葵先生の『作り話』

佐倉島こみかん

山岸晴香の場合

 竹原が葵先生に結婚しているか聞いた時は、『アイツまた馬鹿なこと言って授業を中断しやがって』と呆れた程度だった。

 でも、その後に『やっぱ先生は女の人が好きなんですか?』とふざけた口調で聞いたときは、瞬間的に怒りがわいた。

 古典の葵先生は私の憧れだった。

 スラッと背が高くて、スタイルが良くて、いつも長い脚によく似合うスラックスと、パリッとアイロンのきいたYシャツを着ているのがかっこいい。

 女性らしさを極力排した薄化粧で、髪だって教師として許されるギリギリを攻めたベリーショートで、でも爪先はいつもきちんと短く整えられ、磨かれてツヤツヤだ。

 面倒だからそういう格好をしているわけじゃなくて、信念を持って細部に至るまで気を配っているのが分かる身だしなみなのだ。

 格好だけでなくて口調も振舞いも、なんなら名前だって中性的な葵先生は、自分の中の『女性らしさ』みたいなものに違和感を抱えている私からすれば、そういう在り方もアリなんだ、と思えて素敵だと思っていたのだ。

 私はただ、女性というものに付随するいろいろなことに違和感を覚えているだけで、女の子が好きなわけじゃない。

 異性から向けられる不躾で性的な眼差しや、弟は手伝わされないのに長女だからと親から押し付けられる家事の手伝いや、男子に比べてポケットの少ない制服や、その他にも数えきれないくらいある、些細な、それでいて煩わしい『女』であることの理不尽さに辟易していた。

 だからって男になりたいわけでもなくて、そういう女子としてのしがらみを感じないような生き方がしたいだけだった。

 だからこそ、葵先生の姿は素敵だと思ったし、こういう女性も世の中にいて、普通に社会生活を送れるんだ、と、目の前が明るくなる気がしたのだ。

 葵先生の授業はウケを狙ったりしないから笑えるような面白さはないけど、時代背景を踏まえた色々な周辺知識も話してくれるから、聞いていて理解が深まる感じがする。

 分かりやすい授業と、その格好もあって女子人気は高いのだ。

 だから、女子の間でも『葵先生カッコいいよね』という話から、『男の人みたいな格好をしてるけど、何か訳があるのかな?』という話には時々なるのだ。

 私はその度に「似合う格好をしてるだけじゃない?」と言っているのだけれど、やっぱり、女の人が好きなのではないかとか、男性になりたかったんじゃないかとか、そういう憶測も飛び交っていた。

 その度に歯がゆかった。あんなに似合うのに『男の人みたいな格好』をしているというだけで、そんな根も葉もないことを言われなければならないのかと、悔しかった。

 その噂は先生の耳にも入っているかもしれないし、生徒にこれだけ噂されているということは、これまでの人生でもそういう見方をされてきただろうというのは想像に難くなかった。

 とても素敵だと思えた葵先生の在り方も、結局、人と違うことをすると好奇の目で見られるのかと思うと、自分には出来そうもなく思えた。

 だから、竹原がふざけて葵先生にした『女の人が好きなんですか?』という質問は、反射的に殴りに行こうかと思えるくらい頭に来た。

 そんなプライベートなことを大勢の前で聞くべきじゃないし、先生がもし本当に同性が好きだったとしたら、現行法で好きな人と結婚できないというのはとても辛いことだと思う。それを茶化すなんて酷い。

 大体、そうやって茶化して、クラスにも同性を好きな子がいたらどうするの? と思う。こういう馬鹿は、葵先生以外にもその言葉で傷つく人間や、憤る人間がいるかもしれないことなんて、思い至りもしないのだ。

「まあ、いずれそういった質問もくるだろうとは思っていたけれど、こんなタイミングで来るとは思わなかったなあ……いいでしょう。質問に答えましょう」

 竹原を睨んでいたら、葵先生がさらっと言ったので驚いて教卓の方に向き直った。

 うそ、とか、マジで、とか、周りもざわついている。

「私は、結婚していません。する気もありません――なぜなら、子宮頸癌しきゅうけいがんで子宮を全摘出していて、子供が産めない身体だからです」

 先生は普段の授業と変わらない口調で、続けて言った。

 その言葉に、周りも息を飲むのが分かった。

 癌が判明してから全摘出になるまでの経緯や、子供が産めないせいで恋人の親から認めてもらえなくて結婚できなかったこと、結婚したら子供を産むことが当たり前とされている世の中で、子供が産めない身体はハンデとなること。

 そんなことを、先生は淡々と、本当に淡々と話していた。

 それはまるで、やり場のない怒りを無理やり押しとどめて、平然を装っているようだった。

 なんでそんな辛いことを全部話すんだろう。

 あんな馬鹿の質問を真に受けて、話さなくてもいいよ、辛いだけじゃん。

 そう言えたらどんなに良かっただろう。

 でも私は、いや、おそらくクラス全員が、先生の話に口を挟む余地などなかった。

 竹原へ向けられた眼差しは研ぎ澄まされた日本刀のように冷たく鋭くて、さっき私が感じた突発的な怒りなど可愛いものに感じられた。

「例えば今、竹原君は、軽々しく私に結婚しているかどうか聞きました」

 先生が急に話題を竹原に戻したので竹原を見れば、傍目に見ても分かるくらい青ざめた顔をしている。

「彼は、私がこのような事情を抱えているとは知らず、私くらいの年齢の人間は結婚しているのが『当たり前』という価値観から、何の気なしに尋ねたのでしょう」

 葵先生は、そこまで言ってから、冷ややかに微笑んだ。

「竹原君。君は今、私の説明を聞いて、どんな気持ちですか?」

 残酷な質問で、この上ない制裁だと思った。

「すみませんでした……」

 竹原は深々と頭を下げて謝った。

 それ答えになってないじゃんと、また怒りがわいてきたけど、葵先生の反応が気になって前を向いた。

 葵先生は、しばらく何も答えなかった。

 黒板の上にかけられた時計の秒針の音が聞こえそうなくらい、教室は静かだった。

「あはは、安心してください。今のは全部、作り話です。びっくりさせて、ごめんなさいね」

 少し経ってから、葵先生は嘘くさいくらい明るく言って笑った。

 「竹原君、今は、どんな気持ちですか?」

 葵先生は、今度はいくらか優しく微笑んで、また同じ質問をした。

「本当じゃなくて、良かったと、思いました……」

 竹原は、やっとのことで絞り出したかのような小さな声で答える。

「そうですね、ほっとしたでしょう。君達はまだ若い。圧倒的に人生経験が足りません。だから、こういう事情があるかもしれない、ということに思い至らないのも、ある種、仕方がありません。でも、世の中には、色々な事情を抱えた人がいます。特に、結婚や出産、性的志向などというのは非常にデリケートな問題です。こんな大勢の場で軽々しく聞くべきものではありません。皆さんも、分かりましたか」

 葵先生は竹原に頷いてから、最後に皆を見渡して、話をまとめた。

 皆、おずおずと頷くのを確認してから、葵先生は、何事もなかったかのように授業の続きに戻った。


 授業後、葵先生が教室を出ていってから、クラスは騒然としていた。

 先生は『作り話』だと言ったけど、それにしてはあまりにも話が出来すぎていたし、先生の怒りも本物だと感じられたからだ。

 先生の『作り話』は本当に作った話なのか、いや、あまりにも出来すぎているから、いくらかは本当のことなのではないか、だとしたらどこまでが本当の話なのか、とあちこちで盛り上がっていた。

 全部本当の話だけど、クラスの様子を見て、ドン引かれていたから『作り話』にしたのではないか。

 竹原みたいな生徒がこれまでにもいて、そういう生徒にお灸を据えるために『作り話』を前から用意していたのではないか。

 結婚する気がないのは本当だけど、病気だというのが嘘で、同性愛者だということをカモフラージュするために病気だということにしたのではないか。

 その他にも色々な説を、皆、思い思い口にしていた。

 でもやはり、葵先生のあの時の様子から、先生の『作り話』は全部本当のことなのではないか、と思う人が大半のようだった。

 私は正直、先生の『作り話』が本当かどうかなんて、どうでも良かった。

 あれが本当に作り話だったとしても、先生が抱えている怒りは本物にしか見えなかったし、もし作り話ではなくて本当のことだったとしても、先生が『作り話』ということにしたいのなら、それを無闇に詮索すべきではないと思ったからだ。

 まあでも、こんな衝撃的な話は広まらない方が無理というもので、三日後にはもう学年中に知れ渡っていた。

 それでも、それから二週間もすると、迫りくる期末テストと地区総体に向けて忙しくなり、その話題はすぐに皆の口に上らなくなったのである。

 話題が一通り落ち着いた頃、国語の教科連絡係である私は、提出物の古文のワークをクラス全員分まとめて職員室の葵先生に届ける機会があった。

「ああ、ありがとう。重いのにごめんね、助かるよ」

 ノートを入れた籠を受け取った先生は微笑んで言った。

「いえ、大丈夫です。それより、先生」

 私は、あの事件からようやく対面で話す機会を得たので、意を決して口を開いた。

「ん、どうした?」

「あの、私、この間、先生が竹原にした『作り話』の件で、色々考えさせられて。自分も気をつけようと思いました。それに、前から竹原達には、うるさくて迷惑してたんです。だから、先生がお灸を据えてくださって、ありがたかったです」

 私が率直な感想を言えば、先生は一瞬目を丸くして、その後ふっと目を細めた。

「そう。皆、引いてないかと思って心配してたから良かったよ。山岸さん、あの時、竹原くんのことを凄い形相で睨んでたもんね」

「えっ、あの、見てたんですか」

 葵先生は悪戯っぽく笑って言うので、慌ててしまった。

「うん。他人事なのにこんなに怒ってくれるんだ、と思ってびっくりしたから。あなたのその善性と正義感は、美徳と言ってもいいね」

 葵先生が柔らかく目を細めて褒めるので、少しいたたまれなくなる。

「ええと、正義感とか善性とか、そういうお綺麗な感情から怒ったわけじゃないんです。あの、私、女につきまとう『当たり前』の理不尽さに前から嫌気が差してて、でも葵先生を見てると、こういう格好や振舞いをしてもいいんだって思えて、勝手に救われた気持ちになってたんです。だから、先生の格好だけを見て、竹原があんなことを言ったのが、本当に、許せなくて。だから、あの時の怒りはすごく個人的なもので、正義感っていうか、竹原に自分の発言が周りに与える影響考えろ馬鹿かよって思っただけで……」

 どう説明したものか分からないまま弁明したせいで、たぶん余計なことまで言った。

「なるほど。でも、山岸さんのその怒りは真っ当なものだし、そうやって心無いことを言う人に怒れるってのは大事なことだと思うよ。正義感だと大袈裟に感じるなら、『優しさ』でいいかもね。理不尽な境遇の人のために怒るってのは、相手の立場に寄り添える人でないと出来ないから。『人を憂う』と書いて『優しい』でしょう」

 葵先生は国語の先生らしく説明した。

「それもちょっと褒めすぎな気がしますけど……でも、そう言ってもらえると、うれしいです」

 私は照れてしまって、はにかみながら答えた。

 葵先生のこの時の言葉から、私が弁護士を目指したのは、もう少し後のことである。

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