第3話 真龍➂
最初に目に入ったのはまん丸の月をうつす湖の水だった。扉の向こうはその湖に架かった木の橋へ続いていたのだ。
侍女にうながされおそるおそる足を踏み入れると床の木がギギッと鳴いた。その音さえも心地良いものに思えて自然と口元に笑みが浮かぶ。
ふと橋の向こう岸に目をやるとそこにはこじんまりとした質素なたたずまいの建物が見えた。もしかして、と揲はその建物を指さす。
「あそこが私の屋敷?」
「ええ、この屋敷は長らく主がいなかったので少しさびれてはおりますが良い場所ですよ。どうでしょう、お気に召されましたか?」
侍女の少し心配そうな問に揲は一も二もなく頷いた。こんな良い場所で寝るのは久しぶりだ。
屋敷の中はいたって簡素なものだった。
大きさとしては豪農の家と同じくらいといったところだろうか。長年使われていなかったようだが手入れは行き届いており、蜘蛛の巣一つ見当たらない。
板張りの床もなつかしい故郷の家のようで気に入った。
「ここ
分家の
この屋敷は菊宮家の西のお屋敷——『
真梶の説明に揲は首を傾げた。
「私はその菊宮家とやらの縁者ではないぞ」
良いのでございます、と侍女は揲の自室だという部屋に布団を敷きながらピシャリと言った。
彼女が良いと言うならばありがたく使わせてもらおうと思い、揲もとやかく聞くのはやめることにした。
その後、侍女は部屋を出ていき揲は一人文机に頬杖をついて外の満月をぼんやりと見つめていた。
十日前に王宮の地下牢で見た月と同じ。味方に恐れられて監禁され、絶望の淵で見ていた月と同じ。そう思うとなんだか変な感じがした。
あれからいろいろなことがありすぎて自分でもよくわからないまま全力で今も走り続けている。
『俺があんたを檻からだしてやる』
その言葉を信じ、裏切られ仇の城へ送られた。
仇だと思っていた人間が仇ではなかったことを知った。
この城のどこかにいる仇を探し出すことを選んだ。
再び人を信じることを選んだ。
「これでいいのかな……?」
小さな呟きは宙をあてもなくさまよって消えた。
揲は
そんなことを考えているといつの間にか眠っていた。
それもせっかく侍女が敷いてくれた布団の上ではなく文机に突っ伏して。
だから朝になって侍女が起こしてくれてもにわかに自分が眠っていたとは信じられなかった。
よくこの国では死に際に「一度は日が昇るさまを見たかった」という人がいるけれど揲はそう思ったことなどない。
夜は優しかった。今がもう亡い人との日々を昔のことだと感じないからだ。
文机を寝床にしながら揲は夢を見ていた。
***
夢だとはじめはわからなかった。
むしろ
兄の
そんな揲を困ったように見るあの方——
姓は
つまり、
やわらかい物腰でいつも笑顔を絶やさない彼であったがその反面、野心家という一面も持っていた。
「いつかこの国の全部をわが手におさめたい。そうすれば戦はなくなって民が笑顔で暮らせる」
いつも彼は地図を眺めながらどこか嬉しそうにそう語っていた。
その様子から彼にはすでにそんな世界が見えているのだな、と羨ましく思った。
他の人間は領土をどう広げるかではなく、どう守るかばかりに気をもんでいたからそんな突飛なことを考えもしなかったのだ。
わくわくしていた、彼が思い描く世の中をこの目で見たいと思っていた。
「まずは
稀珀家の所領・
そこを領する
短い間で夕雩城を中心部に築き、すぐさま
あの時の
「
急に名指しをされた揲の兄・満風はうろたえもせず「恐れながら」と地図の傍に膝をすすめる。そして天梛の北西の国——王宮がおかれている
「王宮と手を組むのが得策かと」
「しかし王宮は先の内乱で腐敗している。王座すら空位なんだぞ、なぜ沈みゆく船に我らが乗らねばならんのだ?」
そう一人の男が異議を唱えた。しかし満風は眉ひとつ動かさずにジッと地図を見つめた。
「火曛は実りが良い国ではありません。市中に出回る食料の大半は絮璆、そして我が天梛の由来」
「物の出入りを禁ずるのか」
はい、と満風は
「でしたら若宗主!私に先陣をお任せください!」
揲は鐐の気を引きたくてそう言って勢いよく手を挙げた。
「馬鹿者!
先陣だぞ、お前のことだから一番のりに死ぬだけだ」
年上の体格の良い男に怒鳴られる。
睨み返してやると男は眉を逆立てて揲の方へ寄ってきた。
「まったく……調子に乗りやがって……お前もだ満風!
ギョロリと男の目玉が音を立てて動いたような気がした。
相手は挑発しているだけだ。その
それに恐ろしかった。揲を見下ろす相手がいつもの数倍は大きく見える。金縛りにあったように体が動かないでいた。
「もういい、あまり年下をいじめるな」
見かねた鐐が呆れたように言った。きっとどちらにも呆れていたのだ。
乱暴な男に、臆病な揲に。
たして二でわると調度良いのに、と頭の中で勝手に計算式をたてる。
そんな自分がひどくみじめだった。
「
「臆病者には先陣がつとまらない、とでも思ったか?」
「はい」と揲はうなだれるように首をコクリと動かした。
置いていかれてしまうと思った。風のようにはやくどんどん前へ進んでいく彼は立ち止まることをしらない。
置いていかれないように走って、走って、走らなければいつのまにか揲は一人取り残されてしまうだろう。
独りぼっちは辛くて、寂しい。
何もない空虚な空間にいるようで気持ちが悪い。
それに鐐にだけは置いていかれたくなかった。
幼いころから「この人を支える」と心に決めていた。
これは甘さだ。けして鐐にはダメなところを見せたくないのに、いざその暖かい声をかけられるとポロポロと本音があふれ出す。
「怖い、と一度思うと体が固まって……うまく動けなくなって……自分でもよくわからなくなる。こんなんじゃダメだとわかってるのに……」
「それでいい」と鐐は揲の肩にやさしく触れた。
「お前は臆病で絶対に死に急がないから、帰ってくると信じられる」
鐐はニコリと笑った。
この人はいつも欲しくてやまない言葉を与えてくれる。揲にとって紛れもなく特別な人。
揲も顔をあげて笑みを浮かべた。「ようやく笑ったな」と彼が頭をくしゃくしゃにしてなでる。
髪が乱れてもいつもなら恥ずかしいのにその時はそれが妙にうれしかった。
「よし、
調子に乗った誰かがこぶしを振り上げてそう叫び、皆がどっと笑った。
夕雩に
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