河島陽菜の場合

 元塾講師だという今年の春に着任した非常勤の先生は、女性ですがひどく髪の短い方でした。

 ボブやらハンサムショートを超えて、ベリーショートです。

 さらに、一七五センチ近い長身で、いつもYシャツにズボン姿という男の人のような出で立ちです。

 それでいて非常にメリハリのある女性的な体型で、その出で立ちと体型がひどくミスマッチに感じるのでした。

 名前を鈴木葵先生とおっしゃいました。

 この学年にはもう一人『鈴木』という苗字の先生がいらっしゃるので、みんな必然的に『葵先生』と下のお名前でお呼びしています。

 私の通う私立富島高校は、特進科を除けばあまり偏差値の高い高校とは言えません。

 私のクラスは普通科で、授業中もどこかしらで私語が聞こえたり、寝ている人が居たり、隠れて携帯を弄っている人が居たりと、どこか漫然として緊張感のない緩んだ空気が漂っています。

 昼休みの後の古典の授業など気の緩みきった時間の最たるもので、先生の女性にしては低いよく通る声が、かえって子守唄のように心地よく聞こえてしまうので困ったものです。

「竹原くん、さっきから喋っているけど何か質問でもある? 分からないところがあるなら、隣の人じゃなくて、私に聞きなさい」

 黒板に文法事項を書いていた先生が、顔だけ振り向いてうんざりした調子で注意しました。

 竹原くんは、とてもお喋りで、いつも近くの男子と喋っているのです。

「先生ー、先生は結婚してますか?」

 竹原くんはふざけた調子で尋ねました。

 周りの男子が笑って、女子は呆れた様子で振り返ります。

「授業と関係のない質問はやめなさい」

 先生は冷え冷えとした眼差しで、淡々と注意しました。

「質問があるなら聞きなさいって言ったの先生じゃん。それとも、やっぱ先生、女の人が好きなの?」

 揶揄うような口調はひどく軽々しいものです。

 周りの男子も『おいやめろよ』などと言っていますが、止める気はなく、かえってそれを煽るような言い回しでした。

 私はそれを聞いてぎょっとしてしまいました。 

 その男の人のような出で立ちから、もしかしたらそうではないのかと、まことしやかな噂が流れていたのです。

 竹原君の言い様はあまりにも無神経に感じられて、いたたまれなくなりました。

 辺りもざわざわとしています。

 葵先生は、それを聞いてあからさまに眉を顰めました。

 元々、葵先生はあまり明るい方ではありませんが、それでも、ここまで露骨に嫌悪感を浮かべる様子は初めて見ました。

 そうして、葵先生は手にしていたチョークを置くと、身体ごと振り向いて、教卓に両手をつきました。

「まあ、いずれそういった質問もくるだろうとは思っていたけれど、こんなタイミングで来るとは思わなかったなあ」

 先生は皮肉っぽい笑みを浮かべます。

「いいでしょう。質問に答えましょう」

 貼り付けたような笑みで、竹原君を見て先生は言いました。

 おいマジかよ、とさらに教室はざわつきます。

「私は、結婚していません。する気もありません。なぜなら、子宮頸癌で子宮を全摘出していて、子供が産めない身体だからです」

 先生は、そのよく通る声で、平然と言いました。

 あれだけ騒がしかった教室は、水を打ったように、しんと静まり返りました。

「癌が見つかったのは、27歳の時でした」

 先生は続けました。

「若さゆえに進行が早く、見つかった時にはもう全摘出するしかない状態でした。当時、結婚も視野に入れて付き合っていた恋人は、子供好きな人で、相手のご両親からも『子供も産めない女と結婚するなんて』と反対されたそうで、ほぼ一方的に別れを告げられました」

 先生の口調には怒りも悲しみもありません。

 まるで古文の現代語訳でも読んでいるかのように、いつも通りです。

 それが語られる内容にそぐわなくて、私はかえって血の気が引くような気がしました。

「それまで働いていた会社を辞め、手術と闘病のために実家のあるこの県に戻ってきました。約1年の入院生活とリハビリを経て、今も抗がん剤治療を続けながらこうして仕事をしています」

 先生はクラス全体を見回しながら話しました。

「そもそもの話として」

 先生はひどく自嘲的に笑って言いました。 

「結婚して子供を産むことが当たり前とされているこの社会で、子供を埋めない身体であることが、どれだけの重荷となるか、皆さんは分かりますか」

 先生は皮肉っぽく続けます。

「以前、とある裁判で『同性婚は子供を産めず、非生産的であるから結婚を認められない』という判決が下されました」

 薄氷のような冷たさと鋭さのある眼差しで、先生は言いました。

「判決に対して、同性愛の評価について非難の気持ちもありますが、今は一旦置いておきましょう。私は同性愛者ではありませんが、『結婚しても子供を産めないことが非生産的である』というのなら、その理屈にのっとれば、私も『非生産的』で、結婚が認められない人間です。でも同性愛者でないというだけで、法律上、結婚はできます」

 先生は実に淡々と話を続けますが、その眼差しには静かな怒りが感じられました。

「しかし、現実はそう簡単にはいきません。だって、子供を産むことが『当り前』の世の中なのですから、子供を産めない女は端から『当り前』のことが出来ない落伍者と見られることの方が多いのです」

 そこまで話して、先生は竹原君に視線を向けました。

「例えば今、竹原君は、軽々しく私に結婚しているかどうか聞きました」

 竹原君も、まさかこんな話になるとは思ってもみなかったのでしょう。

 唇を真一文字に結んで、真っ青になっています。

「彼は、私がこのような事情を抱えているとは知らず、私くらいの年齢の人間は結婚しているのが『当たり前』という価値観から、何の気なしに尋ねたのでしょう」

 葵先生は、微笑みました。

「竹原君。君は今、私の説明を聞いて、どんな気持ちですか?」

 その問いかけは、もはや公開処刑だと思いました。

「すみませんでした……」

 竹原君は深々と頭を下げて謝りました。

 先生は何も答えず、しばらく、沈黙が続きました。

 終わってみれば、十数秒のことだったと思います。

 それでも、教室の時が止まってしまったのではないかと思えるくらい、長く感じられました。

「あはは、安心してください。今のは全部、作り話です。びっくりさせて、ごめんなさいね」

 先生は空々しい程、明るく笑って冗談めかして言いました。

 それを聞いて、皆がそっと息を吐くのが分かりました。

 それでも、皆まだどこか今の話が本当に作り話なのか半信半疑の様子です。

 だって、即興で考えた作り話なのだとしたら、あまりにもディティールがはっきりしているのですから。

「竹原君、今は、どんな気持ちですか?」

 先生は微笑んで、再度聞きました。

「本当じゃなくて、良かったと、思いました……」

 竹原君も恐らく半信半疑なのでしょう。

 それでも、自分が何の気なしにとんでもないことを言わせてしまったことを帳消しにしたい気持ちから、先生の作り話だという言葉に縋ることにしたような口ぶりでした。

「そうですね、ほっとしたでしょう。君達はまだ若い。圧倒的に人生経験が足りません。だから、こういう事情があるかもしれない、ということに思い至らないのも、ある種、仕方がありません」

 先生は優しく続けました。

「でも、世の中には、色々な事情を抱えた人がいます。特に、結婚や出産、性的志向などというのは非常にデリケートな問題です。こんな大勢の場で軽々しく聞くべきものではありません。皆さんも、分かりましたか」

 先生はクラス全体を見渡して言いました。

 皆が、静かに頷くかすかな音がクラスに広がりました。

「よかったです。そしてもし、今の話に憤りや違和感を覚えた人がいたら、その気持ちを大事にしてください。今の理不尽な『当たり前』を、私達大人の世代で変えていければよいのですが、なかなか難しい部分も多いでしょう。君達の手でより良い未来に変えていけるよう、願っています」

 ︎︎先生はそう言うと、教科書を手にしました。

「では、続きを解説します。この和歌の『唐衣からころも』は、さっき説明したように枕詞まくらことばといって――」

 そして、先生はまるで何事もなかったかのように、いつも通り授業に戻りました。

 それでも教室は、いつもとは打って変わって授業が終わるまでしんと静まり返ったままでした。


 葵先生はそんなことがあってからも、変わらずそれまで通りの授業を続けられました。

 それでも私のクラスは、結婚の話の件の引け目があるからか、嘘か本当か分からない話を淡々とする姿への少しの恐怖心があるからか、先生の話に胸を打たれたのか――人によるとは思いますが、葵先生の授業では、静かに授業を聞く人が増えました。

 その後、私は少し古典の成績が上がり、テスト返却の時に『よくがんばったね』と先生から褒めていただきました。

 私は、あの時、表立って竹原君を止めることはできませんでした。

 でも、先生の事情も知らずにあんなことを軽々しく聞いた竹原君への非難の気持ちや、先生が語った世の中の理不尽さに対する怒りは抱えていて、だからこそ、その後の授業をきちんと受けることで、先生の言葉への同意の気持ちを示そうと思ったのです。

 葵先生の『作り話』には、あの後、色々な憶測が飛び交いましたが、最終的には、ほぼ本当の話として私たちの学年全体に広まっていました。

 時々、葵先生に直接真相を聞きにいく人もいたそうで――それだって人の事情に土足で踏み込むようなものではないかと思いましたが――その度に、葵先生は『あんな作り話、まだ信じてたの?』と笑って答えていたそうです。

 そして、その頑ななまでに『作り話』にしようとする姿勢が、かえって話の信憑性を高めていたのだから、皮肉なものでした。

 そして、葵先生は公立高校の教師として正式に採用されたとのことで、その年の年度末に、この学校を退職されました。


 自分が中学校の教師になった今でも、あの時の葵先生の言葉をよく思い出します。

 先生の話した『作り話』が本当だったのかどうかは、結局、最後まで分からないままでした。

 それでも私は、自分の受け持つ生徒に、一年のうちのどこかで、葵先生の『作り話』の話をします。

 教師の側に立つと、あの時の先生の行いは、生徒への配慮の観点から言えば教師として褒められたものではなく、下手したら保護者からのクレームが来ていた行動だとは思います。

 それでも、当時生徒だった私達に考えるきっかけを作ったあの『作り話』は、軽はずみなことを口にしてしまいそうな時に、それをとどめる美しいクリスタルのペーパーウェイトのように、実に重々しく心の中に鎮座しているのです。

「私の高校時代に、葵先生という方がいたんだけど、授業中に男子から『先生は結婚しないんですか』と茶化されてね――」

 自分が受け持つ生徒にも、考える機会を作れればよいと、私は今年も道徳の時間に口を開きました。

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葵先生の『作り話』 佐倉島こみかん @sanagi_iganas

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