佐山祐樹の場合

「分からないところがあるなら、隣の人じゃなくて、私に聞きなさい」

 五時間目の古文の時間、竹原君は周りと話していたことを先生から注意されていた。

「先生ー、先生は結婚してますか?」

「授業と関係のない質問はやめなさい」

「質問があるなら聞きなさいって言ったの先生じゃん。それとも、やっぱ先生、女の人が好きなの?」

 そのふざけたような言い方に、心臓が縮むような気がした。


 非常勤の鈴木葵先生は、すごく短いショートカットに、いつもワイシャツとズボンを着ているから、格好だけ見たら男の先生みたいだ。

 だから、四月にこの学校へ来た頃から、性同一性障害なんじゃないかとか、同性愛者なんじゃないかとか、好き勝手な憶測が飛び交っていた。

 先生の耳にも入っているとは思うけど、その辺の事情については特に説明も弁解もない。

 そもそも授業自体に雑談も冗談もほぼなくて、国語の授業で国語の話だけして終わる、そういう真面目な感じの先生なのだ。

 先生が来た時、俺も、もしかして、と思ってそわそわした。

 なぜなら、俺が好きになるのは、これまでいつも男だったからだ。

 幼稚園の時にいつも一緒だったあっくん、小学校の時に集団登校で引率してくれた三つ上の拓真くん、小四の時の担任の東先生、中学時代に三年間同じクラスだった柔道部の大翔ひろと――大体、男らしい顔立ちで面倒見のいい兄貴肌の人に惹かれてきた。

 精通は、中三の時に、大翔に抱かれる夢を見てだった。

 罪悪感でその日は顔もまともに見られなかったし、そこで自分の性的指向が腑に落ちてしまって、結構、落ち込んだ。

 だって、こんなこと、周りに言えるはずがなかった。

 周りは基本的に、クラスの女子だと誰がいいかとか、グラビアやアイドルの誰が好みだとか、女が好きなことを前提に話を進める。

 同性が好きな人間は最初からいることなんて想定もされていなくて、俺はその度に疎外感に沈んだ。

 周りに聞かれたら、とりあえず『面倒見のいいボーイッシュな感じの子』と言って誤魔化した。

 親だって多分、普通に結婚して孫の顔を見せに来ることを望んでいると思うが、俺にはそれが出来そうにない。なんと言われるか怖くて、打ち明けることも出来ずにいた。

 世の中、LGBTだの何だのと言われているとはいえ、身近でそういう例は聞いたことがない。

 だから、葵先生が来た時に、どうなのか知りたいと思った。

 もし、同性が好きなのであれば、相談に乗ってもらえるのではないかと思ったのだ。

 でも、まさかこんな形で聞くことになるとは思ってもみなかった。

 竹原君の言い方は、『まさかそんなことないよな』ということを前提にした口ぶりで、同性が好きなことがまるで異常だというように感じられた。

 周りがどう思っているかを、世の中の当たり前を、頭から浴びせられたようで、冷たい水に突き落とされたみたいに心臓がぎゅっと縮まる感じがした。

 俺だって、もし周りにバレたら、ああいう冷笑を浴びないといけないのだろうか。

「私は、結婚していません。する気もありません。なぜなら、子宮頸癌で子宮を全摘出していて、子供が産めない身体だからです」

 俺がショックを受けている間に、先生は毅然とした態度で言い放った。

 その言葉の内容に、さらに驚いた。

 同時に、なんだ、同性が好きなわけではないのか、と少しだけ落胆した。

 でも、子供が産めないせいで恋人と別れないといけなくなったという話の続きを聞いて、先生の身の上を考えると、その落胆も失礼な話だなと考え直して、真剣に聞くことにした。

 先生は、すごく辛い過去を話しているだろうに、淡々と続けた。

「以前、とある裁判で『同性婚は子供を産めず、非生産的であるから結婚を認められない』という判決が下されました」

 子供を産めないことに対する周りのまなざしの話の流れで、そんな言葉が出てきて、ハッとした。

 裁判ですら、そんな酷いことを言うのかと、絶望で目の前が真っ暗になる気がした。

「判決に対して、同性愛の評価について非難の気持ちもありますが、今は一旦置いておきましょう。私は同性愛者ではありませんが、『結婚しても子供を産めないことが非生産的である』というのなら、その理屈にのっとれば、私も『非生産的』で、結婚が認められない人間です。でも同性愛者でないというだけで、法律上、結婚はできます」

 子供が出来ないのは同じ条件なのに、異性だというだけで結婚はできるなんて不平等だ。

 そんな理屈、破綻しているじゃないか。

「しかし、現実はそう簡単にはいきません。だって、子供を産むことが『当り前』の世の中なのですから、子供を産めない女は端から『当り前』のことが出来ない落伍者と見られることの方が多いのです」

 先生は、わざときつい言葉を使って話しているように感じられた。

 同性愛でも地獄、そうでなくても地獄な『当たり前』がはびこる世の中に対する、怒りだと思った。

「例えば今、竹原君は、軽々しく私に結婚しているかどうか聞きました。彼は、私がこのような事情を抱えているとは知らず、私くらいの年齢の人間は結婚しているのが『当たり前』という価値観から、何の気なしに尋ねたのでしょう。竹原君、君は今、私の説明を聞いて、どんな気持ちですか?」

 先生は冷酷に、竹原君に尋ねた。

「すみませんでした……」 

 竹原君は、小さな声で謝って、深々と頭を下げた。

 あんな質問をした竹原君が真っ青になって謝罪しているのを見て、少し胸がすいた。

 同性愛に対する偏見への謝罪ではなかったけど、あの質問が悪いことだと分かったみたいで、それが良かった。

 竹原君の謝罪に対してしばらく無言を通した先生は、急に笑い出した。

「あはは、安心してください。今のは全部、作り話です。びっくりさせて、ごめんなさいね」

 俺もびっくりした。どう見たって先生の怒りは本物だったし、細かいところまで詳しかったから、本当の話だと思っていたのに。

 それに、全部『作り話』というのは、どこまでが作り話なのだろうか。

 結婚していないことは? 同性愛者じゃないことは? さっきの裁判の判決の話は?

 俺は混乱した。

 もしかしたら、まだ同じ境遇だという可能性を捨てなくてもいいのだろうか。

「世の中には、色々な事情を抱えた人がいます。特に、結婚や出産、性的志向などというのは非常にデリケートな問題です。こんな大勢の場で軽々しく聞くべきものではありません。皆さんも、分かりましたか」

 先生は、そう言って話をまとめて、授業に戻った。

 俺は、結局本当のことが分からないままで、もやもやしたまま授業を受けた。


 葵先生は非常勤だから、授業が終わったらすぐ帰る。

 その日は、放課後にはもういなかったので、次の日の昼休みに、俺は先生のところに行った。

「先生、質問があるんですけど、いいですか」

「ああ、いいよ。どうした?」

 一応、古文の質問ということにして訪れたので、古文のワークを出して、文法についての質問をした。

 先生は分かりやすく教えてくれた。

「ありがとうございます。あの、もう一ついいですか」

 俺はシャーペンを持つ手を握りしめた。

「いいよ、どこの問題?」

「先生が昨日、うちのクラスの授業で話した『作り話』は、どこまでが作り話なんですか」

 俺は先生を真っすぐ見て聞いた。

 こんなことを聞くのは良くないかもしれない。心臓がバクバクしている。

 先生は一瞬、ぎょっとした表情で言葉に詰まった。

「『どこまで』というか、基本的に、出来事は全部作り話だよ」

 俺が面白半分で聞いているわけではないらしいことを表情から察してくれたらしい先生は、慎重に言葉を選びながら答える。

「あの裁判の判決の話もですか?」

 俺が間髪を入れずに尋ねれば、先生は意外そうな顔をした。

「ああ、あれか。あれは本当にあった判決の話だよ」

 あっさり答えた先生の言葉に、本当の話だったのかと、ショックを受けた。

「そう、なんですか……」

「うん、残念なことにね」

 俯いて返せば、先生は労わるような声音で答える。

「でも今、法改正に向けて動いている団体もあるし、その判決は相当炎上したんだよね。自治体によっては結婚と同程度の社会的なサポートを認めるパートナーシップ制度が導入されていて、少しずつ変わってきてるよ。この市も確か、最近、パートナーシップ制度が導入されたんじゃなかったかな。ジェンダーの問題は入試の長文や小論文で出る可能性もあるし、興味があるなら調べてごらん」

 先生は特に俺が同性愛者かどうか探りを入れることなく、でも、俺の反応から何らかの当事者だと察した様子で、教えてくれた。

 国語の話に絡めてまとめてくれたのは、周囲の目を考えた先生なりの配慮なのかもしれなかった。

「分かりました、ありがとうございます」

 悲観しかできない状況でもないらしいことが分かって、少し視野が開けた気がする。

 これまで、似たような境遇の人の情報を仕入れることをしてこなかったけど、色々調べてみるといいかもしれないと思った。

「いえいえ。他に質問はなかった?」

 俺がさっきよりもすっきりした顔をしているのを見て、先生は安心したように微笑んで聞いてくる。

「大丈夫です。ありがとうございました」

「はい。また何か質問があれば、おいで。月・水・金は昼休みにいるから」

「ありがとうございます。そうします」

 俺は軽く頭を下げてから、職員室を後にした。


 結局、その後、先生に質問しに行くことはなかったけど、相談しにいっても大丈夫な存在が学校に居ることが分かっただけで、俺の気持ちは大分楽になった。

 先生が県立高校の先生として採用されたことで、その年の年度末にこの学校を退職したのは残念だったけど、その頃には色々調べて、大分、自分がゲイであることに対する不安感は減っていたから大丈夫だった。

 県立高校に行っても、俺みたいな生徒の相談に乗ってくれていればいいなと思う。

 俺は、大学に入ってから、ジェンダー問題に取り組むサークルに入り、そこで出会った同級生の大和と初めて付き合うことになって、今は恋愛を謳歌している。

 親にはまだゲイであることを打ち明けられていないし、ジェンダー問題はLGBTのこと以外にもたくさんの課題があるし、世の中の『当たり前』は相変わらず針の筵みたいだ。

 でも、葵先生の『作り話』を聞いてショックを受けた時の俺みたいに、絶望する人を減らせるよう、行動することをやめたくないと思っている。





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