中島先生は「わかりました」と言いながら去っていったのであった。それからずっと一人で殺風景な部屋で過ごすことになったのである。とても退屈だ。この部屋から出してもらうにはどうしたらいいか考えていたのであった。すると部屋の外を一人の女性が通り過ぎたのであった。女性と目が合う。橘はベッドから立ち上がり扉の横のガラス窓の近くに行ったのであった。橘はガラスをトントンと軽くたたいたのであった。すると女性は不安そうな顔でこちらに近づいてくるのであった。女性は不思議そうな顔でこちらを見てくる。橘は口パクで看護師と言ってみたのであった。女性は、最初はよくわからない様子であったが繰り返し言っているうちに理解したようで看護師を呼んできてくれたのであった。橘は看護師に「ナースコールがないんですけどどうやって看護師さんを呼べばいいですか?」と聞いたのであった。すると看護師さんは手をたたいた。そして「こう」といったのであった。手をたたいて呼ぶしかないようであった。その後、喉が渇いたので水をもらおうと看護師さんを呼ぶため手をたたいたのであった。一向に反応はない。何度もたたいたが全く反応がないのであった。ひたすら手をたたきやっと看護師さんがやってくるのであった。橘はこの扱いにひどくストレスを感じていたのであった。橘は水を飲みたくても好きに飲めないので仕方なくトイレを流し便器に流れてくる水をコップですくい飲んでいたのであった。数日間過ごしたが一向に部屋から出してくれる気配はない。なんとか出る方法はないだろうか? しかし、できることなんて何もない。橘はやけくそになったのであった。そして着ていた服、全てを脱ぎ全裸になったのであった。看護師へのいらだちから少しでも嫌がらせをしてやろうと思ったのである。しばらくしてこの間、看護師を呼んできてくれた女性が通り過ぎたのであった。橘はベッドから起き上がりガラス窓に近づく。そして窓をトントンと叩くのであった。女性がこちらを見る。女性は見た瞬間驚いていたが顔をそらし大爆笑しているようであった。そして女性は去っていったがすぐに戻ってきたのである。そして紙をガラス窓に押し付けてきたのであった。そこにはこう書かれていた「つかさ、早く外に出て一緒に遊ぼうぜ」。橘はうれしくなった。久しぶりに人と会話したような気がしたためである。そして女性は去っていったのであった。何となく満足した橘は服を着てベッドに横になり静かに過ごすことに決めたのであった。数日後、部屋の扉が開けられたのであった。外に出てもいいとのことであった。部屋の外に出てみる。保護室は大部屋に比べるとかなり狭いが、それでもずっと部屋に閉じ込められていた橘にとってはとても広く感じたのであった。デイルームがある。そこには3人が座っていたのであった。一人は自分と「一緒に遊ぼうぜ」と言って来た女性だ。もう一人は男性。残りの一人は女性。まず面識のあった女性が、「司! やっと出れたんだ! よかったね!」と言ってきたのであった。続けて「私、荒木静香! しずかちゃんのしずかね!」。荒木は年齢で言うと30代後半くらいであろうか。服装は随分とおしゃれをしていたのであった。その次に男性が自己紹介をしてきた「初めまして、井下智一と申します、よろしくお願いします」と頭を下げてきたのであった。年齢は50代近くであろうか。とても礼儀正しい人のようだ。最後に女性が挨拶してきた。「私、永石秋!」。年齢は40代くらいであろうか。肌は黒い。みんな自己紹介したので自分も名前を名乗ったのであった。すると永石が「ねぇねぇ橘君、怖い人に会ったらあたしが何とかしてあげる。警察の人にいっぱい電話してあげるから住所教えて!」と言ってきたのであった。橘はなんだこの人はと思ったのであった。初対面の人にいきなり住所なんて聞くか? そんなことを考えていると看護師さんが寄ってきて「永石さん、そろそろ部屋に戻る時間ですよ」と言ったのであった。どうやら永石は部屋から出てこられる時間が限られているようであった。永石は部屋に戻っていった。井下は私も失礼しますねと言って部屋に戻っていったのであった。荒木は嬉しそうに橘に色々と話してくる。「司は何で入院してるの?」と聞いてきたのであった。正直、橘もなんで入院しているのかよくわからないので返答に困ったが「会社をめちゃくちゃにしたからかな」と答えたのであった。すると荒木は「静香も家をぶっ壊した!」と言ってきたのであった。家を壊すなんてなにしたんだ? 橘は「あと家族の問題とか警察とかヤクザとか……」と答えたのであった。すると荒木は驚いたように「ヤクザ⁉ 静香と同じじゃん!」と言ってきたのである。続けて「静香ね、電磁波協会に電磁波レイプされてるの」。橘は何だそれ⁉ と思ったのであった。荒木は「今まで筋トレとか大変じゃなかった?」と言ってきたのであった。橘は「筋トレなんて特にしてないけど……」と戸惑ったように答えたのであった。荒木は驚いたように「なんで? だって電磁波協会に体すり替えられちゃうんだよ?」。橘は何なんだこの人はと思ったのであった。荒木は「静香ね、本当は目の色もブラウンだったの……でも電磁波協会に取られちゃった……」。橘は意味不明と思うのであった。荒木はさらに「静香、昔犬飼ってたんだ。ルイって名前なんだけどヤクザに車で引き殺されたの……」橘はルイという言葉に聞き覚えがあったのであった。新野がバスケットボール選手の八村塁のことを覚えておくようにと確かに言っていた。荒木と新野、何かつながりがあるのだろうか。荒木は「筋トレしてないってことは今まで何もなかったの?」。橘は「特に何もなかったけど……」。荒木は続けざまに「今まで大丈夫だったって ことは……。もしかしてスカウトされに来たの?」。橘はスカウト? そういえば新野もスカウトがどうとか言ってたな……。荒木は驚いた様子で「じゃあ静香と司は敵同士ってこと⁉ 司は電磁波協会にスカウトされに来たってことだよ! すごい! 敵と会うことになるとは思ってもみなかった!」。橘は話について行けていなかったのであった。荒木は突然叫びだした。「ふざけんじゃねー、何笑ってんだよ!」と天井に向かって言い出したのである。橘は「誰に言ってるの?」と聞いた。すると荒木は「上から見下ろしてニタニタ笑ってるやつらにだよ!」。橘は天井を見たが普通の天井であった。何か荒木には見えているのだろうか……。

 次の日の朝目覚めた。あたりはまだ真っ暗であった。今何時だ? と思い時計を見てみる。時刻は午前3時33分。ゾロ目……。橘は会計士で数字を扱う仕事だ。自然と妙な気分に襲われたのであった。偶然? 何か意味があるのか? その後、頭が冴えてきて眠ることは出来なかったのであった。保護室では午前7時になるまでは、部屋の外に出られないよう鍵がかけられている。7時になるとみんな部屋から出てくるのであった。荒木は眠そうに言ってきた。「司、夢を見たんだ……」。橘は「どんな夢?」と聞いた。荒木は「第三次世界大戦が起きる夢。第三次世界大戦はアメリカとロシアが手を組んで中国を亡ぼすの」。続けて「司、バタフライエフェクトって知ってる?」と聞いてきた。橘は「名前くらいは……」と答えたのであった。荒木は「一匹の蝶が羽ばたくと遠くの場所で竜巻が起きるの……。司が何かすると戦争が起こりそう……」橘はドキッとしたのであった。自分の行動が世の中に影響を及ぼしているのではないかと考えていたがまさか戦争が起きるとは考えてもみなかったのであった。本当に自分の行動が世の中に影響を与えているのだろうか? それを確かめるすべは思いつかなかったのであった。それからしばらくすると浦原が保護室に入ってきたのであった。橘は「浦原さんどうしたんですか?」と聞いた。浦原は「自分もちょっとやらかしてしまいまして……。実は女性の体に触ってしまったんですよ」。浦原もやらかしてしまったようであった。しかし浦原は数日で部屋を移動することになったのであった。浦原は「これから、1階の大部屋に行くことになりました」と橘に言った。橘は随分と早い移動だなと思うのであった。

 日中、井下が話しかけてきた。「名探偵コナンの作者って誰でしたっけ」。橘は「確か青山なんとかだった気がしますけど」。井下は「テレビの前の本棚にコナンの本があるから読んでみて」と橘に言ったのであった。橘はコナンの本を手に取り作者を見てみる。「青山剛昌ですね」と言った。すると井下は声を張り上げて「青山剛昌!」と言ったのであった。すると笑いながら「コナンゲーム! さぁ、色々と考えてごらん」と言って去っていったのであった。橘は何なんだ? と思った。色々考える? 毎日考えすぎてるが……。橘は部屋に戻り今までのことを考えたがやっぱりよくわからないのであった。次の日、井下が一人本を読んでいた。橘は、「こんにちは」と挨拶をしたのであった。すると井下も「あ、どうも」と返事してきた。橘は「井下さんは入院してどのくらいなんですか?」と聞いたのであった。「私は、2週間くらいですかね」。橘は「じゃあこれから大部屋に移動ですね」と答えたのであった。橘と井下は世間話などをしているときふと外の景色を見てみる。そこは緑にあふれており見ていてとても気持ちいいものだった。橘は考えた。大部屋から見えた景色はごみ処理場……保護室から見える景色は緑……。保護室に移動になったことにも何か意味があるのではないかと思っていたのであった。橘はずっと外の景色を見ていると井下が「気づきましたか?」と言ってきたのであった。橘は「はい」と答えた。井下は「わからないことがあれば答えますよ」と言ってきたのであった。橘はわからないことだらけで何を質問していいのかわからなかった。すると井下が「例えばある男性が公園で浮気相手とデートをしていたとする。そこに偶然、奥さんと鉢合わせしたとしたらどう思う?」。橘は「修羅場ですね」と答えた。「そう、修羅場だ。でも偶然公園で浮気相手とデートして偶然同じ時刻に偶然奥さんと出会うことなんてあり得ると思う?」。橘は考えた。偶然に偶然が重なることを。その確率はかなり低い。橘は「ほぼあり得ないと思います」と言ったのであった。井下は「そう偶然に偶然が重なることは必然ってことだよ」。橘は考えた。今まで偶然だと思っていたことは必然……。次の日の朝、目が覚める。時刻を見てみる。午前2時22分。またゾロ目……。偶然の偶然は必然……。今までのことを整理してみる。自分はテレビで自分に関係する報道を何度も見た。そしてもし本当に自分に何か特別な力がありそれが世の中に影響を及ぼしているなら……。それはバタフライエフェクト……。橘は、はっと気づいたのであった。自分がしているのは誇大妄想……。橘はこの時、初めて自分が統合失調症であることを認めたのである。しかもこれはかなり重症だ。橘は理解した。統合失調症というのは〝気づいてしまった人〟がなる病気のことなのだと。

 次の日、入口が騒がしい。女性の声がするのであった。保護室に入るのを拒んでいるようであった。その女性は60代くらいであった。その女性は鈴木道子と名乗った。鈴木は怒っている。「娘に騙されたわ! 娘が入院するからって言うんでお見舞いに来たのに私が入院させられたわ!」橘は「何があったんですか?」と聞いた。「娘は私の財産を狙ってるのよ。だから念のため通帳と印鑑は絶対に見つからない場所に隠したんだから!」。橘は、世の中いろんな人がいるなと思うのであった。次の日、鈴木は保護室を行ったり来たり歩いていた。そして椅子に座り休憩しているようだ。橘は「そんなに無理に歩くことないんじゃないですか?」と聞いたのであった。鈴木は「私、足を手術して思うように動かないの。でもここでじっとしてると運動不足になるじゃない。だから無理してでも歩くようにしているの」。橘は大部屋でも大勢の人が歩いているのを見ていた。歩くことに何か意味があるのだろうか。ただの運動不足の解消なのであろうか。

 ある日、井下が橘に話しかけてきたのであった。どうやら井下は占いが好きらしく橘を占ってくれるとのことだ。その占いはというとカバラ数秘術というものであった。橘は自分の生年月日を教える。「橘さんは運命数5だね」と言って、占いの本を読み始める。「橘さんは巨額の富を得るって書いてあるよ」と言ってきたのであった。カバラはそれぞれの運命数をピラミッドで表しておりそれぞれ準備期、出発期、発展期、充実期、完成期と人生を波のような形でとらえている。運命数5の人は20代前半から準備期が始まり26歳で第1のピークを迎え、それ以降は下降の一途をたどり 31歳から出発期を迎えるのであった。橘は確かに自分は20代前半のころはエリート街道を走っており充実した人生を送っていたのであった。しかし、26歳で統合失調症を発症しそれからは絶望の人生であった。そして今現在は今年で31歳になり丁度、出発期を迎える時であった。橘は「確かに間違ってはいないですね」と井下に言った。井下は「わらしべ長者って知ってる?」と聞いてきた。橘はうなずいた。井下は「少しずつ、少しずつ、一歩一歩、焦らず、進んでいけば大丈夫だよ」と言ったのであった。橘は今までの人生を思い返していた。自分はスキルを上げるために転職を繰り返し焦りすぎていたのであると思ったのであった。デイルームで過ごしていると見慣れないおじいさんが立っているのに気づいた。ずっと外の景色を見ながらぼーっとしているのであった。橘はおじいさんに話しかけたのだった。「外の景色はきれいですよね。昔、おじいちゃんに田んぼとかに連れて行ってもらってカエルなんかを見つけては大喜びしてましたよ」。するとおじいさんは「私は、悪いことをいっぱいしてきた……」と遠い目をして言ってきたのであった。橘は「そうですか……」と言って、二人はしばらく外の景色を眺めているのであった。それから橘は一人で過ごしていると荒木が寄ってきた。荒木は「静香ね、実は天使なんだ。静香の周りの人は皆、幸せになるの」と話してきたのだった。橘も何となく雰囲気で只者ではないと思っていたが天使とは意外な答えであった。自分も幸せになれるのであろうかと考えるのであった。

 デイルームで過ごしていると見慣れない男性が部屋から出てきた。外に出ることが許されたのであろうか。その男性はゆっくりとデイルームの席に向かってくる。今デイルームにいるのは、橘、井下、鈴木の3人である。男性は「いや~、やっと出れたよ」と笑いながら言ったのであった。男性は荻原省吾と名乗ったのであった。荻原は笑いながら「俺、〝これ〟やるの10年ぶりなんだけど」と言った。荻原も過去に〝これ〟をやったことがあるらしい。荻原は橘に向かって話し始めた。「この病気って頭が良すぎるからなっちゃうんだよね。俺は小学生の時に〝気づいたよ〟」。そのまま荻原は続ける。「実は俺と、鈴木と、井下の3人が集まったのは井下が音頭を取ったからなんだよね」。荻原はさらに続ける。「多分この3人の中で一番成功しているのは俺だね。俺は建物の図面を描く会社を経営していて女性社員を雇ってハーレム状態で仕事してるよ」。橘は感心したのであった。すごい人なんだと。荻原は「大丈夫、時間はかかるかもしれないけどちゃんと社会復帰できるから」。荻原の言葉は橘を勇気づけたのであった。それから数日後、橘は1階の大部屋へ移動となったのであった。 1階の大部屋に案内される。その造りは2階の大部屋とほぼ同じであった。唯一違う点というとベランダのような場所があり外に出られる点だ。金属の柵で囲われているが外の空気を吸うことが出来るのであった。とりあえずデイルームに行きテレビを見てみる。ニュースが流れていた。今年は梅雨が長く各地で大雨が降っていたのであった。そして九州地方で大雨災害が起きていた。橘はそういえば上司である松田は九州地方出身であったことを思い出していたのであった。保護室では携帯をチェックできなかったので久々に携帯をいじることのできる時間になり携帯をチェックしたのであった。すると新野から大量のLINEが送られてきていた。新野はすでに退院したようである。送られてきた内容はというと「知り合いの美容院でカットモデルをしてくれませんか?」「美術館に一緒に行きましょう」「横浜に行きましょう」など様々であった。一体、新野は何を企んでいるのであろうか。そんなことをしていると浦原と出会ったのだった。橘は「お久しぶりです」と挨拶したのであった。浦原も挨拶を返してきた。浦原は「僕がなぜ橘さんを追って保護室に行って1階の大部屋に来たか意味がわかりますか?」と聞いてきたのであった。橘はやはり〝これ〟が関係しているのだろうと思った。橘は「〝これ〟って何なんですか?」と浦原に聞いたのであった。浦原は「こういうのを見て面白がっている人たちがいるんですよ」と答えたのであった。やはりこの世の中には支配者の意思が影響を与えているのであると理解するのであった。橘はデイルームで一人座っていた。今までの経験からすると誰か話しかけてくるはずであると考えたからである。周りを見てみる。やはり廊下を行ったり来たりと歩いている人が多数いるのであった。すると一人の女性が話しかけてくる。「今、話しかけて大丈夫ですか?」。橘は、はいとうなずいたのであった。話しかけてきた女性は綾というらしい。歩けないのか車いすに乗っている。見た目は橘と同じくらいの歳であろうか。綾は「なぞなぞの問題を出してもいいですか?」と聞いてきたのであった。橘はなぞなぞに付き合うことにしたのであった。なぞなぞが終わった後世間話をした。どうやら綾は結婚しており明日、旦那がお見舞いに来るとのことであった。次の日、綾ともう一人若い女性が一緒に折り紙を折ったり絵を描いたりしていたのであった。橘は二人に近づき話に加わってみることにしたのであった。綾と一緒にいる女性は20代中盤くらいに見えた。そうしているともう一人女性がやってきたのであった。歳は40歳くらいであろうか。話してみるとその女性は昔、キャバクラで働いていたようだ。テーブルの上にはチラシが置いてある。駅前のパチンコ店のチラシが眼に入った。キャバクラで働いていた女性は「パチンコって面白いよね!」と橘に言ってきた。橘もパチンコにはまっていた時期があり話が自然と盛り上がるのであった。そんなとき綾の旦那がお見舞いをしに現れた。見た目は筋肉質で肌も小麦色でとても健康そうな好青年といったものであった。綾の旦那は橘を見ると握手を求めてきた。そして橘が、握手に応じると今度はハグをしてきたのである。綾が「握手やハグは武器を何も持ってないって意味で敵意はないこと、つまり友好を表しているんだよ」と言ってきたのであった。橘はなるほどなと思うのであった。橘と他の二人は邪魔しちゃ悪いと思い席を移動し別の席に座ったのであった。そこで女性二人はオセロをやろうと言い出し遊び始めたのであった。白と黒。正義か悪か。橘は黙ってゲームを眺めていたのであった。勝敗はというとお互いに取り合った数は同数で引き分けであった。橘はまた正義とは何か悪とは何かと考え始めているのであった。橘は歩いていると浦原に出会った。橘は浦原に質問してみることにしたのである。「浦原さんは自分を色で例えるなら何色ですか?」。すると浦原は「黒に近いグレーですかね」と答えたのであった。橘も自分の色を考えてみる。自分は仕事中に飲酒などをし、たばこのポイ捨てなどもしていた。だが自分の考えのもとに正しいと思ったことをしてきたつもりであった。橘は「僕は白に近いグレーですね」と浦原に答えるのであった。橘はさらにナースステーションに行き看護師さんにも聞いてみることにしたのであった。「看護師さんは白と黒どっちが好きですか?」すると看護師さんは「白と黒どっちも好きですね。白があるから黒が映える。黒があるから白が映える」と答えたのであった。橘はベランダで正義とは悪とは正しい行いとは何なのかということを考えていたのであった。自分の今までの行いを思い出していた。いいこともしたし悪いこともした。橘は気分が暗くなったり明るくなったりと色々と感情が変化したのであった。外を見てみると雨が降ったり晴れたりと何か橘の感情を表しているような感覚になった。橘はまさかな……と思うのであった。ある日、橘は浦原と話していると浦原が今日はこれから外出すると言い、何か買ってきましょうかと聞いてきたのであった。橘は「浦原さんはお金に余裕がないんじゃないんでしたっけ?」と聞いたのであった。すると浦原は「実は僕お金結構持ってるんです」と言ったのであった。橘はなぜ2階の大部屋でうそをついたのであろうかと思ったが、まぁいいだろうと思いお菓子を買ってきてもらうことにしたのであった。

 橘はキャバクラで働いていた女性とナースステーションの前で話していた。お互いくだらない話で盛り上がっていたのであった。すると突然、女性が時計を指さす。「ほら! これ見て!」。時刻は午後2時22分であった。女性は「当たりだね! でも単発」と言ったのであった。パチンコは奇数で当たれば確変、偶数で当たれば単発である。橘は時間のゾロ目に何か意味があるのかと考えているのであった。その後、二人は移動しデイルームに向かうのであった。そこで一人でポツンと座っているおばあさんがいるので話しかけることにしたのであった。おばあさんは落ち着いた様子で挨拶してきたのであった。そこへ綾と仲良くしていた20代中盤くらいの女性も話に加わってきたのであった。それぞれお菓子を持ち寄って色々と話に花が咲くのであった。するとおばあさんが橘にオセロをやろうと言ってきたのであった。橘は少し面倒であったがゲームをやることにするのであった。橘のオセロの実力はというとルールを理解しており、それぞれ角を取ると有利にゲーム展開できるといった程度のものであった。ゲームが進んでいく。気づけば4人は黙っていたのであった。ゲームが終了した。結果は橘の勝利であった。するとおばあさんが橘の目を見ながら「ヴァルナリエの歩き方教えてやろうか?」と聞いてきたのであった。ヴァルナリエとは駅に直結している商業施設である。橘は面倒ごとに巻き込まれるのは嫌だったので、断るのであった。おばあさんは続けて「隣でもやってたから大丈夫だよ」と言ってきたのであった。隣を見ると女性二人が黙ってお菓子を食べているだけであった。しかし二人の表情はどこか真剣そのものであった。おばあさんが「あたしが1階の大部屋にしか入院しない理由がわかるかい?」と聞いてきたのであった。橘は「わかりません」と答えるのであった。おばあさんは橘に主治医は誰かと聞いてきたのであった。橘は「中島先生です」と答えた。するとおばあさんは「中島先生はすごくいい先生だよ。奥さんが薬剤師で薬のことをよく知っているんだよ。それで奥さんとはすごくラブラブなんだ。中島先生はまだこの病気が広く知られる前から先生をしていていろんな病院を自転車で移動し、たくさんの患者を診てきたんだ」と言ったのであった。あの常にニヤニヤしている中島先生がそんな人だとは思ってもみなかったのであった。

 ある日、橘は家族と同伴であれば外出してもいいとの許可が出たため父親に頼み近くのコンビニまで連れて行ってもらうことにしたのであった。父親が迎えに来て病院の外に出るのであった。久しぶりに見る外の景色であった。父親が「さっきまで土砂降りの雨だったんだよ」と言ったのであった。確かに地面が濡れている。橘は随分タイミングがいいなと思ったのであった。今は太陽が差しており快晴だ。橘は考えたのであった。長引く梅雨、九州地方の豪雨災害、自分の感情とともに天候が変わったことを。そういえば『天気の子』という映画が公開されることになっていたのである。天気を操る能力。そんなものが本当に実在するのであろうか。

 橘はある日デイルームで綾と話していると綾の旦那がお見舞いに来たのであった。橘は邪魔しちゃ悪いと思い席を外したのであった。橘は何をしようかと考えたが廊下を行ったり来たりと歩いている人が多数いる。そこで橘もマネして廊下を歩いてみることにしたのであった。廊下を何往復かして綾と綾の旦那のいる席の近くを通り過ぎようとした時であった。綾の旦那が橘に「ありがとう! ジュース一本ごちそうしますよ!」と言ってきたのである。橘は「ありがとうございます」と言いジュースをごちそうになるのであった。やはり歩くことに何か意味がありそうであった。その日以来、橘は何もすることがなければ病院内を歩きまわることにしたのであった。ある日、綾が何か書いていた。橘は何を書いているのか聞いてみるのであった。綾は「私の作った詩」と言ってその詩を読み始めたのであった。橘は驚いたのであった。その詩はある有名歌手の大ヒット曲であった。綾がその曲を作詞した? そんなことあり得るのだろうか。橘が病院内を歩き回っていると20代中盤くらいの女性が話しかけてきたのであった。そして一緒に歩きながら話をしていたのであった。病院内を歩き回っていると女性が部屋の前で立ち止まる。「ここが私の部屋」と言ってきたのである。そこは個室であった。女性がドアを開ける。そこにはベッドが一つと机が置かれていたのであった。女性は笑顔で黙っていた。橘は体からこみ上げるものがあり心臓の鼓動が速くなるのであった。橘は部屋の中に入ったのである。冷房が効きすぎというくらい部屋は冷えていた。そして女性も部屋の中へ入ってくるのであった。個室に男女二人。橘の心臓の鼓動は早くなるのであった。女性は笑顔で何も言わない。橘はベッドに座ったのであった。女性が寒い寒いと言ったので橘はベッドの中に入ってみることにしたのであった。すると急に女性は部屋の外に出て手招きしている。すると看護師さんがやってきて外に出るように言ったのであった。看護師は橘に「他人のベッドに入ってはダメですよ」と注意したのであった。橘はそうですねと答えるだけであった。そのあと、デイルームに居ると看護師さんが部屋の移動ですと橘に言ったのである。そしてその移動先は再び保護室であった。





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現実と妄想の狭間 夜の帝王 @yorunoteiou4609

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