竹原翔也の場合

 時間が経ってから、無性にむしゃくしゃしてきた。

 ちょっと茶化しただけなのに、全員の前で吊るし上げるなんて、教師としてありえねぇだろ。

 五時間目の国語の時間に、ちょっと周りの奴らと話していただけで、古典のアオイ先生から「質問があるなら周りじゃなくて私に質問しなさい」と注意された。

 化学の鈴木先生と同じ苗字だから、呼び分けるために確か下の名前でアオイ先生と呼ぶことになってるらしいけど、漢字は分からん。

 とりあえず、アオイ先生は女のくせに野球部みたいに髪が短くて、格好だっていつもズボンとワイシャツで、タッパも一七五くらいあって、声もちょっと低めで男みたいだ。

 『それなのにおっぱいは大きいのがエロい』と言っている奴もいるが、正直、趣味悪すぎだろと思う。

 だから、注意されたときに聞いてやったんだ、『先生は結婚してるんですか?』って。

 そしたら、自分から『質問があったら質問しろ』って言ったくせに、授業と関係ないことは質問するなとか言いやがるから、『やっぱ先生、女の人が好きなの?』って聞いた。

 周りもちょっとざわついてたけど、先生の格好を見て前からみんな気になってたはずだから、ちょうどいい機会だと思って、代表して聞いてやったんだ。

 周りの男子だって『おい、やめろよ』なんて口先だけで言ってたけど、 どう考えてもそれは煽る口調だった。

 女子の中には、二つ前の席の山岸みたいに非難がましい顔をしてる奴も居たけど、知ったこっちゃなかった。

 だから、先生が『質問に答えましょう』と言った時に面白いことになったと思ったんだ。

 周りの奴らも『おいマジかよ』なんて言って、教室中ざわざわしだして。

「私は、結婚していません。する気もありません」

 そこまで答えたときに、やっぱり女が好きなんだろうと思った。

 でも。

「なぜなら、癌で子宮を全摘出していて、子供が産めない身体だからです」

 細かい部分は違ったかもしれないけど、アオイ先生はそう続けたんだ。

 俺は予想外の答えに驚いて何も言えなくなってしまった。

 そこから先生は色々話した。

 癌が見つかった時にはもう子宮を全摘出するしか方法がなかったこと。

 当時付き合ってた彼氏が子供好きで、彼氏の親にも反対されて、子供が産めないからって理由でフラれたこと。

 子供が産めないってのは、世間的には『ラクゴシャ』? だと見なされることが多いこと。

 そんなことを色々話した。

 先生は終始静かに怒ってる感じで、でもそれは俺よりも世間とか世の中に怒ってる感じで。

 色々辛い思いをしてきたんだろうってのは分かって、確かに悪いことを聞いたと思った。

 そんな思いをしてるって知ってたら、あんなことは聞かなかったのに。

「竹原君。君は今、私の説明を聞いて、どんな気持ちですか?」

 一通り説明して、俺に尋ねた先生の言葉を、眼差しを、はっきりと覚えている。

 軽蔑と哀れみを混ぜた眼差しは、その言葉は、間違いなく俺の良心ってやつを刺し貫くためのものだった。

 俺は無性に恥ずかしくて、ただ頭を下げて『すみません』と謝った。

 どのくらい間が空いたかは分からない。

 ほんの十秒くらいだと思うけど、俺にとっては永遠に近いものだった。

「あはは、安心してください。今のは全部、作り話です。びっくりさせて、ごめんなさいね」

 そしてアオイ先生は、作り物くさく笑って言った。

 作り話と聞いて拍子抜けしたと同時に、本当に作り話か? と思った。

 細かいところまでは覚えてないけど、話がすごく作りこんであって、話している時の感じだって本当に怒ってるみたいで。

 今の話が作り話なら、先生は教師じゃなくて脚本家か女優をやった方がいい。

「竹原君、今は、どんな気持ちですか?」

 俺が何も言えないでいると、先生は微笑んで、もう一度聞いた。

「本当じゃなくて、良かったと、思いました……」

 それでも、俺はそう答えた。

 その話がもし本当のことだったら、俺は先生にクラス全員の前で辛い過去を話させた極悪人になってしまうから、それを作り話だと認めることにした。

 その後、アオイ先生は『若いから仕方ないけど、軽々しく聞いたらダメだ』みたいなことを言ってフォローして、何事もなかったかのように授業の続きに戻ったけど、その後の授業は、皆ずっと死んだように静かだった。


 授業後、アオイ先生が教室を出てから、皆ざわざわと先生の『作り話』について話し出した。

 俺も周りから『ちょっとイジっただけなのに災難だったな』とか『知らなかっただけなんだから気にすんなよ』とか言われてフォローされて、気にしてない素振りをしたが、女子から冷ややかな目で見られているのを感じて、居心地が悪かった。

 確かに聞いた俺が悪いが、先生のアレは、さすがにやりすぎなんじゃねぇか? と、放課後になる頃には思えてきた。

 先生が怒っているのは世間に対してで、俺が馬鹿なことを聞いたとはいえ、そんなの正直に全部話す必要はないはずだ。

 それなのに周りの同情を買うような話をして、わざわざ見せしめにするなんて、世間への怒りを、俺を使って発散した八つ当たりじゃねぇかよ、と思う。

 どうしようもなくむしゃくしゃしたので、家に帰ってから夕飯の時に親にその話をした。

「――ってことがあったんだけど、そこまですることなくね? って思って。ちょっと茶化しただけじゃん」

 唇を尖らせて言えば、母さんは持っていた茶碗と箸を置いた。

「翔也、それ、本当にあったことね?」

「ああ、うん、そうだけど」

 いつになく真剣に聞いてくるから、俺は戸惑って答えた。

「それが本当なら、お母さん、翔也が何も反省してないことがすごく悲しいし、恥ずかしい。お母さんは、そのアオイ先生に、菓子折り持って謝罪に行かないといけないレベルの話だと思ってるよ」

 ちょっと愚痴をこぼしただけなのに、説教が始まってしまってうんざりした。

「はあ? そこまでのことじゃないだろ」

「翔也、お前は子供が欲しいのにできない辛さを知らんだろう。なんで軽々しくそんなことが言えるんだ」

 普段はあまりこういった時に説教をしてこない父さんまで怒ったような顔で言ってくるので、驚いてしまった。

「父さんまで、何?」

「今まで話したことがなかったが、お前が生まれるまで、父さんも母さんも、不妊治療ですごく苦労したんだ」

 初めて聞く話で、俺は目を丸くした。

「幸い、うちは治療がなんとか上手くいって、不妊治療を始めてから六年目に、翔也を授かることが出来た。お前が生まれたときは、本当に、泣くほど嬉しかったよ」

 父さんは当時を思い出したのか、涙目で言う。

「でも、先生は子宮を摘出して、もう産むことができないんだろう。先生をしているくらいだから、きっと子供が好きなんじゃないか。それなのに子供が産めないのはきっと、想像もできないくらい辛いことのはずだ。だから『結婚する気もない』と言っているんじゃないか」

 父さんは、諭すような口調で言った。

「お母さんはね、その先生、気を使ってくれたんじゃないかと思うの。本当のことだって言ったら、翔也に罪悪感を与えてしまうし、周りから非難されるかもしれないと思って、わざと『作り話』ってことにしてくれたんじゃない? 辛い過去を話してまで、みんなに考える機会を作ろうと思ったんじゃないかしら。翔也が言ったみたいに配慮のない質問をして傷つけたり、傷ついたりする人が一人でも減るように」

 母さんは、俺ではなくてアオイ先生の肩を持つようなことを言った。

「今回は先生がわざと話してくれたけど、同じ立場で同じことを聞かれたら、普通は適当に誤魔化したり、はぐらかしたりして、傷ついた側が我慢するだけだわ。だから、傷つけた側は、傷つけたことに微塵も気づかないまま同じことを繰り返すのよ。だから翔也には、今回のことから学んで、そういう傷つける側の人間にはなってほしくないって、お母さんは思うな」

 母さんが子供をなだめるときのような優しい口調で言うので、俺は黙って俯いた。

 俺だって、悪いことをしたのは分かっている。でも、素直に分かったと言えなかった。

「まあ、いずれお前も分かる時がくるよ。二人して責めるようなことを言って悪かったな。さあ、食べよう」

 俺の様子を見て、父さんは苦笑して促した。

 俺はその後も黙ったまま夕飯を食べ、ごちそうさまだけ言って、自分の部屋に入った。


 その後、母さんが先生に菓子折りを持って謝りに行ったということはなかったが、翌日、電話で謝罪を入れたそうだと、アオイ先生から聞いた。

「作り話なのに、おうちのかたは本当の話だと思われたみたいで、かえって申し訳なかったよ。皆の見せしめにしてしまって、私の方こそ悪かったのに、すまなかったね」

 授業後にちょっと呼ばれて気まずい思いをしながら行くと、先生は苦笑して説明してから謝ってきた。

 俺はなんだか、先生のその屈託のなさにぽかんとしてしまって、あの『作り話』は、本当の本当に作り話だったのかも、と思った。

「ああ、いや、俺も悪かったんで。なんか、うちの親がすみません」

 時間が経っていたのもあるし、先生から謝罪の言葉が聞けたし、あの日はあんなにむしゃくしゃしたのが嘘みたいに落ち着いて、すんなり言葉が出てきた。

「ううん、いいのいいの。いい親御さんだね。竹原君のことを、とても大事にされてると思ったよ。授業もちゃんと受けて、あまり親御さんに心配かけないようにね」

「はあ、分かりました」

 先生は笑って言い、俺の返事を聞くと、その長い脚でスタスタ歩いて次のクラスへ行ってしまった。

 俺はそれ以来、授業を真面目に受けるようになったかと言えば、そうでもなかったが、少なくとも、茶化すときにそれが不用意に誰か傷つけないかどうかは、少し考えるようになったのだった。

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